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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

小旅行で大きな収穫(その3)

2017-05-01 16:14:35 | 日記
今回の旅行で初めて知ったことがあります。三宅島への定期船は1日1便しか就航していません。波が高いと着岸できずに戻ることもあるそうです。

また、三宅島にある3つの港のどこに着くか、またどこから出るのか数時間前にならないとわからないというので、驚きました。
旅に出るときは、綿密な計画を立てて用意周到に準備している夫は、落ち着かない様子です。わたしも台風でなければ船は毎日出ているのだろうと思っていたので、三宅島に行くことができても、何日も帰れなかったらどうしようと思いました。



民宿の庭に溶岩がオブジェのように並べられていました。

民宿で朝食をいただいたのち、観光タクシーで島をまわりました。
三宅島は一周30.9キロメートルです。自転車で一周する人もいるようですが、道はかなり起伏があるので、わたしたちにはとうてい無理です。
                            
三宅島は太古の昔から、何度も噴火を繰り返してきたそうです。
20世紀以降では、1940年(昭和15年)、1962年(昭和37年)、1983年(昭和58年)、2000年(平成12年)と4回の噴火が発生しています。
また、現在も年に数回程度、ごく小規模な噴火が起きているそうです。

ひょうたん山は昭和15年に雄山北東山腹の標高200m付近から噴火。大量の溶岩・火山弾・スコリア・火山砂が放出され、たった約22時間のうちに「ひょうたん山」が形成されました。   


昭和58年10月3日、山の中腹にから噴火しました。高さ100m以上に吹き出た溶岩は、阿古地区の一部を飲み込みました。幸いにも人的な被害はなかったそうです。


2007年、この溶岩流の上に、火山道体験遊歩道が完成しました。 




阿古小中学校跡が当時のままの状態で残っていました。流れ出た溶岩が小中学校の校舎で止まったそうです。学校は運動会の代休で休みだったそうで、もしここに子どもたちがいたら……と思うとぞっとしました。


溶岩の隙間から葉が茂り、自然の再生力を目の当たりにしました。


降ってきた直径一メートルぐらいの石を使って石垣が作られています。   

何度噴火を経験しても立ち上がる島民の、島への熱い思いを感じました。 

*小中学校の写真、一部変更しました(5/6)



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小旅行で大きな収穫(その2)

2017-04-29 16:07:45 | 日記
4月25日から27日まで、三宅島に行ってきました。

主人が退職してから、年に1~2回旅行をしています。主人はSLが好きなので、SLが走っているところを追いかけて旅をしてきました。
有名なところは行き尽くしてしまったので、今回はわたしが行きたいところでいいと言ってくれました。それでカツオドリのいるところを希望しました。

昨年からカツオドリを主人公に小さな童話を4つ書いています。児童文学の仲間にカツオドリの飛ぶ海の色は何色ですか? と聞かれて、わたしは答えられず、そのことがショックでした。海の色どころかカツオドリを実際に見たこともなかったからです。

カツオドリは動物園では飼育されてないので、見るなら赤道近くか小笠原諸島に行かなければなりません。小笠原諸島の父島は船で24時間もかかるそうです。飛行機は飛んでいません。

ネットで調べているうちに三宅島の三本岳に営巣していることがわかり、行き先を三宅島にしました。船で6時間で行けるので、酔い止めを飲んでいればきっとだいじょうぶ。

チケットはあらかじめ東海汽船に電話して予約を入れました。行きは疲れると後々ひびくので、ちょっと高かったのですが特等客室を予約しました。さるびあ丸です。




ビジネスホテルの一室という感じでシャワー、トイレ付、テレビもあり、窓から海が見えました。



竹橋桟橋から乗船。出航を知らせるドラが鳴ると、冒険の旅の始まりです。わくわくしてきました。

横になると揺れがよく感じられて熟睡はできませんでした。23時半に消灯になり、うとうとしていると船内放送があり、時計を見ると明け方4時半でした。あと30分で着くと言うので、急いで支度をしました。

下船してターミナル方面に歩いていると、あらかじめ頼んでおいた宿の方が迎えに来てくださっていました。
チェックインは15時なのですが、もう部屋に入らせていただけて、7時半までまた眠れました。地上で寝られることのありがたさを実感しました。


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もうすぐ満開

2017-04-05 20:48:21 | 日記
春休みでヒックンが遊びに来ていたので、近くの桜川へ花見に行きました。

といっても、満開には遠く、2分咲きぐらいでした。

張り切って出かけたのに、桜川の土手に着く前にころんで、ひじをすりむいてしまいました。どんなふうにころんだらひじをすりむくのか……。子どもは予測しない動きをします。



