ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

大企業の業績がよいといいますが

2007-11-30 08:11:18 | 社会・経済
 報道によれば、大企業の業績がよく、かなりの利益が出ているといいます。 グローバル化の波の中で、外国企業に負けないようにとリストラを進め、パートや派遣社員の割合を進めてきました。 

 それまでの安定した社会から、不安定な社会に日本は移り変わってきたように見えます。 日本の独自の良さもかなぐり捨てて(捨てざるを得なかったのでしょうか)、小泉さんの改革の名の下に、アメリカの自分の利益しか考えない新古典派経済学をベースにした、日本社会に変貌してしまったように見えます。

 このところ、食品関係の内部告発が続いておりますが、それを斜め方向から見てみますと、会社の社員を減らしパートや派遣社員で、日常業務をこなそうとしている結果ではないか、考えざるを獲ません。 中にはパートの人を社長にしたようなある意味では立派な会社があるものの、殆どの会社や店舗では、いつでも人員削減が出来るような体制をとっています。

 人があってはじめて成り立つ組織・会社であるにもかかわらず、はじめに会社ありきで、後から人がいるような形態になってしまっています。 企業の中には、人を大切にする会社もありますが、残念ながら多くの企業は、そうとはいえないようです。

 法令遵守が叫ばれるようになってきましたが、一方で自分の会社を愛する気持ちも、次第に薄れていっているのかなと思う毎日です。

どんなことでも楽しむ感覚が大切では

2007-11-29 17:17:08 | 
 気分が良くなることであれば、誰でも楽しくなります。 ですが、面白くないことであれば、楽しくなるということはありません。

 私は、どんなことでも楽しむように心がけています。 例えば、厳しく苦しいことが起きても、その雰囲気を楽しむように心がけています。 苦しいことを苦しいといってみても、一向にその苦しさからは脱却できるわけではありません。 むしろ、その苦しさを楽しむように心がけることによって、苦しいというより楽しみのほうが強くなってくるから不思議です。

 ラジオを聴いていたら、座禅の只管打座で有名な道元のことを、毎月原稿で10枚書き上げていた作家の方が、とても苦しかったと話されていました。 原稿を書くことを、座禅のような修行と考えることによって、その苦しみもなくなったといっておりました。

 私は、修行という言葉は好きではありません。 むしろ、その作家の方には、楽しむようにしたら、とても楽になったと言ってほしかったのです。 

 いやなことは、できれば避けたいのが本音ですが、どうしても避けられない時は、ちょっとばかり消極的に、楽しむようにするようにしています。 

最近はタマネギを美味しく感じます

2007-11-28 21:21:06 | 自然
 最近になって、タマネギをとても美味しく感じるようになりました。 タマネギとにんじん、ピーマンを、比較的に大きく切って少量の油をひいてから、炒めます。 ちょっと炒まったら、甘酢の肉団子のパックを切り開いて、一緒に炒めます。 そんなおかずを朝作ってよく食べるようになりました。

 改めて、炒めたタマネギが甘みを出して、今まで気がつかなかった味わいを私に経験させてくれるようになりました。 肉じゃがに入っているタマネギも、量が少ないとちょっともの足りません。

 勿論、カレーには最初にタマネギをよく炒めます。 不思議なことに、タマネギを美味しく感じるようになったら、他の野菜も美味しく感じるようになりました。 また、食事の時間も以前に比べると、味わいながら食べているせいか、長くなってきました。

 そんな食事も、沢山のおかずは必要ありません。2品ぐらいで後はお新香があれば充分です。 年をとったせいなのか、座禅をやっているおかげなのかは分かりませんが、いずれにせよ、その食べ物の味が、よく味わえることは、とても幸せです。

 魚は美味しく食べれるのですが、肉だけは、滅多に美味しいと感じたことがありません。 半月に1回ぐらい友人と食べる昼食のひれ肉のトンカツは、どういうわけか美味しく感じます。 それぞれの食材のおいしさを感じながら、食事をすることができるのが一番良いのです。

 一方、中国には山の中に住み、山のミネラル分が豊富な水だけを飲んで生活をされている方がおられるといいます。 座禅を深めていき、無心、無欲になれば、そんな生活も出来るのではないかと、雑念の中で考えたりします。 今までの美味しい味の感覚を忘れられるでしょうか。 難しいなあとも感じたりします。 

