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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

ホームページクイズの答え

2012-09-19 20:56:34 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
9/11に行った第2回ホームページクイズの答えを発表します!



参加された人もされなかった人もまず、日本クリスチャン・ペンクラブのHPをごらんください。

1・「60周年感謝と記念の集い」案内が書かれているプレートに文字がありますが、何が書かれているでしょう。

正解は③
 クリスチャン・ペンクラブの主題聖句(の一部)です。

「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。(Ⅱコリント3-3)」

2・このブログで以前使用した画像の一部が使われているページは『JCPについて』のページの中にあります。どれでしょう。
 正解は①JCPへのお誘い。です。

2008・11・5のハイジに教えられたこと(その1)の画像の一部です。
 
3・次の3つのページの中で日本の景色の画像が使われているページはどれでしょう。
  
②組織担当者
   日光華厳の滝です。 


4・トップ画面(クリスチャン.ペンクラブとはと書かれている画面全体)の中に動物が隠れています。隠れている動物は何でしょう?

  ③はと

  最終更新日の右下、「一番上に戻る」の下にカーソルを当ててください。はとが隠れています。

5・今回は茶色をベースに作りましたが、前回のベースの色(メニューの色)は何色だったでしょう。
①緑

参加してくださった方、見てくださった方、ありがとうございました。


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第2回ホームページクイズ

2012-09-11 16:29:42 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

わたしは、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の会員で、HPの管理人をさせてもらっています。HPは娘がHP作成ソフトを使わずに作り、毎月の更新はわたしが行っています。

2004年11月に開設したので、もうすぐ8年になります。開設以降、会員の作品を掲載し、1か月に一度更新しています。

今年JCPが60周年を迎えましたので、久々にリニューアルしました。

2010年にリニューアルしたとき、ホームページクイズを行いましたので、今回は
2回目のクイズを行います。娘が仕掛けを作ってくれました。

3つ以上の正解者にはJCPのメールフォームからメールアドレスをお知らせいただければ、とっておきの画像を差し上げますのでお楽しみに。

18日火曜日に正解を発表します。3択問題ですので、勘を働かせていただければ全問正解できますよ。コメント欄に答えを書いてくださいね。(答えが書かれたコメント欄は、18日までは公開しないでおきますね)

*メールでもかまいません。JCPのメールフォームから。または、HP「生かされて・・・土筆文香」のメール欄にわたしのアドレスが書かれています。

まず、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHPをクリックしてご覧ください。


1・「60周年感謝と記念の集い」案内が書かれているプレートに文字がありますが、何が書かれているでしょう。
 

 ①クリスチャン・ペンクラブの歌の歌詞
 ②クリスチャン・ペンクラブの説明
 ③クリスチャン・ペンクラブの主題聖句

2・このブログで以前使用した画像の一部が使われているページは『JCPについて』のページの中にあります。どれでしょう。
 
 ①JCPへのお誘い。
 ②活動内容
 ③ペンクラブの歌1

3・次の3つのページの中で日本の景色の画像が使われているページはどれでしょう。
 
 ①出版物
 ②組織担当者
 ③ペンクラブの歌2

4・トップ画面(「クリスチャンペンクラブとは」と書かれている画面全体)の中に動物が隠れています。隠れている動物は何でしょう?(カーソルを当てると出てきます)
 
 ①うさぎ
 ②ひつじ
 ③はと

5・今回は茶色をベースに作りましたが、前回のベースの色(メニューの色)は何色だったでしょう。

 ①緑
 ②紫
 ③水色


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あなたは高価で尊い

2012-05-19 20:37:40 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
しなければならないことが山積みです。今月中にしなければならないことを書き出したら10項目以上にもなったので、優先順位をつけてやっています。

こんなにたくさんあって間に合うのだろうか……という不安も起きてきます。でも、今日のことだけできたら、その後のことはまだ心配しないようにとOBIで教えていただいたので気が楽になりました。
今日は気分転換に長めの散歩に出かけました。

5月5日のブログにJCPの課題文、「私と聖書の言葉」(800字エッセイ)を「存在価値が認められて」と題して紹介しました。あれから何度も推敲したら、ずいぶん違った文章になりましたので改めて紹介させていただきます。(題名も変えました)



あなたは高価で尊い
     
中学生のころ、わたしは自分が人間として劣っていると思っていました。クラスメイトにバカにされたり、嫌われることを極端に恐れて、自分の意見を言ったり感情を表したりすることがありませんでした。ですから非常に無口で、最も目立たない生徒でした。
 
