ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

小雨の中で年末恒例の餅つきをしましたが

2012-12-31 10:15:19 | 友人

 ソフトボールの仲間と年末恒例の餅つきを、小雨の中で行いました。 いつもは建物から少し離れた駐車場で行うのですが、小雨が降っていましたので、1階のピロティで行った結果、上階の住民から苦情が寄せられました。

 薪を燃やした煙が洗濯物を汚す、餅つきの音が上階まで響くなど。 ちょっと片身の狭い思いをしながらの餅つきでした。

 桜えびの入ったかき餅と青さの入った海苔餅を突き、普段お世話になっている方に、その一部を届けました。 

 12月30日に餅つきをするというのが、私の生活習慣になってしまいました。 今はソフトボールをしてはいないのですが、その仲間たちが声をかけてくれるのです。

 片付けを終わった後で、集会所で軽く一杯飲みながら、話をして解散します。 昨日は、いつも合いの手を一緒にこなす監督が、病み上がりということで、私一人で担いました。 ちょっぴり疲れましたが、気持ちの良い一日でした


崇高な至福感は1時間の座禅を続ける事によって感得する

2012-12-29 13:26:44 | 座禅

  座禅というと、すぐに無心・無欲という言葉が浮かびますが、それらを感得する過程で、崇高な至福感を感得するということが、余り語られてはいないようです。

 私は生まれて初めて胡座を組んで座って以来、いつも1時間は座っています。 多くの場合、真っ暗闇の中で静かに、長く吐く呼吸をひたすら続けながらです。

 私の我流の逆腹式呼吸は、禅宗(臨済宗・黄檗宗)でいう腹式呼吸とも違いますし、一般的言われる逆腹式呼吸とも違います。 

 禅宗の腹式呼吸は、胸もお腹も先ず普通の状態から出発し、先ず胸からもお腹からも同時に吐き出します。 息を吐くときに胸が凹み、お腹も凹みます。 息を吸うときには胸も下腹も、元の大きさに戻ります。

 一般的な逆腹式呼吸は、禅宗の腹式呼吸の逆という考え方です。 普通の状態から息を吐くときに胸は凹み、お腹は膨らむ呼吸です。 息は吐くときに下腹の丹田に向けて吐きます。

 私の逆腹式呼吸は、先ず大きく息を吸います。 ラジオ体操を行った時のような深呼吸の要領です。 息を吸うときには胸は拡がり、下腹は凹みます。 息を吐くときには体の丹田に向けて吐き、下腹は膨らみます(元の大きさに戻る)。

  この呼吸法ですと、出来るだけ息を吸っておいて、出来るだけ長く吐くことができます。 しかも息が体の中へ入っていくのを追うようにして、そのことだけに意識を集中することができます。 1時間はあっという間に過ぎていきます。

 息を体の中へ,出来るだけゆっくりと長く吐くことによって、体の中を神経の腺に沿って流れている経絡を、刺激することになります。 この呼吸を続ける事によって(1時間)、経絡の気の流れも緩やかになり、微細な神経が集中する脳細胞をも、刺激することになります。

 時間の経過と共に、その流れは滑らかになり、脳細胞を優しく癒すような感じになります。 崇高な至福感を感得できるのです。 セクシャルなエクスタシーを遥かに超える感覚なのです。 勿論、脳も日常的なストレスから解放されるのです。

 座禅が楽しいというのが、ここに基因します。 修行するという感覚ではありません。


意識が集中する中でふと浮かぶ雑念を考える

2012-12-27 11:06:39 | 座禅

 出来るだけ長く吐く息を、体の中へ吐き、体の中へ入って行く息を追うように、そのことだけに意識を集中します。 出来るだけ長く限界ギリギリまで息を吐きます。 全部吐き切ると苦しくなって、後が続きません。そのちょっと手前で軽く息を止め、また大きく息を吸います。

 無理をしながらも、決して無理をしない、あくまでも自然の流れを大切にします。 これは我流の逆腹式呼吸を実践する中で、感得して頂きたいことです。

 このような呼吸を、真っ暗闇の中で行なっていれば、意識は吐く息だけに集中できます。 1時間の座禅時間は、あっというまに過ぎていきます。

 意識が集中する中でも、ふと日常的な問題解決しなければならないようなことが、頭をよぎります。 そんなときは無理に、雑念を払うことなく、そのことを静かに考えてみます。

