ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

何ごとも楽しむ感覚を持つほうが良い

2012-09-30 07:29:19 | 気づき

 私の友人と出会って、改めて考えさせられることがあります。 いつも何かを楽しもうとしている姿を、表しているのです。

  大学の級友の加藤三尋君と、研究室の先輩の宮下博さんです。 加藤君は、いつもどうやって皆に楽しんでもらおうかと、笑顔で企画し。その姿を素直に表現しています。

  宮下さんは、いつもニコニコして、今からでもいつでも楽しむぞというものを、顔や体全体で満ち溢れています。 勿論、自分だけでなく加藤君同様に、皆にどのように楽しんでもらおうかと、目もランランと輝いています。

  私も呼吸法を伴いながら静かに座禅を行なっていることが、楽しく感じているのですが、改めて友人たちの立ち振る舞いを省みて、何ごとも楽しむ感覚を持つほうが良いのではないかと、思うのです。

  経文の中には、否定的な言葉が並んでいるようですが、本来的な意味は、そのようなものはないのではないかと、感じてはいるのですが、私には相に合わない感じがします。

 ただ座っているだけが楽しいのですから、日中は動きがあるのですから、これ以上喜びはありません。 否定的な考え方を持つよりも、肯定的な考えを持って生活をしたほうが、より楽しくなるのではないかとも思うのですが。


その人の存在が他の人に幸せ感を与える方がいるんですね

2012-09-29 08:42:09 | 友人

 朝歩きをしていると多くの方と出会い、またお話をする機会ができます。 私は自宅を出てから、多摩中央公園を右回りで歩きます。 いつも左回りで歩く北見出身のご婦人と、挨拶をしているうちに、出会うと一緒に歩くようになり、今では鶴牧3丁目にある芝生だけで出来た月山にあがり、西方に向かって見える富士山や、東方に見えるスカイツリーや東京タワーを見晴らし具合をみては、今日は気持ちが良かったとか、くもり空だが住宅群の屋根の色がきれいだとかを、感じては又歩き始めます。

  いつもリズムよくご夫婦で歩いている方と出会いますが、お二人共挨拶する笑顔が、私たちに何となく元気をくれているような感じがしてきます。

  仕事仲間の友人は、桜並木がある1週キロの宝野公園を、大きく手を振って5周しますが、その姿も何処かの軍隊が歩いているような雰囲気で、どこか楽しさや面白さを与えてくれます。

  腕を曲げて元気よく歩いていて、出会うと素敵な笑顔を見せながら挨拶されるご婦人も、遠くから見ていても、感じが良い雰囲気を作っています。

  宝野公園際の住宅に住みながら、周囲の緑地を一年中を花で埋めようと、毎朝、土いじりをされている石合正治さんは、みなさんから話しかけられ、愛されているような感じがいたします。

  私も、始めの頃は挨拶するだけでしたが、ひと声かけるようになって、次第に立ち話をするようになりました。 一緒に歩いている細谷さんも、話されている時の笑顔が、とても素敵な感じがしますね、と話しておりました。

  石合さんは、15年前から土いじりをしながらも、ピアノを個人レッスンを受け、バイエルを卒業し、現在ではツェルニー教則本の途中まで、進んでいるとのことでした。 

 石合さんの出会いを通して、改めて、その人の存在が他の人に幸せ感を与える方が、いるだなあと思うのです。


座禅を楽しむ・胎息から腹式呼吸へ更に肺呼吸へ

2012-09-26 07:43:25 | 座禅

 長く吐く呼吸を通して、今まで感じなかったことを色々と、感じるようになります。 私は深呼吸の要領で行う、我流の逆腹式呼吸を通して、体の中を循環する気の動きを感じるようになり、更に、下腹の臍下丹田が、心臓のように動くことを感得しました。

  更に気の心臓部である臍下丹田が、活性化したことによって、胎息という肺呼吸を伴わない気の呼吸を,感得するに至りました。 そのことを通して、私たちは誰もが、お母さんのお腹の中にいた時には、胎息という気の呼吸を行いながら生長し、胎外の出来事を気を通して感じることが、出来るのではないかとも思うようになりました。

  例えば自分がお母さんの中にいた時の出来事を、自分が体験したかのように話す子供がいるという事実からもです。 また、日本人の奥さんが米国人のご主人から云われて、半信半疑ながら、胎児に二人で話しかけながら育てた結果、4人の娘さんが4人とも、3段も4段も飛び級するような形で、育った事実があるからです(本で出版されています。本の名前はど忘れしてしまいましたが)。

