ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

座禅では半眼にするのではなく半眼になるが正しい

2013-09-30 06:58:48 | 座禅

 私は生まれて初めて座禅(静功)を行って以来、原則的には部屋を暗くして座っていましたので、禅宗のいう座禅のときには、目を半眼にしなさいということが、よく分かりませんでした。

 座禅を日常的に行う素晴らしさを感じ、毎日、座禅会を行っているお寺があるかどうか、ネットで検索して近くのお寺で、毎朝行っているところがあったので、どのような和尚さんが続けられておられるのだろうかと、参禅したことがあります。 1年半ほど月に1,2回参禅することになりましたが、そのときに、和尚さんから注意を受けました。 目を半眼にしなさいと。

 私は、なぜ、半眼にしなければいけないのかを、座禅のふと浮かぶ雑念の中で考えていきました。 お釈迦さまが菩提樹の下で瞑想する姿を見たお弟子さんが、半眼で座っているお釈迦さまの姿を見て、半眼であることを書き留めたのでしょうか。

 私は1時間の座禅を通して(一時行った3時間の座禅を通して)、体の隅々の微細な細胞までも含めた部分を、いかに力を抜くかが大切であると、感じておりました。 力が抜けてくると、目は自然と半眼になるのではないかとも感じたのです。

 私たち人間の究極的な力が抜けた状態は、天に還ったときです。 全身の筋力が抜け、下々のものが全部排泄されます。 目も多分、半眼になるのではないかとも感じたのです(私自身は、天に帰った瞬間の姿を見ておりませんが)。 病院で患者さんが、天に還っていったときに、看護士の方が、目を閉じさせている映像を、よく見かけることがあります。

 そんなことも思い出しながら、座禅の時には、目は半眼にするのではなく、力が抜けた状態に到達したときに、目は半眼になると感じたのです。 言葉を変えれば、半眼は意識するものではなく、無意識のうちに行うものであると思うのです。


逆腹式呼吸は脳細胞の死滅率を緩め開発率を高める

2013-09-27 07:09:58 | 逆腹式呼吸

 深呼吸の要領で、大きく吸ってゆっくり吐き、吐く息を体の下腹の臍下丹田へ向けて吐く逆腹式呼吸は、ある幼児期から毎日、数10万個ずつ死滅するといわれている脳細胞の数を減らし、また同時に脳の開発率を高めるといわれています。

 私は、この逆腹式呼吸を、15年ぐらい前に生まれて初めて行った座禅(静功)を通して、感得しました。 誰から教わるでもなく、真っ暗闇の中で行った1時間の座禅の中で、無我夢中で、出来るだけ長く吐く呼吸を行い、ただひたすら吐く呼吸だけに意識を集中して、座っていました。

 初日から微妙な脳の変化を感じたのですが、それ以来、絶えず脳は体を循環する(小周天)気が刺激を与え続けています。 振り返れば、もっと早くにこの逆腹式呼吸を知っていれば、もう少し頭の回転がよく、より以上の社会への貢献が出来たのではないかと思います。

 知人から教わった「ゴルフのスイング打法」の本を書いた政木和三さんを知り、スイング打法はものに出来なかったものの、引き続い「この世に不可能はないー生命体の無限の力」を読み、政木さんが子供のころに吃音(どもり)で、お医者さんからそれを治すために、長く吐く呼吸を教えられ、それを実践する中で、吃音は治癒するとともに、長く吐く呼吸を更に続ける中で、様々なことを感得していくのです。

 大阪大学のあらゆる学科を履修しながら、大学に残って研究活動を行い、多くの発明を行いました。 勿論、特許は取るのですが即日に、その特許を無料公開してしまうのです。

 自分の逆腹式呼吸の体験と、政木さんの本の中で書かれていた内容から、長く吐く呼吸が脳細胞の死滅率の緩和と、脳の開発率を高めることを認識しました。 更に、脳波が、長く吐く呼吸を通して、脳波がβ波からα波になり、深化の過程でθ波になることを知りました。

 座禅時間が長くなるほどに、α波からθ波になることも、自らの座禅を通して感得しました(自分の脳波は測定しておりませんので、そのように感じているのですが)。 私は、このθ波になったときに、宇宙の叡智と遭遇できるときであるとも感じたのです。


息を吸う時は丹田は気を吐き息を吐く時は丹田は気を吸う

2013-09-26 06:48:42 | 逆腹式呼吸

 肺で息を吸う時は臍下丹田では気を吐き、息を吐く時は臍下丹田では気を吸うのが、私たちの体の自然な生理であると、私は自分の逆複式呼吸を通した座禅の体験から、感じていることです。

 息を吸うときには胸は拡がると同時に、下腹は凹みます(気を吐く)。 息を吐くときには胸は元の大きさに戻り、下腹も元の大きさに戻ります(気を吸う)。

 私は、生まれて初めて座禅(静功)を行ったときに、普段行っている呼吸のように、口を閉じて鼻だけで呼吸し、ただひたすら吐く息を出来るだけ長く吐きながら、真っ暗闇の中で1時間、胡坐を組んで座っていました。