 不思議なことに宇宙の叡智が、そっとサジェスチョンを与えてくれるのです。 こう考えたらどうですかと。 出された答えは、後でゆっくり考えても驚く程です。

 このような経過を辿って、次第に自分自身の考え方が形成されて行くようでもあるのです。


長く吐く息を体の中へ吐く・それだけに意識を集中する

2012-12-26 09:46:20 | 座禅

 私は現在では、いつも体の中を循環する気を、感じながら生活をしています。 それも微細な神経細胞が集中する脳を、絶えず刺激を受けながらの生活です。

 これも10数年前に、千葉に住む大学の級友から、クラス会で私の住む街で、静功の会(静かな気功・座禅)が開かれることになり、自分も参加するのだという話でした。

 私自身は、当時、胸の周辺でちょっとした異常を感じていましたので、知り合いの看護婦さんに症状を話した上で、足の付け根からカテーテルを挿入して、心臓を検診する方法を聞いたりしていました。

 気功は健康に良いということは、なんとなく分かっていたのですが、なかなか判断が出来かねましたが、最終的には参加することにしました。

 あらかじめ本屋で気功の基本的な本を買い求め、読んではいましたが、初日の当日は、無我夢中で真っ暗闇の中で、体操の時の深呼吸の要領で、大きく息を吸って出来るだけ長く息を吐いていました。 口は閉じたままで。 普通の胡座で座り、ただひたすら吐く息を長く吐き、吐く息は体の中へ吐いていました。 大山倍達の映画「空手バカ一」での演武で、息音を出しながら息を吐くのを覚えていて、長く息を吐くときには、そのように吐くほうがいいのではないかと、感じたからかもしれません。

 足は痺れましたが、何とか1時間の静功(座禅)は終えましたが、45分ぐらいになった時に、頭のてっぺんが電子があり、それを中心にした帽子を被った感覚になりました。 

 生まれて初めて行なった静功(座禅)で、そんな感覚になったことが、その後、続ける結果になったのです。 1ヶ月半後に、下腹の臍下丹田が活性化し、心臓のように鼓動を始めたのです。 心臓の鼓動はあまり感じることはありませんが、丹田の鼓動は結構感じることが多いのです。

 今でも体の中へ息を吐く呼吸を、家族から「変な息の仕方をしないで」と、何時も言われてしまうのです。


力を抜く・力が入らないように座る・坐禅の姿

2012-12-25 08:23:08 | 座禅

 坐禅の作法について禅宗のHPに記述がありますが、私のはちょっと違うところがあります。 先ず、胡座を組んでお尻と両膝の3点で上体を維持するとの記述がありますが、それでは両膝に力が掛かってしまいます。 また上半身の重心は上半身の垂直の軸より、少し前側にあることになります。 絶えず、お尻と両膝に力が掛かることになってしまうのです。

 私の座り方は、上半身の軸に重心が来るように座ります。 両膝はあくまでも、転倒しないように床に接するだけで良いのです。 頭のてっぺんが天から引っ張られているような感じで上体を維持すると、不思議なことに力が何処にも入っていないような感覚になります。

 姿勢を良くしようとして反っては、筋力が働くのでよくはありません。 座禅は基本的には、長時間、連続して行うのがよいので、体のとこにも力が掛からないような姿で、座るのが正しいと思っています。


銀座鳩居堂で伊藤幸長さんの書画展が開かれます

2012-12-24 08:16:31 | 文化

 芹沢光治良さんの90歳から書き始めた「神のシリーズ」に登場する伊藤幸長(大徳寺昭輝)さんの書画展が、12月25日から30日まで銀座の鳩居堂の4階の画廊で開かれるということを、私に「神の微笑」の本をくれた、いつもお世話になっている知人から聞き、早速26日に行くことにしました。

 伊藤さんは神の社として、本の中で登場します。 小平教授の紹介で芹沢さんのところに現れてからは、度々天理教の教祖だった中山みきさんが、伊藤さんの体を通して、親神の伝言を芹沢さんに伝えるのです。