ヒックンは桜より、鳥に興味を持って、おじいちゃんの双眼鏡を借りてバードウオッチングをしました。



オスとメスが呼び合っているようで、2羽仲よく枝にとまっていました。

ヒックンは5年生になりました。まだ、「遊んで」と言ってくるので、可愛いです。カードのゲームを毎日1時間ずつつき合わされました。
中学生になったらもう遊びに来なくなるのかなあと思うと寂しいです。でも、こんどは弟のナルクンが遊びに来るでしょう。

ナルクンは3歳になりました。


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はいはい わかりまちた

2017-02-08 16:39:53 | 日記
昨日は冷たい風の中、病院のはしごをしました。
月に一度の内科の診察が終わってから、整形外科へ行ってリハビリをし、図書館と郵便局に寄って帰ってきました。

それぞれの場所に行くのに自転車で10分ずつぐらいかかります。風が強くて、向かい風のときは押して歩かなければなりませんでした。
肩はだいぶよくなってきました。痛みはまだありますが、夜はよく眠れるようになりました。


日曜日の午後は4年生のヒックンがママと一緒にサッカーの試合に行くというので、弟のナルクンを預かりました。
ナルクンは来月3歳になります。

よくおしゃべりするようになりました。何を言っているかわからないこともありますが、8割ぐらいは、わかります。

自分のことをぼく、わたし、おれ、と言っています。「ぼく」「おれ」はお兄ちゃんのマネ。「わたし」は、保育園の女の子のマネです。

エリック・カールの「はらぺこあおむし」の本が大好きで、家に来るたびに「読んで」と持ってきます。
「あおむしくん、おなか痛いから、葉っぱ食べたんだよ」と文章で言えるようになりました。あおむしがさなぎになったときの絵を見て、「お芋だ!」と言ったのには大笑いしました。確かに色も形も、お芋そっくり!

男の子は電車か車に興味を持つと思っていたら、ナルクンはどちらにも興味を示さず、大工さんセットのネジ回しや、お絵かき、CDをかけて歌ったり踊ったりすることが好きです。車のおもちゃはお兄ちゃんのがたくさんあるのですが、ちっともそれで遊びません。

昼寝をさせようとしたとき、大声でさわいだので、「静かにしなさい!」としかると

「はいはい、わかりまちた」(さしすせそが、たちつてとになっています)
と言ったので、びっくりしました。

誰のマネでしょう。ヒックンはそのようには言いません。保育園の女の子かな? もしかしたらテレビかもしれません。そう言いながら、さわぐのをやめません。言葉の意味はわかっているのかどうか……でも、その言葉を使うタイミングはあっていますね。

とうとう昼寝はしませんでした。保育園では毎日昼寝していますが、ここでは意地でも寝ないと思っているようです。折り紙でお財布を作って紙のお金を入れると、大喜びして、しばらくお店屋さんごっこして遊んでいました。
夕方になって数回「ママは?」と言っただけで泣きません。 

夕飯のとき、急に眠気が襲ってきたようで「ねむい、ねむい」と言いながら大泣き。横にして背中をトントンするとすぐ眠りました。限界だったのですね。その直後にママとお兄ちゃんが帰ってきましたが、気づかず眠っていました。

娘に新しいいのちが授かりました。夏に生まれる予定です。ナルクンのいとこになります。そのうちナルクンと遊ぶようになるでしょう。そのときは、ナルクンよろしくね。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてご覧ください。


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今年を振り返って

2016-12-28 17:05:03 | 日記
今年もあとわずかになりました。
冬休みで9歳の孫(ヒックン)がひとりで泊りに来ています。ヒックンはおじいちゃんに映画を観に連れて行ってもらい、その間わたしは水曜礼拝に出ました。お昼にイオンで待ち合わせして、昼食を食べ、買い物をして帰ってきました。