人に教えてもらうのは難しい

2007-11-27 17:28:41 | 座禅
 高校時代のバスケットボール部でのコーチからの指導は、有無を言わせず徹底したスパルタ教育でした。 好きで始めたので、3年間練習が休みだったのは、元旦の日だけでした。 公立学校であったにも拘わらず、大学生のOBが毎日のようにコーチとして指導をしてくれ、その外いつも3、4人のOBが練習の応援に来て、愛のむちをくれたものでした。

 そんな怖いコーチの指導に対しても、もう少し自主性を引き出すような練習方法にできないかと、考えていたりしました。 そうはいっても、高校に入ってからバスケットをやるような生徒の集まりの中で、背も特別高くは無いのに、東京都の代表として全国大会に行くのが、当たり前でした。 接戦になった場合には、最後は精神力が決め手になったようです。

 座禅〔静功)を始めた時は、子供の頃から気功をやっていたという中国の方が先生で、W大学の研究室で勉強しているという35歳ぐらいの方であったように記憶しています。 何事も子供の頃から始めると、色々なものが自然と身についてしまい、私どものように皆目、何にも分からない人間にとっては、何をどのように考え行動すればよいのかの視点が、欠けているような気がしてなりませんでした。

 意念法という方法で、胸の中心が熱く燃えるようなイメージで、座禅〔静功)しなさいという指導の仕方だったように、思い出されます。 どういうわけか私一人が、逆腹式呼吸の息を体に吐く息音だけが、静寂さの中で聞こえたようでした。

 さすがに3回目の授業が終わった後で、私に座禅の声かけをしてくれた大学の級友が、お前、もう少し息音が聞こえないようにやりなさい、と注意をしたほどでした。 先生は呼吸法を伴いながらの意念をは、教えてくれませんでした。 結果的に、みようみまねで私自身がなんとなく、逆腹式呼吸をやっていたようです。

 大人になってから、座禅を一から始める場合に、何が大切かを実を持って知ったような気がいたしました。 私自身、体の中の気が、何も分からないうちに動いてしまい、後から本を買い求めて読んで、あーこういうことだったんだという理解の仕方が多かったように思います。

 30台で始めたテニスもそうでした。 当時、ボールが来る方向にラケットを並行にしてヒットするスタイルが主流をなしておりましたが、非力な私は、自然とボールを擦るような打ち方を、自然とやっていました。 当時のボルグがそのような打ち方で、コナーズがストレートに打つスタイルだったように、記憶しています。

 どうも下手は下手なりに、練習も工夫し自己流で何事もやるような性格なのかもしれません。 教え方の上手な先生というものは、なかなか出会えないものといつも感じ、行動してきたように思います。

薬いらずの生活習慣を

2007-11-26 07:54:29 | 
 私が親しくさせて貰っている友人の一人は、若い頃から胃がきりきりと痛むと言っては、お医者さんの世話になって、薬を飲んでいるようです。 今でも調子を崩すと胃が痛くなっているようです。

 何度聞いても、何故胃が痛くなるのか理解できませんが、痛くなる原因を治さなくて、薬で対応するのはいかがなものかと、いつも感じています。 特に欧米の薬は、どちらかというと対症療法的な薬が多く、即効性はあるものの根本的に治すものではありません。 そうかといって、漢方薬も、最近の中国製品のありようによっては、不信感も沸いてきます。

 友人は、自分で理論的に納得しないと進まない性格で、いつもその先に進むことは出来ません。 自分の好きなことであれば、やりながらも、あーでもないこーでもないと,研究しながらやってはいるようなので、私からいわせてもらえば、やる気の問題のようにも見えます。

 私は、どちらかというと,やってからやりながら考える方です。 ものには色々な考え方があり、どれが正しいかは分かるものではありません。 それを自ら汗を流し、体を動かしながら考え、自分なりに納得しながら体得するものではないでしょうか。

 全てがはじめから分かっていることなど,あり得ません。 現在、正しいと思われることであっても,新しい真実が発見されてしまえば、今までの考え方は覆されてしまいます。 

 友人は、胃が良く痛むし風邪もよく引きます。 ですが、ちょっと休めば、また元の体に戻ります。 然るに、私は滅多に体の具合が悪くなることはないものの、今まで病院に入院したのは、何度かあります。 その友人には、いつも、お見舞い何度行ったっけ、と言われてしまいます。 父と母を見ていて感じたのですが、頑健な父は若くして交通事故死でなくなり、気丈夫なだけであった母は、天寿を全うしました。 友人も,意外と長生きするような気がいたします。

どんな時でも肩のの力を抜いてリラックス

2007-11-25 03:51:53 | 座禅
 胡座を組んでの座禅を行うときには、肩の力を抜いてリラックスして行います。 頭のてっぺんが、天から引っ張られているような感じで、上体を維持します。 座禅を続けていると、この状態が一番楽な姿勢だと分かってきますから、普段の生活でも、ソファーに座るときでも畳に座るときでも、胡座を組んで座ることが多くなりました。

