ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

親を見て子は育つといいますが-17

2005-10-31 07:05:45 | 自分
 虎ノ門のある建物の再開発に絡み、その一角にある建物の取り壊しおよび移築を担当したときには、貴重な体験をいたしました。 5階建ての5階に地主さんの長男夫婦が2人の子供姉妹4人家族で住んでおり、挨拶をした折に話の過程で当時17歳の高校3年の妹さんの家庭教師することになりました。 
 当時でいえば、アグネスラムという女の子にとても似て可愛く、事務所勤めをそこそこにして1週間のうち、3,4日は行ったと思います。 家庭教師をしながら窓を眺めると、隣接地では担当する大きな再開発のビルの建設現場があり、働いている人たちの姿もよく見えました。
 余りにも可愛いので、彼女を中心にして開発会社、建設業者、電気業者、設備業者の担当者に呼びかけ一緒に10数人がアメリカンフットボールを見に行ったり、ビールパーティを開いたりして、おおいにみんなに楽しんで貰いました。 建物を解体する直前にはそのお宅で、照明も工夫し翌朝まで4人家族の方々ともども、みんなで楽しみました。
 それが縁で今は平市で電気会社の専務で張り切っている電気業者の担当の方と、妹さんが結婚することになり、勿論結婚式にも招かれました。 その後、分かったことですが、そのことが縁で、やはり開発会社の担当の方とお姉さんのほうも結婚されたとの報告も受けました。 彼女を囲んでみんなが楽しそうに喜んでいる姿が、今でも鮮明に思い起こされます。 下の長男が生まれてよちよち歩きをするぐらいのときであったかなと思います。

親をみて子は育つといいますが-16

2005-10-30 10:30:47 | 自分
 事務所勤めをする中で、大きな誤りを2度起こしてしまい、一度は長女が産まれ親子3人が川の字になって寝ているときに、寝汗を1ヶ月間かいて過ごしました。
その2度の体験で学んだことは、現在起きている現実は動かしようもなく、そのことを悩んでもいかんともしがないということでした。
 起きてしまったことをどのように改善するか、またはマイナス点をどうすればプラスに、変化させることができるかを考えたほうが、よいのではないかということでした。 悩むより現実をそのまま受け入れ、どうしたらよくなるかを考えたほうが、自分にとってもよいし、関係する周りのものもよくなっていくということでした。
 それ以来、余程のことがない限り余り悩むこともなくなりました。 否、自分にとっての悪い環境は自分に与えられた試練、または自分が耐えられるから試練を与えられていると考えるようになりました。 然しながら年をとるに従い自分だけでは解決ができず、自分の周りの方たちにもご迷惑をおかけするようになってしまい、なんとも申し訳なく思うことが多くなってきてしまっています。 若い時の勢いというものが、年をとるに従い、だんだんなくなってきているのかもしれません。 
 私の親しい友人がいつも胃が痛いと言っているのを聞いて、何故痛くなるのか分かりませんでしたが、私自身が生まれて初めてなんとなく胃がすっきりしなくなったときがあり、どうしてだろうと考えているときには、その具合の悪さは解消できませんでしたが、ふと胃に光をイメージしてみました。 するとどうでしょう、その具合の悪さはうそのようになくなってしまったのでした。 口は閉じて鼻で軽く息を吸い、光を胃に感じるようにイメージしながら、ゆっくりと息を吐きます。 その息の繰り返しをするだけでよいのです。 