水曜礼拝では、今年あった教会の出来事を映像で観て、この一年を振り返りました。
どんな出来事の中にも主の恵みがあふれていることに気づき、感謝しました。

わたしの一年は、旅の多い一年でした。春には佐渡、新潟。夏には軽井沢。秋には秋田、白神山地。そして晩秋は学生時代の友人と高山と白川郷へ行けました。

また、今年は母を偲ぶ一年でした。母が召されたのは一昨年になりますが、そのあとクリスチャン・ペンクラブで書いたエッセーは、ほとんどが母のことでした。

妹と姪の3人で秋田のお墓へ行って、ついでに白神山地まで行って来ることができたのは母のおかげだと思っています。

来年は、母を卒業して一歩踏み出さなければ……。どんな一年になるのか、主に頼り、主を見つめながら歩んでいきたいです。



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感激旅行記ーおまけの旅

2016-12-15 15:33:35 | 日記
名古屋でろっちの旅は終わりましたが、MOちゃんとわたしは名古屋でもう一泊することにしていました。おまけの旅です

旅の2日目が日曜日だったので、どこかで教会の礼拝に出席できないかと思っていました。クリスチャンは日曜日に必ず礼拝しないといけないという決まりがあるわけではありません。
ただ、日曜に神様をほめたたえたいという気持ちがあるので、礼拝に出たいと思ったのです。

旅行の日程表が送られてきたとき、名古屋で19時に解散することを知り、名古屋で夕拝をしている教会をネットで探しました。そうしたら、一件ありました。そこが以前土浦めぐみ教会でお世話になったH先生の教会(名古屋福音伝道教会)だったのです。
まさに備えられていた!』のです。

名古屋福音伝道教会は、大須の商店街の中にある小さな教会です。商店街の中にある教会は、日本で唯一だそうです。

MOちゃんもわたしにつきあって一緒に礼拝に出ると言ってくれました。
雨が降っていたので名古屋駅でタクシーに乗るのに待たされ、タクシーの運転手さんが道を知らなかったのでちょっと迷って、着いたら7時半近くになっていましたが、温かく迎えていただき、ほっとしました。


礼拝が終わってティータイムにも出させていただきました。翌日、牧師先生ご夫妻がこのあたりを案内してくださるということで感謝しました。

ホテルでは、オートロックなのにカギを持たずに部屋の外に出てしまい、あせりました。
「ふたりいれば、なんとかなるよ」と言うMOちゃんの言葉に目がうるうるしました。

翌日H先生ご夫妻と大須商店街を歩きました。歩いていると、いろいろな人がH先生に声をかけ、先生は手を振って答えておられました。(まるで映画を見ているよう)

大須観音のある町なのに、教会の牧師先生がこんなに受け入れられているとは、すごい!と、神様が生きて働いておられることを目の当たりにして感激しました。

H先生は9月に土浦めぐみ教会に来られて、メッセージをしてくださいました。その時の感想を9/14のブログに下記のように書いています。

『商店街で「金の大玉祝祷祭」が開催されるとき、祈祷をしてほしいと頼まれて、引き受けたというのを聞いて驚きました。金の玉を拝むのではなく、そこに集まる人、通る人たちに神様の祝福があるようにと祈られたそうです。
宗教観、価値観の違う人たちに対して、拒否するのではなく、また妥協するのでもなく、人が作ったものに対して祈るのではないことを、地元の人たちに説明しながら、キリスト教の祈りをするとは、なんと大胆な、そして柔軟な対応なのでしょう。』




大須観音の境内では市が開かれていました。

さて、この旅行でろっちの仲間の温かな人間関係を改めて感謝しました。学生時代からそうだったのですが、わたしたちは仲間うちで喧嘩したことがなく、悪口も言ったことがなく、ひとりがつらい思いをしたら、みながつらくなり、ひとりが喜んだら、みなで喜ぶような関係です。
聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。(ローマ12:15)  」とあります。

人見知りで引っ込み思案だったわたしは、子どものころ、自分から友達を作ることができなくて誰かに誘ってもらうのを待っていました。いつも受け身でいやなときでも拒否できず、空気が読めず、人間関係を築くのが苦手でした。今だったら、心療内科に行けば立派な(?)病名がついたことでしょう。
そんなわたしが、10人の友達を得たということは驚きです。前にも書いたように「ろっち」に入ってから人格が形成されたように思います。

ろっちの仲間には、つらい時は「つらいんや」と言え、こんなこと言ったらばかにされるかな? という心配はしなくていいのです……。
この旅行で、何年も会わなくても、住んでいる場所が離れていても、友情は変わりないことを再確認しました。

さて、思い出は語り合いましたが、未来の夢は語りませんでした。60歳にして夢を語る? と思う人がいるかもしれません。でも、老人は夢を見ていいのです。「青年は幻を見、老人は夢を見る。(使徒2:17)」

