砂辺松一先生のこと

砂辺松一先生は中学三年生の時の私のクラスの担任であった。砂辺先生と私たちは縁が深かった。というのも私たちが小学五年生の時に琉大を卒業したばかりの砂辺先生は私たちの担任になった。砂辺先生は小学校の先生だったのだ。ところが私たちが中学生になると砂辺先生は英語教師として中学の先生になった。
私たちが中学二年生になると数学の担任にもなった。あの頃は専門の教師が少なく、専門ではない教科も受け持っていたようだ。多くの先生は数学を担任するのを嫌がっていて、若い砂辺先生は数学の担任を押し付けられた。砂辺先生は数学を担当するようになったいきさつを私たちに話した後、本当は数学が一番の苦手な教科だと砂辺先生は素直に話した。今なら、数学の苦手な先生になぜ数学の担任にするのかとPTAが大騒ぎするだろうが、それが許される時代だった。

普通問題が解けない場合はその問題をうまく避けてごまかすものだが砂辺先生は違っていた。ある日、数学の授業をしている途中で応用問題を解けないと砂辺先生は素直に私たちに話した。その時、誰一人として砂辺先生を非難する生徒はいなかった。それどころかクラスの全員が一丸となって難問に挑んだ。成績優秀な生徒は黒板の前に出て、ああでもないこうでもないと砂辺先生と一緒に考え討論した。勉強が全然できない生徒までもが真剣に黒板に集中した。あの授業は最高の授業だった。

小学校の時の砂辺先生は話をよく脱線して、色々な体験談を話した。戦争体験談や戦前の思い出など多くのことを話した。

そのひとつに教育勅語の話があった。戦前は天皇崇拝の教育をしていたのに戦後になると180度転換して民主主義の教育をしていると若き砂辺先生は戦前からの先生を批判した。そして、戦前の教育は教育勅語を丸暗記させたと言うと、
教育勅語を私たちの前に披露した。




「朕 惟 フニ我カ皇 祖皇 宗 國 ヲ肇 ムルコト宏 遠 ニ ヲ樹ツルコト深 厚 ナリ
チンオモうにワがコウソコウソウクニをハジむることコウエンにトクをタつることシンコウなり

我カ臣 民 克ク忠  ニ克ク孝 ニ億 兆  心  ヲ一 ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ
ワがシンミンヨくチュウにヨくコウにオクチョウココロをイツにしてヨヨソのビをナせるは

此レ我カ國 體 ノ精 華ニシテ教  育 ノ淵 源 亦 實 ニ此 ニ存 ス
コれワがコクタイのセイカにしてキョウイクのエンゲンマタジツにココにソンす

爾  臣 民 父母ニ孝 ニ兄 弟 ニ友 ニ夫 婦相 和シ朋 友 相 信 シ恭  儉 己 レヲ持シ
ナンジシンミンフボにコウにケイテイにユウにフウフアイワしホウユウアイシンじキョウケンオノれをジし

博 愛 衆  ニ及 ホシ學 ヲ修 メ業  ヲ習 ヒ以 テ智能 ヲ啓 發 シ 器ヲ成  就 シ
ハクアイシュウにオヨボしガクをオサめギョウをナラいモッてチノウをケイハツしトクキをジョウジュし

進  テ公 益 ヲ廣 メ世 務ヲ開 キ常 ニ國 憲 ヲ重  シ國 法 ニ遵  ヒ
ススンでコウエキをヒロめセイムをヒラきツネにコクケンをオモンじコクホウにシタガい

一 旦 緩 急  アレハ義勇 公 ニ奉 シ以 テ天 壤  無窮  ノ皇 運 ヲ扶翼 スヘシ
イッタンカンキュウあればギユウコウにホウじモッてテンジョウムキュウのコウウンをフヨクすべし

是 ノ如 キハ獨 リ朕 カ忠  良  ノ臣 民 タルノミナラス
カクのゴトきはヒトりチンがチュウリョウのシンミンたるのみならず

又 以 テ爾  祖先 ノ遺風 ヲ顯 彰  スルニ足ラン
マタモッてナンジソセンのイフウをケンショウするにタらん

斯ノ道 ハ實 ニ我カ皇 祖皇 宗 ノ遺訓 ニシテ子孫 臣 民 ノ倶 ニ遵  守 スヘキ所
コのミチはジツにワがコウソコウソウのイクンにしてシソンシンミンのトモにジュンシュすべきトコロ

