ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

家族3人で先日秩父までお墓参りに行って来て隣のお墓に花が添えられていて

2021-03-22 02:18:28 | 家族
先日、春のお彼岸で所用のある娘を除いた3人で、秩父までお墓参りに行って来ました。 8時半に出発して途中、コンビニ寄りながら道の駅でお花とお酒、お饅頭を買って12時近くに到着しました。 何時も隣の知人のお墓には何もないのですが、お花が添えられていました。

思わず座り込んで神戸にいるKちゃんに電話をしました。 未だ20歳前後にお会いした記憶がありますが、近況を話しながら東京に住む妹さんの電話番号を訊きました。 直ぐに携帯に電話をしました。 若い頃の顔を思い出しながら、何時来られたんですかと。 妹さんのTちゃんも可愛らしい子でした。

改めて年齢を訊くと、お兄さんが75歳で妹さんが74歳になっていると云う。 SMSで住所を送って下さいと電話をきりました。 電話をしている最中に、弟の嫁さんと長男が後から到着して、お墓の清掃をしておりました。 弟も父母と一緒に、このお墓に入っているのですが。 何となく久しぶりで話が出来たりしましたので、嬉しくなってしまいました。

何時もお線香が消えるまでお墓の前で過ごし、帰りがけには花だけを残して、お供えのものは持って帰ります。 帰りの道は途中で見つけた ステーキガスト に寄って 遅くの昼食を食べて家に17時半に戻りました。 コロナがなければ秩父の温泉に寄って帰るのが、楽しみのひとつですが、感染を回避するため取り止めです。

ですが嬉しかったなあと云う1日でした。 KちゃんとT ちゃんと話が出来たことが、何よりも楽しかったことでした。 早速、SMSでTちゃんとやりとりをしました。 どんな顔になっているかなあと想像するのですが。

戦争で出会った4歳の孤児を保護して養母として過ごすことになった大学生の話でしたが

2020-11-29 10:04:36 | 家族

今朝の「こころの時代」は、「砂漠に咲くばらのように」と云うタイトルでした。 イラン・イラク戦争で孤児になった女の子を、ボランテア活動をしていた大学生に拾われて、王家の主治医をしていた実家で過ごすようになりました。

女の子は「サヘル・ローズ」と名付けられ、女子大生の名前は、フローラ・ジャスミンと云う方でした。 実家からは、女の子を外に捨てて家族とすごすか、女の子と一緒に外で暮らすかの選択を迫らせられた時に、縁を切る形で二人で縁があった日本人の住む埼玉のワンルームで、お世話になることになりました。

然しながら、そこでも男性から女の子を外へ出して一緒にすむか、女の子と一緒に外で暮らすかの選択を迫られて、やむなく養母は女の子と一緒に家を出て、公園で暮らすようになります。

スーパーの宣伝に使われる小さなカップに入った試供品を食べる毎日でしたが、それを日常的に見ていた宣伝員のご婦人が、ある日、大きな袋に入れた食べ物をくれたこともあったようです。

何時も公園にいる女の子を見つけた小学校の校長先生が、直接、日本語を教えてもらったり、学校に通うようになって給食係のご婦人から、自宅で一緒に暮らせるような配慮をされたり、養母の仕事の紹介を受けたりして、何とか生活ができるように、なって行きました。

今、サヘルさんは、ココシャネル(孤児であった)の自伝を読んで、自分の自伝本を書き、それを多くの人々に話し伝える活動を行なっております。

改めて養母のフローラさんの運命的な活動・行為に驚くと共に、サヘルさんの明るく前向きな活動・行動に、思わず胸が痛くなる感じが致しました。

サヘル(砂漠)・ローズ(薔薇)は大学生だった養母が付けた名前でした。


昨日は家族4人で秩父へお墓参りに行って来ました

2020-09-22 06:35:25 | 家族

父が天に還ってから43年、母が14年、弟が2年経ちました。 秩父のお墓は、母が生前に買っておいたものです。 墓石は父が交通事故で天に還ってから作ったものです。 墓石は私が好きな書体の隷書体で刻んでおります。

私自身は芝生墓地が好きなのですが、母が購入したので1坪の墓地です。 スエーデン産の赤茶色の石で墓石は作られて、出来るだけシンプルに作ってもらいました。 周りは白い細かな石があるだけです。