わたしは6年前に書いた友への便りで「ファンタジー小説を書いて、それがアニメーション映画になって多くの子どもや若者たちに見てもらうこと。物語を通して、あなたの存在は高価で尊いのだということ。あなたは愛されるために生まれたということを伝えたいのです。」と夢を書きました。それはまだ実現していませんが、まだその夢を持って書き続けています。

年をとっていくばかりで、外側は衰える一方ですが、心はいつも若々しくありたいです。
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:16)」
                                  おわり


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感激旅行記(その4)

2016-12-12 12:32:56 | 日記

旅の2日目は雨が降っていましたが、高速バスで白川郷に向かいました。





合掌造りの家が立ち並んでいました。山は霧が立ち込め、幻想的でした。

「合掌造り」とは、木材を梁(はり)の上に手の平を合わせたように山形に組み合わせて建築された、勾配の急な茅葺きの屋根を特徴とする住居です。勾配が急なのは、屋根に積もった雪が自然に重力で落ちるためなのだそうです。

白川では「切妻合掌造り」といわれ、屋根の両端が本を開いて立てたように三角形になっているのが特徴です。積雪が多く雪質が重いという白川の自然条件に合った構造になっています。
また、建物は南北に面して建てられています。これは白川の風向きを考えて、風の抵抗を最小限にするとともに、屋根に当たる日照量を調節して、夏は涼しく、冬は暖かくなるように工夫されているそうです。


二階に上がって屋根裏が見学できました。屋根裏部屋が作業場になっているそうです。そこで蚕が飼われていました。

いつ、誰によって、この白川の地で合掌造りの家による集落ができたのか謎なのだそうです。
伝説によると平氏の落ち武者が白川郷に住みついたとも言われていますが、定かではありません。忍者が隠れ住んだとか、浄土真宗の信者が集まって秘境文明を作ったなどと推測されているそうです。もしかして隠れキリシタンの村だったかもしれませんね。
謎ということで、なんだかわくわくしました。

それにしても、今でも人が住み続けているとは驚きました。人が住まなくなると、家は荒れ、崩れてしまいます。昭和初期の合掌造りの家で暮らす人たちの映像を見ましたが、郵便を受け取りに行くのに3日かかり、市場に出かけるのに片道3時間もかかるので、暮らしは不便で大変だったようです。
村を出て行ってしまう人もいたそうですが、ここまで守られてきたのですね。かつてここに住んでいた人たちが、世界遺産になったと知ったら喜ぶことでしょう。家々が天を仰いで祈っているように感じました。


白川郷で食べた五平餅。美味しかったです。

さて、旅は終わりに近づいてきました。3時過ぎ、高速バスに乗って白川郷から高山駅に戻り、ビュー高山で名古屋に向かい、名古屋で解散です。
帰りは7人と2人で車両が分かれてしまいました。残りの時間、車両を行ったり来たりしながら時を惜しむようにおしゃべりしました。

                                           つづく


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感激旅行記(その3)

2016-12-07 20:35:11 | 日記
不思議なことは、学生時代の友人と久しぶりに会ったのに、昨日まで毎日会っていたかのように話せることです。いちばん長く会っていなかった人とは10数年ぶりの再会。最近会った人でも6年ぶりです。
みんな変わっていません。しゃべり方も、笑い方も、声も、性格も。みんなと会うと実家に帰ったようにほっとします。

わたしと横浜に住んでいるMOちゃん以外は関西在住なので、卒業後定期的に会っていたそうです。でも、阪神大震災のときは、3年ぐらい会わなかったと言います。家族で亡くなった方はいなかったそうですが、精神的な痛手が大きかったのでしょう。

MOちゃんは実家が神戸なので、里帰りするときに皆と会えたようですが、わたしは関東に引っ越してから36年の間に数回しか関西に行っていません。
でも、みんなが定期的に会っていてくれたおかげで、何かあるとわたしにも連絡が入りました。
そして、みんなが還暦を迎えるときは、還暦旅行をしようねと数年前から約束していました。還暦なんて、ずっと、ずっと、ずーうっと後のことだと思っていたのですが、とうとうそのときがきたのです。


みんなで温泉につかり、おいしい飛騨牛のしゃぶしゃぶなどいただきました。
みんなは元気で、食後にまたお風呂へ行くと言いました。わたしは、とてもその体力がありません。部屋で待っていようと思いました。

すると、Oちゃんが久しぶりのアルコールで気分が悪くなり、横になりたいというので、わたしが付き添うことになりました。みんなが2回目のお風呂に行っている間、わたしもOちゃんの隣でうとうとしました。なんせ朝4時半に起きていますから、眠くてたまらなかったのです。