 芹沢さんは90歳近くになって体も弱り、天に還る準備をしていたのですが、元気を与えるので1年に1冊の本「神さまが何を考えているかの本・神のシリーズ」を書くように、伝えられます。

 結局96歳まで、毎年1冊本を書き、8冊の「神のシリーズ」を残しました。

芹沢さんが天に還ってから20年ぐらい立ちますので、伊藤さんは当時29歳ぐらいの若者ということになります。

 芹沢さんの本によれば、中山みきさんが伊藤さんの体に降りて話をする時には、顔は老婆のようになり、大和言葉で話をされたということです。 鳩居堂で会えることが出来れば、また楽しいことになりそうです。


代々木駅前でベトナム料理とネップ・モイで会食する

2012-12-20 09:23:16 | 友人

先日、入江三宅設計事務所の先輩の茂呂肇さんから声がかかって、代々木駅東口前にあるベトナムガーデンで、会食しました。 茂呂さんを除いて7人は初めて会う人ばかりです。

 

東工大の大学院を出て、現在はベトナムで駅舎の設計を行っている田辺泰さん。 ちょっと匂いがあるネップ・モイを除いて、出されたベトナム料理は、現地の味とは微妙に違うと話していました。 1年間イタリヤにも行っていたこともあり、外国語を数カ国語を使い、バイリンガルな雰囲気を持っていました。

 

木造の構造設計を行っている大口仁さんは、私の友人の木造の構造設計を行っている斎藤剛司さんを、知っていました。 木造の構造設計は、ちょっと特車な世界で、斉藤さんは98で自分でプログラムを組んで、今だに難しい木造の構造設計の解析・計算を行っているのです。 そのことを大口さんも、当たり前のように分かっているようでした。

 

戸塚ナオヤさんは、「空の書斎」という写真を中心にしたブログを、毎日更新しているということで、早速その場でブックマークに入れました。 頭髪を後ろに束ねて、ちょっと格好が今風のような感じがしました。

 

隣に座った小林洋子さんは横浜国大の建築科の数年後輩でした。 槇文彦さんの事務所を経て、横国大の設計製図の指導をしながら、環境を中心にした計画・事業に参画し、自らピアノを弾き、舞台の設計計画が得意な分野であるという話が、茂呂さんからも伝え聞きました。 自分のクラスメートぐらいしか、殆ど接触しなかったので、活躍されている姿をみると、何となく自分のことのように、嬉しくなってくるから不思議です。

 

遠くの席にいて余り話は出来ませんでしたが、法政大学の非常勤講師をしながら日本の駅舎の設計をされている保倉亮一さんは、遅れて来たこともあり、また次の機会に話をすることになると思われました。

 

駅舎などの設計を行っている石橋裕之さんは、横国大の10年ぐらい後輩で、前事務所で級友の上出知敬(故人)の後輩でもあることを知り、上出君は酒が強く、また施主から絶大な信頼がおかれていたエピソードを、聞くことが出来ました。 

 

また代々木のベトナム・ガーデンで会食したくなる料理、お酒、雰囲気でした。 楽しく過ごすことが出来ました。


病に罹った時に改めてその原因を考えて見る

2012-12-17 08:10:04 | 

 私たちは一般的には、病に罹ったときには、すぐに病院に駆けつけ、お医者さんに診てもらいます。 問診をし注射を打ち、薬をもらって静養をします。 場合によれば入院もします。

  意外と、何故そのような病に罹ったかを、自分自身で考えずに終わってしまう場合が多いようです。 私の場合は、いつも何故、そのような病、怪我をしたのか考えてきました。

 私の病や怪我の原因は、たいていの場合、自分の行いに起因するのではないかと、いつも感じてしまうのです。 20数年前に罹った腎臓結石は、腎臓内が結石でサンゴ状になっていました。 夜遅くまで、毎日飲食を繰り返した結果です。

 右目の網膜剥離は、深夜まで相続を含めた建設計画を、お客さんのところで行ったあと自宅へ帰って寝るのもまもなく、早朝に起こされて(すっかり予定を忘れていったのですが)、掛川まで住宅の敷地を見にお客さんと出かけました。 夕方帰って来てからお風呂に入ったら、目の中に蚊が飛んでいるような感じになりました。