なぜそれほどまでに劣等感が強く、すべてのことについて自信がなかったのかわかりません。人間失格のように思っていたわたしは、こんな自分が存在していていいのだろうか……と思い悩んでいました。

高校生になってから、自分を変えようと努力して積極的にふるまいました。でも、努力ではどうにもなないことが多く、自分の存在価値について疑問を抱いたままでした。

大人になっても、人からほんの少し批難されただけで人格のすべてを否定されたように思い、何日も食事がのどに通らないほど落ち込んでいました。

そんなわたしが自分の意見をはっきり言えるようになり、人前で感情を表せるようになったのは、聖書の言葉に出会って、自分の存在価値が認められていることがわかったからです。
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ四十三:4)』このみ言葉がわたしを根底から変えてくれました。

「神様、わたしを高価で尊いと言って下さるのですか。愛していると言ってくださるのですか。こんなに欠点だらけなのに……」
わたしは泣きながら神様に尋ねました。

「そのままでいいんだよ。わたしの目には、あなたはどんな宝石より高価でかけがえのない存在なのだ」と神様は言って下さいました。

 存在価値が認められて、自分が生きていていいことがわかり、心から安堵しました。人にどう思われようと気にならなくなりました。

天地万物を造られた方が、このわたしを無条件で愛して下さっているのですから。


かつてのわたしが、なぜ存在していてもいいのかなどと考えたのか……については色々思い当たる節があります。それについては別の機会に書かせていただきます。



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存在価値が認められて

2012-05-05 20:32:06 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
3日は大雨でしたが、息子一家と車で大洗水族館に行ってきました。GW中の息子の休みが3日と6日だけだというので、3日に出かけることにしました。

水族館はとても混んでいてゆっくり見学できませんでした。イルカショーも一時間以上並ばないと見ることができないと言われて、並ぶのをあきらめました。(下の水槽で水中でのようすを見ることができてよかったです)

キッズコーナーに行くと、ヒックンは喜んで遊具に登って遊び始めました。このようなキッズランドにひとりで入れるようになったのはつい最近のことです。

帰りに「何が楽しかった?」と聞くと、「キッズランド!」水族館よりイオンに行った方がよかったのかな?……。


日本クリスチャン・ペンクラブで「私と聖書の言葉」の800字エッセイを書く課題が出ています。今日になってやっと書き始めました。
下書きを紹介します。このあと20回ぐらい推敲するので、出来上がりの文章はだいぶ違ったものになりますが、テーマは同じです。


存在価値が認められて


○常に何かを心配し緊張している。
○社会人としての資格が不十分で劣っていると思っている。
○バカにされたり拒否されたりするのが恐ろしくて友人にも遠慮する。
○傷つくことを恐れて生活の場を狭めたりして異常なほどに引っ込み思案になる。

これらは回避性人格障害の特徴なのだそうです。これを読んで、すべてが中学生のころのわたしに当てはまっていると思いました。2番目は、社会人ではなく人間としての資格ですが……。

わたしは非常に劣等感が強く、人間失格のように思っていました。存在理由がわからず、生きる価値がないと思っていました。

なぜ自分が劣っていると思ったのかわかりません。すべてに自信がなく、何をやってもだめだと思い込んでいました。

友達にバカにされたり、嫌われることを恐れて、自分の意見や考えを言うことができませんでした。授業中の手を挙げての発言など、もってのほかです。そんなことするくらいなら死んだ方がましと思っていたほどですから、相当の引っ込み思案です。

高校生になってからは、自分を変えようと努力して積極的にふるまっていました。でも、自分の存在について疑問を抱いたままでした。

大人になっても、誰かからほんの少し批難されただけで人格のすべてを否定されたように思い、何日も食事がのどに通らないほど落ち込んでいました。

そんなわたしが根底から変えられたのは、『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』という聖書の言葉でした。

天地万物を造られた神様は、わたしたち人間のことも造って下さいました。造っただけではなく、母親の胎の中にいるときから愛を注いで下さいました。神様は片時も目を離すことなくご覧になり、育み、導いてくださいました。その神様がわたしのことを高価で尊いと言い、大切に思って下さるのです。

立派に生きられなくても、欠点があっても、存在そのものが尊いと言って下さる神様。
そのままでいいと言って下さる神様。

存在価値が認められて、自分が生きていていいのだとわかって、心から安堵しました。
人を恐れず、自分の意見が言えるようになったのは、この聖書の言葉に出会ったからです。



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ペン仲間と共に

2012-04-18 16:39:09 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
体調を崩してから2週間になり、だいぶ快復してきましたが、今度は胃の調子が悪くて力が入りません。眠くてたまらないのは陽気のせいでしょうか……。このところずっと早寝しています。