春分の日と秋分の日の年2回のお墓参りです。 出来るだけ家族が揃うようにして、お墓参りの日を決めて行きますが、昨日は4人全員が揃って、朝の8時に出発して帰着は18時でした。

コロナの関係で外出自粛が続いておりましたが、今回の4連休は全国各地で人出が回復したとの報道がありましたが、車の道中、結構混んでおりました。 片道、途中買い物に寄りながらも、3時間半かかるのですが、昨日は1時間以上いつもよりかかってしまいました。

お墓の前では、お線香が消えるまでの1時間ぐらい、父母の思い出などを話しながら過ごして、再度お墓の周りを綺麗にして帰ります。 秩父は温泉場が多いので、帰り道にある武甲の湯に行こうとして寄ったのですが、駐車場が一杯ということもあり、3蜜を避けて一路福生のスシローに向けて出発しました。

車中で息子と二人だけになった時に、ポツリと「昔 数年間 仕事の関係でお墓参りに行かなかったときに、金縛りにあったんだ」と初めて話してくれました。

そう言えば姉も納骨の時に参加出来なかった時に、枕元に父が毎晩現れて「気持ちが悪い」と姉から電話がかかって来たことがありました。 その時には、父が姉のことを心配しているんだからと言って、姉にはお墓参りをして心配しないようにと、お祈りしてきたらと話しました。

そのご、すぐにお墓参りをしたら、枕元には父は現れなかったと云うのです。 私は毎日、母から譲って頂いた仏壇に、お水を取り替えては「親神さま お父さん お母さん 俊雄さん ヨリさん 尚ちゃん 御先祖さま エルちゃん ジュンちゃん リュウちゃん みんなを温かくお守り下さい」と念じます。 最後に姉の家族 弟の家族もお守り下さい と念じます。

ちょっと前まではお線香もあげていたのですが、お祈りしてから直ぐに事務所へ向かいますので、最近になってちょっとボケ気味の連れ合いがひとり残るので、お水だけの取り替えで済ましておりますが。

 


普通の社会生活を送れない4、50歳台の引きこもりの方が事件を起こしておりますが

2019-06-03 08:47:02 | 家族

私たちはある一定の年齢になった時には働いて、その報酬を得て生活をするのが一般的な普通の生活を送ります。 然し乍らそのような普通の生活を送れない人がいるようです。

ひと昔前は、どんな職業でも一度就職すれば、余程のことがない限り、一生その生活が出来ていたのではないかと感じております。 現在はグローバル化の中で、人を採用する側が何時でも人が減らせるようなことが出来るように、我が国の政府も対応しております。

今回、事件を起こした50歳台の引きこもりの方は、子供の頃に両親が離婚して、叔父夫婦に育てられたものの、一度は外へ出たものの再び叔父夫婦の家に、戻って来たと云う。 叔父夫婦も一緒に住むものの、顔を合わせないような工夫をしていたようです。

多分、経済的にも叔父夫婦に面倒をみてもらっていたようで、高齢化の中で自分の将来に不安を抱いても不思議ではありません。

私の大学の級友の引きこもりは、一応それなりの会社に就職して、定年後に退職した以降に、何らかの理由で引きこもり状態になっています。 2人の子供は米国で生活をしており、奥さんと二人暮らしの中での引きこもりなのです。

経済的にはそれ相応の年金をもらえているので、本人の引きこもりに関係なく、生活は出来ているのです。

改めて、引きこもりの方々の存在を知ることになったのですが。


保育園の園児や保母さん達を家族と考えて取り組むみらい保育園の園長さん

2019-04-24 04:47:00 | 家族

多摩の豊ヶ丘にあるみらい保育園の園長さんと、最近になって道端に座り込んで話し合う機会が増えて、基本の保育費の範囲内で、園児たちに英語等の環境づくりを行ったり、気持ちよく保母活動を行なってもらうため等の理由から、否、みんなが自分の家族だと思って対応するために、あらゆる出来ることを実践されていると云うことを聞いて、改めて感心するだけでした。

マンションの1階に保育園があるものの、結果的に20年過ぎて保育園ランキングで、東京都で第4位と云う評価を得ております。

みらい保育園は、社会福祉法人でもなく会社組織でもなく、個人による経営を行い、個人の資産を放出しながらも、家族を大切にする気持ちを大事にしながら、保育園の運営を行なっていて、そのような保育園をさらに推し進めたいと、意欲満々です。