 翌日、一日様子を見たのですが、その翌日はお客さんとゴルフの日でした。 丁度、小雨が降っていましたので連絡し、キャンセルして、知り合いの看護婦さんに連絡し、そこの病院に駆けつけることにしました。

 すると、網膜剥離なので即、入院ですと云われ、そのまま病室を確保され、絶対安静で、翌朝、手術ということになりました。

 私は、その時に建築計画を2件抱えていましたので、仕事仲間をその夜に病室に呼んで、計画の遂行を依頼しました。 私は結局25日間病院にいました。

アイマスクをしながら20日間以上過ごしたのです。

  網膜剥離の後遺症でしょうか、現在は右目が黄斑部浮腫という病になっています。 更に、前立腺の検体採取に伴う膀胱とS状結腸とが、小さな穴でつながってしまいました。 その度に、胸にそっと手をやり、反省するべきことを思うのです。


今年のお歳暮の礼状はヒートテックの下着から

2012-12-16 10:06:38 | 文化

 今年は、いつもより早くにヒートテックの下着を着ました。 はじめに長袖のシャツを着て、しばらくしてからズボン下も着るようになりました。 例年より寒さを感じる年廻りになったのかなあとも思うのです。

 さて、過日は私どもへのいつも温かいお心遣いを、ありがとうございました。 

 相変わらず深夜に起きて、1時間の座禅を行なっています。 座禅のあとは、お風呂に入ります。 家族は私が一番風呂に入ると、男の加齢臭がするようで嫌がりますので、みんなが入り終わった後に入らざるを得ないのです。

 お風呂は湯面が、お臍のちょっと上ぐらいになるように入る半身浴です。 本にはぬるま湯にしなさいと書かれていますが、自分の好きな温度で入ります。 冬は特に熱めにしないと、風邪をひいてしまいます。

 蓋をしてタオルを2枚用意して、汗を拭き拭き本を読んでいます。 芹沢光治良さんが90歳になってから書いた「神のシリーズ」7冊を、もうすぐ読み終えます。 半身浴をしながら読んでいることもあり、これらの本を読んでいると、不思議と心が洗い清められる感じがします。 このような本に出会ったことに、とても感謝しております。

 朝歩きをする道すがらにあるイチョウやユリノキの葉っぱも落ち、黄金の絨毯のように道にいっぱい敷き詰められていますが、そろそろ大陸性の寒気団が、日本をすっぽりと覆うようになってきました。 先日もふたご座流星群が深夜に見られたようですが、一段と寒さが厳しくなる折、健康に留意をしてくださるよう、お願いいたします。

 これからもご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。


人が輝いて見えるとき

2012-12-14 09:25:28 | 自然

 私は、高校時代に、我が家に訪ねて来られた級友を、忙しいからと云って会うこともなく、帰ってもらったことがあります。 その時、ああまずかったなあという思いがあり、それ以来、訪ねて来られた方には、家でも事務所でも、お話をすることにしています。

 先日も、1ヶ月に1回、茶菓子を持って訪ねて来られるご婦人と、事務所で話をしました。 珍しく、お顔が輝いて見えましたので、帰りがけに「今日は随分と輝いて見えましたよ」と話しました。

 すると翌日、いいことがあったようで早速、嬉しそうに電話がありました。

 毎日、深夜に1時間の座禅を続けていて分かったことは、座っているだけでも楽しく感じるのですから、日中どんなことでも楽しく感じられるのです。 食事をする時も、食べられることに感謝しながら、美味しく食べられますし、人と会って話をすることも楽しく感じます。

 嫌なことがあっても、それを楽しむ感覚で接していけば、自然と解決の糸口が分かってくるのです。

 その為にも、いつも作為を持たず、自然体でいることが大切に感じます。 お昼ご飯を友人と食べている時でも、食事を運んでくれるお店のスタッフにも、よく見ると驚くばかりに、輝いている方がおられます。 そんな人に出会うと、嬉しくなって自然と言葉が出ます「輝いていますね」と。