わたしが所属している日本・クリスチャン・ペンクラブ(JCP)は、今年60周年を迎えます。10月にその記念会が行われますが、わたしはその実行委員のひとりとして奉仕させていただいています。

日本クリスチャン・ペンクラブに入会してからちょうど10年。わたしにとっても節目となります。
今日は「クリスチャン・ペンクラブとわたし」というテーマで書いた800字エッセイを紹介します。


                   ペン仲間と共に         

わたしが初めて日本クリスチャン・ペンクラブの集会に出席したのは、50周年記念会のときでした。
その10年ほど前から神様の愛を伝えたくて、ひとりで童話を書いていました。クリスチャンで童話やエッセイを書いている方とお会いしたいという思いはありました。JCPの存在も知っていたのですが、子どもが小さくてお茶の水までは行けませんでした。
 
JCP50周年記念としてあかし文章を募集していることを知り、救いのあかしを書いて送りました。それが入選して、表彰式があるというので、お茶の水クリスチャンセンターまで足を運びました。
 
そこには、信仰のあかし文章を書いている方たちがおられました。初めて出会った方ばかりなのになつかしく、長い間旅をしてようやく故郷にたどりついた気がして胸が篤くなりました。居場所が与えられたように思い、さっそく入会しました。
 
それから隔月の例会と童話エッセイの集いに出席するようになりました。夏期学校にも参加しました。
 
JCP例会では必ず礼拝があります。そのメッセージで信仰が強められました。文章の書き方も学びました。仲間たちの書く姿勢、スピリットに触れて、あかし文章を書く意欲が高められました。

「あかしする者は天にあるのですから、一字でも一句でも血の滴(したた)るようなペンであかしすればいいのです」と前理事長、満江先生の文を読んではっとさせられました。

血の滴るようなペンであかしするとは、自分の弱さも醜さもさらけ出して、痛みを伴いながら書くということではないでしょうか。そのとき、人の心に届く文章が書けるのだなあと思いました。

痛みを感じながら書くのは辛いことですが、ペン仲間がいれば耐えられます。何よりイエス様がわたしのために血を流してくださったことを想いながら、ペン仲間たちと共にあかし文章を書き続けていきたいです。




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できることから始めよう

2012-04-02 17:12:58 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
31日に行われる日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会に行くため、金曜日から都内の実家に行き、泊まっていました。金曜日はいいお天気でしたが、土曜日は春の嵐でした。駅に行くと電車が止まったり、遅れたりで混乱していました。

中央線や山手線はどんなに遅れてもたいしたことはありません、でも常磐線が遅れると帰り着くまでに何時間もかかってしまいます。常磐線は少しの風でも遅れたり、止まったりするので、TX(つくばエクスプレス)で帰ろうと決心してお茶の水に向かいました。

天候が悪いのでJCPの例会に参加する人は少ないのではないかと心配していたら、なんと新来者の方も含めて16人もの参加者がありました。

とても恵まれて帰ってきました。久しぶりに乗るTXは快適でした。
JCPの礼拝でのメッセージを紹介させていただきます。


遠藤周作の「神と私」(朝日文庫)の中にある「私のイエス」より。

フローベルという作家の短編にこういう話があります。


寒い日にひとりの聖人が歩いていると、ハンセン氏病患者が近づいてきて「マントを下さい」と言った。
聖人がマントを与えると、その病人は服をくださいと言う。服をあげると、今度は下着をくださいと言って、聖人はとうとう裸になってしまった。
ところが、病人は、それでも寒いと言って、抱いて温めてほしいと要求する。そこで、聖人が抱きしめると、もっと強く抱きしめて、もっと強くと言い出した。聖人が強く抱きしめていると、その病人がいつの間にかイエスに変わった。

私は、この短編を大学生の時に読んで、ありえないと思ったが、年をとるにしたがって感想が変わってきた。このハンセン氏病患者というのは人生だ、ということがわかった。人生というのは、膿が出たり汚らわしいことが多いが、それを捨てずに抱きしめていると、イエスにあって光に満ちてくると考えるようになった。

 
神の愛とは、汚れたものを捨てないで抱きしめていく愛だと遠藤周作は思ったのです。
イエスの愛はやさしいものではありません。むしろ難しいです。
ルカ6:27に「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。(新共同訳)」と書かれています。イエスは愛を実行されました。

汚れた世の中でも私と同じ人間が生活しています。嫌いな人を愛するのは大変なことですが、その人のために祈ることができます。
まず祈ることから始めましょう。一歩前に進んだとき、光が見えてきます。それが敵を愛することにつながります。