 逆複式呼吸をしながらの座禅をしているときでも、リラックスしているはずですが、首だけは凝ってきます。 そのまま続けていると結構、首が凝り固まってしまいますので、意識的に20分に一度ぐらいは、左右に首を振るようにしています。

 座禅を始めた当初、話に夢中になって肩に力が入っていたり、イスに座って仕事をしているときでも、いつも肩に入っているかどうかを、意識的にチェックして、肩を震わして肩の力を抜いたものです。 

 今でも、座禅の最中に手を合わせている指先などに、ちょっとした力が入っていないかどうかを、雑念の中で気にしたりします。 どんな場合でもリラックスしていることが、とても大切なことなのです。

 余り考えたことはありませんが、どこかに力が入っていると、何らかの力が入ってしまっていて、長く続けられないとか、どこかが凝ってしまうとか、何かを素直に受け入れないものを作ってしまうのかもしれません。 

 ことほど左様に、肩の力を抜いていつもリラックスしているということは、日常生活でも、とても大切なことなのかもしれません。

アルコールを飲むと生活のペースが乱れます

2007-11-24 09:07:55 | 
 人と会って話すのが好きですが、夜の場合は、必ず美味しいものを食べながらアルコールを飲みます。 口も饒舌になり、盛り上がるのが好きな立ちなので、話も尽きません。 美味しい日本酒を冷やしたものが特に好きでしたが、腎臓結石をしてからは、意識的に飲むことを遠慮しています。

 代わりに、最近では焼酎をお湯割りにしたり、ロックにしたりして飲みます。 芋焼酎の場合はお湯割りにしたほうが美味しく飲めます。 麦焼酎は、特に壱岐のものは、ロックにして飲むと美味しいと感じます。 日本酒が好きであったのは、お酒の作り方が、その地方地方によって、水やそこの風土が作り出す味が、独特と感じるからでした。 その意味ではビールは、インターナショナルな感じがして、それほど飲みたいとは思いません。

 アルコールを飲みますと、肝臓がアルコールを水とアセトアルデヒドに分解します。 肝臓は様々な働きをすることになっているのですが、アルコールが、体内に入ってきてしまうと、他の仕事を一切せず、アルコールの分解だけに専念します。 アルコールの分解が全て終わった後に、残された重要な働きをするのです。 アルコールの休肝日が必要というのは、そのようなことによります。

 片や、座禅のほうから考えますと、アルコールの飲酒は、体内にある気を消耗するといわれます。 特に2日酔いなどの時は、普通の状態に戻るのには、翌日の夜ぐらいまでかかります。 適度なアルコールの場合は、気を消耗するほどではありませんが、それでも毎日の生活のペースは、乱されてしまいます。

 深夜に家に帰り、風呂に入って寝る時間は4時間として、もう朝の5時になってしまいます。 息子が起きて、食事を一緒に取る時間です。 いつもであれば、2時か3時に目が覚めて、1時間以上の座禅をする時間は、充分あります。 残念ながら、飲酒してしまうと座禅の時間がなくなってきてしまいます。

 昼間に時間を取って座禅をしても良いのですが、朝や深夜の気は、とても良いといわれております。 年末にかけて、忘年会が続きますが、改めて注意をすることも大切です。 なにせ、先日はお風呂で2時間も寝てしまったものですから。

初めて風呂の中で眠ってしまって2時間も

2007-11-23 08:14:28 | 自分
 昨日は、3年ぶりで会った友人と深酒をして、深夜に帰ってきてから入った風呂に,いつのまにやら眠ってしまい、家人から声をかけられるまで、2時間も入ってしまいました。 湯の温度もしっかり冷めてしまい、あわてて追い炊きをし直して,風邪を引かないようにしました。

 知人がやっていた飲み屋さんでの待ち合わせをしたのですが、もう既に看板も取り払われていて,営業をしていませんでした。 友人とその後輩の人との3人での,会食でした。 後輩の人のこれから先の進路についても、友人との対話の中で相談しようということでした。 

 芋焼酎も美味しかったし、初めて飲むノンアルコールのホッピーも良かったせいか、悪酔いぜず気分良く帰ってきたんですが。 風呂の中で眠ってしまったのは、記憶になく、今もどうしてそのような気分になってしまったのか、皆目分かりません。

