父が召されてからもうすぐ1年になろうとしています。(昨年10月18日に召天)
実家の床の間に仏壇があり、母は毎日手を合わせています。わたしは手は合わせませんが、実家に帰ると父の写真を見に床の間に何回も行きます。
「人間の魂って、死んだらなくなってしまうと思う?」
仏壇の前で母に尋ねました。
「それはそうでしょうね」と母。
母は「人間は死んだら終わりだと思う」といつも言っていました。
「でも、人間が生まれてから何十年もの間、泣いたり笑ったり、感動したりしていた魂がなくなってしまうって寂しいことだと思わない?」
「そうね。でも仕方ないでしょ」
以前の母なら決して肯定しないのですが、父が召されてから少し変わりました。
「イエスさまを信じたら、永遠の命をいただけるのよ。お父さんも信じたのよ」
「わたしは、いらないね。天国で苦しみや争いが起きたら疲れちゃうよ」
「そうじゃなくて、天国は、苦しみも争いもないところなの」
と天国の説明をしようとしたら、話をそらされてしまいました。母が信じるのはもう少し先のようです。
「なんの条件もいりません。誰でもイエスさまを信じるだけで救われるのです」
教会学校のお話の中で語られた言葉に「何と嬉しいことでしょう!」とあらためて思いました。
よい行いをしなければならないとか、罪のある人はダメ、努力しない人もダメというのであれば、わたしは永久に救われないでしょう。
修業してさとりをひらくという宗教が多いですね。自分の身を打ちたたいて精進すれば救われるという教えがありますが、キリスト教は修業も精進も必要がありません。
「何だって! イエス様を信じるだけで救われる? こんなむしのいい話があるものか」と思う人が多いでしょう。でも、本当のことなのです。
人間の心の中には人のことを憎んだり、ねたんだりする醜い思いがあります。そのような罪があるのに救われるわけは、イエスさまがわたしたちの身代わりになって十字架にかかり、罪の贖いをして下さったからです。
ですから、イエスさまを信じるだけで、すべての罪が赦されます。そして、永遠の命をいただけます。滅んでしまうしかなかったこの魂が救われたのです。救われたのは、自分自身から出たのではなく、神さまからの贈り物によります。ただただ、神さまに感謝。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ2:8)