機会があれば、園長さんの考えに協力出来ることがあれば、積極的に取り組んでみたいと思うのでした。


弟の家族葬に明石の従兄弟が前日に来られて会食して

2018-10-30 00:26:42 | 家族

弟が27日に天に還って行って、家族だけの家族葬を行うと決めたけれど、どうしても明石の従兄弟の博文には連絡だけはしなくてはと思い、息苦しく呼吸を行なっている弟を見て、電話で病状を話しました。

明石は毎年夏が来ると、7月21日に東海道線で大阪経由で行き、8月31日まで過ごしたほど愛着を持って、接してきた従兄弟たちがおります。 従兄弟以上、限りなく兄弟に近い関係ではなかったかと思い起こさせる関係です。

30日の午前中に家族葬を行うと言う事を聞いて、50年近く会ってはいない弟に一目会いたいと、明石から来てくれました。 出来れば生前に会って話をしたかったと云うのですが。

午後3時ごろには多摩センターに着いて、駅前の京王プラザホテルにチェックインして、2階のデユエットでコーヒーを飲みながら、弟を中心話題にしながら近況や思い出について話をしました。

席を変えてアルコールを交えながら、三日月庵でツマミを摂って、従兄弟の故 義郎ちゃんや敏江ちゃんのことを話題にして、楽しく過ごしました。

明石の海岸で泳いで遊んだこと、野球や石蹴りをしたこと、地蔵盆でお米を持ってお菓子をもらい受けたこと、盆踊りをしたこと、従兄弟が集まって従姉妹の住まう呂屋で遊んだことなど。 益ちゃん、逸っちゃん、理美ちゃん、ひろみちゃん、シゲ子ちゃん、一美ちゃん、たかよちゃん。

母の兄弟の従兄弟たちとは、何とも云えぬ関係があります。 改めて弟のことを通じて、様々なことを思い出すのです。


ICU 入院期間共 5歳下の弟の方が私よりも短いのですが

2018-08-15 02:00:37 | 家族

近くに住む弟が7月30日の早朝に電話があり、緊急で入院したとの電話があり、腸閉塞で入院とのことで早速、病院に駆けつけると主治医の先生が、お話がありますと云われて聞くと、検査の結果 大腸ガンで患部が大きくなって便が通りにくかったようです。

しかも弟は2週間も便秘であったというではありませんか。 腸内で硬くなった便を、取り敢えず排出する処置をしているという。

結局 翌日、開腹手術をして集中治療室で過ごすことになりました。 私は集中治療室には2日間過ごしましたが、弟は1日で病棟に戻りました。

昨日、守谷の姉夫婦が見舞いに来て話をしていると、何と15日には退院すると云うではありませんか。 私の場合は3週間で退院でしたので、弟の場合は1週間ぐらい早い退院です。

歳の差の5歳は大きいのかなあと、改めて感じるのでした。 私は退院してからの治療はありませんでしたが、弟の場合は退院してから外来で、抗がん剤の点滴治療を行います。 これからが本番を迎えます。

病を素直に受け入れながらも、決してマイナス志向になることもなく、明るく前向きに治療生活を送って頂きたいと、願うものです。


子供の頃に一夏中過ごした明石の従兄弟たちに会いたいという気持ちが強くなっていて

2018-08-13 19:48:52 | 家族

近くにいる弟は別として、守谷に住む姉とは滅多に会うことがありません。 姉とは時々 電話で話すことがあり、会わなくても何時も近くにいる感覚があります。

歳をとったせいでしょうが、このところ子供の頃に毎夏、7月21日から8月31日間 過ごした明石の従兄弟や、神戸の従姉妹たちに久しぶりで会いたいという気持ちが、強くなって来ております。

2歳下の従兄弟は、金回りの良い時に買っておいた上着やズボンを、こちらの大きさに整えてから送って来てくれます。 神戸の同じ歳の従姉妹と連絡をして、不要な洋服を送ってもくれています。

私は弟と同じぐらいの体格ですので、分け合って着ております。先日は私のブログ「ひとり座禅のすすめ」を見ていた神戸の従姉妹の娘さんが、私の体の状況を知って、そのことを聞いた明石の従兄弟は、見舞金を姉妹から集めて、纏まった金額を送ってくれたりしました。