学生時代、合宿や泊りがけで巡業したとき、いつも先に寝てしまうのがOちゃんとわたしでした。あのときとまた同じだと思うと、笑みがこぼれました。
少し寝たおかげで、夜のミーティング(?)では目が冴えました。Oちゃんも気分がよくなってミーティングに参加できました。

ミーティングは「人形劇部の思い出を語る」です。
「人形劇部の思い出を語る」わたしの書いたものを一部紹介させていただきますね。

人形劇部(ろっち)の思い出はたくさんありますが、卒業して40年経った今、わたしにとって『ろっち』はなくてはならないものだと実感しています。
短大に入学したとき、いちばん盛んな部活に入ろうと思いました。それは、引っ込み思案で人前に出ることが大嫌いだったので、自分を変えたいと思っていたからです。
いちばん盛んな部活はなんといっても、人形劇部でした。見学に行ったとき(MYちゃんと一緒に行ったような気がします)「これだ!」と思ったのです。(略)
人形劇は黒子をかぶってします。客席から動かしている人の顔は見えません。スポットライトが当たるのは自分でなく、人形だと思うとうれしかったのです。
夜遅くまで学校に残り、のこぎりでべニア板を切ったり、ガスバーナーでパイプを曲げたり、不馴れなことをするのは大変でしたが、わくわくしていました。

人形が出来上がると、オリジナル台本で練習します。人形を動かしながらセリフを言うのは意外と難しく、声が出ないことも……。しゃがんだ姿勢で歩くので足が痛くなります。
 中庭でよく「アエイウエオアオ」と言いながら中腰で歩くアヒル体操をしたものです。
今やったら「ハーヒーフーフー バタリ」でしょう。若かったねぇ。
 休みの日には人形、大道具、小道具を持って幼稚園や施設に公演に行ったり、淡路島や米子まで巡業に出かけました。「ようやったね。好評やったでー」と自画自賛。

合宿や巡業で宿泊するのも楽しみでした。ろっちの仲間と一緒に過ごしたのは、たった2年間だったのですが、濃厚でかけがえのない時間でした。
無口で、人前で声を上げて笑ったこともなかったわたしが大声で笑うようになって、S子に「グリム。いま、人格が形成されようんちゃう?」と言われました。(このことはS子は全く覚えていませんでした)

発達心理学か何かの授業で、子どもの人格の形成について習っていた時のことです。ほんまにその通りです。遅ればせながら18歳過ぎて、人格の形成がはじまったのでした。
人形劇部に入る前のわたしは、殻の中に閉じこもっていて、人前で自分を出すことができない者でしたが、ろっちの仲間と過ごすうちに、殻が少しずつ溶けていったのだと思います。

人形劇をしていて、よく覚えているのは、なぜか失敗したことです。さるかに合戦では、わたしは臼の役と柿の木を操作する役目でした。柿の木は、緑の葉だけのものが、裏でひもを引っ張るとたくさんの実をつけたものにパッと変わるというしかけがしています。
 「早く実がなれ柿の種、ならぬとハサミでちょん切るぞ」とかにの兄妹が言ったら、ひもを引っ張るだけなのですが……ひもの端についたリングが指にからまって、はずれなくなってしまいました。うたい終わったのに、実がなりません。
「お兄ちゃん、なかなか実がならないね」「そうだね。もういちどうたってみよう」
NちゃんとOちゃんのアドリブで何とかつなぎます。こちらは、からまったものがとれなくて必死です。ひもが切れてもいいと思い「えいっ」と力まかせに引っ張ると、ぱたりと木の上の部分が開いて、たくさんの柿の実が出てきました。
「ひーふーみーよー、とうとうなったね」
というセリフに込められた思いに舞台裏にいる全員がひとつ思いとなり、ほっと胸を撫でおろしたのでした。

失敗といえば、「しげるちゃんのいちにち」で、パトカーの音が出なくて、Oちゃんがひっくり返って腹を押さえながら「ピーポーピーポー」と言ってくれましたね。(略)

卒業公演では、ムーミンのエンディングの曲が流れなかったことが残念でならなかったです。でも、今から思うと、失敗したからこそ思い出として、それも極上の思い出として残っているのです。

卒業公演では司会進行役をS子とふたりでやらせてもらいました。わたしは、ヒデキの歌をうたう音痴なおばあさん役でした。かつらはつけていましたが、黒子をつけずに舞台に出たのです。
ろっちの仲間のおかげで、わたしにとって黒子はもう必要なくなっていたのでした。
                         