フローベルの短編にまず心打たれました。わたしだったらマント一枚あげることができなくて「ごめんなさいね。これをあげたらわたしが風邪をひいてしまうから。余分にあったらあなたにあげるわ」と言って逃げるようにして走り去ってしまうような気がします。

もし、マントや服を病人にあげられたとしても、抱きしめることはできないでしょう。病気がうつる恐怖。汚いと思う気持ち……。

ああ、何てわたしは自分本位なのでしょう……。これではイエス様に出会うことができません……。

いいえ。イエス様はこんな自己中心なわたしを見出して下さいました。寒さに震え、汚れているのはこのわたしで、イエス様は何のためらいもなくマントや上着、下着を下さり、抱きしめてくださいました。

今のわたしにできることは、イエス様に感謝すること、祈ること。できることから始めようと思いました。


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「生まれてこなければよかった」と言われ……

2011-11-28 20:10:48 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

26日はクリスチャン・ペンクラブのクリスマス会でした。新しい方や久しぶりに来られた方もおられて、30名近く集まり、皆でクリスマスをお祝いしました。
今年は外部講師のH先生を迎えしてお話しを聴きました。

H先生は子どものころ、両親から虐待を受けていたそうです。「生まれてこなければよかったのに」と言われたと聞いて、どれだけ辛い思いをなさったかと胸が痛みました。

小学生のとき、引っ越し先の近所に牧師の家があり、その子どもたちと仲良くなったことがきっかけで教会学校へ行くようになったそうです。

また、お父様のすすめでミッションスクールに通うようになられます。
ミッションスクールの入学式のとき、自分が神様から愛されている存在だと気づかされ、『生きていていいんだ』と思ったそうです。

<(註)どんな人でも生まれてこなければよかった人間などいません。たとえ両親が望んでいなかったとしても、あなたの存在は、かけがえのない尊い存在です。たとえ両親がその人を愛さなくても、あなたを造られた神様が愛し、あなたを必要としてくださっています。>

「母の胎にいるときからご存じの神様が、教会へ行くことを備えて下さった」と言われました。
「神が私の人生を計画してくださっている。だから、私は虐待される子どもとして育つことが必要だった」と言われるのを聞いて、はっと心打たれました。

それでも、両親から虐待を受けて育ったことは、大変なことで大きな痛手になっていたのでしょう。
「このように育つべく育ったのは主の恵みだと気づいたのは、50歳のときだった」と言われました。
それまでの間、どれだけ苦しんでこられたことでしょう……。

「イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。(ヨハネ21:6)」
という聖書の言葉から、舟の右側とは文書伝道だと気づかされ、JCPに導かれ、また神学校にも入学されたそうです。

教会の牧師になられ、出版社を立ち上げ、たくさんの仕事に追われるようになり、忙しくしていたとき、重い病気になってしまいました。病院に緊急搬送され、3か月の入院を余儀なくされました。生死をさまよっていたとき、神様からの召命は何だったか思い返され、文書伝道に立ち返られたそうです。

「神様はできないことをせよとはおっしゃいません。神様はなすべきことを示しますが、それと同時に賜物も与えて下さいます。
神様が見られるのは、結果の出来不出来ではありません。全力で打ち込んだかどうかです。」

という言葉に力づけられました。

わたしも神様から文書伝道をするようにと示されています。それなのに才能がないからダメなんだと自信がなくなったり、このまま文書伝道を志していっていいのだろうか……と迷うことがあります。結果を気にするからいけないのだと気づきました。

「神の賜物と召命とは変わることがありません(ローマ11:29)」のみ言葉をかみしめて、迷わず進んでいきたいです。

第2部は、JCPの音楽家たちによる演奏と賛美。クリスマスの喜びあふれる賛美に晴れやかな気持ちになりました。



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つながっているだけで

2011-09-26 20:53:48 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
昨日は洗礼式があり、13名もの方が洗礼を受けました。13人中7人が中高生だったことは驚きです。そのうちの何人かは教会学校の小学科で受け持った子どもたちです。彼らの新しい歩みの祝福をお祈りしました。

一昨日はJCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)の例会で御茶ノ水に行ってきました。
礼拝ではM姉がヨハネ15:1~5から『つながって実を結ぶ』という題で奨励して下さいました。紹介させていただきます。

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 今年の初めに「わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く。(Ⅱ列王記20:6)新共同訳」という御言葉を与えられました。

ペンクラブは理事長の池田先生が病に倒れて危機的状況になり、他にも関わっているところで大きな危機がありましたが、この御言葉からそれぞれのところで必ず守られるという確信が与えられました。