兄弟でも出来ないようなことをして頂いて、これをどのようにお返し出来るかを考えたりしております。 フットワークの悪くなった体ですが、近いうちに明石に行って従兄弟たちと会いたいという気持ちが強くなっているのです。

 


明石の従兄弟からの電話で姉に連絡し軽い脳梗塞に罹っていたことを知る

2018-07-13 03:33:29 | 家族

近くに住む弟とは、よく連絡を取り合う機会が多いものの、茨城の守谷に住む姉とは、滅多に連絡を取り合うことはありません。 それが明石の従兄弟の電話をきっかけに、電話をしてみてびっくりでした。

6月に軽い脳梗塞になり3日間入院し、現在はリハビリ中で右手の不自由さも少しは解消してきていると云うのですが。 よく訊いてみると、何かおかしいなあと思いながらも2日間過ごし、3日目にクリニックへ行って脳梗塞であることが分かり、即入院したようである。

本来であれば1週間入院加療しなければならないところ、猫の世話があるからと3日間で退院してきたと云う。 幸いにも命に別状がなかったものの、未だ多少の右手の違和感はあるようです。

姉は筋力トレーニングを行い、体内脂肪は10%切っていたような人であったはずなのに、なぜ軽いとは云え脳梗塞になってしまったのか、疑問が残ります。 姉によれば、義兄が甘いものが好きで、買って来たものを一緒に食べるようになってから、糖尿病になってしまったとのこと。

その糖尿病も脳梗塞になった原因ではないかと云うのですが。 私は姉を暖かく見守っていてくれる天にいる父が、軽くて済むようにしてくれたのではないかと、ふと思うのです。


2人のお子さんを育てるご婦人の話を聞いて改めて自分たちはどうであったかと

2018-04-19 02:01:29 | 家族

私が多摩ニュータウンに引っ越して来たのは、昭和47年だったと記憶しております。 清瀬市で生まれた長女が、丁度、1歳になったばかりの時でした。

私は虎ノ門にある建築設計事務所に勤めており、連れ合いも清瀬にいた時の不動産屋さんを辞めました。 私1人の給料での親子3人での生活です。 その1年後に長男が生まれました。

子供たちが小学校に通うようになってから、私自身は事務所を8年で退職し、自立することにしました。 ゼロからのスタートでしたので、取り敢えず先輩の事務所から手伝ってくれないかという話で、高田の馬場まで手伝いに行っておりました。

手元に入るお金が少ないので、学費補助を頂く生活を数年続けることにもなりました。 先輩事務所のお手伝いをするようになって1年目に、人のお手伝いをするために事務所を辞めた訳ではないはずだと考え、全くゼロからのスタートをすることにしました。

少ない貯金も底をつき、母から当面の生活資金として300万円を借りました。 多摩ニュータウンは民有地を区画整理されて、有効利用は未だ手付かずの状態でした。 虎ノ門に通っていた時には、駅まで通う通りにある空き地を見ても、何も感じなかったのですが、土地の所有者を調べ、公図を取得して建築計画の提案をすることになりました。

1週間ぐらいかけて作った計画案と、収支計画表を持って飛び込みで説明に上がりました。 公団の住宅の設計を手掛けていた経緯から、民有地を利用しての賃貸住宅や、先輩事務所が手がけていたスポーツクラブのピープルの誘致を勧めました。

たまたまピープルの副社長さんが、富士銀行の聖蹟桜ヶ丘支店の初代の支店長さんであったことも幸いし、ぜひ多摩市でピープルの施設を造りたいとの意思が強く、結果的に始めた計画した施設が、多摩センターに造られることになりました。

丁度その頃、経済的に豊かでなくても精神的に豊かになれるはずと思って、仕事もないのに朝の6時から9時過ぎまで、テニスをすることになったのです。 テニスはコートの改修工事が始まる前まで、雨が降らない限り毎日3年間続けました。

ピープルの建設以降、皆さんから応援を頂くようになり、次から次へと建設計画が実施されることになりました。 母から借り入れたお金も返済し、生活資金も少なからず送金出来るようになりました。

子供たちが通った塾等は、お絵描き教室、エレクトーン音楽教室、そしてピープルでの水泳教室でした。 泳ぐ姉弟の姿を頼もしく見ていたのは言うまでもありません。

督促状をもらっていた奨学金の返還も、何とか遅ればせながら返せた記憶が、ぼんやりと残っておりますが。