ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

葉酸プロジェクトを作って市民の健康を実践した坂戸市

2010-09-29 15:43:06 | 食べ物

 昨日、ビートたけしの健康番組で、血管の劣化を止め、なおかつ若返らせることを実践する埼玉県の坂戸市を、取り上げていました。 「葉酸プロジェクト坂戸市」と銘打って、坂戸市にある女子栄養大学の協力の下に、認知症や脳梗塞等の予防に効果があるといわれているビタミンB群の一種である葉酸を、一日400マイクログラム摂取する運動を進めているのです。

 葉酸は、ブロッコリーやほうれん草などの緑色の野菜や、焼き海苔や緑茶に多く含まれるビタミンB群の一種です。

 葉酸が多く含まれる食品としては、枝豆、ほうれん草、ブロッコリー、グリーンアスパラ、イチゴ、海苔、えのきだけ、緑茶などがありますが、葉酸は水溶性があり、水に溶けて成分が半減してしまうため、チョウリ方法に工夫が必要のようです。

 番組を見てびっくりしたのは、町中の商店の方達も一緒になって協力し、葉酸を含む食品を積極的に作り、販売していることでした。 坂戸市で取り組んだ葉酸を含む添加食品は、パン、ドレッシング、カレー、うどん、卵、かりんとう、ラーメンなど多岐に渡ります。

 私達も葉酸を含む食品は、摂取してはいますが、意識して調理方法を工夫して、食事を考える機会を作ってもらったような気がいたしました。 特に、糖尿病で血管がもろくなりやすい方々は、留意するべきではないかと、改めて感じました。

少年のように美しかったクルム伊達・対シャラポワ戦

2010-09-28 07:19:00 | 文化

 昨日東レのテニスの試合があり、1回戦で40歳になろうとするクルム伊達と、24歳の世界トップ15にいる前回優勝者のシャラポワが、対戦しました。 試合結果は2対1で伊達が勝ちました。

 伊達は一時引退する前までは、世界のトップ4に入る活躍をしてたのですが、一定年齢に達して、ある程度の達成感があって、一線から退きました。 数年前から、また意欲が出てきたようで、国内外を問わず試合をこなし、世界ランク67位ぐらいまで位置するようになりました。

 伊達の打球は、相手のボールが跳ねて上がりばなを叩くうち方で、相手にとってはワンテンポ速く打つので、捕らえにくいボールになるのです。 昨日のシャラポワは初めて体験するようで、とても打つずらそうでミスを重ねました。

 伊達がプレイする姿は、とても美しく見え、少年が打っているようなかんかくになりました。 スリムな体に胸も余り大きくなく、それに比較してシャラポワは胸をきちんと普通の服装のように胸当てで囲まれているようで、窮屈な感じがし、結果的にプレイにのびのびとした感じがなく、よいところなく伊達に負けることになりました。

 年をとると回復に時間がかかると、闘った後に伊達が話しておりましたが、更なる健闘を祈りたいと思います。

生まれる前に話しかけ生まれてからも話しかけながら育てる

2010-09-27 10:26:00 | 胎児

 先日、友人のお宅に伺い、その方(ご婦人)と身ごもっている娘さんと3人で、呼吸法を伴いながらの座禅を1時間行いました。 友人は胡坐が組めず、厚い布団の上に座ったり、正座をしながらも何とか1時間過ぎました。

 娘さんは、子供の時から知っていて「ひなちゃん」と呼んでいました。 きちんと結跏趺坐が組め、若いだけにとても美しい姿でした。 ちょっとお腹が膨らんではいましたが。 初めての座禅でしたので、何度か足の痺れを感じ、動いてはいたようです。

 その友人から今朝、電話があり、「無事、娘に子供が生まれました」と一報が入ってきて、「助産婦さんの手助けで生まれ、すぐに血まみれになった子供をご主人が抱き上げ、後産が終わってからすぐに、お乳を上げた」そうです。

 娘さんには座禅の時に、ご主人とあらゆる時間を使って、胎児に話しかけるようにしてくださいね、と話したのです。 一般的には病院で産む場合が多いのですが、胎児にとっては、それまでぬくぬくとお母さんのお腹の中で生長して、生まれてからすぐに乳児室に置かれてしまうのは、ある種のトラウマが発生してしまうのです。 できることなら、胎児はお母さんのそばで、一緒にいるのが安心するのです。

 生まれたばかりの時でも、いつもお母さんと一緒にいるのが、赤ちゃんにとっては安心するのです。 私は自分の子供を育てる時には、猫かわいがりするばかりで、鼻水を口を当てて吸ったり、ぺろぺろ舐めるだけで、上記のような育て方は分かりませんでしたので、反省しきりです。

