新宿の淀橋生まれの淀橋育ちの伊倉雅晴さんは、千葉大学の建築学科を卒業して住宅公団に就職し、住宅行政に長く関わった方です。 後年は立川北側での開発計画にも携わって、元地主さんたちとも様々な形で関係したと話を聞いたことがあります。
仕事の関係で日本全国に出張することが多く、いつの日にかJR線の全国制覇をしようと考えたとのこと。 何処でそうなったかは不思議なのですが、最後の駅は熊本県の肥後伊倉駅に降り立ち、歩きながら神社にたどり着き、神主の方と名刺をお渡ししながら、話を始めました。
名刺の名前を見た神主の方はびっくりするように、この神社は昔住んでおられた伊倉性の方を祀る神社ですと話すではありませんか。 大昔、菊地一族の家来として後醍醐天皇派として参戦した伊倉氏は、最終的に御殿場地域での戦いに破れ、残された妻子は別姓を名乗るようになり、伊倉性は絶えて、現在はこの地に伊倉性を名乗る人はいないという。
雅晴はその時点からライフワークのように、伊倉を訪ねて の執筆が始まりました。 伊倉性を名乗る人々は、最後の戦いの地である御殿場に多く住んでいることを確認し、自分のお父さんの出身地である新潟県にもいることを確認し、自ら率先して肥後伊倉駅のある熊本県玉名市で、伊倉サミットを開いて交流を計りました。
私のブログを通して、伊倉雅晴さんのことや、伊倉を訪ねての文章の存在を知った御殿場に住む伊倉性の方が、雅晴さんと連絡を取られて交流が始まったことも聞きました。
雅晴さんは第1、第2稿と進み、更に現在、最終稿となるべく文章の作成を行なっているという。