ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

ピンク色の樹肌を見て珊瑚樹だと勘違いして

2013-03-10 09:04:59 | 自然

 市の指定樹木・柊がある知人の奥さんから、先日お伺いした時に、冬の寒い時期だけ、樹肌がピンク色になる珊瑚樹が家にはあるけど、私に似て色っぽいわよね、と話されました。

 私は、多磨中央公園にある珊瑚樹があるのを知っていましたので、若木だからピンク色をしているのかしらと、疑いもしませんでした。 念のため、公園にある珊瑚樹も、改めて見に行ったのですが、樹肌は相違します。

 友人の伊倉雅晴さんは、市の樹木の写真を撮っては、色々調べ始めています。 勿論、散歩やジョッギングをしながらですが。 早速、伊倉さんにも話をしました。 するとグリーンライブセンターの相談員の方に、聞こうということになり、見てもらってから判断してもらうことになりました。

 先日、改めてお伺いしたところ、開口一番、「珊瑚樹は常緑樹ですよ、あれは落葉樹です。 多分、いろは紅葉ではありませんか」という答えでした。 樹肌といい、樹形といい珊瑚のような雰囲気を持った樹木だったのですが。

 伊倉さん共々、唖然としてしまいました。 改めて知人の奥さんのところへお伺いして、ことの顛末をお話するつもりではいます。


大自然の風の声を閉ざしてしまうイヤフォン

2013-03-09 07:56:47 | 自然

 イヤフォンを付けながら音楽やラジオ放送を聴きながら、歩いたり走ったりするのが流行っていますが、私は余り好きではありません。 将来的に聴力障害を起こしたり、偏頭痛の原因を作るような気がするからです。 また、鳥がさえずる声や小枝が風でさわやぐ音が聴こえる方が、ごく自然だと思うからです。

 芹沢光治良さんが90歳になってから書き始めた神のシリーズの第5巻目の「人間の意思」の最後のページに、「風の声を聴く」という言葉が出てきました。

  私は、この言葉に出会って(何度の読んではいるつもりなのですが)、ああ、そうか、この大自然の風の声から、イヤフォンは私たちを閉ざしてしまうことになるのだなと、改めて感じ入ったのでした。


長く吐く息を通して思うように気が動くのを感得する

2013-03-08 07:09:52 | 座禅

 今でこそ行いませんが、長く吐く呼吸を続ける事によって、体の中の気の動きを感じ、自分が思うことによって、気が面白いように動くのを、楽しんだ時期があります。

 例えば、自分が内蔵の中の膵臓を意識すると、そこに気が集まり。体のどこにあるのかがわかったのです。 また体内の脂肪を取ってほしいと願うと、しゃかしゃかと動き始めるのでした。

 私は、その時、自分のために何かを使ってはいけないことだと認識していましたので、あえて、それ以上のことは行うことはありませんでした。 従って今では、何かを思っても、なかなか思うようには、体の中の気は動いてはくれません。

 ある意味では、最近は、胎息で座禅を行っているせいかとも思うのですが。 いずれにしても、出来るだけ長く吐く呼吸を通して、体の中にある主要な経絡である督脈や任脈、そして沖脈(頭のてっぺんの百会と股下の中心にある会陰を結ぶ経絡)の動きを、感じるようになったのです。

 従って、自分が思うように体の気は動きますので、決してマイナスの思考をしてはならないのです。 健康な時も病気の時もです。 特に病気の時は、マイナス思考を行うと、更に病気は悪化していくのです。 

 普段から、いつも明るく、前向きで、建設的な考え方をしていくことが、とても大切なことなのです。


体の変化が先に来て後追いで参考書を読む

2013-03-07 07:10:31 | 座禅

 長く吐く呼吸を行いながら、静かに暗闇の中で座禅(静功)を、1時間行なっていたら、体が様々な変化をしました。 何だろうと思いながら、本屋に行っては参考書を探しました。

 中でも一番よいと思った本は、「気功の力」李紀星著・PHP研究所発行と、「気の奇跡」粱蔭全著・伏晶堂発行でした。 前者は気エネルギーで潜在能力が目覚めて、よいイメージの大切さを強調していました。 後者は仙道気功が肉体と精神を変革し、遠隔医療気功の実践の記述がありました。

 全般的に分かりやすく書いてあったのが、「気が癒す」集英社文庫編集部編・集英社文庫で、中国4000年の気功エネルギーに学ぶという姿勢での編集で、様々な角度から見えるようになっています。

 私に座禅(気功9の声かけをしてくれた大学の級友が、S状結腸がんに罹って飲尿療法を行なっていた関係で、「尿療法・驚くべきこの効果」中野良一・小宮山かよ子共著・KKロングセラーズ発行も読みました。 戦後も南方諸島で、終戦を知らないで生き抜く中で、飲尿療法を行なってきた方の話の記述もありました。

 また、ほかの友人がガンで闘病生活をしているのを聞きつけて、知人が届けてくれたのが、「ガンと闘う医師のゲルソン療法」星野仁彦著・マキノ出版・ビタミン文庫です。 ガンは基本的には代謝障害から罹ってしまうことを、ゲルソン博士は述べています。 毎日、摂取する食べ物が大切であることを、教えてくれています。


体の中の気の動きを感得することになって

2013-03-06 07:51:45 | 座禅

 肩の力を抜いてリラックスし、頭のてっぺんが天から引っ張られているように上体を維持しながら、吐く息を出来るだけ長く吐きます。 出来るだけ長く吐こうとすると、自然と大きく息を吸います。 大きく息を吸ってから,出来るだけゆっくりと長く吐きます。

