アメリカ少年と果し合いをする

古堅の南側にはモーガンマナーというアメリカ人の住宅街があった。アメリカ人の住宅を私たちは外人住宅と呼んでいたが、現在もそのように呼んでいる。外人住宅はコンクリート造りの平屋であり、結婚していて家族のいるアメリカ兵用の貸し住宅だった。

学校で気の合う友人が古堅に住んでいて、時々学校帰りの途中で友人の家に寄ることがあった。ある日友人の友人がアメリカ少年と喧嘩をするので私に喧嘩の立会人になってくれないかと頼んできた。断る理由がないので私は引き受けた。モーガンマナーの入り口で落ち合う約束をして、私は急いで家に帰り、カバンを置いて、おやつ用のサツマイモを食べながらモーガンマナーに向かった。

私の友人以外に三人の少年が来ていて、私を加えて五人はモーガンマナーの中に入っていった。モーガンマナーはアメリカ人だけが住んでいるから外国に来たような感じだ。ただ出入りは自由であったから、渡久地の海に行く時はモーガンマナーの中を通ったり、草刈りのバイトをしたりしていたから、怖いという印象はなかった。私は中学生になるとモーニングスターというアメリカ新聞をモーガンマナーで配達するようになる。

喧嘩をするのはヒトシという少年だった。彼らの話によると喧嘩相手のジョンに彼らは二連敗しているということだった。三人は歩きながら喧嘩のやり方を話し合っていた。
アメリカ人は腕っぷしが強いので殴り合いでは沖縄人は不利である。アメリカ人は足が長いので倒しやすい。だから、ジョンのふところに飛び込んで足をかけて倒して、寝技で攻撃するというのが彼らの作戦だった。

喧嘩をする場所は外人住宅の裏庭だった。三人のアメリカ少年が私たちを待っていた。私たちが来るとジョンが前に出てきた。ジョンは体が大きく、ヒトシとはかなりの体格差があった。ジョンの後ろに立っているアメリカ少年たちもかなり緊張していた。

ヒトシとジョンは向かい合い喧嘩が始まった。ヒトシは腰を低くしてジョンの懐に飛び込んだ。ジョンを掴むと足をかけて倒そうとするがなかなかジョンは倒れなかった。私たちは二人を囲んでヒトシを応援し、二人のアメリカ人はジョンを応援した。
ヒトシは強引なあしかけでなんとかジョンを倒した。これでヒトシが有利になったと思ったが、腕力の強いジョンは上に乗っているヒトシを倒して逆に上になった。そして、ヒトシの首を掴んで締め付けていった。下になったヒトシには勝ち目がなくなった。ヒトシは「こうさん」と言ったのでジョンは手を離した。果し合いはジョンの勝利に終わった。
私たちはなにも言わずその場を離れていった。三人のアメリカ少年もなにも言わずに私たちを見送った。

ヒトシはもう少しで勝てたのにとくやしがった。歩きながらさっそく三人はリベンジの話を始めていた。もし、私にジョンと喧嘩してくれと頼まれたら私は喧嘩していただろう。しかし、私は彼らにとって「他島」の人間であり、私に頼むということは「他島」の人間に頼るということなので彼らのプライドが許さなかった。モーガンマナーの入り口に来ると私は、「じゃな」と言って彼らと別れた。
私が喧嘩に立ち会ったのはこの一回だけだった。沖縄の少年たちの中にはアメリカ少年と喧嘩するグループも居たという話である。
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ベッキー


ベッキーは体が大きく金髪で白人とのハーフだった。私の家から数百メートルほど離れた家がベッキーの母さんの実家であり、ベッキー母子は実家に引っ越してきた。ベッキーの母さんは若くて体が小さく、体の大きいベッキーの母親であるのが私には不思議だった。
ベッキーは体は大きいのに気が小さく泣き虫だった。怒って文句をいうと「ごめんなさい、ごめんなさい」と言ってすぐに泣きそうになった。そんなベッキーをおもしろがっていじめる子供もいた。泣いてもいじめが終わるとけろっとして、遊びに興じるベッキーであった。
今から考えると、すぐに泣くのはいじめに対するベッキーなりの対策だったかもしれない。