 赤ちゃん言葉ではなく、一般の成人に話すように話かけることが、また大切です。 生まれでてからの生長の度合いは、胎児の時と比べようがありませんが(胎児のときが大切だということですが)、生まれてから3歳ぐらいまでの生長も大切なのです。 楽しいことや美しいことを、話しかけながら体験、体感できるように、心がけてもらいたいのです。

低い枕で上を向いて寝るのが一番内臓に優しい

2010-09-26 17:14:53 | 自分

 私は10数年前に網膜はく離で入院するまでは、いつも横を向いて寝ていました。 入院した途端に頭の両側に砂枕が置かれ、頭が動かないようにされたのです。 そのとき、看護士の方から目に見えない中で、きれいな声で「上に向いて寝るのが一番内臓に優しいんですよ」と聞こえてきたのです。

 退院してからは、すっかり上を向いて寝る癖がついてしまい、自然とそう寝るのが当たり前になってしまいました。 理屈から考えても、そうだなあと思えたからです。

 その後、我が家にいたヒマラヤンのお父さんが起こしに来て、早朝にご飯を要求され、寝ぼけ眼でいつも、ふらふらとしながら、水を取替え缶詰を開けるのが、日課になっていました。 ところが、ある日突然、腰に激痛が走り、動けなくなってしまいました。 腰のヘルニアです。 その後またもう一度ありました。

 それ以来、長く上を向いて寝ていると、腰が痛くなってしまい、自然と起きるようになってしまいました。

 そんな時に、生まれて初めて大学の級友の呼びかけで、座禅(静功)を始めたのです。 

 座禅を始めるようになって、改めて上を向いて寝るのが一番体には優しいと感じました。 横に寝れば、内臓が圧迫を受けるからです。 勿論うつ伏せで寝るのも、よくはありません。

 私は、寝る時にはいつも大の字になって寝ます。 何故か。 手が体に触れたり、足がくっついていたりしたら、熱くなって寝ていられないからです。 体の中の気の通りがよくなり、手が体についていたりしたら、そこがショートサーキットしてしまうからなのです。 

 それでも寝てから3時間経つと、腰痛が出て自然と目が覚めてしまいます。 今では3時間過ぎますと、時々横になってしまうのですが、したがって熟睡はできないのです。 そんな関係でいつでも座禅時間があるのかもしれません。

胎息を楽しみながら1時間の座禅を楽しむ

2010-09-24 07:10:19 | 胎息

 22日は、夜に人と会って深酒をしてしまいました。 私は日常的にはいつも、お水しか飲みませんが、人と会うときには飲酒をします。 

 飲酒をしますと帰りも12時を過ぎてしまいますので、深夜の座禅もお休みになってしまいます。 翌朝も肝臓がアルコールを、水とアセトアルデヒドに分解する間、体もいつもの調子とは違っています。 事務所で机に向かうも、イマイチペースが上がりません。 したがって、ソファーで足を投げ出して、ひと眠りをすることになります。

 昨夜は、疲れを取るためにも、寝る前に座禅を行いました。 早く寝てしまうと、腰がすぐに痛くなって、長く寝ることができません。 したがって自然と、早朝にまた座禅を行なうことになりました。

 最近はもっぱら、胎息(肺呼吸を伴わない気の呼吸)で座禅を行っています。 胎息で体の中の気の動きー特に脳を刺激する動きを、楽しみながら胡坐を組んで、座禅をも楽しんでいます。

 胎息は通常の状態でないために、おでこの中心部にある天目を刺激します。 そんな刺激を楽しみながら、こんな素晴らしい座禅を、どのように多くの人に伝えたらよいかを考えるのが、私の座禅中における雑念なのです。

歩きの途中で立ち止まり太陽に向かって朝日を浴びる

2010-09-22 09:46:15 | 自然

 早朝に自宅から事務所まで行く路を、ちょっと寄り道して近くの一周1000mの中央公園の周回遊歩道を、朝夕歩いてもう既に、1ヶ月以上になりました。 顔なじみのおばちゃんやおじちゃんもでき、挨拶する人が徐々に増えつつあります。

 今日は何を思ったのか、連れ合いも一緒に周回しました。 遊歩道の両側が木立に囲まれ、夏の暑い日ざしも気になりませんでした。 桜の木につく毛虫の糞も、私達に踏まれ赤黒い地面にしています。

 木立が切れる路で、朝日が気持ちよく輝いていましたので、太陽に向かって肩の力を抜き、体全体が日が浴びれるように、足を軽く開いて立ちます。 水平線から丁度上がりかける朝日が、一番よいのですが、贅沢はいっていられません。 ちょっと稜線より上がって、少し暑く感じる日差しでした。

 5分でも10分でもよいから朝日を浴びますと、おでこの中心部にある天目(目の形をしています)を刺激します。 太陽のやわらかい光は、何か私達に特別なものを与えてくれるようです。