 出来るだけ吐く息を長く吐こうとすれば、始めに深呼吸の要領で、大きく息を吸うのが自然の動きでした。 私は、幸いなことに禅宗でいう腹式呼吸を、全く知りませんでした。 したがって、はじめに肺からと臍下丹田から、同時に吐くということを、行いませんでした。

 禅宗の腹式呼吸は「無」の概念から来ていると思われますが、肺からと臍下丹田から同時に吐き出すという考え方は、理念が先行して、私たちの体の自然な生理的な動きを無視していると、私は感じております。

 私は、現在、胎息という気の呼吸で、毎深夜に1時間の座禅を行っておりますが、胎息そのものは、特別なものではなく、本来、私たちの誰もがお母さんのお腹の中で行ってきた、気の呼吸であると思っております。

 したがって私が行ってきた我流の逆腹式呼吸を行っていれば、いずれの日にか胎息を感得できるものと思っております。 時間の多少はあっても誰でもがです。


胎息でひとり静かに深夜の1時間の座禅を楽しむ

2013-09-25 07:24:00 | 座禅

 深呼吸の要領で、出来るだけ長く息を吐くために、始めに息を大きく吸った後に、今度は出来るだけ長く、全部息を吐ききるつもりで吐きます。 鼻だけで呼吸し、吐く息はイメージで体の中へ吐きます。 無理をしながらも、あくまでも自然な動き、リズムを作ることを、心がけます。

 この肺呼吸は、下腹にある臍下丹田と生理的な自然な動き(同期する動き)であるので、この私の我流の、いわゆる逆腹式呼吸を行って、胡坐を組んで静かに1時間、毎日続けていけば。私たちが生来持っていた機能を、取り戻すことになります。

 一般的な腹式呼吸(禅宗でいう)は、「空」の理念のもとで、肺からと下腹の臍下丹田から、はじめに吐き出すことから、呼吸が始まります。 残念ながら、この呼吸は肺と臍下丹田の自然の動きからは相反しているため(私の感じることですが同期しない動き)、生来持っていた機能を回復することは、難しいように感じています。 一般的な逆腹式呼吸は、あくまでこの腹式呼吸を基本にしておりますので、ここでの我流のが逆腹式呼吸とは、ちょっと相違します。

 胎息とういう肺呼吸を伴わない気の呼吸は、特別なことのように云われているようですが、私の体験から感じることは、私たちの誰もが、お母さんのお腹の中にいたときに、行っていた気の呼吸に他ならないのです。

 お母さんのお腹の中から生まれ出た瞬間から、気の呼吸である胎息から、空気を吸う肺呼吸に、おぎゃーという泣き声とともに始まるのです。 その経過措置として、よく見られる赤ちゃんの腹式呼吸(赤ちゃんは呼吸を行うときに大きく下腹を動かします)があるのです。

 私は、現在、深夜の1時間の座禅は、胎息で行っています。 体の中の経絡を動く、特に背中から脳へ駆け上がり、脳を絶えず刺激する動きを楽しみながら、ひたすら静かに座っています。 1時間は、あっという間に過ぎていきます。


父母が生きていれば101歳と97歳のお墓参り

2013-09-24 06:59:28 | 家族

 昨日は、久方ぶりで弟の家族と一緒に、秩父のお墓参りをすることができました。 姪だけが不参加で合計7人の参加でした。

 我が家では、春と秋のお墓参りは、ごく自然の行事になっており、余程のことがない限り、家族4人が秩父まで、車で2時間半の道のりを、おしゃべりしながら楽しみます。

 途中、セブンイレブンによって、飲み物などを仕入れ、芦ヶ久保の道の駅に寄って、お花やお供えのお酒を買っていきます。 

 お墓の掃除をしてからお線香をあげ、お線香も火が消えるまで、お墓の前でおしゃべりをしながら過ごします。 線香の火が消えてから、またお掃除をして白い小石のあるお墓の周りに、子供たちが文様をつけてから帰ります。

 帰りには吉野梅郷へ寄って梅林を観賞し、紅梅苑で「ゆずかご」や「梅ゆべし」のお土産を買ったり、沢井の「ままごとや」に寄って、豆腐料理を食べながら新酒を飲んで楽しんだりするのですが、昨日は、羽村近くにある「スシロー」で、茶碗蒸しや御寿司をつまんで、楽しみました。

 次回は、姉の家族を誘って、お墓参りをしたいと思います。


天寿を全うするまでにどう生きれるかを考える

2013-09-22 07:53:23 | 健康

 私の黒門小学校3年のときに習った米田健治先生も、今年で89歳になります。 奥さんもちょっぴり年上です。 毎日のように好きな映画を、都心まで出かけて観ていましたが、最近になって歩くのもちょっとという感じになってきました

 近くの鍼灸治療院で、どこかよいところはないかと相談を受け、ネットで検索し、近くの鍼灸治療院を紹介しました。 治療を受けたときは改善するのですが、あくまでも一時的なものなので、稲城病院でMRIで検診し、ずばり腰部脊柱管狭窄症であることを、告げられました。