  胎児は生まれでた瞬間に、気の呼吸から空気を吸う腹式呼吸を通して、肺呼吸に変化します。 その時の変化の現れが、「オギャー」という泣き声なのです。 私が初めて息を止めて、胎息にチャレンジした時に、気の呼吸を止めて肺呼吸を行おうとした時に、息苦しさを感じたことがあります。

  生まれでたばかりの時には、私たちは赤ちゃんが、お腹を凹ませたり出したりする姿を思い出します。 腹式呼吸を通して私たちは、次第に肺呼吸に推移してくのです。

 吸う,吐くの呼吸は、自然の動きの中で行われていきます。 肺呼吸の最終的な姿は、吸うときに胸は拡がり下腹は凹みます。 吐く時には胸は元に戻り下腹も元の大きさに戻ります。 これが自然の姿なのです。


座禅を楽しむ・半身浴で下腹の臍下丹田を温める

2012-09-24 07:49:13 | 座禅

 私が生まれて初めて座禅(静功)を行う1年前から、知人から教えてもらった半身浴を、行なっていました。 後に、この半身浴が、私に思わぬものを早期にもたらすことになりました。

  半身浴は、お湯の面が、お臍のちょっと上ぐらいにして入る、お風呂の入り方です。 ものの本には、低い湯温にして入れと書いてありますが、私は好きな温度で良いと思っています。

  現在では湯量を少なくして、胡座を組んで入っていますが、当初は洗い場用の椅子を、お尻に敷いて入っていました。 蓋をしてタオルを手元に置き、新聞や雑誌を見ながら、汗を拭きながら入っていました。

  湯面から上の上半身が、頭の中まで汗でびっしょりになるまで入ります。 半身浴は、心臓に負担をかけない、お風呂の入り方になります。 更に、下腹を十分に温めるのです。

  私は、いつも半身浴をして、十分体を温め終わった後に、自分の寝室で部屋を真っ暗にして、座禅を行なっていました。 我流の逆腹式呼吸を行いながら、毎日1時間座っていました。

 私の逆腹式呼吸は息を出来るだけ長く吐き、吐く息を体の中(下腹の臍下丹田)へ向けて吐きます。 半身浴で下腹の臍下丹田が温められた後で、逆腹式呼吸で息を丹田に吹き入れられていったので、結果的に早期に(1ヶ月半で)、臍下丹田が心臓のように鼓動を始めることになったのです。

 全て、これらのことは意図して行われたものではなく、たまたま結果として、早期に丹田が活性化していったのですです。


座禅を楽しむ・胎息から腹式呼吸へ更に肺呼吸へ

2012-09-23 06:42:23 | 座禅

 長く吐く呼吸を通して、今まで感じなかったことを色々と、感じるようになります。 私は深呼吸の要領で行う、我流の逆腹式呼吸を通して、体の中を循環する気の動きを感じるようになり、更に、下腹の臍下丹田が、心臓のように動くことを感得しました。

  更に気の心臓部である臍下丹田が、活性化したことによって、胎息という肺呼吸を伴わない気の呼吸を,感得するに至りました。 そのことを通して、私たちは誰もが、お母さんのお腹の中にいた時には、胎息という気の呼吸を行いながら生長し、胎外の出来事を気を通して感じることが、出来るのではないかとも思うようになりました。

  例えば自分がお母さんの中にいた時の出来事を、自分が体験したかのように話す子供がいるという事実からもです。 また、日本人の奥さんが米国人のご主人から云われて、半信半疑ながら、胎児に二人で話しかけながら育てた結果、4人の娘さんが4人とも、3段も4段も飛び級するような形で、育った事実があるからです(本で出版されています。本の名前はど忘れしてしまいましたが)。

  胎児は生まれでた瞬間に、気の呼吸から空気を吸う腹式呼吸を通して、肺呼吸に変化します。 その時の変化の現れが、「オギャー」という泣き声なのです。 私が初めて息を止めて、胎息にチャレンジした時に、気の呼吸を止めて肺呼吸を行おうとした時に、息苦しさを感じたことがあります。

  生まれでたばかりの時には、私たちは赤ちゃんが、お腹を凹ませたり出したりする姿を思い出します。 腹式呼吸を通して私たちは、次第に肺呼吸に推移してくのです。

  吸う,吐くの呼吸は、自然の動きの中で行われていきます。 肺呼吸の最終的な姿は、吸うときに胸は拡がり下腹は凹みます。 吐く時には胸は元に戻り下腹も元の大きさに戻ります。 これが自然の姿なのです。