 口は閉じ鼻だけで呼吸をします。 吐く息は体の中の下腹にある臍下丹田に向けて吐きます。 吐く息が体の中へ入っていくのを追うようにして吐きます。

そのことだけに意識を集中します。 

 吐く息は限界ギリギリまで吐きます。 全部吐き切ろうとすると、苦しくなって後が続かなくなりますので、そのちょっと手前で軽く息を止め、また大きく息を吸います。

 限界ギリギリまで息を吐きながらも、吸う、吐くのリズムは、あくまでも自然の流れのように行います。 この自然である感覚が大切です。

 この呼吸法は、我流の逆腹式呼吸ですが、体の生理的な動きからは、自然の動き、流れであると思っています。 肺で呼吸する動きと臍下丹田で気の呼吸する動きとは、合致しているのです。

 従って、この呼吸法を通して、1時間の座禅を行えば、いずれの時間の経過と共に、自分の体の中の気の動きを、感得することになると思っています。 気感は、生来、持って生まれてきたからです。 人によって早い遅いのズレはあるにしてもです。


私の坐禅のスタートは気功の静功でしたが

2013-03-05 08:39:13 | 座禅

 私が初めて座禅を行うようになったのは、気功のほうの静かな功である静功でした。 静功といっても、静かに座ることには変わりはありません。 禅宗でいう観想法といっても良いかもしれません。 

 私が参加したのは、意念法という静功で、あることを強く意念しながら、座禅を行うというものでしたが、私は何故か、その中国から来られた先生の言うことを、最初から無視するように、無我夢中でひたすら吐く息を,真っ暗闇の中で1時間、深呼吸の要領で、大きく息を吸ってから出来るだけ長く吐いていたのです。

 その時の意念法の解説では、胸の中心を熱く燃えるような感覚で、意念しなさいということでした。 呼吸のことは一切、話はなかったのです。 いま思い出しても,何故、ひたすら吐く息を出来るだけ長く吐いていたのかも、思い出すことは出来ません。

 生まれて初めて行った座禅(静功)で、頭のてっぺんにある百会が活性化し(後にそのようなことであったと感得したのですが)、電子の輪の帽子を被っているような感覚になったのです。

 これも後から感じたことですが、吐く息を出来るだけ長く吐き、吐く息を体の中へ吐くことによって、体の中に循環する経絡(気の通る道)を活性化させるということです。


クラッシック音楽を聴きながら作業をしています

2013-03-04 08:24:12 | 座禅

 最近は、らじるらじるをネットで検索して、NHK-FMのクラッシック音楽を聴きながら、事務所で作業をしております。 それまでは、radiko  で検索して民間のラジオ番組から、FM東京の洋楽の音楽番組を聴いていました。

  朝の6時から8時半まで放送している中西哲生と高橋万里恵さんがMCをしているクロノスを、長い間、聴いていました。 中西さんの優しい声と高橋さんの可愛らしい声での掛け合いが、朝の爽やかな雰囲気を醸し出していたからです。 また高橋さんは「嵐」が大好きで、中西さんが話題を「嵐」に振り向けると、如何にも楽しそうで嬉しくてしょうがないという感じで話をするのが、とても素敵な感じがしていました。

  ところが、クラッシック音楽を聴くようになってからは、絶えず胸の中心部にある心を刺激し、その感じ方が更に鋭敏にナイーブになってくるようになっています。 従って、高橋さんの声は聴きたくても、あえてクラッシック音楽を聴き続けています。


天に還った友人のモルモン教の葬儀に参列して感じたこと

2013-03-03 07:15:03 | 文化

 仕事仲間であった友人の葬儀に参列しました。 友人はモルモン教の信者であり、宣教師でもあったようです。

 150人ぐらいの入れる教会で12時から行われました。 司会者の挨拶から告別式が始まり、最初に「神よ、汝れに近寄らん」という賛美歌を謳いました。 初めて謳うのですが、歌詞の意味も分からないままに、何故か涙が自然と流れてきたのです。 友人のことを自然と感じたのでしょうか。

 開会のお祈りを聴きながら、次に親しく故人とお付き合いをした友人が、故人との間の出来事を話し、更にその地での教会の責任者が、同じように故人との間の出来事や、お人柄について話をされました。

 その後、「高きに栄えて」という賛美歌を謳い、管理者のお話のあと、更に「神よ、また逢うまで」の賛美歌を謳ってから、閉会のお祈りで終わりました。

 私は、日本式の仏教での葬儀は、お経ばかりが長く、葬儀を通して改めて故人のことを知るということは、なかなか出来ません。 その意味では、今日のお葬式は良かったと感じたのです。


槇文彦さんの公開講座を聴きに行きたかったけれど

2013-03-01 08:15:14 | 友人

 明日の午後に神宮前で、建築家・槇文彦さんの公開講座があるという連絡を受け、先着順だというのですぐに申し込みをしました。 昨日のお昼に、長い間、私の構造スタッフとして活動してくれていた方の奥さんから電話があり、ご主人が火曜日に亡くなって、葬儀が明日の12時から教会であるというのです。

 今ではお付き合いはなくなりましたが、朝歩きでであったりしていました。 槇さんの講演が楽しそうなので、多分、出席できないかもしれないと、電話で話をしました。 私たちの仲間にも早速メールで、訃報の連絡をしました。

 夕方に、友人から「連絡ありがとう、自分は参列するつもりだが」との電話がありましたが、私は槇さんの講演を聴きに行くつもりだと話しました。 別の日に改めて、奥さんに挨拶に行くつもりだとも答えました。

 深夜の1時間の座禅を通して、ふと浮かぶ雑念の中で、友人の葬儀に参列するのが、正しいあり方ではありませんかと、返ってきました。

 早速、今朝、欠席の連絡と、友人に葬儀の参列の連絡をしたところです。