昨日久しぶりに水曜礼拝に出ました。
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、また奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)」
上記の聖書の言葉からメッセージをいただきました。
「くびき」とは、二頭一組の牛などの家畜の首にかける横木で、その二頭が一緒に畑を耕したりする時に使う農作業の道具です。
くびきを負うとは支配され、しばられることです。人間が負っているくびきは2つあります。
ひとつは、自分自身の罪です。罪とは、自分中心の生活をすることで、自分が王座にすわっています。自由に生きているつもりでも、いつも何か足りないという思いがあり、不安、恐れ、不満が心を支配しています。
かつて友人に自己中心というのは罪だと話したときのことです。
「自己中心で何が悪いの? わたしは何にもとらわれず、自由が好きなの。人に迷惑かけなければどんなふうに生きたってかまわないでしょ」
と、友人は反論しました。
人に迷惑をかけなければどのような生き方をしてもよいと思う気持ちはよくわかります。人に迷惑をかけないように生きることを徹底して教育されていた世代の人は、ほとんどがそう思っているでしょう。
でも、そう思い続けていると、やがて辛い気持ちになるでしょう。年を重ねて誰かに世話にならなければ生きられなくなったとき、申し訳ないという思いを持ち、何もできなくなったことを嘆き、みじめな気持ちになってしまうからです。
人は、病気にならなくても年を重ねれば自分の思うように生きられなくなります。その現実を知っていても自分がそうなるまでには長い時間があると思って安心しているのです。
でも、神様を心の中心に据えずにいると、不安、恐れ、不満が心を支配するようになります。何か足りないという思いは、空しさにつながります。
人は、創造主である神様を信じて、初めて空しさから解放されるのです。
人間が負っているくびきの二つ目は罪悪感です。自分はダメなんだと思い込んだり、~しなければならないと強迫観念を持ったりすることです。
この罪悪感は、真面目な人が持つことが多いと思います。また、クリスチャンの陥る間違えでもあります。
わたしは、かつて罪悪感に苦しんだことがありました。
「具合悪くて今日は一日寝ていた。明日も寝るだろう。調子がよくなって起きていられるようになって何もできないだろう。」
と日記に書いていた時期がありました。それでいて、そんな自分を怠け者呼ばわりして、何でも賢くこなす人たちを羨ましく思ったりしたのでした。
聖書を毎日たくさん読まなければいけないとか、毎週礼拝を守らないといけないとか、何時間も祈らないといけないとか……それらのことは救われるためには必要ないのです。
自分で自分にくびきを負わせてがんじがらめになっていたときは、喜びがありませんでした。
でも、今は心に喜びがあふれています。なぜなら、キリストによってくびきを解かれ、自由になったからです。自由とは、自分の心の欲するままに何をしてもいいということではく、神を心の王座に据えた自由です。
ガラテヤの教会の中に偽(にせ)兄弟たちがいたそうです。彼らは、イエス様を信じること以外に律法を守らなければ救われないと言って教会の人たちを惑わしたようです。
「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(ガラテヤ5:4)」とパウロは警告しています。
キリストによってすべての罪が赦されたのですから、すでに救われているのです。救われるために信じること以外何も必要がないことを改めて心に銘記しておきたいです。
青字は牧師先生のメッセージ、緑字は聖書のことば、茶色字はわたし考えたことを書いています。
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「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、また奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)」
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「くびき」とは、二頭一組の牛などの家畜の首にかける横木で、その二頭が一緒に畑を耕したりする時に使う農作業の道具です。
くびきを負うとは支配され、しばられることです。人間が負っているくびきは2つあります。
ひとつは、自分自身の罪です。罪とは、自分中心の生活をすることで、自分が王座にすわっています。自由に生きているつもりでも、いつも何か足りないという思いがあり、不安、恐れ、不満が心を支配しています。
かつて友人に自己中心というのは罪だと話したときのことです。
「自己中心で何が悪いの? わたしは何にもとらわれず、自由が好きなの。人に迷惑かけなければどんなふうに生きたってかまわないでしょ」
と、友人は反論しました。
人に迷惑をかけなければどのような生き方をしてもよいと思う気持ちはよくわかります。人に迷惑をかけないように生きることを徹底して教育されていた世代の人は、ほとんどがそう思っているでしょう。
でも、そう思い続けていると、やがて辛い気持ちになるでしょう。年を重ねて誰かに世話にならなければ生きられなくなったとき、申し訳ないという思いを持ち、何もできなくなったことを嘆き、みじめな気持ちになってしまうからです。
人は、病気にならなくても年を重ねれば自分の思うように生きられなくなります。その現実を知っていても自分がそうなるまでには長い時間があると思って安心しているのです。
でも、神様を心の中心に据えずにいると、不安、恐れ、不満が心を支配するようになります。何か足りないという思いは、空しさにつながります。
人は、創造主である神様を信じて、初めて空しさから解放されるのです。
人間が負っているくびきの二つ目は罪悪感です。自分はダメなんだと思い込んだり、~しなければならないと強迫観念を持ったりすることです。
この罪悪感は、真面目な人が持つことが多いと思います。また、クリスチャンの陥る間違えでもあります。
わたしは、かつて罪悪感に苦しんだことがありました。
「具合悪くて今日は一日寝ていた。明日も寝るだろう。調子がよくなって起きていられるようになって何もできないだろう。」
と日記に書いていた時期がありました。それでいて、そんな自分を怠け者呼ばわりして、何でも賢くこなす人たちを羨ましく思ったりしたのでした。
聖書を毎日たくさん読まなければいけないとか、毎週礼拝を守らないといけないとか、何時間も祈らないといけないとか……それらのことは救われるためには必要ないのです。
自分で自分にくびきを負わせてがんじがらめになっていたときは、喜びがありませんでした。
でも、今は心に喜びがあふれています。なぜなら、キリストによってくびきを解かれ、自由になったからです。自由とは、自分の心の欲するままに何をしてもいいということではく、神を心の王座に据えた自由です。
ガラテヤの教会の中に偽(にせ)兄弟たちがいたそうです。彼らは、イエス様を信じること以外に律法を守らなければ救われないと言って教会の人たちを惑わしたようです。
「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(ガラテヤ5:4)」とパウロは警告しています。
キリストによってすべての罪が赦されたのですから、すでに救われているのです。救われるために信じること以外何も必要がないことを改めて心に銘記しておきたいです。
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