基本的人権を侵したのはどっちだ











白黒写真は1945年の普天間飛行場の様子である。見てのとおり普天間飛行場の周囲に住宅はない。特に東側は畑と山であり住宅はない。南側には住宅があり、離着陸時の騒音があったと思われる。しかし、普天間飛行場をつくった当時は普天間飛行場の周囲には住宅はなく普天間基地の危険性や騒音はなかったと思われる。この写真と同じ状況は1960年代まで続いたと思う。しかし、1970年前後に普天間小学校や沖縄国際大学が創立し、普天間基地のまわりに次第に住宅が増えていった。

アメリカには普天間のように軍事基地の周囲に住宅はない。普天間は異常であると普天間基地を非難する政治家、知識人はよくいうが。普天間基地では、アメリカの政治が及ぶところは普天間基地内であって、基地外はアメリカの政治は及ばない。普天間基地の外は日本の法が適用される場所であり、普天間基地の周囲に住宅建設を進めたのは宜野湾市の市長・議員であってアメリカではない。
普天間基地の周囲に住宅があるかないかはアメリカと日本の法律の違いであり、宜野湾市とアメリカの政治姿勢の違いである。そして、市民の意識の違いである。もし、アメリカでヘリコプター軍地基地の隣に小学校をつくったら、墜落事故の危険性があるし、騒音によって子供の人権が侵される理由で市民は反発しつくらせないはずである。アメリカでは軍事基地の隣に小学校つくることは不可能だ。しかし、沖縄ではつくれたのである。

なぜ沖縄では普天間第二小学校のように軍事基地の隣に小学校をつくれたか。原因は宜野湾市長や市議会議員に子供の人権を守る思想がなかったからである。普天間基地の隣に小学校をつくれば墜落事故の危険、騒音被害は当然起こる。そのようなことはつくる前から知っていたはずだ。それでも普天間基地の隣に小学校をつくったということは市長や市議会議員は子供の人権を守ることより、安上がりで小学校がつくれることを優先したのである。

もうひとつの原因は宜野湾市民に人権思想がなかったせいである。子供の人権を守る意識があったなら小学校を普天間基地の隣につくることを反対したはずである。恐らく生徒の父母には内心では普天間基地の隣に小学校をつくることに反対だった人もいたと思う。しかし、戦前育ちの沖縄の人たちは戦前の軍国主義の影響があり、市長や議員は「偉い人」であり、「偉い人」に逆らってはいけないという風潮が根強くあった。だから、市長や議員が普天間基地の隣に小学校をつくるのを決めても、反対運動は起こらなかったのだ。

普天間第二小学校を普天間基地の隣に創立したのは市長・市議会・市民に子供の人権思想がなかったことが原因である。

「日本はどこへ」では、土地収用令が55年以降に発布され、それがずっと続いているような印象を受けるが、土地収用令は1953(昭和28)年から57年までである。1953年は挑戦戦争が終わった年であり、朝鮮戦争の犠牲者は、アメリカ軍は戦死者3万3686人、戦闘以外での死者は2830人、戦闘中行方不明は8176人)、人民解放軍は21万4000から52万人(多くの推計では50万人の死者)また戦争中の市民の犠牲は150万から300万(多くの推計では約200万)と見積もられている。朝鮮戦争を体験したアメリカが社会主義国家の拡大を防ぐために沖縄の軍事基地を強化しようとしたことは当然である。

沖縄の米軍基地はアジアの社会主義国家の存在なくしては語れない。もっとアジア情勢を知るべきであり、知った上で沖縄の米軍基地を問題にするべきだ。

基本的人権の尊重はアメリカ軍だけに適用するものではなく、沖縄の政治にも適用しなくては沖縄の基本的人権は守られているとはいえない。新聞は基本的人権はアメリカ軍だけが犯しているという印象与えている。米軍事基地を住宅の近くにつくり住民に被害を与えるた場合は基本的人権の侵害になる。しかし、普天間飛行場をつくった1945年の頃は普天間飛行場の周囲に住宅はなかったのだから、米軍の基本的人権の侵害にはならない。むしろ、普天間飛行場の隣に小学校や住宅を造った宜野湾市の市長や議員が基本的人権を侵害している。


沖縄に民主主義を発展させるにはアメリカ軍だけでなく、県の政治を冷静に見て、批判していく必要がある。

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朧なる・・・アートはいく 二百九十八~三百句

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