 幸いにも,大事に至らなく、今日も元気に朝ご飯を食べたところです。 いつものように半身浴で湯面はお臍のちょっと上辺りだと思っておりましたが、気がついたら体も斜めになって、首まで浸かっている状態でした。

 何事もなく、感謝、感謝のひとことです。

座禅は日常的に行うことが大切

2007-11-22 10:28:09 | 座禅
 座禅をやっていますと話をすると、決まってどこのお寺でやっているんですか、どれぐらいの時間やっているんですかと、聞かれる場合が多いです。 自分の布団の上でやってっています、時間は1時間ぐらいですかねえ、と答えます。

 お寺で座禅をするのは、きっかけであって、本当はいつも自宅で日常的に行うのが、良いのですが。 いつも自分ひとりの座禅ですので、一度都内のお寺の禅の会に参加したことがあります。 毎月決まった週の土曜日に開かれることを知って、参加しました。

 結構な人数で、講堂と別室との3箇所ぐらいで行っていたように感じます。 30分やって15分休み、また30分座禅をしてから、講堂に集まって講話を聴くということでした。 昼間ですが、ちょっと暗い感じの部屋での座禅でした。 比較的若い方の参加者が多かったように感じられました。

 初めに和尚さんの禅の心得について話があり、早速、座禅の始まりです。 驚いたことに5分も経たないうちに、肩をたたかれる音が聞こえてきました。 和尚さんが前を通るときに、軽くお辞儀をしてたたいてもらうように、催促するようでした。

 肩をたたいてもらうのが、座禅の一つのスタイルであるような雰囲気のようでした。 私自身は、1時間の座禅時間は当たり前でしたし、当時、3時間の座禅を当然のごとく行っていたので、何故、そんなに早くに肩をたたいてもらわなくてはならないのか、不思議でしょうがありませんでした。

 座禅では、本来、肩をたたいてもらう必要はありません。 ある意味では、座禅に集中できない時の、眠気覚ましのようなものです。 それを、当然のように5分も経たないうちに、もうたたき棒でたたく催促をしています。 座禅が若い人には、ファッション化しているような感じでした。

 座禅は、雑念ばかりが浮かんできますので、意識を呼吸だけに集中します。 私の場合は、逆腹式呼吸という呼吸法を行います。 目を瞑り口を閉じて、軽く吸ってゆっくり10秒ぐらいで吐きます。 息を吐く時には、息を体の中へ吐くようにイメージしながら吐きます。 鼻から吐くことは考えず、あくまでも体の中へ、特にお臍のちょっと下あたりにある臍下丹田が、活性化するように念じながら吐きます。

 軽く吸ってゆっくりイメージしながら吐く、そんな単純な呼吸でよいのです。 胡坐を組めない時には、立って行います。 椅子に座ってもよいのです。 日常的なあらゆる場面で、先ず、呼吸法がスムーズに行えるようにします。 基本は、肩の力を抜いてリラックスし、頭のてっぺんが、天から引っ張られているような感じで行います。 呼吸法がスムーズにできるようになったら、次のステップに進みます。

人の喜びは我が喜び、人の苦しみも我が苦しみ

2007-11-21 08:09:01 | 自分
 私の好きな言葉で、人の喜びは我が喜び、という言葉があります。 この言葉が好きになったのは、結婚して子供が生まれ育ったある時期です。 連れ合いとのセクシュアルな営みを通して、自分の行為で相手が喜ぶ姿を、客観的に見たときでした。

 自分が色々なことをして相手に喜んで貰う、それを見て自分も喜ぶ、そんな自分の姿を客観的に見たときに、そうか、それを拡大解釈して考えれば、自分が色々なことを考え行動することによって、周りの人が喜ぶ、それを見て自分も喜ぶ、それが人として本当の喜びではないかと考えるようになったのでした。

 自らが道化になって、その場の雰囲気を盛り上げるのが好きでしたし、仕事を通してその関係者が喜んでもらえるように、努力もしてきました。

 残念ながら、今の状況は、自分の行為のなせる技で、必ずしも意図する方向へには向いているとは言えません。 そんな状況下の中で、最近は、人の喜びは我が喜びに、人の苦しみも我が苦しみ、をプラスするようになりました。

 文字通り、人の苦しみをみて自分の苦しみにしなさいということです。 自らを率先して苦しみの中に置かなければ、その苦しみを理解することが出来ません。 たまたま自分が、そのような状況下に置かれたときに、そのような計らいがあったのかな、と思うようになりました。

 逆腹式呼吸を通して静かな暗闇の中で、ひとり布団の中で座禅をしていますと、雑念の中でふと、そんなことを感じたりします。