 先生からお子さんと相談されてくださいということで、子供がいない先生としては、私が傍に住んでいるので、電話があり早速お伺いして、痛みを感じないのならば手術はしないほうがよいと、アドバイスしました。

 つい2、3日前に奥さんも、吐き気を模様して元気がなくなり、先生としても、いよいよこれからの生き方を考えなければいけない時期に来たということで、また電話があり昨夜、出かけて話をしてきました。

 とりあえず家の中をバリヤフリーにするなど、キッチンやお風呂をきれいにリフォームして、できるだけ今の家に住めるために、手当てをしようということになりました。

 帰りがけに奥さんが、これで先生もしばらく元気でいられる、と独り言のように話されました。 私が話しに出かけることが、先生自身に生きる活力が出てくるのであれば、喜んでまたお伺いしたいと感じました。


読饗のブラームス作曲の交響曲第1番を聴いて熱情を

2013-09-21 08:16:36 | 文化

 昨夜は、下野竜也の指揮で読売交響楽団演奏のコンサートへ、入ってきました。 曲目はブラームスの交響曲第1番でした。 事前にクララ・シューマンに対するブラームスの思いなどについて、指揮者と解説者の見解を聞いてからの、コンサートでした。

 前列から4番目の真ん中の席でしたので、時々一人で演奏するコンサートマスターのヴァイオリンの音色、また激しく弓を引くヴィオラの姿を見るにつけ、ブラームスのクララに対するパッションを、強く感じました。

 第4楽章まで演奏し終わった後には、胸の高鳴りを感じました。 ブラームスを改めて新鮮な気持ちで、感じることができました。

 事務所では現在、千住真理子さんのヴァイオリンの演奏を聴きながら、パソコンに向かって作業をしておりますが、ヴァイオリンの切ないような音色を、楽しんでいます。


仏教用語の「地位」を改めて考えてみると

2013-09-20 06:23:49 | 座禅

 先日、古い雑誌を見ていたら、仏教用語で「地位・じい」という言葉が出ていました。 「地位」は、菩薩が仏になるために、どうしても経なければならない道であるといいます。

 大乗経典の中の華厳経の中で、菩薩の通る道を「十地・じゅうじ」といい、この「十地」を特に「地位」と呼ぶそうです。 また、「十地」の中の歩みの中でもっとも重要なことは、初地に立つことであると説いているという。

 そのためには、自らの課題(願)と清らかな行い(善)が、揺るぎないものになっていなければと説きます。 その上で初めて、本当の歩みが始まるというのです。

 つまり「地位」に就くことは、始まりであって目的ではない。 その始まりに立つためには、揺るぎない決心と相応の実力が、必要だというのです。

 例えて云えば、社長などの高い地位に就くことは、結果であって決して目的ではないと、私たちに教えてくれているのです。(文芸春秋2月号大谷大学織田顕祐氏の文章から)


うつ伏せ寝は首を曲げて寝ますので神経系統に異常が

2013-09-19 08:54:08 | 

 昨日、連れ合いがクリニックへ行って、MRIを撮って診察をしてもらいました。 割れるような頭痛の原因が、頚椎が曲がっているということが分かりました。

 お医者さんから、うつ伏せで寝ていませんかと、言われたそうです。 実は連れ合いが、いつもうつ伏せで寝ている姿を見て、ちょっとまずいなあと思って、注意はしていました。

 本来、首は背筋にまっすぐが、自然で一番よいのです。 座禅を行っていると、よく分かります。 

 首を曲げた状態で寝るということは、頚椎にある推間板が飛び出た状態になります。 寝るということは、力が抜けて状態になります。 したがって飛び出た推間板はヘルニア状態として、残ってしまいます。

 そのヘルニアが頚椎周りに集中する神経の腺を、刺激することになります。 幸いに、脳の周辺はきれいで、何の異常も見られなかったとのこと。 

 とりあえず、激しい頭痛の原因が分かって、一安心です。 付け加えるに、MRIは健康保険の対象外だと思っていたところ、脳神経外科の場合は、対象になるということでした。 私も、一度MRIで脳の中身を、見ていただきたい気持ちになってきました。


「座禅」の検索サイトから「ひとり座禅のすすめ」が消えてしまって

2013-09-18 08:34:06 | 座禅

 最近になって私のブログ「ひとり座禅のすすめ」が、「座禅」の検索サイトから消えてしまいました。 検索すると、いつも1枚目か2枚目には、掲載されていたのですが。

 私のブログは、禅宗の曹洞宗の意識の集中の難しさや、臨済宗・黄檗宗のいわゆる腹式呼吸の行い方について、ちょっとおかしいのではないかと(体の生理・肺の動きと臍下丹田の動きとは同期しない)、我流の意見を述べてきました。

 そんなことが、禅宗の一部の方から疎まれ、「座禅」の検索サイトから消されてしまったのかとも感じました。 私のパソコン先生に尋ねたのですが、自分はブログには詳しくないので、分からないとの返事。 今晩、パソコンのソフトも作っている甥っ子に、聞いてみることにします。