震災の時、「絆」「つながる」「つなげよう」という言葉が流れましたが、これらは一緒に立ち上がろうという心意気を表す言葉で、古くから日常的に使われている言葉です。

今日読んだ聖書箇所は新共同訳聖書では「わたしにつながっていなさい」と書かれ、新改訳では「わたしにとどまっていなさい」と書かれています。

ひとつひとつはバラバラでも、つなげると全く違う働きができます。

イエス様はぶどうの幹であなたがたは枝です。幹と枝は対等ではなく、主従の関係です。幹は枝に実を結ばせる役割をします。枝は幹につながっているだけでいいのです。

幹と枝のつながりは有機的です。イエス様の幹には呼吸のように、いのちと愛が流れています。つながっていると、時が来て実がなります。
つながるとはとどまることです。せっかくつながっていても幹から断ち切って離れてしまえば枯れます。とどまり続けることが大切です。

わたしたちは、あかしの文章でJCPにつながっています。1タラントには1タラントの働きがあります。1タラントでもあかし文章を書くという使命があります。JCPにとどまり続けて叱咤激励し、祈りながら書き続けていきましょう。JCPにもいのちと愛があふれています。
**************************************************************


ヨハネ15章はイエス様がイエス様と私たちの関係をぶどうの幹と枝にたとえて語られた箇所です。イエス様につながって、とどまり続けることの大切さを再確認しました。

ときどき、わたしにはどんな実がみのっているのかな? と考えることがあります。まだ全然みのっていないかもしれないと暗い気持ちになるときもあります。でも、立派な実をみのらせようと願っても自分の力ではみのらせることができないのです。

でも、『枝は幹につながっているだけでいいのです。』と聞いて、そのとおりだ!と思いました。実をみのらせてくださるのはイエス様ですから、みのらせようと努力する必要はないのです。イエス様につながり続けることだけを考えていればいいのです。

『1タラントには1タラントの働きがあります』という言葉にも励まされました。
あの人はタラント(才能)がたくさんあるけれど、わたしは少ししかないから何もできない……。と、人と比較して落ち込むことがあります。

でも1タラントは当時の6000日分の賃金だそうで、そんなにたくさんのものを預けられているのに何もできないなんて言ってたらいけないなあと思ったのでした。

礼拝のあと、800字エッセイ「私と東日本大震災」の合評をして実りある時間を過ごしました。


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この日を楽しみ喜ぼう

2011-09-14 15:52:19 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
 日本人は、真面目な人ほど楽しむことが苦手だといわれています。楽しむことが罪悪と思っているような人もいます。

国民性なのかもしれませんが、アメリカではハリケーンが近づいてきたとき、洪水のときにしかできないことをして楽しんだ人たちがいたそうです。
灌水した道路でスケートボードをしたり、大きな浮輪を浮かべてその上に寝転んだり。傘を逆さにして踊ったり、すごい波でサーフィンをしたり……。

危険と隣り合わせなのでお薦めはできませんが……日本でそのようなことをしたら白い目で見られそうですね。


「喜ぶ」という言葉は聖書にたくさん出て来ますが、「楽しい」という言葉は意外と少ないです。あっても、よい意味に使われていないものが多いと思います。

たとえばルカ12:19にあるように倉にたくさんの穀物や財産を蓄えた金持ちが自分の魂に「さあ、安心して、食べて、飲んで楽しめ」と言った後で「お前の命は取り去られる」と神様に言われています。

しかし、聖書は楽しんではいけないとは言っていません。

神様の存在そのものが「楽しみ」だと詩篇16篇8~に書かれています。


私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、
私はゆるぐことはない。
それゆえ、私の心は喜び、
私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。
(略)

あなたの御前には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。


わたしは、キリストを信じる前までは、悲しみと苦しみ、そして怒りで心はいっぱいでした。
でも、信じてからは喜びと楽しみに満ちあふれました。

キリストがわたしの罪を赦すために命を捨てて下さったことの感動で胸がいっぱいだからです。
今日は「喜怒哀楽」の最後、楽をテーマにした400字エッセイを紹介します。
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南吉に伝えたいこと            
新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」は、美智子皇后が推薦されて有名になった童話だ。
童話には自分の殻だけでなく、友達の殻にも悲しみが詰まっていることに気づくでんでんむしのことが書かれている。
わたしは十代のころ、この童話を読んで号泣した。南吉も自分と同じ悲しみを抱えていたのだと思った。