S子とHちゃんの思い出も聞きました。
気づいたことは、同じ経験をしても、人によって記憶にしっかり刻みつけられているところと、ぽっかり穴の開いたように忘れているところが違うということです。

S子にBGMを苦労して一緒に選んだねと言われましたが、わたしの記憶には全く残っていません。でも、電車乗り越し事件と、Tちゃん置き去り事件は、全員が覚えていました。
今回も同じような失敗をしないよう、電車ではみんなが降りる駅に気をつけ、ときどき人数点検もしていたことがおもしろかったです。

今回の旅行では、2人参加できませんでした。ひとりは病気治療のため、ひとりは忙しくてです。楽しんでいる旅の間も、参加できなかったNちゃんとK子のことを想っていました。

H子が気をきかせて絵葉書を買ってきました。切手も用意してくれていたのでハガキにみんなでサインして旅行中に2人に便りを出しました。
Nちゃん、K子、次は一緒に行こうね。



夜1時半ごろまで話し込んでいたのに、朝早く起きて朝市へいきました。

                     つづく

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感激旅行記(その1)

2016-12-01 16:16:46 | 日記
学生時代の友人11人で旅行することが決まったのは2か月前でした。11人のうち2人は都合が悪くて参加できなくなってしまいましたが、9人で高山(岐阜県)に行ってきました。

友人たちは、神戸の保育科の短大で同じ人形劇部(ろっち)のメンバーでした。手作りの棒人形を持って、保育園、幼稚園や施設などへ出向いて演じてきました。巡業の旅といって、淡路島や米子までも行きました。

苦楽を共にしたメンバーは、特別の結びつきがあります。卒業して40年たった今もお互いに連絡を取り合っています。

ただ、わたしともうひとりは関東、ほかのメンバーは皆関西に住んでいるので、全員で集まるということはめったにありませんでした。(関西組では年に2回ぐらいはずっと集まっていたそうです)

卒業してすぐ京都に旅行に行き、子育てがひと段落するころ(15年後くらい?)に六甲アイランドでお泊り会をしました。今回はそれ以来の旅行で、旅行のほかにも2~3回は、わたしが関西に行った時に会いましたが、10年、20年ぶりの友人もいました。

でも、会わないでいた月日の長さを感じないほど、学生時代のままの気持ちでおしゃべりしました。

名古屋で待ち合わせをしたので、東京発7時台の新幹線に乗るために、わたしは4時半に起きました。以前の旅行のとき、新大阪で皆と待ち合わせをしたとき、常磐線が遅れて、新幹線に乗り遅れてしまったことがありました。それで、30分前に着くように早めに家を出ました。

ちゃんと時間通り新幹線に乗れるかが最大の心配です。
もうひとりの関東の友は新横浜から乗ってくることになっています。友人は遅れずにやってくるでしょうか。

新横浜に着いたとき、友人が現れました。この友人ともずっと会っていなくて15年ぶりぐらいですが、すぐにわかりました。
まずはほっと一息です。いいお天気で富士山がきれいに見えました。

                               つづく



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秋田、青森の旅(その4)

2016-09-17 20:52:27 | 日記
妹とわたしは、この旅行中「お母さんが一緒だったらよかったのにね」と言いながら、母の面影を追っていました。母は旅行好きで、年に6回は友人と麻雀旅行へ行っていました。そのほかに妹家族と年に数回旅行をし、父が存命のときは、父と旅行していました。

そして旅の記念にと必ず服かアクセサリーを買ってくるのでした。
歯ブラシとタオルは自分のものを持っていくので、ホテルや旅館からもらったタオルと歯ブラシがたんすの引き出しに山のように入っていました。

リゾート白神では、津軽三味線の生演奏があり、津軽弁で昔話が語られました。


ウエスパ椿山の駅を降りると、ヨーロッパ風の建物がみえてきました。ここが2日目の宿泊地です。
ちょうど日の入り前に着いたので、温泉で夕日を眺めることができました。

うっすらとしたひとひらの雲に日の光が当たって、輝いていました。誰かが雲の上に立っていて、手を振っているような気がしました。あそこにイエス様とお母さんが並んで立っていると想像しました。いつか再会できるにしても、今は会えないのだと思うと寂しさがこみあげてきました。
すると、シャボン玉のような丸いものがふわふわとこちらに飛んできました。母から、「姉妹で仲よくね」とメッセージが届けられたような気がしました。

