ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

友人と遊夢でアナゴのひつまぶしのお昼ご飯を食べて

2016-08-31 04:32:43 | 食べ物

私よりも4歳上の親しくさせて頂いている友人と、久しぶりで寒天茶房の遊夢で、お昼ご飯を食べました。 アナゴのひつまぶしご飯を食べたのですが、うなぎが高くなっている時期に何となく、うなぎの雰囲気を持つアナゴ入りのひつまぶしは、美味しく感じます。

友人は美味しいと感じなければ、奥さんやお孫さん達とは食べに来ないのですが、帰りがけに営業時間を確認しておりましたので、連れて来られるのでしょう。 このアナゴのご飯には、お味噌汁がついているのですが、魚のアラなどが入っていて、これを食べれるのが違う楽しみなのです。

友人とは何時も食べながら駄べりながら、お昼の時間を過ごします。 1週間に1,2回お昼ご飯を一緒にします。 東寺方の体育館内にあるレストランでは、知人のマスターと卓球やいま関心のあることを中心に、手が空くと話をします。

乞田にある長崎チャンポンも、時々行きます。 三越の上階にある大戸屋の和食はとても美味しいのですが、このところ余り行けてはいません。 事務所でひとりでパソコンに向かって仕事をしている人間にとっては、お昼ご飯を食べながら駄弁ることが出来るのは、楽しみの一つではあります。


似顔絵を描きながら人の歩んで来た道を想像すると云う友人がいます

2016-08-30 04:59:31 | 友人

先日、30数年来の友人から電話があり、ブログを書き始めたいが教えて欲しいとのことでした。 早速、友人の勤める八王子の事務所まで行き、普段、使っているパソコンで、何時でも始められるようにセットしました。

友人は美術大学へ進むつもりも、家庭の事情で断念し、別の道に進むものも日常的には、何らかの形で絵を描いていたそうです。 最近になって知人の似顔絵を描くうちに、これからのライフワークとして似顔絵を描いていきたいと云う。

早速、私の似顔絵を描きましょうと云うことで、可なり近接してカメラを向けました。 先週の金曜日に出来ましたよとの連絡を受け、駅前のジョナサンで会食しながら受け取り、話をしました。

友人の似顔絵は鉛筆画で、出来上がった私の似顔絵は、私の顔の嫌らしさがない、上品な似顔絵に出来上がっていました。 私のブログには、私自身の顔写真がありませんので、近々にその似顔絵を掲載することにしました。


27年半使っていた三菱の冷蔵庫にご苦労さんでしたと別れを告げ

2016-08-29 02:29:46 | 社会・経済

数年前から大変だーと深夜になると、良く聴こえるように唸り声をあげていた三菱の冷蔵庫が、最近になってお漏らしをするようになりました。

娘や連れ合いから、床が濡れている原因は、私にあると怒られていました。 身に覚えがないまま、おかしいなあと思っていました。 ある日、私が一番早く家に帰って来ましたら、何時ものように冷蔵庫の前の床が、濡れているのです。

大抵の場合、冷蔵庫の下を触っても濡れていませんので、冷蔵庫がお漏らしをしたとは考えられませんでしたが、冷静に考えてみて、どうやら冷蔵庫に原因があるのではと、連れ合いに話しました。

連れ合いも何年前に買ったのかを冷静に考えてみれば、既に27年半過ぎていたのです。 先日、娘と3人でケーズデンキに行き、また三菱の冷蔵庫が良いと店の方に話すも、10日前後かかるとのこと。

止む終えず直ぐ納品出来ると云うパナソニック製品にしました。 昨日、新しい冷蔵庫が来ましたが、三菱の冷蔵庫には、ご苦労さんでしたと別れを告げました。


ひとのお世話をさせて貰うようになったのも母の遺伝子があるからか-5

2016-08-28 04:46:09 | 健康づくり

母は、何事もきちんとするのが好きだったようで、家の中も何時も綺麗に清掃されていました。 もちろん私たち子供たちも、小さい頃から掃き掃除や雑巾がけなどをして、育ったと記憶しております。

また若い頃に番を張っていたように、何か人を惹きつけるようなものを、持っていたのかも知れません。 晩年、老人保健施設や特別養護老人ホームで、別れを告げるときに親しくしていた方が、感極まって涙顔で別れを惜しむ姿を、見て来ました。

巣鴨のおばさんの影響で始めた水泳や、父が長い間行っていた詩吟も、父亡き後から始めて、それぞれ股関節の骨折になって、赤羽から私の住む多摩ニュータウンに引っ越すまで、続けておりました。