でも、悲しみは自分で克服するしかないというメッセージは、本当の慰めにはならなかった。悲しみが大きすぎて自分の力ではどうにもならなかったからだ。

後に聖書の言葉「悲しむ者は幸いです」と出会い、仰天した。悲しみの近くに神様がおられることを知って、悲しみのあることを嘆く必要はないと知らされた。

神様に悲しみのすべてを打ち明けたとき、神様はわたしの悲しみを喜びに変えて下さった。重荷が取り除かれ、スーッと楽になった。
「悲しみは取り除いてもらえる。生きるって楽しいことだよ」と南吉に伝えたい。


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南吉は29歳の若さで結核のため死んでしまいました。
わたしはクリスチャンになる前から新美南吉のファンで、愛知県にある南吉のお墓参り行きたいと思っていたほどでした。
新美南吉を見出し、世に送り出した巽聖歌(たつみせいか)(童謡「たきび」の作詞者)がクリスチャンであることを最近知って驚いています。巽聖歌という名を見てクリスチャンだと今まで気づかなかったことが不思議ですが……。

南吉は巽聖歌のことを親友と呼んでいました。南吉が死の床にあったとき、聖歌は泊まり込みで見舞っています。聖歌は南吉にキリストのことを伝えなかったのでしょうか? もしかしたら、南吉はキリストを信じて召されたのかもしれない。でんでんむしのかなしみは喜びに変えられたかもしれないと思っています。

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。詩篇118:24


先日、日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひごらんください。



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虐待の連鎖

2011-08-30 16:26:35 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
24日に「心の闇」の世代連鎖について書きましたが、児童虐待も世代連鎖すると言われています。

わたしは5.6年前、小説を書くために虐待の問題についていろいろ調べました。(その小説は完成しないまま現在に至っていますが……)

子どもを虐待してしまう親の抱えている問題がどれだけ大きいか知らされました。簡単には解決できる問題ではありませんが、親がまず癒される必要があるのです。そして、イエス・キリストによらなければ完全に癒されないとわたしは思っています。

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)で「喜・怒・哀・楽」それぞれのテーマで400字エッセイを書く課題が出たとき、「哀」は虐待のことを書こうと決めていました。
今日は「哀」のエッセイを紹介します。



     
虐待の連鎖

今日も虐待のニュースが流れている。年間の児童虐待相談件数は四万件を超えた。

作家の柳美里さんは子どもを8時間たたき続けたが、それが虐待であると人に指摘されるまで気づかなかったそうだ。気づいてもやめられないので、カウンセリングを受けた。

柳美里さんは幼少期に両親から虐待を受けていた。父親も幼少期に虐待を受けていたことを知る。虐待は世代連鎖するのだろうか。

わたしは彼女を責められない。長男が小学生の時、丈夫になってほしいと願ってスイミング教室に入れた。だが、本人は苦痛だったようで、さぼってばかりいた。わたしは腹をたて、具合が悪い日に無理やり行かせたことがあった。それは虐待ではなかったのか……。

虐待は、親自身の心の傷の顕れである。わたしは神の愛を知り、心の傷をキリストに触れていただいて少しずつ癒されていった。

親自身が神様に愛されていることを知ったとき、虐待の連鎖はストップすると思う。


「喜」のエッセイは8/12、「怒」のエッセイは5/6に掲載しています。(日本クリスチャン・ペンクラブのカテゴリーをご覧ください。)



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喜びの灯(ともしび)

2011-08-12 16:52:02 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
体調はだいぶ回復してきました。お祈りして下さった方、ありがとうございました。

明日は主人の実家に行く日です。行けるかどうか心配だったのですが、息子の運転する車に乗せてもらえることになったので行けそうです。

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)では400字のエッセイを書いています。昨年のテーマは花*鳥*風*月でした。今年は喜*怒*哀*楽です。喜怒哀楽の方が難しいです。2か月に1作品書いて例会に持っていき、合評会をしています。

「怒」は今年5月6日のブログで紹介しましたが、「喜」はまだのようでしたので、紹介させていただきます。


   
喜びの灯(ともしび)

         
中学生のころの夢は「普通の人になりたい」だった。それなら、わたしは普通ではなかったのか? そもそも普通って何だろう……。
 
わたしは非常に劣等感が強く、人間失格のように思っていた。運動は苦手だったが、成績は悪くない。なぜそんなに人より劣っていると思ったのか、いま考えると不思議だ。
とにかく自己価値観が低かった。自分なんかいないほうがよいのでは……とさえ思った。
「どうせわたしなんか」というのが口癖で、心は暗闇に包まれていた。