翌朝は早起きして、ウエスパ椿山で申し込んでいたトレッキングに参加しました。申し込んだ人はわたしたち3人だけでした。8時30分に出発して椿山の車で登山入口キョロロまで送ってもらいました。


そこからは、ガイドのおじさんが案内してくれました。わたしたちにあわせて、ゆっくり歩いてくださったのですが、ふたりは遅れがちになりながら、ガイドさんと姪の後を必死についていきました。
 

途中でガイドさんに花の名前を教えてもらったり、聴診器を木に当ててみたりしました。樹液の流れる音が聞こえるかと期待していたのですが、全く聞こえませんでした。よく、聞こえるといわれていますが、聞こえないものだそうです。


十二湖という名称は広大なブナの森に点在する33の湖沼が、「大崩(標高694m)から見ると湖沼数が12に見える」ということに由来するそうです。


青池は、神秘的な色をしていました。水は透き通っていて、魚が泳いでいるのが見えました。




一時間半ほど歩いて休憩所で沢の水飲み、抹茶をいただいて、ほっとしました。翌日からふくらはぎが筋肉痛になりましたが……。


帰りはリゾートしらかみでお弁当を食べました。

今回の旅行は、母の遺言に従って行くことになったのです。それは、妹とお墓のある秋田に行くことでした。
まず先にお墓参りしてからと思ったのですが、よくばって奥入瀬と十和田湖、白神山地、十二湖に行くために計画を立てたので、お墓参りはいちばん最後になってしまいました。

秋田で無事にお墓参りを済ませ、帰りの新幹線に乗りました。
「この旅は、お母さんからのわたしたちへの最高のプレゼントだったんだね」と、妹と話しました。神様と母に感謝!

                      おわり


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秋田、青森の旅(その3)

2016-09-14 16:24:49 | 日記
レンタカーを返すと、弘前駅から奥羽本線・五能線を走るリゾートしらかみに乗って日本海沿いをすすみました。


リゾートしらかみは、橅(ぶな)、青池、くまげらの3種類があり、乗ったのは一番新しい(2016年に作られた)橅でした。

日本海の美しい景色を見ながら一年前を思い出していました。
母と最後の旅行に行ったのは、ちょうど一年前でした。近場で温泉があって、景色のいいところ。ホテルはバリアフリーであることを条件に探し、茨城県の袋田の滝に行きました。

母は歩くのが困難になっていて、ずっと車椅子でしたが、楽しそうでした。
食事もおいしいと言ってよく食べ、温泉につかり、売店で服を買ったりして買い物を楽しんでいました。その日から一か月もたたないうちに天国へ行ってしまうとは、誰も思いませんでした。

旅行から帰ってきてから、具合が日ごとに悪くなっていきました。足のむくみが太ももまできて、ひとりで車椅子に乗ることも、ベッドの上り下りもできなくなったため、8階の部屋にはいられなくなり、1階の介護士の目の届く部屋に移りました。
それでも、最後まで意識があり、頭もしっかりしていました。末期がんの痛みが出なかったことがすごいねと、妹と話しました。母が召されたときは、妹は仕事で海外に行っていたのでした。

トンボがとんでいると、「あれはお母さんの生まれ変わりだ」と妹が言い、蝶がとんでいると、「オーママ(母の呼び名)がいる」と姪が言います。
わたしが「人は動物や昆虫に生まれ変わったりしないの」とちょっとむきになって言うと、「蝶をオーママと思ってもいいでしょ!」と姪に言われてしまいました。

この間の日曜日に名古屋から来られたH先生は、神社仏閣の多い商店街の中にある教会の牧師ですが、「柔軟に」ということをモットーとされています。
商店街で「金の大玉祝祷祭」が開催されるとき、祈祷をしてほしいと頼まれて、引き受けたというのを聞いて驚きました。金の玉を拝むのではなく、そこに集まる人、通る人たちに神様の祝福があるようにと祈られたそうです。
宗教観、価値観の違う人たちに対して、拒否するのではなく、また妥協するのでもなく、
人が作ったものに対して祈るのではないことを、地元の人たちに説明しながら、キリスト教の祈りをするとは、なんと大胆な、そして柔軟な対応なのだろうと思いました。

妹も姪も、蝶やトンボが人の生まれ変わりだと心から信じているわけではないでしょう。でも、そうだったらいいのに。そうだったらオーママがそばにいてくれるから寂しくないのにと思いたいのでしょう。その気持ちを受け入れ、認めてあげたらよかったなと反省しているところです。