座禅を楽しむ・長く吐く息だけに意識を集中する・2

2012-09-21 08:46:34 | 座禅

 吐く息を出来るだけ長く吐く時に、鼻から息が出て行くことを一切忘れ、あくまでも息は体の中へ吐きます。 下腹にあるとされる臍下丹田に向けて吐きます。

  私自身は臍下丹田といっても、どこにあるか分かりませんでした。 いつもゆっくり息を吐きながら、絶えずどこにあるのだろうかと探していました。 現在はいつも臍下丹田は、心臓のように鼓動しておりますので、どこにあるかは分かっておりますが、当初は皆目分かりません。 ましてや心臓のように鼓動するなんてことも,わかりませんでした。

  吸う、吐くの呼吸を1回とすれば、はじめは1分間に3回を基準に考えます。 慣れるに従い、吐く息も長くなってきます。 1分間に2回を目標にしても良いかもしれません。

  呼吸法によっては、途中で息を止めたりする方法もあるようですが、吸う、吐くの呼吸のリズムは、自然のほうが良いのです。 私達の普段の生活でも、息をわざわざ止めるようなことはありません。

 体の中へ息が入っていくのを実感するために、息音が聴こえるように吐きます。 出来るだけ長く息を体の中へ吐くことによって、生来眠っていた経絡(気の通る道)の通りが良くなってきます。

 そのことによって、私たちに様々な体の微妙な変化を与えるのです.その変化を楽しみながら、ひたすら長く息を吐きながら、座禅を行います。 最低1時間の座禅を続けることによって、更に様々なことを、感得させてくれるのです。


座禅を楽しむ・長く吐く息だけに意識を集中する

2012-09-20 08:23:58 | 座禅

 座禅で一番難しいのは、如何に意識を一点に集中出来るかです。 集中の方法として、ひたすら数を数えることに集中する数息法というものと、長く吐く息に意識を集中する方法があります。

  私は数息法を行なったことがありませんので、何とも云えませんが、数字に弱い人はひたすら吐く息を、出来るだけ長く吐く呼吸法のほうが、良いような気が致します。

  ここでは一般的に云われている順腹式呼吸や、順腹式呼吸に対峙する逆腹式呼吸は取り上げません。 ここでは、我流の逆腹式呼吸を取り上げます。 何故か、それは自分の体験から、ラジオ体操の時に行なった深呼吸のやり方が、肺と臍下丹田との動きに、自然に感じるからです。

  肺は空気を、臍下丹田は宇宙の気を、吸ったり吐いたりします。 

  大きく息を吸うときには、胸は拡がり下腹は凹みます。 肺で空気を吸うときには、丹田では宇宙の気を吐くのが自然です。

  息を吐くときには、胸は元の大きさに戻り、下腹も元の大きさに戻ります。 肺で空気を吐くときには、丹田は宇宙の気を吸うのです。

  出来るだけ吐く息を長く吐こうとするときには、息を出来るだけいっぱい吸うのが自然です。 従って、横隔膜を出来るだけ拡げて息を吸いますが、その時に下腹の丹田は、出来るだけ宇宙の気を吐いたほうが良いのです。 下腹は当然、出来るだけお腹の皮が、背中側に付くぐらいに凹ますのです。

  吐く息は、出来るだけ長く吐きます。 試しに全部吐ききってみます。 すると、吸う、吐くの呼吸のリズムが、スムーズにいかないことが実感できます。 従って、吐く息を全部吐ききる寸前で、軽く息を止め、また大きく息を吸います。

  我流の逆腹式呼吸で大切なことは、無理はするけど決して無理はしないことです。 また吸う、吐くの流れが、出来るだけ自然であるようにします。 ちょっと矛盾することを云っておりますが、これは自身の呼吸の積み重ねで感得していただいきたいことなのです。


座禅を楽しむ・常に肩の力を抜いてリラックッスする感覚を知る

2012-09-19 06:57:00 | 座禅

 14年ほど前から座禅を始めたのですが、座禅の基本は、先ず肩の力を抜いて、上半身を頭のてっぺんを天から引っ張られているような感覚で、維持することです。

  上半身にはいかなる部分にも、常に力がかからないようにします。 力学的にはお尻と頭は垂直になり、上半身の荷重が、そのまま床から反力になって、上半身の体の中には力がかかりません。