ひとり座禅には見性とか大悟という言葉は不要です

2010-09-21 06:14:33 | 座禅

 10数年間に座禅を始めて間もないころ、日曜日の朝5時からのNHK教育テレビで、たまたま「心の時代」という番組を見ていました。 曹洞宗の永平寺のお坊さんは、随分と偉そうに「外国人が座禅をしたいといってきましたが、先ず日本語を学んできてからにしなさい、と言って追い返しました」と話されていました。 すると、今度は「私は光を見ました。また大悟しました」と話すのを聴いて、空いた口がふさがりませんでした。

 次の週の日曜日の朝、今度は黄檗宗の万福寺のお坊さんが、たんたんと話をされ、永平寺のお坊さんのように、偉そうな話をすることもありませんでしたがその内容は、なるほどなあと思わせるものを感じさせたのでした。

 私は、見性とか大悟という感覚は、自分自身がそんなものかなというぐらいの感覚でよいと思っています。 むしろ、そんな感覚も余計なものでしかないと思っています。 ただ、ひたすら座禅する中で、何かを感得することが大切であって、自分自身で見性するとか、大悟するということは、余計なことです。 ましてや、第3者が(自分の和尚さんであることが多いのですが)、見性したなどと認めることなど、さらさらありません。

座禅を通して何を感得できたのだろうか-5

2010-09-20 06:24:01 | 座禅

 1時間の座禅を通して、体全体を「静かー定」の状態に近づくことを知りました。 1時間を越えて更に座禅を続ければ、もっと静かな状態になりうることも知りました。

 私は自分自身の脳波の測定をしたことがありませんが、一般的な普通の状態では脳波はβ波ですが、座禅を行うようになると、すぐにα波になっている感じがします。 これが1時間ほどの座禅時間が続けば、θ波に近づくのでないアkと感じております。

 ものの本によればθ波になると、宇宙の叡智との出会いの機会が、あるようです。 私は、まだ物欲が強く、その出会いは果たされてはおりません。

座禅を通して何を感得できたのだろうか-4

2010-09-19 09:40:02 | 座禅

 静かに暗闇の中で胡坐を組んで、ひたすら吐く息をできるだけ長く吐きながら、座禅をするのが楽しいのです。 座禅というとお坊さんが出てきて、修行という言葉が浮かんできます。 私は一度たりとも、修行だと思ったことがないのです。

 たまたま生まれて初めて座禅(静功)を行なった日に、頭のてっぺんにある百会が活性化し、電子の輪の帽子を被っている感覚になったのが、その原因かもしれません。 それ以来、毎日、日常的に目を瞑っては、吐く息をできるだけ長く吐き、吐く息をイメージで体の中へ吐く呼吸を、行っていたのです。

 特に、深夜に行なう1時間の座禅では、微妙な体の変化があり、その変化を楽しみながら胡坐を組んでいたのです。 体調が悪い時には無理をせず、早々にそのときには座禅は行わず、一眠りしてから行なうようにしておりました。

 ただひたすら静かに胡坐を組んで、座禅を行っているのが楽しいのですから、動きのある日常的なことは、もっと楽しいのです。 否、何事も楽しむようにしており、結果的に全てのことが楽しくなってくるのでした。 嫌なことも決して逃げずに直面し、それをどのように解決していけるのかを考えるのです。 それも座禅の雑念の中で。

 私は、お坊さんが雑念を捨てなさいと、座禅をするときの心構えを話してくれることがありますが、雑念のオンパレードでは困りますが、決して静かの状態の中での、ふと浮かぶ雑念を考えることは、悪いことではないと思っております。

座禅を通して何を感得できたのだろうか-3

2010-09-18 06:52:56 | 座禅

 私は座禅を始める前から、後ろ向きな考えを持つと、体全体がじわーっと変なものが、支配するような雰囲気を感じておりました。 そんな時には、すかさず前向きに明るく建設的に、ものごとを考えるようにしていました。 そうすることによって、瞬時に体全体を覆っていた変なものが、無くなるからでした。

 座禅を始めて改めて、自分の考え・思いが、そのままから座全体の雰囲気を作り出してしまうということ、感じたのでした。 

 一度、内臓脂肪をなくしてほしいと、願ったことがあります。 すると胃の奥辺りで、しゃっしゃかしゃっしゃかと、何かが動いているではありませんか。 きっと内臓の余分な脂肪を、切り取るような感じでした。 そんなことは、それ以降行なったことがありませんが、内臓の中の肝臓を思えば、体の中の気が肝臓に集まり、どのあたりにあるかが分かるということも知りました。

 ですから前にも増して、心配事をするようなことがあっても、いつも前向きに明るく考えるようにしています。 

 自分自身が考えるように、体全体が支配してしまうのです。 病気になれば誰もが心配しますが、そんな時でも、心配はせず前向きに考えねば、なお一層病気が進行してしまうのが、分かるからです。 

 どんな時でも、いつも明るく前向きに建設的に考えるように、なっていくのでした。