アメリカ兵がとなりにいた頃の話

嘉手納町の水釜の外人住宅に新聞を配達していた頃の話である。水釜の外人住宅街はかなり広く、私はUの字のように外人住宅を回って新聞を配達していた。最後の頃になると太陽は東の住宅の上から覗き、陽射しがまぶしくなった。
私がドアの側の窓際に新聞を挟んで庭から出ようとすると、呼び止められた。振り向くと開いたドアから女性が私をみながら微笑んでいた。アメリカ人と言えば白人をイメージするだろうが、白人でもない黒人でもないアメリカ人は結構多い、私を呼び止めた女性はスペイン人の膚を白っぽくしたような女性で小柄な人だった。

彼女は私に中学生であるかと聞いた。私がそうだというと、彼女は、私は中学の先生だと言った。私は彼女が学校の先生だといったことに驚いた。なにしろ、彼女は化粧をしていて青のアイラインを入れていたのだ。服も華やかなワンピースだった。彼女が先生なら私たちは心が落ち着かず勉強どころでなかったはずである。
彼女の夫も出てきたが、彼も中学の先生だといった。夫はジーパンを履き遊びに行くような服装だったが、それが彼の仕事着だった。ラフで自由な服装の人が学校の先生であるのに私は驚いた。

私は長男だったので、母は私にはしつけが厳しかった。沖縄方言の敬語をしつこく教えられた。「食べる」の方言は「カムン」である。「食べれ」は「カメー」である。母がカメーの敬語はなんというかと聞いたので私は「カミミソーレー」と言った。母は大笑いした。「カミミソーレー」は日本語に直訳すると「食べてください」であるが、日本語でも「食べてください」は丁寧語であって敬語ではないように方言でも同じである。「カメー」の敬語は「ウサガミソーリ」であると母は教えた。日本語でいえば「召し上がりください」になる。
母は敬語や大人に対するマナーを教えたが、私は右の耳から左の耳へ流していた。

大人でもダメな人間はいる。ダメな人間を尊敬することはできない。だから、大人だからと言って尊敬できない人間には敬語を使わなくてもいいというのが私の考えだった。

そんな私がアメリカ人と接して一番感じたのは彼らが大人と子供の上下関係を感じさせないことであった。大人でも私には友だち目線で話した。沖縄の世界では大人と子供では上下関係があるし、先輩後輩でも上下関係があって、会話する時にはこの上下関係が強制される。私は上下関係を強要されるのが嫌いだった。

アメリカ人と接するときに、彼らには沖縄の大人が持っている威圧感がなかった。それは平等というよりアメリカ人の自由さを感じた。アメリカ新聞を配達しながら、私はアメリカ人の持っているフリーさを皮膚で感じた。
50年前の話である。


昨日の沖縄タイムスの「基地で働く」はタイピスト宮城公子さんの話の第二弾を掲載していた。

基地から横流しする女性の話であった。復帰前はPX流れといって基地から多くの商品が基地から流れ出て県内で販売されていた。タバコ、チョコレート、缶詰、お菓子等々。特にタバコとチョコレートは多くの商店にあった。首里の琉球銀行の斜め向かいに老夫婦が営む小さな商店があり、その商店ではPX流れのタバコを置いてあり、私は時々ウィンストンを買った。

復帰前はアメリカ人の犯罪はアメリカ軍が摘発し裁判をしたが、沖縄人の犯罪は沖縄の警察が摘発し、裁判をした。だから、PX流れの商品を扱っている沖縄の商店をアメリカ軍は摘発することができなかったのだろう。沖縄の警察は積極的に取り締まる気がなかったようで、PX流れの商品を扱う商店が多かった。
復帰して、日本警察がPX流れの商品を扱う商店を積極的に取り締まるようになって商店は激減していった。日本専売公社の圧力があったのだろう。

宮城公子さんの話は、1970年半ばの横流しの常習犯の女性の話である。
「その頃は横流しが横行していた。ウチナーンチュの女性が米兵にお金をあげて、基地内の品物を預けていた。下っ端の米兵は給料も安いから、簡単だったと思うよ」
「私は彼女たちを守りたかった。やめたいと思うことがあっても、子供や生活のために働く私たちと同じで、彼女たちも苦労していたんだから」
「彼女たちは50~60代。若いころに米兵と結婚して一緒に米国へ行った後、米兵と離れ離れになり、現地に取り残されたり、家があると思っていったらトレーラーだったという人もいた」
「彼女たちはライスボウル(おにぎり)を作って売り歩いて、わずかなお金を貯めてやっとの思いで帰ってきたと聞いた」

宮城さんの今度の話でも、アメリカ人は沖縄女性を無一文で家から追い出すような薄情で冷たい人間たちである印象を与えている。アメリカの習慣に合わないで離婚した話は何度もきいた。離婚してもアメリカにとどまった女性は多い。アメリカでは女性の人権は守られているのだから、無一文で家から追い出すケースは少なかっただろう。金がなければ沖縄の親族が送金するだろうから、おにぎりを売って旅費を稼ぐなんて考えられない。こんなケースは滅多にない。

1970年半ばで50~60歳というと、終戦の1945年には20~30歳だった女性である。戦後すぐにアメリカ兵と結婚した女性ということになる。

復帰当時の失業率は1%未満であったし、1970年半ばなら本気で仕事を探そうと思えばさがすことができたと思う。PXの横流しは誰でもできるというものではない。彼女たちのようにIDカードがなければならないし、私が聞いたケースは米兵と結婚している沖縄女性が夫を利用して買い入れて横流しをしていることであった。
PXからの横流しの仕事は特定の人間しかできないし、儲けは大きかった。横流しの仕事はうまみの大きい商売であり、貧乏人が仕方なくやる商売ではなかった。少々の危険を犯してもやりたくなる闇商売であったのだ。

「私は子どもが4人いて、この子たちのためにと思って働いていたけれど、生活があるのは彼女たちも同じだった。当時は、みんな生きるために、そうしないといけなかったんだろうね。葛藤の中、定年まで働いたんだよ」

復帰前は軍雇用員の給料は公務員よりもよくて、中流以上の生活が保障されていた。生きるために働いたというより他の人たちより文化的な生活をするために働いたようなものだ。私の家の後ろの父親
は軍で働いていた。収入がいいから最初にセメント瓦の家をつくった。軍雇用員の家は裕福だった。まずしい農家の息子の私は軍雇用員の子供がうらやましかった。彼らは親からこずかいをもらえたから。

PX商品の横流しの商売は儲ける闇の商売であり、罰金を払っても採算の取れる商売だったから続けたのだ。宮城公子さんは沖縄の人たちは生活のために仕方なく米軍に関わったように話しているが、本当は米軍は金のなる実であり、多くのウチナーンチュは金を求めて米軍に関わったというのが事実だ。

「私は4人の子どもたちには絶対、軍で働かさなかったの」で宮城さんの話は締めくくっている。読者に米軍への悪印象を持たすのを狙っている記事である。
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