夏休みのある日、家の近くのウカミヤーの広場で遊んでいたが、とても暑いので私たちのグループは川に行くことになった。ベッキーは私たちと遊んでいたが、私たちのグループではないのでひとり取り残されることになる。
ベッキーがさびしそうな顔をしていたので、私は、「ベッキーもいくか」と言った。ベッキーはうなずいた。私は「家は大丈夫か」と聞いた。川は家から遠く離れた山の中にあり、川に行くことを禁じている親もいた。だから、川に行っても親が叱らないかという意味で私はベッキーに「家は大丈夫か」と聞いたのだ。ベッキーが「大丈夫」と答えたので、私たちはベッキーを連れていくことにした。
ところが、私たちの軽率な行動が大変なことになる。

私たちは1号線(現在の国道58線)を横切って嘉手納弾薬庫の黙認耕作地に入った。軍用地ではあるが畑として使ってもいいのが黙認耕作地である。黙認耕作地は家や設備がひとつもなく、畑と林だけの緑が広がる地帯だった。

私たちは畑の道を歩きつづけ、急な坂をおり、私たちより高いすすきにおおわれた一人しか通れない細い道を歩き続けた。
しばらくすると、田んぼに出た。たんぼの側を川が流れている。大きいもくもうの下で私たちは服を脱ぎパンツだけになって川に飛び込んだ。

私たちが川で遊んでいると遠くのほうから、「ベッキー」という女の叫び声が聞こえてきた。「ベッキー」と叫びながら女の声はしだいに大きくなってきた。私たちは不思議に思い、声を聞いていたが、ベッキーはすぐに母さんの声であると気付き、川からあがった。

ベッキーの母さんはベッキーを見つけると、「ベッキー」と泣き叫びながら、ベッキーに駆け寄り、ベッキーを強くだきしめて泣き崩れた。私たちはベッキーの母さんの行動が理解できないできょとんとしていた。ベッキーは間が悪そうに頭を掻いていた。

ベッキーの母さんは、私たちがベッキーを山のほうに連れて行ったと誰かから聞いて、私たちがベッキーをリンチするために山に連れて行ったと思ったのだろう。若い母親はパニックに陥って、必死になってベッキーを探した。

ベッキーは母さんに連れられて私たちの前から去って行った。
ハーフの子供を育てている若い母親の心境を知らない私たちは、川遊びさえさせないベッキーの母親の過保護ぶりに苦笑した。
翌日からは何事もなかったようにベッキーは私たちと遊んだ。

一年後、ベッキーはウカミヤーの広場に来なくなった。噂によるとベッキーは父さんのいるアメリカに行ったらしい。ベッキーの母親はアメリカには行かないで、数年後に私の家の隣のタロウさんと結婚をした。
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アメリカ兵と沖縄女性のカップルが両隣りに住んでいた


50年以上も前のことである。私の家の両隣りにトタン屋根の貸家があり、アメリカ兵と沖縄女性のカップルが住んでいた。西側の家は二つに分けてあり、二組のカップルが住んでいた。私たち子供のグループは時々縁側に座り、カップルと話したりした。
アメリカ人に興味深々な私たちは色々質問したりしたと思うが、話の内容は覚えていない。
村には十軒くらい貸家があり、アメリカ兵と沖縄女性のカップルが住んでいた。アメリカ兵の独身者が住んでいる家はなかった。今から考えるとカップルは村の中で住んでいいが、独身のアメリカ兵が住むのは婦女暴行などのトラブルが起こることを考慮して禁じていたかもしれない。

沖縄人の恋人同士が堂々と通りを歩くことがなかった時代にアメリカ兵と沖縄女性のカップルはアベックで歩いていたからとても目立った。カップルで歩いているだけでイチャイチャしているように見える時代だったから大人たちには迷惑がられていただろう。アメリカ兵の彼女である沖縄女性を私たちはアメリカハーニーと呼んでいた。

沖縄女性がアメリカ兵に魅かれた理由はアメリカ人が持っている自由さだった。沖縄はまだまだ男尊女卑の風習が強く、女性に自由はなかった。沖縄の男尊女卑の世界から解放されたい女性は多かっただろうし、アメリカ人と接することによってアメリカ人の持っている自由やレディーファーストの世界を知り、アメリカ兵に魅かれただろう。いや、「だろう」ではない。「である」である。子供の頃に私は沖縄の女性の口から何度も「沖縄の男には女性の自由がないけど、アメリカ人には自由がある」と聞いた。