 大人になってから、わたしのためにひとり子、イエス・キリストの命を差し出して下さったお方の存在を知った。

そのお方は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言ってくださった。

そのときからわたしの心に喜びの灯がともった。灯は暗闇を追い出し、どんなことがあっても消えることなく心を照らし続けている。



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弱さをありがとう

2011-05-06 16:08:39 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

4日は息子一家が泊まりに来て、霞ヶ浦ふれあいランドに行ってきました。
霞ヶ浦ふれあいランドは、水をテーマにした科学テーマパークです。一昨年も皆で訪れ、2009.5.9のブログに書きました。

そのときは、高さ60mの虹の塔の展望台に上り、たくさんの鯉のぼりが泳いでいるのを見ました。
今年は、震災の影響で塔には上れず、ふれあいランドの半分が立ち入り禁止になっていました。鯉のぼりも一昨年の5分の1ぐらいしか見ることができませんでした。

2年前はベビーコーナーしか喜ばなかったヒックンでしたが、今回は水の科学館で色々な実験装置をさわって喜び、さかんに「何で?」「何で?」と言っていました。

夜は皆で食事に行き、主人の還暦祝いをしました。
次の日にヒックンがまた熱を出し、水疱瘡になってしまったので、4日に出かけることにしていてよかったと感謝しました。



先日のクリスチャン・ペンクラブでは喜怒哀楽の「怒」をテーマに400字エッセイを書き、合評しました。
わたしが書いたものを紹介させていただきます。


弱さをありがとう
              
 子どものころ、病気ばかりしていた。高校生になっても小児喘息が治らなかった。
「弱く産んでごめんね」と母が言った。わたしは返事をしなかった。過保護に育てられたせいでこんなに弱くなったのだと怒っていた。
試験勉強をして少し寝る時間が遅くなっただけで熱を出した。自分が情けなく、怒りは自分にも向けられた。
 
あるとき、聖書の言葉『自分の弱さを誇ります。(Ⅱコリント十一:30)』が心に留まった。なぜ弱さを誇れるのか不思議だった。
弱いから、自分の力では何もできないから、祈るしかなかった。何かできたとき、神様の力によってできたのだと思えた。神様はわたしが高慢にならないように弱さを与えて下さったのだ。弱さは恵みなのだと気がついた。

「弱く産んでくれてありがとう」わたしは母に言った。そして神様に「弱く造って下さってありがとう」と言った。
怒りはあとかたもなく消えていた。


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失敗が勝利

2011-05-03 22:03:09 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
今日は、友人の家に招かれていってきました。庭の花がすばらしく、感激しました。


日にちが前後してしまいましたが、30日はクリスチャン・ペンクラブの例会で御茶ノ水へ行ってきました。地震で3月の例会が中止になったので久しぶりでした。
例会ではK兄がエレミヤについてメッセージをして下さいました。紹介させていただきます。


エレミヤはイザヤ、エゼキエルと並んで三大預言者の一人です。「涙の預言者」と呼ばれていました。
当時ユダヤの人々は、イスラエルの神が神殿で常に自分たちを守って下さると思っていました。しかしエレミヤは、それとは反対のことを言いました。


「あなたがたは、『これは、主の宮、主の宮、主の宮だ』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。(エレミヤ7:4)」


当時神殿(主の宮)では、礼拝が捧げられていました。しかし、それは形式的なもので、民の日常の行いは主の教えに反するものでした。バアル神を拝んだり、子どもを捧げたり……。
そのことをエレミヤが指摘し、糾弾しています。

エレミヤは反感を買われ、つかまえられて穴に入れられてしまいました。
エレミヤの任務は表面的には失敗に終わったように見えますが、彼においては、失敗が勝利となっています。

ガラテヤ書では『愛の実践を伴う信仰こそ大切です』とパウロが書いています。礼拝さえ守ればいいというのは、出発点が間違っています。

信仰に時間の制約や場所の特定はありません。信じることは、形だけでなく、心が主に向かっているかどうか、イエスを求めているかどうかにかかっています。行いが伴わない信仰は死んでいます。

信仰が日常の行いにいかに反映しているかどうかと常に問い続けていかなくてはなりません。大それたことをするのではなく、花を贈るなど小さなことでもその人のことを思って何かをすることが大切です。


わたしは、エレミヤが気の毒でなりません。
預言者の中でも、彼ほど苦悩した人はいなかったのではと思う程です。神さまの言葉を忠実に伝えたことによって人々から激しく責められます。エレミヤは語るのをやめようとさえします。自分が生まれた日をのろうほどに苦しみます。

エレミヤ20章には真実の愛国者としてのエレミヤ、真の神の預言者としてのエレミヤの葛藤が記されています。
でも、エレミヤは忠実に神さまの言葉を伝え続けます。エレミヤは人々には受け入れられず、エレミヤが忠告したのにも関わらず、南ユダ王国は滅びてしまいます。

