生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

なぜ苦しみがあるのでしょう?(その4)

2008-03-21 12:30:35 | エッセイ

「どうしてこんな苦しい目にあうのですか?」と問いかけるとき、“どうして”には2種類の気持ちが含まれていることが多いと思います。ひとつは何故(Why)?と理由を尋ねる気持ち。もうひとつは、こんな苦しい目にあわせて!と恨みの気持ちです。

聖書のヨブ記には、不条理の苦難について書かれています。ヨブは、次々に家畜と、しもべと子供たちを失います。そのときヨブは、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1:21)」と言って神さまをたたえています。

その後、ヨブは皮膚病にかかって苦しみます。奥さんは「神をのろって死になさい」と、きつい言葉を投げつけます。友人たちがヨブを慰めるためにやってきますが、議論になってしまいます。友人と議論するうちにヨブは生まれた日をのろうようになり、なぜ自分にこのような苦難が降りかかるのかと神に問いかけます。

ヨブ記の最初に天上での神とサタンとの会話が記されていて、富豪で信仰深いヨブがなぜ次々と苦難が降りかかるようになったのか書かれています。
しかし、そのことはヨブは知りません。ヨブはもだえ苦しみながら「なせ?」と問いつめていきます。

最後に神さまはあらしの中からヨブに答えて「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするものは誰か?」と言われます。神さまのことばは、ヨブの疑問に対する答えになっていません。神さまは天上でのサタンとのいきさつについては説明しません。でも、ヨブは説明を求めていたのではありませんでした。

ヨブは、神の栄光に接し、その偉大さに触れ、自分の罪を認め悔い改めます。
「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです(40:4)」
ヨブは自分の無知、弱さを認め、神の全知全能に触れて、神さまのなさることは人間の知識では、はかることができないと思ったのです。

ヨブ記を読んで、苦しみの理由を問うのは、いけないことではないかと思いました。
しかし、そう思えたのは5年くらい前のことで、喘息で入院したときは、「どうしてわたしがこんな苦しい目にあわなければならないのですか?」と何度も問いかけていました。そして心に平安はありませんでした。


わたしは大事なことを忘れていました。両親のもとで入院できたこと。生まれたばかりの娘を両親が世話してくれたこと。主人の両親のもとで息子が守られていたこと。主人が忙しい仕事の合間をぬって見舞いに来てくれたこと。病院で適切な処置をしてもらったおかげで命が守られたこと。
感謝なことはたくさんあったのに、苦しみだけに目を向けていました。

入院後、1週間ほどして少し呼吸が楽になり、そろりそろりと歩いて病室の外に出られるようになりました。(それまではトイレに行くこともできず、ベッドの横にポータブルトイレを置いていました)
その日は教会の祈祷会だったので、なんとか教会に電話して祈っていただきたいと思いました。エレベーターのない病院で、公衆電話は階下にあり、病室は3階でした。入院したときは2人の看護師さんに両腋を抱えられて病室に連れていってもらったのです。必死な思いで階段を降り、電話で伝えることができました。

翌日、病院からステロイド剤が処方されました。ステロイドは強い薬で、副作用がありますが、それを飲むとぴたっと発作がおさまるのです。ステロイドを処方してもらえたのは祈られたおかげだと思っています。

ステロイドを飲んで呼吸が楽になり、副作用も出ず、ようやくベッドに背中をつけて横になることができました。(呼吸が苦しいと、体を横たえることができないのです)実家に置いてあった聖書と三浦綾子さんの本を持ってきてもらい読んでいました。聖書を読んでもみ言葉が迫ってこなかったのですが、三浦綾子さんの本「道ありき」の中で「神は不必要なものを与えないはずである」という言葉にはっと心を打たれました。

今回の入院はとてもつらい経験だったけど、不必要なものではなかったんだ。いつかきっとこのような苦しい経験をしたことが役立つ日が来ると、そんな気がしたのでした。
重症だった割には回復が早く、入院して10日目に退院できました。


                   つづく

「なぜ苦しみがあるのでしょう?」はカテゴリーをエッセイに変更しました。

拍手ボタンです

web拍手