  従って両膝は転倒しないように、床に触れているだけで良いのです。 上半身の重心は、体の垂直の軸上にあることが大切なのです。

 ものの本によれば、お尻と両膝の3点で上半身を支える、との記述があるようですが、私は感心しません。 これですと支える両膝に、力がかかってしまうのと、体の重心が体の軸から外れてしまうのです。

  座禅を始めた当初は、話に夢中になっているだけで、肩に力が入ってしまっていたりしました。 そんなときは、肩をシャッフルして力を抜きました。 

 常に、日常的にいつも、肩の力を抜いて、上半身をまっすぐにしているように、心がけています。 姿勢を正そうとして、胸を反らせては筋力が働いてしまいます。 いつも、そのように心がけていますと、自然と物事に対して、そのような気持ちで対処できるようになると感じています。


座禅を楽しむ・静かに座りながら感得する

2012-09-18 09:59:24 | 座禅

 座禅というと修行のイメージが強いのですが、私の場合は一切、そのようなものはありません。 たまたま千葉に住む大学の級友が、私の住む近くで静功(気功の静かな功)を行うんだけど、という声掛けが縁で始めたのです。

  中国人の留学生が先生で、その方の話は何となく聞きながらも、生まれて初めて行なった、真っ暗闇の中で1時間、無我夢中で深呼吸の要領で、大きく吸って出来るだけゆっくりと、長く吐く呼吸を行なっていました。

  家族と一緒に見た極真空手の創始者の映画「空手バカ一」で出てきた演武で、息を吐くときに息音が聴こえるように吐いていたことを思い出し、そんな吐き方を行なっていました。

  吐く息を出来るだけ長く吐こうとすると、自然とそのような吐き方になっていたのかもしれません。 何がどうなったのか、1時間の座禅中に、頭のてっぺんに電子があり、そこから頭全体が、帽子をかぶっているような感覚になったのです。

  それ以来、体の微妙な変化を楽しみながら、胡座を組んで座禅を行なって来ました。 日々、微妙に変化する身体を通して、様々なことを感得することが、とても大切なことのように感じました。

  意識が集中する中で、ふと浮かぶ雑念を払うことなく、考えてきました。 すると、宇宙の叡智が「このように考えたらどうですか」と、サジェスチョンを与えてくれるのです。

  雑念が起きたら払いなさいというのが、禅宗ではよく云われることのようですが、私はそのようには、考えませんでした。 雑念のオンパレードでは困りものですが、意識が集中する中での雑念は、打ち払う必要はないのです。 その積み重ねの中で、考え方が創られて行くのです。

 座禅を通して感得するとは、例えば、上記のようなことなのです。 これは、ほんの一例です。


教頭の地位向上を目指した我が恩師の米田健治先生

2012-09-16 10:06:14 | 文化

 上野の黒門小学校の3年のときに担任だった米田先生は、子供の頃から大好きな先生でした。 現在の多摩市役所に建っていた木造2階建ての多摩村小学校の先生でしたが、奥さんの実家のある都内の学校に転校する機会を得て、私が6年間過ごした黒門小学校で、1年半過ごしました。

  然しながら、多摩村小学校の心ある先生方が、先生のお宅まで来て、ぜひ多摩村小学校に戻って欲しいと懇願され、結果的に戻ることになりました。

  多摩村に戻って優秀であったためか、年齢的に早くに教頭になりました。 当時は(今でも)教頭は、校長になるために通過点であるという考えがあり、教頭は雑用係のような中途半端な役割分担しかないようでした。

  本来であれば、米田先生は早くに校長になれたそうですが、学校生活の後半は、教頭の地位向上を目指して、全国を飛び歩き、国会にデモ行進し、国会議員に陳情をもしたとのこと。 教頭という名称は、現在では副校長という名称になりました。 

  先生自身はトップに立つのではなく、ナンバー2の参謀として働くのがあっているというのです。 実は私も、常々、縁の下で人のお世話をするのが苦ではなく、先生と同じように参謀として働くのが、好きな感じがします。  

  昨日は、先生のお宅に伺い、奥さん共々、楽しい話をさせていただきました。 なかなか買わなかった大きな液晶テレビも整い、震災用の携帯電話も2人分ありました。 早速、電話だけでなくショートメールも出来るように、実際にかけてみて、お見せしました。

 88歳になった先生ではありますが、パソコンもやられたらとの、お話もさせていただきました。