生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

見えないものを見るとは?

2014-02-19 17:37:27 | 教会
先日の日曜日は、滋賀県東近江市から福井達雨先生が土浦めぐみ教会に来てくださいました。福井先生は、日本の障がい福祉においてパイオニア的な働きをされてこられた先生で、障がいをもっている人たちの施設、止揚(しよう)学園の創設者です。

わたしが福井達雨先生の名前を知ったのは19歳のとき、神戸の保育科の短大にいたころでした。
「僕アホやない人間だ」という本を読んで感銘したことを覚えています。それから38年もたって、土浦で福井先生にお目にかかれるとは……不思議な導きを感じます。
福井先生は現在82歳ですが、80代とは思えないほどパワフルで、礼拝では熱く語ってくださいました。
語られたメッセージの中から、心に残ったことを書かせていただきます。

止揚学園の止揚とは、ふたつのものがぶつかりあって新しいものが生まれるということです。わたしたちと、重い知的障がいの子どもがぶつかって、子どもたちと共に新しい生き方を生み出していくということで止揚学園と名付けました。
重い知的障がいのある人と共にいると信仰が深められます。それは、重い知的障がいを持った人のうしろにイエス様がおられるからです。彼らはイエス様といちばん近いところに立っているのです。

戦時中、クリスチャンであるぼくの母親は、「天皇は神ではない」と言い続け、留置所に入れられました。ぼくは非国民と言われ、友達ができませんでした。でも、のびのびと明るく育ちました。

母親が38歳のとき、子宮がんで召されました。召される前に語ってくれた2つの言葉は、「見えないものを見、聞こえないものを聞きなさい」「偉い人より立派な人間として生きなさい」でした。
重い知的障がいのある人と共に生きるうちに母親の言った言葉の意味がわかってきました。

聖書には「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:6)」と書かれています。

イエスさまは、わたしたちの上に立って「救ってやる」と言っているのではなく、上から下に降りてきて、わたしたちと共に苦しんでくださるお方です。
わたしたちは下から上に行こうとします。でも弱い人は上に行けません。歩けない人、寝たきりの人は下にしかいられません。でも、イエス様は上から下に降りてきてくださいました。十字架の上で命を投げ出してくださいました。こんな深い愛はありません。
イエス様は弱い人、障がいを持った人と共に生きてくださいます。
イエス様は、わたしたちが罪人だから、「神と和解させる」と言ってくださいました。こんなに豊かで優しい宗教はありますか?

重い知的障害のある子どもで「ワーワー」大声を出す子がいます。イライラして「うるさい」と言ったら、ほかの知的障がいの子が、「イエス様とお話ししているんやで」と言ったそうです。
信仰のある耳で聞くと騒音にしか聞こえなかった声が、すてきな会話に聞こえてくるのです。
見えないものを見、聞こえないものを聞くとは、信仰を通して見、聞くということです。


メッセージを聞いて、イエス様が下まで降りてきてくださったことがどれだけ嬉しいことかと思いました。体が弱くて伏せっていることが多いわたしですが、弱さを感じているときほど、イエス様の近くにいるような気がします。

福井先生のお母様は素晴らしかったのですね。たとい38歳の若さで召されても、生きていくのにいちばん大切なことを子どもに教えたのですから。



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