ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

耳鳴りが誰もがしていると思っていた米田健治先生

2014-10-31 07:34:11 | 

 先日、私の黒門小学校3年のときに習った、近くに住む米田健治先生のところへ行ってきました。 90歳になり、脊柱管狭窄症という病になり、好きな映画も行けなくなり、週2回のリハビリ通いが唯一、外出の機会のようでした。

 

 いつも様々なことを話題にして、夜遅くまで話をするのですが、先日は耳鳴りの話が出ました。 それによると、先生は若い頃から耳鳴りがしていて、その耳鳴りは誰もがしているものだと、思っていたようです。

 

 耳の検査は、音を発信して、それが聴こえるかどうかは、検査を受ける人の判断によるのです。 私は、その話を聞いて、機械で耳の状態が分かる検査が出来ないものかと感じました。

 

すると昨日のネットの記事によると、両耳の聴こえない作曲家として知られた、佐村河内守さんが聴覚障害ではなく、障害者手帳を変換した問題を受け、厚生労働省の検討部会は、医師が全聾にあたる2級の診断をする場合に限り、正確に聴力を測れる脳波検査の実施を、義務付けることで一致したといいます。

 

然しながら、米田先生のような可成りの歳になるまで、耳鳴りが聴力障害だと気がつかない方もおられることから、一生に1回か2回は、脳波の検査などの精密検査を行うことも必要ではないかと思うのですが。


エボラ出血熱の西アフリカで医療活動をした看護師の大滝潤子さん

2014-10-30 07:50:45 | 

 先日、ネットに西アフリカのシオラレオネで40日間、エボラ出血熱の医療活動をしてきた看護師の大滝潤子の話が、出ていました。 そこで目のあたりにした現地の惨状や、患者の救命にかける想いを述べています。

 

 大滝さんは高校生の頃に、ボランティアでベトナムの麻薬中毒患者の、リハビリ施設建設に携わったことがきっかけで、世界中の病気に苦しむ人を助けたいと思うようになりました。

 

 日本の病院で看護師として働き、海外留学して英語も勉強し、2012年からは国境なき医師団(MSF)に参加して、イラク、ヨルダン、南スーダンへの派遣も経験し、今回のシエラレオネの医療活動に参加したのでした。

 

 事前に3ヶ月間、長崎大学の熱帯医学研究所でエボラ出血熱の研修を受けての出発です。 エボラ出血熱の致死率は50%程度と高く、空気感染はしませんが、血液や汗などの濃厚接触によって感染します。

 

 現地では、有効な治療薬がないため、病を和らげために、鎮痛剤や水分の補給などの対処療法が主体で、悲しいという感情を押し殺しての、医療活であったといいます。

 

 助かる見込みがないと思われても、尊厳ある最後を迎えてもらうために、心を尽くして看護をされてきたという記事を読むにつれ、改めて大滝さんの顔写真を見ると、輝いて見えました。 また思わず胸に痛みを感じたのです。


一口入れたら箸を置き30回噛んでから又 食べるを実践した方が来られて

2014-10-29 08:12:36 | 胎息

 昨日、近くの会社で働いておられる方が来られ、以前に私が話したことがある、食事の時に一口入れたら箸を置き、30回噛み終わるまで箸を持たないようにする、食事の仕方がありますよ の話をそのまま実践し、その報告に来られました。

 

 おかげさまで、停滞していた体重が少し落ちて、ちょっぴりスリムになったと、嬉しい報告でした。 私自身も、実践はしたのですが、いつの間にか元に戻ってしまっていました。

 

 嬉しい報告を聞いたあとで、私自身が長く吐く呼吸、体の中へ吐く呼吸を行いながら座禅を1時間、行うことになったきっかけなどを話しました。

 

 深呼吸の要領で行う呼吸法は、私たちの体の生理に合ったものであり、私たちがお母さんのお腹にいたときに行っていたと思われる胎息は、誰もが行っていた気の呼吸であり、生来持っていた機能であるので、長く吐く呼吸法で、その機能が回復することができる という話を熱心に聞いておられました。

 