ひとの嫌がるお手伝いを積極的に行って、子供ながら良くやっているなあと、感じていました。 そんな母の姿を見て育ったからでしょうか、ひとのお世話をするのではなく、させて頂くという感覚が、自然と身についてしまったようです。

私も弟も姉も、時々の姿を見ると、そのように感じることがあります。 困って相談されるようなことがあれば、嫌な感じもせずに自然と対応するように動いてしまうようです。 自ら積極的に動く場合もありますが、私自身は頼まれたら断れずに、一生懸命に対応してしまう雰囲気はあります。


ひとのお世話をさせて貰うようになったのも母の遺伝子があるからか-4

2016-08-27 09:32:56 | 健康づくり

母からの遺伝子のことを書くつもりが、子供の頃に戻って書いてしまい、これ以上書き続けるとかなり長くなってしまうので、端折って大塚の家から更に、赤羽の家に移ったところからにします。

赤羽は2層式の住宅で、エレベーターはなく階段で上がります。 我が家は4階と5階にありました。 父は仕事の関係で平塚に住み、赤羽の家には姉と弟と親子4人の生活でした。

母は私たち3人を育てるために、生命保険の外交員の仕事をしながら、我が家に働いた収入を家に入れないことが多い父のことをあてにせずにいました。 私も母から頼まれて、父のところまでお金をもらいに行きました。 時には地方に出張することもあり、北海道の旭川や富山まで行くこともありました。

旭川の時には、旭岳でひとり登り、クマザサが風でガサガサと音を立てる度に、熊が出て来るのではないかと、心を落ち着かせながら登り、高原の台地を見た時には、素晴らしいと感激しました。

富山に行く時には、見送りに来ていた当時付き合っていた現在の連れ合いを、そのまま列車に乗せて赤羽に停車するも降ろさないで、立山の麓の室堂小屋で過ごすごとになりました。 勤めていた会社には翌朝、電話するなどのハプニングがありました。


ひとのお世話をさせて貰うようになったのも母の遺伝子があるからか-3

2016-08-26 11:08:15 | 自分

上野松坂屋の斜め前の北大門の家の跡には、パチンコ店が出来ていて、仲町の家は、大体この辺りと云う見当がつくも、建て直されていて分かりません。 茅町の家の跡には、開発されて飲食店ビルが建っています。 昨年はここで黒門小学校のクラス会が開かれました。 また姉のクラス会は毎年、10月の第3土曜日となっていて、昨年は同じ日にクラス会がありました。

 

大塚の家は、現在の北大塚3丁目辺りと思われ、20年ほど前に以前あった家まで、大塚の駅から歩いて行きました。 周辺は印象的には4mに満たないような道路で、家の北側にあった広大な空き地には、公的な建物が建っていました。

 

夏の夕方に、空一面に稲光が轟きと共に、かなり長い時間続き、今でもその雷の印象は、心に残っています。

 

姉と共に電車で御徒町にある黒門小学校に通ったことを思い出します。 茅町の家には七面鳥やニワトリがいましたが、あるとき突然、今まで飼っていた七面鳥などが食卓に並ぶとき、とても嫌な思いをした記憶があります。

 

大塚の家になったときに、母は柴犬の子どもを家に連れて来ました。 ボビーと云う名前で、姉は守谷に移り住んだときに、犬の名前を同じ名前にして、可愛がっていました。 動物は飼えば家族の一員となり、天に還ってしまうと、しばらくは放心状態になるものです。

 

我が家でも、ヒマラヤンの雌猫がいましたが、成年になって悶えるようになってからお見合いをし、面食いのためか上手くいかず、結局、本で見つけたブリーダーの家まで行って、雄の子猫を買って来ました。 

 

子どもを初めてお母さん猫が産んだときには、子猫も首をくわえて見て頂戴といわんばかりに、見せて歩いていました。 最後まで残った龍之介の名前をとって、私のインターネット上のハンドルネームにしております。


ひとのお世話をさせて貰うようになったのも母の遺伝子があるからか-2

2016-08-25 03:20:42 | 健康づくり

茅町の家では、不忍池が通りの反対側にあったので、朝早くに池の周りを走っていました。 父が若い頃、明石-神戸間のマラソン大会で優勝したことがあり、ある意味では父の遺伝子を貰っていたような気がします。

自分が走るのが好きだったせいか、専修大学の陸上部の方々が我が家に集まり、池の周りを長い間、走っていたこともあります。 父は早朝、大きな声で詩吟を謳っていました。 また夜になると、弁天堂の側の池でドジョウを網で取っていました。