親をみて子は育つといいますが-15

2005-10-29 10:41:50 | 自分
 事務所勤めをやめる前後に、行きがかり上、生協の理事長を2年つとめることになりました。 事務所勤めをしながら、当時の農林省に現場に行ってきますと言いながら、組合員の方たちと食品添加物のことなどで話し合いに何度か足を運んだり、北海道の遠軽のジャガイモ生産者のところまでいったりしておりました。
 仕事柄、私自身は一人では何もできませんので、どのような仕組みであればみんなが自分の能力を十二分に発揮してもらえるだろうか、をいつも考えておりました。 誰もが気軽く参加でき、経済的にも負担が軽減できるような委員会制度を作り上げ、参加することで出席手当てをお支払いすることもしてきました。
 常時勤務する専従職員に全ての運営を任せるのではなく、組合員も自らそこに参加できる構造にしました。 自分の周りには悪い人間はいないという環境に育ったせいか、その後、事務所勤務をやめて独立したときには、人を信用することしかしなかった人間が、人に騙されるという授業料を払うことにもなりました。
 静岡蒲原と湯河原のみかん,伊豆の卵、富士高原と千葉の学校施設の実験農地、所沢の黒豚、山形の牛とさくらんぼ、秋田雄勝町のりんご、北海道遠軽のジャガイモなどの生産者の方たちと実際に現地にいき、交流を深めることにもなりました。 台所をしない人間が台所の設計ができるはずはないという批判が、出てきたのもその頃でしたが、ご婦人方のご意見を聞く中で、そのようなことも実感できたことも事実です。 

親を見て子は育つといいますが-14

2005-10-28 08:11:00 | 自分
 自治会の初代会長としての役務も終えて、地域の活動は生協との関わりの中からご婦人方を中心とした親しい友人が増えていきました。 専従指導型の生協ではなく組合員中心とした運営をしていこうということで、徐々にではありますが歩み始めておりました。
 委員会活動を活発化させて、専務理事をおかず複数の常任理事が交代でセンターに勤務し、運営を行うことにもなりました。 私達の生協は店舗を持たず組合員の班にあらかじめ注文されたものを配るというシステムで運営されておりました。 卵の生産者やみかん、りんごの生産者との交流を通して、いわゆる顔の見える関係の取引を築き上げていきました。
 牛乳については、効率主義の130度3秒の高温殺菌はカルシュームを破壊してしまうので、時間はかかるが60度30分の低温殺菌牛乳を津久井の農協を通じて開発をしたりしていました。 また、秋田の小野の小町で有名な雄勝町の複数のりんご生産者の方たちとは、行政も巻き込んだ形で毎年夏になると、バスで私達と生産者との心の交流もさせていただきました。 長男もバスにおまるを持ち込んで母も一緒に家族5人で参加もしました。
 そんな中で、山形高畑町の人たちがトラックいっぱいにさくらんぼを売りに、町田まで売りに来ましたが売れずに、困って私達を訪ねて来ました。 職員からの電話でセンターにすぐ駆けつけ、窮状を知り即刻、各地の理事や果物委員に連絡をして翌日には組合員に配られ、荷物はきれいさっぱりになくなり、生産者の方は大喜びで帰っていかれました。 そのことが縁で山形の方たちは消費者と直接結びつくことによって、大きく生長されていきました。 会うと今でもいつも感謝されております。

親を見て子は育つといいますが-13

2005-10-27 08:11:27 | 自分
 自治会の規約作りも順調にいき、各棟から自治委員を選出し、いよいよ活動が滑り出そうとしておりました。 私は準備だけということで私の棟からは、ほかの方が選ばれていました。
 そんな矢先に、中心的に準備を進めてきたほかの方から、クレームがつき結局はまた私の出番となりました。 自治委員の第1回の集まりの中で、みんなの顔をよく知っていることや、今までの実績が皆さん方の支持を集めて初代会長ということに、相成りました。
 会議の内容は逐一、印刷をした上でみんなに配布をしましたが、全て私がやってしまったような記憶があります。 母が地域の中で様々なお世話をしている姿をみて育ったせいか、みんなのために動くことは若かったせいもあるし、苦ではなかったのかも知れません。
 問題意識を共有化するということで、役員も1年交代で行うという規約もできていました。 大学では建築を学んだせいか、建物をつくるだけではなく、地域社会を作り上げるお手伝いをするのが、自分達建築を学んだものの責務ではないかと、思うようになってきておりましたので、徹夜で仕事をするなかでも今思うと、ずいぶん頑張っていたんだなと思う今日この頃の自分ではあります。