それでも『彼においては、失敗が勝利となっています。』というのは、嬉しい言葉です。
神さまの言葉を伝え続けたエレミヤは、主にあって勝利したのですね。


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ほんの少しおすそ分け

2010-11-29 20:55:18 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

一昨日、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のクリスマス会で御茶ノ水へ出かけました。
12月は教会のクリスマスで忙しいので、JCPでは例年11月末にクリスマス会が行われます。

理事長、池田勇人先生のメッセージに慰めと励ましを与えられました。

ガリラヤ湖から死海に向かってヨルダン川の水が流れこんでいます。死海とガリラヤ湖はよく比較されます。

ガリラヤ湖は恵みを受けてそれを流すので、すばらしい働きをするクリスチャンにたとえられます。一方死海は、そこから流れ出る川がないので、受けるだけで何もできない者のようにたとえられます。

「ところが、実は死海は豊かな恵みを受けているのです」と聞いて嬉しくなりました。
病気の人が死海を訪れその水で治療したり、美容のために訪れる人もいます。
死海の水は塩分濃度が高く、酸素をふんだんに含むので体にいいそうです。死海の塩や泥でパックする人も多いそうです。

「受けるだけで何もできない。と思い込んでいる人がいますが、何もできなくても、ほかの人が、その人のまわりに流れている空気が何か違うと感じたりするのです。」
「この時にできることは、与えられている恵みをほんの少しおすそ分けすることです。」


「伝道」なんて、おおげさに考えないで、恵みのおすそ分けをすればいいんですね。
おすそ分けは小さなことですが、ひとりひとりが神さまからいただいた恵みをおすそ分けしていったら、まわりの人の心に次々と光がさしてくるかもしれませんね。
わたしのブログも恵みをおすそ分けする気持ちで書いています。

クリスマス会では素晴らしい演奏と賛美にも心打たれました。
また、出来上がったばかりの本を執筆者が朗読してあっという間に終わりの時間になりました。満たされた楽しい時間を感謝しました。


「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ1:16)」


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2010-11-25 17:09:28 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
先日、日本クリスチャン・ペンクラブで出版した本「花鳥風月」を紹介しました。

本に掲載されている文章の中から、わたしの書いた「月」をテーマにしたエッセイを紹介させていただきます。


           祭りの夜

              
「会長のせいで山車が壊れた!」わたしは町内の人達に取り囲まれ、責められていた。
育成会長がお祭りの実行委員になると知っていたら、会長を引き受けなかった。神社の神様を山車に乗せるのだと聞いて、山車をひくのは他の本部役員に任せ、わたしは公民館で掃除やまかないの手伝いをすることにした。
 
真夏の3日間、朝7時から夜11時までの奉仕はきつかった。真っ青な顔をして働いていると「帰って少し休んだら」と声をかけられた。その言葉に甘えて家に帰った。
その僅かな間に山車が壊れたと連絡が入った。「会長はなぜ公民館にいなかったのか?」と責められた。山車は直って事なきを得たが、それからは針の筵の上にいるようだった。 

最終日の夜は満月だった。「よくやってくれた。意地悪して悪かった」と町内の人が言った。涙でぼやけた月の明かりが嬉しかった。

『昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました』



クリスチャンはお祭りに参加してはいけないという決まりがあるわけではありません。
山車やお神輿も宗教的意味を感じなければ、かついでも曳いてもいいのかもしれません。
同じクリスチャンでも、ひとりひとり考えが異なります。キリスト教でも教派、教会によって異なります。

当時わたしが住んでいた町内の山車は、神事を行ってから曳くもので、宗教的要素が強かったのです。わたしはキリストを信じる者としてどうしたらいいのだろうかと悩み、必死に祈りました。
祈った末の決断は、山車は曳かないけれど、育成会役員として下働きのお手伝いはさせていただくことでした。(お手伝いも拒否することはできたのですが・・・)

この文章を読まれた方から「町内の人に対する恨みや怒りはなかったのか?」と質問されました。
そんな気持ちは全くと言っていいほどなかったです。(もちろん、今もです)

キリスト者でない方にとって、わたしが山車を曳かない理由がわからないのは当然です。
育成会長の責任を果たせない者として腹ただしく思われたでしょう。山車が壊れたことをわたしのせいにしたい気持ちは十分わかります。

もし、わたしがクリスチャンではなく、町内の人の立場だったら、真っ先に育成会長をののしっていたかもしれません。

わたしにとって過酷で、夜のように暗い3日間でしたが、夜空を照らす月があるように神さまは暗いときでも共にいて守ってくださり、光となってくださいました。



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