もともと技術屋の父は、自動車の方向指示器に興味を持ち、電気的な方法で考案し、工場で試作品も作って特許を取りましたが、子供の目で見ても当時ワイヤーで、簡単に上下出来る方向指示器が出て来ていたので、わざわざ複雑にしているなあと、感じていました。

何処でどのような経緯でそのようになったのかは分かりませんが、小豆相場に手を出して茅町の家を処分することになりました。  幸いに母のヘソクリで、大塚の住宅地の一軒家を購入し、引っ越すことになりました。

昨夜、守谷に住む姉に電話をして、昔のことを改めて聞きましたが、茅町の家には毎晩、近くの風呂のない教員住宅に住む姉の担任が、家族共々、お風呂に入りに来ていたと話してくれました。 私には全く記憶にないことでしたが。


ひとのお世話をさせて貰うようになったのも母の遺伝子があるからか

2016-08-24 06:54:53 | 自分

私の母は神戸の出身で、若い頃は番を張っていて、みんなを引き連れて街なかを濶歩していたという話を、京都のおばさんが遊びに来ていた時に、話してくれました。 我が家にしばらくおられた時に、母の命令口調で云うことを、嬉しそうに従って動いていたことを思い出します。

そんな母の姿を見た両親が、芦屋にあるお宅に行儀見習いに入ったそうです。 母が東京に働きに来ていた父と結婚することになり、芦屋のお宅は巣鴨に住んでいましたので、よく母に連れられて遊びに行きました。

私が生まれた蒲田の時は記憶がありませんが、同じアパートに住むKさんのことは、Kさんの田舎へ疎開した関係で、後の地である亀戸によく遊びに行ったものです。

蒲田のアパートから、どのような経緯で上野御徒町の松坂屋の斜前に、電気屋さんを開いたかは聞きそびれましたが、モーターや積算計が飛ぶように売れたそうです。 その勢いをかって、新橋でカフェまで開いたのです。

私はその頃は黒門幼稚園に入る前後だったと記憶しています。 電気屋さんでは店頭に商品を並べれば、直ぐ売れたそうです母の反対を押し切って、盗難品のモーターを店先に出して、警察のお世話になり、結果的に店じまいとなり、家も仲町通りに引っ越し、更に茅町に不忍池に面した家に引っ越して行きました。

茅町の家は通りから裏通りまである長い敷地で、奥側に平屋の家があり、父が後援していた大場春夫さんと云うボクサー家族が住み、工場の建物があり、蔵があり、通りに面して2階建ての住まいがありました。


リオ五輪 高校野球 暑い夏が台風9号の大雨と共に過ぎて行くのかな

2016-08-22 07:28:32 | 文化

高校野球は作新学院の優勝で終わり、リオ五輪は吉田沙保里さんの涙で終わろうとしています。 期せずして遠く南の方で発生した台風9号が、日本近海で発生した発生した10号が西の方へ、11号が足早く北海道へ行ってしまった後に、大量の雨を降らさんと関東地方に近づいて来ました。

9号台風が大雨を降らせたあとには、少しは涼しくなってくれることを期待しましょう。 少しは深夜のリオでの熱闘ぶりも見れないなれば、ちょっぴり寂しい気もしますが、いつも通りの生活に戻ることになるでしょう。

4年後の東京五輪では、どんな選手たちが活躍しているのか、想像するのも楽しみではあります。


ヒアルロン酸コンドロイチンが必要になったかなあと思うのですが

2016-08-21 02:41:24 | 健康づくり

ストレッチをしようと、15年ほど前に行っていた真向法の第1と第2体操を行い始めたら、高校時代にバスケットボールで痛めた右膝が痛み始め、昨日、駅前の整形外科に行って来ました。

映像を見ながら、ひざ関節のクッション材がありませんね。 ヒアルロン酸の注射を5回に分けて行いましょう との診察結果でした。 連れ合いが種々のサプリメントを飲んでいる姿を見ながら、私には関係ないと思っていたのです。

すると坐骨の先端の足の筋肉の付け根部分が炎症していると云う、以前の診察結果も今一度顧みれば、坐骨の周辺のヒアルロン酸が不足しているのかも知れないと、改めてサプリメントの摂取を考えなければいけないと感じました。

冠動脈の梗塞に対処するために、DHA EPAを摂取するようになって、半年が過ぎようとしております。 また今度はヒアルロン酸 コンドロイチンのサプリメントを、追加摂取することになりそうです。