 胎息というと、ものの本には仙人が行う呼吸法であると、書かれていることがありますが、私はそうではなく、本来、持っていた機能であるので、誰でもが長く吐く呼吸、体の中へ吐く呼吸を続ける事などによって、回復することができるものだと、改めて強調しました。

 

 熱心に聴かれたあとで、帰られました。 また、どんな話をしに来てくれるか、楽しみに待つことにします。


会津東山温泉の旅籠 芦名 はおもてなしの心で満ち溢れ

2014-10-28 08:38:34 | 文化

 26日27日にかけて会津若松に行ってきました。 白虎隊が憤死した飯盛山の木造で出来た二重螺旋階段のあるさざえ堂 を見るというのが主目的でした。

 

 小さな建物ながら、上りと下りが出会えないという特殊な構造の建物です。 創意工夫をする遊び心のある大工さんでなくては、造ることが出来なかったのではないかと思われるものです。

 

 泊まりは東山温泉の旅籠 芦名 にお世話になりました。 玄関には古い炬燵がおいてあり、その正面には蔵で使われていた扉があります。 玄関ホールには昔使われていたであろう家具が置いてあります。

 

 私たちは男7人は2室ある部屋に案内され、女性3人は3階の部屋に案内されました。 階段を上がり廊下を通り、部屋に入るまでの空間は、家具や小物の備品が置いてあり、適度に季節の花で、あちらこちらに置いてあります。 全て生花です。

 

 お風呂はかけ流しの温泉で、小づくりの内湯と露天風呂があります。 タオルは間違えないように入れ物のビニール袋も含め、色違いです。 

 

 夜食は、自家栽培の食材を中心に、優しい京風の味付けでした。 強制ではない語り部のご婦人が、昔ながらの会津弁で、要望により色っぽいお話をしてくれました。 

 

 女将さんのざっくばらんなおもてなしを受けながら、楽しい一夜を過ごさせていただきました。 夜は皆さん全員が着物姿で対応してくれて、朝は一転、全員が洋服姿での対応です。

 

 次女の若女将や若い女性のスタッフの方々全員が、優しい自然な対応で接していただきました。 駅までの送迎には、日本には限定で100台しか生産しなかったトヨタの、ちょっぴりクラッシックな車がありました。 残念ながら私たちはサロンバスでしたので、利用はできませんでした。

 

 建物内外の隅ずみまで心配りされた空間で、更におもてなしの心が自然な形で表現される女将さんや全ての女性スタッフに囲まれ、気持ちの良い時間を過ごさせていただきました。

 

 私たちの仲間のひとりは、早速、奥さんを連れて年末に来ると宣言しておりました。 会津の旅籠 芦名 で過ごすということが目的でも、良いのではないかと思いました。 リピーターの方が多いのではないかと、改めて感じさせていただきました。

 

 よる寝る前に1回、夜中に1回、早朝1回と温泉に浸かり、深夜の1時間の座禅も、アルコールは痛飲しましたが実践しました。 楽しい時間を過ごさせて頂き、ありがとうございました。 感謝。


私たちの設計協会が設立30周年の記念旅行で会津へ

2014-10-26 07:17:19 | 文化

 私たち設計仲間で作った協会が、30年になりました。 多摩市のまちづくりに、これまでも何らかのお役に立てればと、協力してきました。

 

 唯一、残っている事業としては、5月の連休中に行う 木片チップによる積み木遊び です。 これは多摩ニュータウンの多摩センター地区で、ガーデンシテイ多摩フェアーに第1回から参加し、現在は子どもまつりとして継承され、続けられています。

 

 9センチ×9センチ×2.4センチの大きさの木片チップを、建設会社の協力で作って貰い、それを青空の広場で子供たちに、遊んでもらおうという考えで始めました。 積み木遊びを通して、ひとりでも良いから将来、デザイン方面に関心を持ち、その方面に進んでもらいたいという願望を持っていました。

 

 今や木片チップも1万数千個になり、それでも不足気味で、チップの取り合いになります。 子供に負けじとお父さんやお母さんも参加されます。

 

 私たちは作られた作品を写真に撮り、住所、年齢、名前を聞いて、後から送ります。 写真は後で私たちが集まって、素敵な作品には図書券を3000円、2000円、1000円に分けて写真と感想文を一緒に送ります。

