Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

亡き叔父の啓示

2016-09-20 20:10:41 | 日記・エッセイ・コラム

一昨日から昨日まで、少し拙ブログをご無礼して、年に何度か参る、新潟磐越の地へ入っていた。折しも台風第16号が、東シナ海から我らが本土を窺っており、その動向が気にはなったのだが、首都圏の悪友も現地へ向かう由だったので、往路新潟までの直行バス、復路は長野まで高速バスにて乗換えの上、当地まではJR特急「ワイドビューしなの」での行程であった。シルバー・ウィークの連休後半から明けにかけてのせいか、優れぬ天候もあって、各便共まだかなりの余席があった様だ。天候は、今日の模様が一番気になったが、荒れる直前に帰宅が叶ったのは幸いであった。

さて、俺の交通安全を考える上で欠かせないのが、幼時世話になった、亡き叔父の存在だろう。実は、今日が命日。多重交通事故の犠牲となって、今年で丁度50周年になろうか。去年まで運転していた車の事でも、又、列車やバス、船舶や航空などの公共交通にあっても、安全を考える上で、常に念頭にあったのは、叔父の犠牲である。

勿論、成長し、成人してからの様々な体験の影響もそれはあるが、亡き叔父が俺に残した大きな遺訓は「決して無理をしない事」と「自らの命は、自らで守る」事だったと、今も信じている。その為に、色んな安全確認や、乗車時のシート・ベルト着用も、早くから当然の事として実行できる様になった。又、旅先や運転の行程から戻る度、自慢ではないが、見守ってくれた叔父への感謝の念を新たにしている所。一昨日から今日までの行程が、荒天に見舞われながらも無事帰れたのは、どこかで叔父が見守ってくれたからだろう、との想いが今回もあったのだ。

こうした「信仰」の様な想念は、かつての祖国日本には普通にあったものが、戦後に至って廃れてしまった様だ。何故なのか?それはやはり、神仏を信じない、唯物史観の横行が一つにはあるのではないか。

終戦後(敗戦後、と言う向きもあるが)、我国の戦後処理の為進駐した連合国進駐軍GHQの内部は、法曹家 佐藤欣子さんらのご見解によると、初期の頃は容共左派が強く、戦前非合法であった、日本共産党関係者の大量釈放も、東京裁判の進行も、この勢力の主導で実行された由。同勢力は、当然当時のソ連邦とも近く、「勝者の裁き」の批判が今も続く東京裁判にも大きな影響を及ぼしたらしい。その犠牲となったのが、昭和殉難者の七人の方々、つまり「殉国七士」である事は、有名な話だ。

GHQ左派勢力は、その後の東西冷戦の時期を迎えると、総司令官マッカーサー元帥による、赤狩り レッド・パージによって、GHQの中枢から排除されるのだが、社会に拡散した共産勢力は、我国の内政問題として関与せず、又、我国政府は日本国憲法の思想信条の自由なる壁に阻まれ、その有力な取締りができぬまま、現在に至ってしまった。これが、例えば60年、そして70年安保問題やその間の大学紛争の混乱、日本赤軍による、二度の航空機乗っ取り事件や、その関連とも言える「テロリストの輸出」そして「北」による多くの日本人拉致を許すと言う禍根を残してしまったのではないだろうか。

亡き叔父への感謝の念の一方で、どうしても引っかかるのは、やはり唯物史観はリスクの大きな思考であり、我国のこれまでとこれからの為にも、我国固有の宗教を尊重し信じる事の大切さと言う事だ。少し前、中央教育審議会でも、宗教教育の必要性が、議論の俎上に上った事はあった様だが、憲法学者や自称進歩的文化人、日教組や容共弁護士勢力などの妨害に遭って、活発な議論が行われないままになっているのは遺憾だ。むしろ、本気で議論してこそ、廃れが問題視される、道徳観念の涵養にも役立つと心得るのだが。今回画像は、冒頭の新潟磐越の郊外にて捉えた、夏の点描。通り過ぎる、旧国鉄の40代気動車も引退期を迎え、後を追う鉄道愛好者も現れ始めている様です。

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