親を見て子は育つといいますが-12

2005-10-26 09:35:32 | 自分
 多摩ニュータウンの分譲住宅に住み始めてダニ問題が解決する中で、分譲住宅でありながら(時代錯誤的な所有権留保方式であった)管理組合がないという中で、ある棟の方が中心になって自治会を作りましょう、準備委員会を作りますから参加してください との呼びかけがありました。
 私自身は、ダニ問題が解決し、生協の理事としてたまの日曜日も鶴川まで一日がかりで行くということをしておりましたので、ある意味では疲れ切っていましたので、自治会の準備のほうまでは手が出ませんでした。 ところが、ダニの畳替えで各住宅へ電話をして調整をしておりましたので、殆んどの住民の方の名前は覚え、顔もずいぶんと覚えたこともあって、準備を中心的にやっておられる棟のご婦人方が7,8人我が家に来られ、ぜひ準備委員会に参加してほしいと熱望されました。
 頼まれると厭とはいえないほうですが、かんし分娩でお子さんが生まれ、歩くのも知恵のほうも遅れ気味な子育てをされている方も来られたものですので、結果的には参加することになりました。
 自治会の規約作りは、頭脳明晰で後にタンゴを教わった方と2人で中心的に作り上げていきました。 我が家でたびたび夜明けまで、規約だけでなくその他諸々のことも含めてお酒も少々入れながら、語り合った記憶があります。 名前も管理組合と自治会機能を持たせた 管理自治会と名付けられました。
 長女が2歳、長男が生まれようとしているときでした。 残念ながら私のそのような姿を、子供達は一度も見る機会はありませんでした。

親をみて子は育つといいますが-11

2005-10-25 08:03:03 | 自分
 ダニ対策委員会にダニの問題でお世話になった生協の方が、皆さんの中で一人生協の理事を選んでほしいとの話があり、私が一番若いということで、あんたがやりなさいということになり、そのことがその後の生協との関わりを持つきっかけにもなりました。
 虎ノ門まで夜遅くまで仕事で通い、日曜になると1ヶ月に1回理事会が鶴川で行われ、自分の時間がほしいので、気が向いたらバスでいくという生活をしておりました。 牛乳を配るのにその当時はビンで早朝配って夕方ビンを回収するということをしておりましたが、配送している方たちが紙パックで配るべきだと主張し、それに対して紙パックの裏側にコーティングしてあるものの安全性について、口角泡を飛ばした議論をしていたことを覚えています。
 まだ娘が1歳になったばかりで、何かと気が抜けない育児をほったらかしにして、出かけていくものですので、私の評判は余りよくありませんでした。 その後長男が生まれても変わりはありませんでした。
 生協はその後、専従指導体制がよいのか、組合員主導で運営を進めるべきかの議論がなされ、当時天然ガス化の問題と鉄塔反対運動、尾根幹線道路の反対運動が重なり、かなり激しい住民運動に行きがかり上、参加することにもなりました。
 まだ子供は小さく子育ては全てカミさんが行うというパターンになっていました。 運動の過程でそんな議論をする中で学んでいったことは、よく相手の話を聞き相手の話を全否定することなく持ち上げながら反論し、いつも前向きに建設的に物事を考えるということでした。  

親を見て子は育つといいますが-10

2005-10-24 10:26:53 | 自分
 畳からでたダニについては、行きがかり上、2人で調査をはじめたばかりに、すぐ上の2階のご主人がダニ対策委員長ということで、分譲と賃貸の方たちが一体になって、都と公社を相手に戦うことになりました。 私が事務局をすることになり、各家庭から回収した調査用サンプル(一晩、セロテープを畳の縁につけておき翌朝それを提出してもらう)を、顕微鏡で見ることになりました。
 粉ダニそのものは、むずがゆいだけで悪さをしないのですが、その粉ダニを食べて成長する爪ダニ(別名エロダニといい、子供とか女性の柔らかい肌を刺し、痛いのなんの)も顕微鏡で覗くことになりました。 毎晩のようにダニ対策のための会合があり、とても疲れ果てる中で2番目に生まれる子の準備をすることになりました。 
 翌年生まれてきた長男には申し訳ないことに、人間、疲れきった状態での生まれる準備と言うのは、余りよいこととはいえません。 それだけはまずいなと今でも思っております。
 畳は結局、夏の間は畳屋さんに持っていってもらい、ござを引いて過ごすことになり、秋になってやっと畳の生活ができるようになりました。 畳は高周波処理をして畳の中にいるダニを抹殺するのですが、処理前の畳と処理後の畳がきちんと分かれている訳ではなく、処理前にいるダニが処理後の畳に浮遊してきて、生乾きのわらの畳が梅雨時の適当な温度と湿度の中で、ダニが繁殖してしまうというのが結論でした。 ねずみ算というのもありますが、ダニ算はその比ではありません。 どちらかというとノンポリであった私は、住民運動をすることになり、そのことを通して多くの人を知ることにもなりました。 