千畳敷です。千畳敷駅で列車は15分ぐらい停車しました。その間に、降りて海岸まで行くことができました。



太宰治の小説「津軽」の碑が建っていました。


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秋田、青森の旅(その2)

2016-09-12 17:02:56 | 日記
十和田湖遊覧、16時発の最後の便に乗りました。最初はゆったりした気分で景色を眺めていたのですが、途中から黒雲が出てきて雷鳴が聞こえ、雨が降り出してきました。波も出て、船が揺れます。


ひどい揺れではありませんが、2000年前にガリラヤ湖で嵐に会った人たちに思いを馳せました。漁師だった人たちが、船が沈むかもしれないと恐れるのですから、どれほどひどい嵐だったことでしょう。そのようなときにイエス様は船で眠っておられました。イエス様が一緒なのに恐怖で大あわてしていた弟子たちの姿は自分のようで笑えません。今回の旅行は台風が心配だったので、天気予報を一日に何度も見て、ネットでも見て心配していたのですから。

「黙れ、静まれ。」とイエス様が言われると、ぴたっと嵐がやんだのは、信じがたいことです。でも、天と地、風も波も雷,
台風も造られ、支配しておられる方のお言葉ならあり得ると思いました。風と波が「ごめんなさい」と頭を下げていることでしょう。

船が着いたときは、雨も雷もやんでいました。


十和田湖近くのホテルに泊まりました。秋田杉を用いて70年以上も前に建てられたそうです。

玄関は吹き抜けになっていて、上は図書室でした。


フロントには「クマが出ました。散策する方は鈴をお持ちください」と書かれており、鈴が置かれていました。
ホテルの方に尋ねると、小熊の写真を見せてくれました。


翌日は車で弘前まで行き、日本キリスト教団弘前教会の建物を見てきました。(外観は一番上の写真)
平成5年に県重宝に指定されたそうです。
明治8年に創設され、構造は、ノートルダム寺院にも似た双塔ゴシック様式の重厚な木造2階建ての重厚な建物です。


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秋田、青森の旅(その1)

2016-09-10 17:47:39 | 日記
5日~7日に妹と姪の3人で秋田、青森へ行ってきました。
台風と熱帯低気圧の間を駆け抜けたような旅でした。雨に降られたのは少しだけで、傘をさすほどではありませんでした。

東北新幹線で八戸に行き、車を借りて奥入瀬(おいらせ)へ向かいました。奥入瀬は3年前に息子夫婦と一緒に行きましたが、妹と姪は初めてだというので足を延ばしました。






雨が多かったので、水があふれんばかりに勢いよく流れていました。

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。
わたしの作品も掲載しています。
ここをクリックしてご覧ください。



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スナフキンの言葉

2016-08-30 16:15:58 | 日記
学生時代の友人から嬉しいメールが届きました。秋に11人で旅行をしようというのです。
友人たちは、神戸の保育科の短大で同じ人形劇部(ろっち)のメンバーでした。

さるかに合戦やいやいやえん、鬼のあかべえ、ムーミンなどを脚本化し、棒人形を操ってあちこちの幼稚園や施設で公演しました。

このメンバーとは、わたしが関東に引っ越し、関西から離れてしまったこともあって5~6年に一回ぐらいしか会えません。(関西組では年に数回会っているようです)前回会ったのは2010年なので、今年会えたら6年ぶりです。

メールのやり取りをする中で、(10人とやりとりしているので)名乗ってないメールが来ると、誰だろう? と思ってしまいます。
でも、おもしろいことに、アドレスをみると特徴的なのでたいていわかります。

Moomin-mamaというアドレスは、あの子に違いないと思いました。彼女はムーミンママの役をやっていたのです。

ムーミンの親友で孤独を愛する旅人スナフキンの言葉を紹介します。


人と違った考えを持つことは一向にかまわないさ。でも、その考えを無理やり他の人に押し付けてはいけないなあ。その人にはその人なりの考えがあるからね。

眠っているときは、休んでいるときだ。春、また元気を取り戻すために。

長い旅行に必要なのは大きなカバンじゃなく、口ずさめる一つの歌さ。

みんなに騒がられて、偉くなったように思ってはいけないよ。

たとえ作品が壊れてしまったとしても、作ったときの感動は消えることはないんだ。

いざ泣こうとすると、泣けないことってあるだろ?


作者トーベ・ヤンソンの人生観が出ていますね。


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