アメリカ兵と沖縄女性のカップルが話し合う様子は友達のようであった。女は堂々としていて、へりくだるような態度を見せなかった。男尊女卑が内在している沖縄の生活をしている私には女性がいばっているように見えたものだ。

東隣りの家にはテレビがあったので、グループで時々テレビを見に行った。女性と二人だけで過ごしたいアメリカ兵は私たちが家に入ると不機嫌な顔をした。しかし、主導権を握っているのは沖縄女性のほうであり、私たちはアメリカ兵が持ってきたお菓子を食べながら見たいチャンネルが見れた。若いアメリカ兵は、私たちが日本放送を見ている間は後ろのほうで詰まらなそうに座っていた。

アメリカ兵といっても、彼らには日本軍人のような威圧感は全然なかった。彼らは陽気でフレンドリーな普通の人間だった。
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アメリカ兵がとなりにいた頃の話

私が最初にアメリカ人を見たのは二、三歳の時だった。それも黒人だった。私は読谷村の大木に生まれ、四歳の時に比謝に引っ越した。だから、大木の記憶は三歳以下ということになる。

最初に黒人を見たのは大木に居た時であった。姉は私をおぶって一歳年下のシズエさんの家に遊びに行った。二人は話しているうちに戦前の話になり、黙認耕作地になっている戦前の屋敷を見たいという話になった。
姉は私をおんぶし、シズエさんは私より一歳年下のチョウトクをおんぶして数キロほどはなれている黙認耕作地に行った。黙認耕作地は、耕作している場所は少なく、広大な草原になっていた。私の姉が住んでいた屋敷を過ぎ、シズエさんの住んでいた屋敷に向かって歩いていると、遠くに嘉手納弾薬庫から出てきた数人の黒人兵が見えた。
姉とシスエさんは黒人兵を見た途端に、恐怖になり一目散に逃げた。道路はなく畑跡の草原を走ったので、姉は草に覆われた溝に足を取られて転んでしまった。
私の記憶は姉が転んだところで終わっている。

人気のない草原の中で黒人兵を見た姉とシズエさんは非常に怖かっただろう。

大木に住んでいた時に二回アメリカ人を見たが、二回目は逃げたのではなく姉がアメリカ人を見に行った。
これもシズエさんの家にいた時のことである。大木の南はずれでアメリカ人たちがお祝いかなにかをやっているという噂があり、姉とシズエさんは見に行くことにした。
大木のはずれには石灰かなにかを敷いた小さな広場があり、十数名のアメリカ人と一台のヘリコプターがあった。見物人も大勢いた。

アメリカ兵たちの前には若い沖縄の女性がいて、アメリカ兵たちから祝福されていた。女性と一人のアメリカ兵はヘリコプターに乗った。二人は笑いながら盛んにアメリカ兵たちに手を振っていた。アメリカ兵たちは手を叩いたりしながら祝福の言葉をかけていた。ヘリコプーは舞い上がり、次第に小さくなっていった。ヘリコプターの沖縄女性とアメリカ兵はいつまでも手を振っていた。

私たちが見たのは沖縄女性とアメリカ兵の結婚式だったのだ。沖縄女性は私の周りにいる女性よりあか抜けていて華やかで堂々としていたのを覚えている。
1951年のことである。

戦争が終わって6年後にはこのようにアメリカ人と沖縄女性と恋がめばえ、結婚することもあった。沖縄女性は沖縄戦でアメリカ軍に攻撃されたはずである。アメリカ兵は敵であり怖い存在であるはずである。しかし、アメリカ兵と恋をし結婚した。

新聞ではアメリカ兵の犯罪が掲載され、沖縄人が差別されている内容の記事がほとんどであり、沖縄女性がアメリカ兵と結婚するのはありえないように思えるが、現実はそうではない。多くの沖縄女性がアメリカ兵と恋をし結婚した。

アメリカ兵が隣にいる生活では、犯罪はほとんどなく、フレンドリーなアメリカ人の普通の姿があるだけであった。私の村にはアメリカ兵と沖縄女性が同棲するための貸家がつくられていった。

アメリカ兵がとなりにいた頃の思い出を書いていこうと思う。
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