親を見て子は育つといいますが-9

2005-10-23 07:35:49 | 自分
 長女が1歳になる年の3月に多摩ニュータウンに越してきました。 積み立て分譲住宅に当たったからでした。 それまでは平屋で庭付きの5軒長屋の都営住宅に住んでおりました。 お風呂はすぐ近くに銭湯があり、娘は頭を支えてあげると生き生きと泳ぐようなしぐさをして、私達を喜ばせました。
 娘が生まれたのは、母がいた赤羽の病院でした。 知らせを聞いてすぐ駆けつけましたが、先ず確認したのが手と足の指の数でした。 10月10日十分お腹の中にいたせいか、いかにも赤ん坊と言う全身が赤味を帯びた状態でした。
 そんな娘がやっとよちよち歩きをするようになった時に、引っ越してきました。
6帖2間の2Kの前の住まいよりは広く3DKの住まいになったものですので、あちこちの部屋にいっては喜んでいました。
 牛乳を飲むため生協にも入り、梅雨時になったときに生協の人から、畳からダニは出ていませんかとの問い合わせがあり、畳の縁をじっと見てみなさい、粉のようなものが動いていたらそれが粉ダニですよとのこと。 早速ある朝、畳の縁に目を近づけてみたところ、なにかしら動いているものがあるではありませんか。 すぐ2階のお家へ行ってお宅にはいませんか と訊ねますと いえ家にはそんなものはいませんとの答え。 いえそういわず、一緒にみてみましょう といって結局30軒全部を2階の方と見ることになり、全部の家でダニがおりました。 特に一軒はひどくこげ茶のテーブルが粉ダニで真っ白と言う状態でした。
 学生時代は、私の周りはまじめな友人に囲まれていたせいか、たまにはデモにも参加するぐらいでしたが、どちらかというとノンポリの部類に入りますが、我が家の畳からダニが出たことによって、その日から住民運動をするようになりました。
よちよち歩きの娘が、床に落ちたものをしゃっぶたりすると言うことに大変な怒りを感じたからでした。

親をみて子は育つといいますが-8

2005-10-22 09:36:09 | 自分
 長男が生まれたときには自分がそうであった様に、男は自分で自分の道を切り開かなくてはなりません。 名前を 航(わたる)とつけました。 広く海外も含めて活躍してもらいたいという願いを込めてです。
 子供の頃から、ある意味では突き放して育てたつもりです。 多分、子供心に親父は姉には甘いのに、自分には冷たく感じたことだと思います。 20歳を過ぎた頃に、息子に自分がどのように考えて育ててきたかを話をしました。 
 息子はどちらかというと、話し始めるのが遅いほうで、それもたまたま歯医者さんへ行って分かったのですが、舌の付け根が厚くほかの子供よりべろの使い方が上手でなく、話すことがなかなかできなかったと言うことでした。 手術をして舌の付け根を切るかどうか迷いましたが、先生のアドバイスに従い、それからはよく話しかけるようにしました。
 結果的には、すこしずづ話ができるようになり、普通の子供に育っていきました。 娘が猪年生まれの猪突猛進型であり、息子は牛年生まれのマイペース型に育っていきました。 私自身は子供の頃に、母から結構叩かれましたので、自分の子供をたまにしかることがあっても、殆んど叩くことはしませんでしたが、一度だけほかの人の尊厳を傷つけるようなことをしたときだけは、猛烈にしかったことがあります。