一昨日は3・11災害記念礼拝でした。
3・11で被害に遭われた方、家族や大切な人を亡くされた方々のことを思って、その方たちのために祈りました。
聖書を気仙地方の方言に訳した『ケセン語訳聖書』の作者、山浦玄嗣さんが災害に遭われた後、東京のジャーナリストから次のような質問を受けたそうです。
「実直で勤勉な東北の人が、なぜこんな目に遭わなければならないのですか?」
この質問を受けて、山浦さんの心は深く傷ついたそうです。
この質問は、「神は、実直に生きている人に対してなんとひどいことをされるのだろう……」という意味だからです。
『なぜと問うことは、意味がありません。なぜと問う必要はないのです。過去にも地震や津波はやってきました。地震や津波が起こるのは当たり前のことで、地球はそのように造られているのです。
なぜと問うのは、神様に愚痴を言っていることです。神に責任転嫁しても、自分がみじめになるだけです。』というようなことが山浦さんの著書に記されているそうです。
「この意地悪な質問をしたジャーナリストは、神を自分の都合の良い道具にしようとしています。創造主である神は、都合の良い道具ではありません。
本当の信仰とは、『神さま、わたしはあなたの道具です。どう生きたらいいのでしょう。 何をすればいいのでしょう。教えてください。』と祈ることです。」
と牧師先生が言われました。
神様を都合の良い道具としようとしていると聞いて、ドキッとしました。
かつてわたしは、長女を出産して間もなく喘息で入院したとき、『なぜこんなことが起きるのですか?』と神様に訴えていました。それは神様に文句を言っていたのです。元気で順調に事が運んでいるときはいいのですが、辛いことが起きるすぐ愚痴や文句を言っていたわたしです。
まず、自分の願いが先にあって、神様はその願いを叶えてくれるものとして祈り、叶えられないと「どうしてですか?」と恨みごとを言っていました。
それは、神様を自分の都合の良い道具にしていることです。
わたしが神の道具となるべきなのでした。
命あるものの地にある限り
わたしは主の御前に歩み続けよう。
わたしは信じる。
「激しい苦しみに襲われている」と言うときも
不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
詩編 116: 10 新共同訳聖書
正直で正しい人は災害に遭わず幸せになり、悪い事をした人は災害に遭うという考え方がありますが、そんなことは決してないのです。
2000年前、シロアムの塔が倒れて18人が亡くなるという事故がありました。そのとき、イエス様はシロアムの塔が倒れて死んだ人は、特別罪深かったわけではないと言われました。
どうしてあの人は助かって、この人は助からなかったのか……。その理由はわからないのです。
3/11の朝日新聞天声人語に紹介されていた谷川俊太郎の「そのあと」という詩に心打たれました。
この詩は、希望を見失った人に一筋の光を与えてくれたことでしょう。
そのあと
そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべて終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある
そのあとは一筋に
霧の中へ消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている
そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に
にほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。
3・11で被害に遭われた方、家族や大切な人を亡くされた方々のことを思って、その方たちのために祈りました。
聖書を気仙地方の方言に訳した『ケセン語訳聖書』の作者、山浦玄嗣さんが災害に遭われた後、東京のジャーナリストから次のような質問を受けたそうです。
「実直で勤勉な東北の人が、なぜこんな目に遭わなければならないのですか?」
この質問を受けて、山浦さんの心は深く傷ついたそうです。
この質問は、「神は、実直に生きている人に対してなんとひどいことをされるのだろう……」という意味だからです。
『なぜと問うことは、意味がありません。なぜと問う必要はないのです。過去にも地震や津波はやってきました。地震や津波が起こるのは当たり前のことで、地球はそのように造られているのです。
なぜと問うのは、神様に愚痴を言っていることです。神に責任転嫁しても、自分がみじめになるだけです。』というようなことが山浦さんの著書に記されているそうです。
「この意地悪な質問をしたジャーナリストは、神を自分の都合の良い道具にしようとしています。創造主である神は、都合の良い道具ではありません。
本当の信仰とは、『神さま、わたしはあなたの道具です。どう生きたらいいのでしょう。 何をすればいいのでしょう。教えてください。』と祈ることです。」
と牧師先生が言われました。
神様を都合の良い道具としようとしていると聞いて、ドキッとしました。
かつてわたしは、長女を出産して間もなく喘息で入院したとき、『なぜこんなことが起きるのですか?』と神様に訴えていました。それは神様に文句を言っていたのです。元気で順調に事が運んでいるときはいいのですが、辛いことが起きるすぐ愚痴や文句を言っていたわたしです。
まず、自分の願いが先にあって、神様はその願いを叶えてくれるものとして祈り、叶えられないと「どうしてですか?」と恨みごとを言っていました。
それは、神様を自分の都合の良い道具にしていることです。
わたしが神の道具となるべきなのでした。
命あるものの地にある限り
わたしは主の御前に歩み続けよう。
わたしは信じる。
「激しい苦しみに襲われている」と言うときも
不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
詩編 116: 10 新共同訳聖書
正直で正しい人は災害に遭わず幸せになり、悪い事をした人は災害に遭うという考え方がありますが、そんなことは決してないのです。
2000年前、シロアムの塔が倒れて18人が亡くなるという事故がありました。そのとき、イエス様はシロアムの塔が倒れて死んだ人は、特別罪深かったわけではないと言われました。
どうしてあの人は助かって、この人は助からなかったのか……。その理由はわからないのです。
3/11の朝日新聞天声人語に紹介されていた谷川俊太郎の「そのあと」という詩に心打たれました。
この詩は、希望を見失った人に一筋の光を与えてくれたことでしょう。
そのあと
そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべて終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある
そのあとは一筋に
霧の中へ消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている
そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に

↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。