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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

情熱

2014-01-17 21:00:52 | 聖書から
昨日は今年初の我が家での家庭集会でした。
牧師先生と6人の方がきてくださいました。

マルコ14:32-42の学びでしたが、あまりにもたくさんのことを教えていただいたので、書ききれません。心に留まったことを書かせていただきます。


パッションという映画があります。イエス・キリストが処刑されるまでの12時間を2時間のドラマにして描かれています。数年前に観ましたが、十字架の場面があまりにも凄惨なので目を開けていられず、途中からずっと下を向いていました。

鞭で打たれ、傷ついているイエス様が十字架につけられるときは、「もうやめて!」と叫びたくなりました。

でも、もしイエス様が助けられて十字架刑をまのがれたら、どうなったでしょう……。
わたしたちがこのような苦しみを受けなくてはならなくなるのです。

どんな人間でも一度死に、死後にさばきを受けることが定められています。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように(へブル9:27)」
にもかかわらず、イエス様を信じれば、さばかれずにすみ、永遠のいのちをいただけるようになりました。

イエス様が代わりにさばきを受けてくださったからです。

「イエス様が人類の罪を背負って十字架にかかってくださった」ことがどういうことなのか考えると、こんなすごいことをしてくださったイエス様にどれだけ感謝してもしきれないぐらいの思いでいっぱいになります。

パッションとは「情熱」という意味です。神様が、わたしたち人間を愛するあまり、大切なひとり子イエスを十字架につけて見捨てるということをしてくださった情熱。神様の愛の情熱がひしひしと伝わってきました。

十字架につけられているイエス様のことを考えた時、自分はどこにいたのでしょう。傍観者として少し離れたところに立っていたのではないでしょうか。
十字架につけるため掌にくぎを打ち込むその手は、パッションの監督、メル・ギブソン自身の手なのだそうです。十字架につけた人は自分であると告白しているのです。

そして、苦しみもだえるキリストの姿もまた自分なのです。本当は自分がこのような苦しみを受けなくてはならなかったのだと思うようにと言われて、胸が篤くなりました。

また、十字架にかかる前夜、ゲッセマネでイエス様が苦しみもだえながら
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と、祈りました。

「この杯をわたしから取りのけてください。」というのは、イエス様が生身の人間としてこられたという証拠で「しかし私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」というのは、イエス様がまさに神であるという証拠だと教えていただきました。

あなたのみこころのままにと祈ってくださったから、わたしたちは救われたのですね。

「わたしはあなたに何をもって感謝を表せばいいのだろう」と賛美曲「真昼のように」の歌詞が頭の中に流れています。

まひるのように

いのちをかけて愛を示された
イエス様に出会い 全てが変わった

私はあなたに何をもって、
感謝を表せばいいのだろう

真昼のように輝きながら
あなたの愛を伝えたい

イエス様のように輝き続ける
世の光にしてください



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