広い門と狭い門があったら、どちらに入りますか?
広い門は楽に入れます。荷物を持って入ることもできます。
一方、狭い門に入るには、苦難や辛いことがあります。また、手ぶらでなければ入れません。
広い門には大勢の人が入り、狭い門にはわずかな人しか入っていません。
広い門の先には滅びへの道があり、いきつくところは死です。一方狭い門は救いへの道であり、狭い門を入った人は永遠のいのちをいただけます。
広い門、狭い門を入っていくとどうなるのか、入ってみないとわからないことです。
昨日は教会での家庭集会でした。教えられたことや気づかされたことを書いてみます。
青森県にある不老不死温泉は人気があって、大勢の人が訪れているそうです。
その温泉に入ったら不老不死になると本気で信じている人はいないと思いますが、「不老不死」また、「永遠のいのち」は人類の究極の望みですね。
人間は潜在的に永遠に生きたいと思っているのだそうです。それには理由があります。死からの恐怖です。この恐怖は人に刻まれているので、死にたいと思っている人でも死は怖いのです。
2000年前、ひとりの青年が、イエス様に永遠のいのちを得るための質問をしました。
イエス様は「努力して狭い門から入りなさい」と言われました。
神の国への門は狭いのです。なぜでしょう……。
大勢の人が楽な道を選びます。いろいろなものを背負って広い門に入っていきます。
狭い門には何かを携えて入ることができません。必要のないものは捨てて、自己を捨てて入るのです。
優先順位のいちばん上に自分を置くのではなく、神様を置くことが大切です。
狭い門から入るために「努力→努めること」が必要だとイエス様が言っておられますが、努めるとはどういうことなのでしょう……。
狭い門に入るために強い意志を持って信じ続けることです。そのために祈ることです。
狭い門はまだ開いています。狭い門に続いている道には苦しみもあります。でも、通ったとき、むなしい気持ちになりません。神様から報いを受けます。
イエス様を信じると永遠のいのちがいただけること。それはすばらしい贈り物です。受けるために狭い門に入ることが人生でいちばん大切なことです。このことを愛する人たちに伝えないではいられません。
人に伝えるとき、知恵と力と機会が与えられるように祈ることが大切です。伝えても、なかなか受け入れてもらえないとき、自分が悪いと責めてはいけません。その人が受け入れるかどうか、救われるかどうかは神様の領域であって、わたしたちの責任ではないからです。
「祈るとき『みこころなら』という言葉を忘れないように」と牧師先生が言われました。
いま、大事だと思ってしがみついているものがあっても、死ぬときにはすべては不要になります。本当に大切なものは何でしょう。永遠のいのちという本当に大切なものを得た人は、どんなに苦しいことがあっても平安があります。
聖書の言葉
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13-14)」
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広い門は楽に入れます。荷物を持って入ることもできます。
一方、狭い門に入るには、苦難や辛いことがあります。また、手ぶらでなければ入れません。
広い門には大勢の人が入り、狭い門にはわずかな人しか入っていません。
広い門の先には滅びへの道があり、いきつくところは死です。一方狭い門は救いへの道であり、狭い門を入った人は永遠のいのちをいただけます。
広い門、狭い門を入っていくとどうなるのか、入ってみないとわからないことです。
昨日は教会での家庭集会でした。教えられたことや気づかされたことを書いてみます。
青森県にある不老不死温泉は人気があって、大勢の人が訪れているそうです。
その温泉に入ったら不老不死になると本気で信じている人はいないと思いますが、「不老不死」また、「永遠のいのち」は人類の究極の望みですね。
人間は潜在的に永遠に生きたいと思っているのだそうです。それには理由があります。死からの恐怖です。この恐怖は人に刻まれているので、死にたいと思っている人でも死は怖いのです。
2000年前、ひとりの青年が、イエス様に永遠のいのちを得るための質問をしました。
イエス様は「努力して狭い門から入りなさい」と言われました。
神の国への門は狭いのです。なぜでしょう……。
大勢の人が楽な道を選びます。いろいろなものを背負って広い門に入っていきます。
狭い門には何かを携えて入ることができません。必要のないものは捨てて、自己を捨てて入るのです。
優先順位のいちばん上に自分を置くのではなく、神様を置くことが大切です。
狭い門から入るために「努力→努めること」が必要だとイエス様が言っておられますが、努めるとはどういうことなのでしょう……。
狭い門に入るために強い意志を持って信じ続けることです。そのために祈ることです。
狭い門はまだ開いています。狭い門に続いている道には苦しみもあります。でも、通ったとき、むなしい気持ちになりません。神様から報いを受けます。
イエス様を信じると永遠のいのちがいただけること。それはすばらしい贈り物です。受けるために狭い門に入ることが人生でいちばん大切なことです。このことを愛する人たちに伝えないではいられません。
人に伝えるとき、知恵と力と機会が与えられるように祈ることが大切です。伝えても、なかなか受け入れてもらえないとき、自分が悪いと責めてはいけません。その人が受け入れるかどうか、救われるかどうかは神様の領域であって、わたしたちの責任ではないからです。
「祈るとき『みこころなら』という言葉を忘れないように」と牧師先生が言われました。
いま、大事だと思ってしがみついているものがあっても、死ぬときにはすべては不要になります。本当に大切なものは何でしょう。永遠のいのちという本当に大切なものを得た人は、どんなに苦しいことがあっても平安があります。
聖書の言葉
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13-14)」

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