之 ヲ古今 ニ通 シテ謬  ラス之 ヲ中  外 ニ施  シテ悖 ラス
コレをココンにツウじてアヤマらずコレをチュウガイにホドコしてモトらず

朕 爾  臣 民 ト倶 ニ拳 々 服 膺 シテ咸 其  ヲ一 ニセンコトヲ庶 幾 フ
チンナンジシンミンとトモにケンケンフクヨウしてミナソノトクをイツにせんことをコイネガう」

参考:現代口語訳
 私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。

 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。

 このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。




砂辺先生は教育勅語の説明をしたが、私はさっぱり理解できなかった。

戦前の教育である丸暗記教育、今でいう洗脳教育を砂辺先生は嫌っていたのだろう。だから、私たちの前で私たちにはさっぱり意味の分からない教育勅語を披露し、戦前の教育を非難した。小学五年生の私には砂辺先生の言おうとしていることが理解できなかったが、大学生になった頃に砂辺先生の言おうとしていることが理解できるようになった。

戦後生まれの人たちは皇民化教育と聞いたら天皇陛下の偉大さの説明をする授業だと思うだろう。そうではない。教育勅語を丸暗記させるような洗脳授業が皇民化教育だったのだ。だから本土から遠く離れ大和文化の影響が小さい沖縄でも短期間で天皇崇拝の若者たちが生まれた。「天皇陛下のために戦い、天皇陛下のために死ぬ」という天皇崇拝の洗脳授業をやったのが沖縄の教員たちである。

砂辺先生の話から脱線するが、沖教祖や沖縄のマスコミは集団自決は日本軍が命令したから起こったのだと主張しているが、本当は違うのではないかと思う。慶良間の集団自決は赤松隊長が命令したのではないという証言者が現れている。座間味の場合は集団自決を命令したといわれている梅沢元隊長は健在であり、彼は集団自決をするために爆弾をくれといってきた村の代表たちを自決はするなと怒って帰したと証言している。
日本軍が自決を命じた証拠はないのだ。
一方、戦前の皇民化教育や米軍に捕まったら女は暴行されて殺される。男は残忍なころされかたをするという噂があったから自決をしたと証言する人は多い。いや、ほとんどの人たちがそのようにいう。そして、自分たちが洗脳されていた証拠として「海ゆかば」を歌う。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

海で(戦いに)ゆくなら、水に漬かる屍ともなろう。
山野を(戦いに)ゆくなら、草の生える屍ともなろう。
天皇のおそばにこの命を投げ出してもけして後悔はしない。

自決するかしないかを大きく左右するのは本人の心である。日本軍が手りゅう弾を二個渡し、一個は米軍に投げ、一個は自決に仕えと言っても、自決する気がなかった人もたくさんいたわけで、そのような人たちは自決をしていない。統計的には自殺をしなかった人のほうが多いだろう。自決しようとして生き残った人のほとんどは皇民化教育を受けた性で自決をしようとしたと証言している。皇民化教育をやったのは沖縄の先生たちである。

集団自決をやる心をつくったのは皇民化の洗脳教育をした沖縄の先生たちである。慶良間の集団自決に日本軍は関与していないどころか集団自決はするなと梅沢元隊長は村民代表を追い返したのだ。沖縄の先生たちは自分たちの罪を隠すために集団自決は日本軍の命令であったと主張し、集団自決は日本軍の性であることを教科書に掲載させようと懸命になっている。しかし、集団自決をやらせたのは日本軍ではなく沖縄の先生たちであるのは明確になった。

砂辺先生は、黒人も白人も黄色人の体の中に流れているのは同じ赤い血であると教えた。戦前、砂辺先生の家には下働きしている朝鮮人がいたが、朝鮮人の子どもと喧嘩した時、自分が悪かったのに、朝鮮人の子どもが彼の親にこっぴどく叱られるのを見てとても済まない気持ちになったといい、沖縄にも差別があったことを教えた。
砂辺先生は教えるというよりも自分のストレートな気持ちを話しただけだったかもしれない。授業から脱線した砂辺先生の話は面白かったし私の心に強烈に残っていて、私の思想に大きな影響を与えている。
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