 

 私たちの会費は年5000円ですが、少ない会費の中から捻出して、お送りします。 時々、感謝のお手紙をいただきます。 参加者の子供たちの中には、一橋の大学院に進み、既に社会人になっておられる方もいます。

 

 そんなことを続けながら、もう30年経ったのだなあとの感想を持ちながら

旅行に行ってきます。


友人の病気回復を念じて感じたこと 天目

2014-10-25 07:54:46 | 

 私が勤めていた事務所の後輩で、私の机の前にいた友人(女性)が、仕事先でガンになったようだと聞きました。 彼女の家には、我が家からヒマラヤンのメスの子猫が貰われて行ったので、ある意味では親戚のような親近感がありましたので、当時、座禅(静功)を始めたばかりでしたが、彼女の病気回復を願って、ひたすら座り続けました。

 

 後にも先にも、3時間座り続けたのは、その時だけでした。 今では何ヶ月座り続けたかは覚えてはおりませんが、その時に様々なことを感得しました。

 

 病気回復の念じ方などは、初めてのことですので、無我夢中で自分で考えながら、長く吐く呼吸を行いながら、真っ暗闇の中で胡座を組みながら、座り続けました。

 

 彼女の病気回復を念じると、おでこの中心部が目の形をして、そこから何か(気)が出ていくのが感じられました。 天目という言葉は知ってはいましたが、その天目の存在を、はじめて知った瞬間でした。

 

 天目は、何か特別なことを行おうとした時に、動くということが分かりました。 手塚治虫の漫画「三つ目がとおる」の主人公は、おでこに三つ目の目があり、それが超能力を発揮するという物語だったと、記憶しております。

 

 残念ながら彼女は、天に還っていってしまいましたが、多くの人の思いは伝わるのではないかと、何回も手術をしながらも、彼女が持ちこたえたことを通して、感じたことです。

 

 また通常ではない時別なことを、人のために行おうとするときには、天目が開くのだということを、感得したのでした。


加齢性黄斑変性症で新生血管の動きを抑える注射を打っていますが

2014-10-24 08:16:39 | 

 もう7、8年になるのか、10年になるのか忘れてしまいましたが、20数年前に網膜剥離をした右目が、マス目の図柄を見ると、直線が少しギザギザに見えるようになりました。

 

 近くの眼科経由で多摩南部地域病院の眼科で、定期的に検診を受けるようになりました。 加齢性黄斑変性症という目の病気で、難病の一つでなかなか治癒されません。 現在、神戸の最先端医療施設で、IPS細胞を利用しての治験をしております。

 

 私は、網膜内での新生血管を抑えるべく、その活動を抑える注射の治療を行っています。 ワンクール3回で1ヶ月毎に行いますが、私の場合は3ヶ月の治療が終わって様子を見ていたのですが、また次のワンクールに進むべく、先日、手術室の中に入り、目を十分洗浄した後、注射をしました。

 

 多分、IPS細胞を用いた治療は。成功するだろうと予想しております。 早くIPS細胞を用いた治療方法が、一般的に行えるといいいのですが。 

 

 それにしてもIPS細胞を、運用面ではるかに超えると期待した、万能細胞であるSTAP細胞の真実は、どうなったんでしょうか。 早く実証されることを思うばかりです。

 

 それにしてもエイズウイルスよりも怖いといわれた エボラ出血熱 の当面の治療薬 富山化学の抗インフルエンザ薬の アビガンが治癒の原因になっているようで、何か不可思議な感じがいたします。


ヴァイオリン協奏曲からレクイエムへ YouTubeで聴きながら

2014-10-23 08:07:13 | 文化

 支援者の一人の方から自分が行けなくなったので、とコンサートのチケットをもらって、クラシック音楽を聴くようになりました。

 

 また近くにあるパルテノン多摩や府中の森・芸術劇場でのコンサートを、HPをチェックしながらも、行くようになりました。 また玉川上水にある国立音楽大学や、新百合ケ丘にある昭和音楽大学のコンサートも、新しいホールをみる興味も手伝って、積極的に聴きに行くようになりました。

 

 更に東京にある大学のコンサートも、経験豊かな演奏会の数が多い大学やアマチュアのコンサートも、楽しむようになりました。

 

 事務所ではヴァイオリン協奏曲をYouTubeで検索して、その音色を聴きながらパソコンで、作業を行っています。 ヴァイオリンは子供の頃に弾いてはいたのですが、いつの間にか体を動かす方に、目は向いていました。

 

 テレビの千住真理子さんの カンツォーネを歌うように という番組で、その音色に感じるものがあったのが、ヴァイオリンの曲を積極的に聴くきっかけになったと反芻しています。

 

 現在は、レクイエム を聴くようになってきました。 多くの人の声で歌う声色も何ともいえず、胸に響くものがあります。


母への介護の体験が他の人のお役に立っているようですが

2014-10-22 08:47:32 | 

 赤羽で独り住まいだった母を、1週間に1囘、顔を出して元気な姿を安心していた私でしたが、股関節骨折を期に、階段を上り下り出来ないと、私の多摩ニュータウンの住まいに、来るようになりました。

 

 引っ越して来た当初、母は昼間、一人になると家から出て行くことがありました。 私が家に帰ってきた時に、1階の方が、どうも顔が似ているので、○○さんのお母さんですかと尋ねると、違います違いますと否定したので、多摩中央警察に連れていったということでした。

 

 家に母が居りませんでしたので、直ぐに多摩中央警察に迎えに行きました。 母は長く住んでいた赤羽の家に、帰りたかったようです。

 

 その後、母は病院からもらってきた薬が、精神薬であったため、よく夜中に失禁をするようになりました。 ところが市役所の福祉課の方から、その薬の成分を聞いてから、薬の服用を止めたら、ぴたりと失禁はなくなったのです。

 

 昼間、一人でいるのは良くないと、近くの老人保健施設に入ることになりました。 私の支援者の一人である方も、ちょうど他の施設に入ったばかりで、これからの先に、どのような行動を起こす必要があるかを、教えてもらいました。

 

 介護度がまだ2程度でしたが、特別養護老人ホームへの申し込みを行いました。 特養に申し込みをしているということで、1年以上居ることができ、その後、別の施設に移り、3ヶ月後に、特養に入ることができました。

 

 母は若い頃、女番長をしていたようで、多くの人の中にいたほうが元気が出るようで、老健の施設の時も、運動会で選手宣誓をしたようでした。

 

 特養に入ってからしばらく体のほうも安定していたのですが、20年ほど前に行った腎臓結石の破砕手術後、肝心な細かく砕かれた結石が排出されずに、結果的に透析をすることになってしまいました。

 

 特養から退出し、府中病院から青梅の小作の療養型の病院に入ることになりました。 結局、青梅の療養型病院と府中病院を往復するようになり、最後は私が昼間にお見舞いに行った帰る途中で、天に還って行きました。

 

 こんな母のことを思い出さながら、文章を書いていても、なんとなく胸が痛くなってきてしまいます。


青色LEDの中村修二さんと日亜化学訴訟における異聞

2014-10-21 07:55:36 | 健康づくり

青色LEDの開発でノーベル物理学賞の受賞が決まった中村修二さんが、元の勤務先である日亜化学との訴訟は、報道でみる限りでは、はじめに訴えたのは中村さんだとおもっていました。

然しながら、後で分かったことですが、最初に訴えたのは日亜化学だったのです。な中村さんの青色LEDの開発をしたいと申し出て、開発資金の許可と米国への留学に理解を示したのは、前の社長さんでした。ななかなか開発出来ないのを見て、後の現社長は、途中で研究開発を止めるように指示したそうです。

中村さんは、それにお構いなく、続けて結果的に開発に成功を収め、今や日亜化学は、それに青色LEDランプの生産では、日本でも屈指の会社になったのです。

中村さんは、それまでの会社の対応に嫌気がさして、もっと自由な研究を求めて、米国の大学にわたりました。

すると日亜化学は、中村さんをう訴えたのです。 中村さんとしてはそんな日亜化学の態度に我慢がならず、逆に訴えて勝訴しました。

8億円程のお金を貰って、住宅ローンなどの借金を払って、残りのお金は寄付したとのことです。