ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

人が喜ぶ姿を見て自分も喜ぶ機会を作りたいと願う

2013-05-31 06:53:14 | 自分

 私は、いつの日にかセクシャルな行為を通して、自分が動くことによって相手が喜ぶ、それが人としての喜びではないかと、考えるようになりました。 自分だけが喜んではいけないとも感じました。

 それを広い意味で、自分が色々と段取りして、人に喜んでもらい、その喜んだ姿を見て自分も喜ぶのが、人間としての本当の喜びになるのではないかと、思うようになりました。

 たまたま私の近くで、そのことを実践されているのを見て、ますます、そのことを強く思うようになったのです。

 私の支援者の一人であるその方は、あらゆる機会を捉えて、桜見会、夏の夕涼み会、年末の忘年会を主催し、多くの方に集まってもらい、喜んでもらっています。

 自分は肉や魚を食べないにもかかわらず、バーベキューでは肉もいっぱい用意します。 バーベキューの鉄板なども全部自前でつくります。 基本的には来ていただくので、材料費等もすべて自前です。 参加者の中には自分の飲み物を持参する方もいますが。

 そのほかにも、様々な形で実践されていることを身近に見るにつけ、人が喜ぶ姿を見て、喜んでおられるのだろうなあと、改めて思うのです。

 そんなこともあって私自身も、あらゆる機会を捉えて、人に喜んでもらえるように、心がけていきたいと思うのです。


ハグし合うのも多生の縁なのか

2013-05-30 06:50:32 | 自然

 私のブログにコメントが入って「袖擦れ合うのも多生の縁」という言葉がありました。 私は多生を多少という風に感じていましたので、改めてネットで検索してみました。 袖擦れ合うような出会いも、そうなるような因縁がある、というような意味合いだったと思います。 そんなことから、私がハグする人のことを、想い起こしてみました。

 私は、実は出会うと必ずハグする方がおります。 自然の情愛からか、ハグします。 84歳の方で、名前は女性のような名前をしております。 初めてお会いしたのは、25年以上前になります。

 当時は、まだハグするような雰囲気ではなかったのですが、建物を二つ計画したり、一緒に会食したりするうちに、親しみが沸いてきて、駅前の大通りで人が一杯いても、ごく自然にハグするのです。 ただその方の場合は、私からの一方的なハグを受け入れるという関係ではあります。

 最近になって、駅前の居酒屋の女将とは、私がそこのお店へ行き、会うとごく自然にお互いにハグします。 そのお店に行くようになってから、間もなく、ハグしあう関係になりました。

 先日、ドイツの留学生活が長く、7年間いた祐乗坊進さんと一緒に、その居酒屋にいったときにも、ヨーロッパでは友人と会えば自然とハグするけど、日本では珍しいねえと、話してくれました。 勿論、私たちがごく自然に、ハグしているのを見ていました。

 私も、今まで様々な方々と出会ってはいますが、ハグするなんてことは、殆んどありませんでしたが、何かしらのものを感じるのです。 ですから、今までは、行きつけのお店があったのですが、その女将がいるお店へ、自然と足が向いてしまうのです。


心の襞と襞が触れあえるように付き合いたい

2013-05-29 07:02:08 | 心の襞

 私は自分が生まれて天に還るまでの間に、どれだけの人と出会えるだろうか、またどれだけの人と、心の襞と襞が触れ合えるような関係の人と、出会えるだろうかと想うことがあります。

 そのためには、いつも自分が裸になっていなければ、相手も裸にはなってもらえません。 いつの間にか私は、初めて会った人に対しても、服を着ることなく裸で話をするようになっていました。

 いつも裸でいるほうが楽なせいも、あるでしょうか。 お会いする方によって、こちら側の対応の仕方が変わるのも、ちょっとおかしい感じがします。 したがって、話し方は、どんな方に会っても変わりません。

 私は男ですが、男の方に対しても女の方に対しても、その接し方は変わりません。 素敵な女性に出会って、この方とは大切にお付き合いしたいなあ、と思う方にも出会いました。 男性にも、そのような方はおります。

 いつも自分を裸にしていることと、作為を持たないということも、とても大切にしています。 自分は裸になりますが、相手も裸になってくれないと分かったときには、そっと服を着るようにはしております。


出会った人を大切にして生きたい

2013-05-28 07:42:47 | 友人

 私たちは、自分が生まれて天に還るまで、色々な多く方々と出会いますが、その出会った方々との縁を大切にして生きたいと、常々思っています。

 昨日も、久しぶりで電話があり、大手建設会社の統括所長としてお付き合いさせていただいた方と、お会いしました。 都内に住みながらも、生家のある茨城の家に、自分の趣味であるバイクを、数多く保管していることを、教えてもらっていました。

 何となく面白い方だなあと思いながら、仕事上でお付き合いがあり、その後退職されても、あっちこっち見学したといっては、写真をメールで送ってこられたりしていました。

 そのうちに、結構、右翼っぽい感じの案内も来るようにもなりました。 そんな一面は、当時は見せなかったもので、改めて人間というものは、面白いものだとも感じたりしていました。

 現場で働いていた監督さんも、私のそばでよく見かけるので、声をかけては、その方が持っている雰囲気なども、楽しんだりしています。

 仕事を離れても、一度出会った人との関係は、大切にして生きたいと、改めて感じた1日でした。


座禅は心身ともに休むことになるのか

2013-05-27 07:10:34 | 座禅

 先週の土曜日に、滅多には行かないのですが、久しぶりで懇意にしている東府中のスナックに、友人といってきました。 ママさんと常連のお客で、お店の手伝いをしている方と、4人で6時間ばかり、歌も歌わずにおしゃべりをしてきました。

 したがって家に着いたのは深夜の1時過ぎでした。 いつもであれば、一眠りしていざ、これから深夜の1時間の座禅という時間です。

 半身浴をしてから寝ましたが、目が覚めたら朝の4時半です。 早速、ご飯の支度をして、軽く食事をして事務所へ出かけました。 7時前には、知人が自分の家に虫が出たということで、来られました。

 いつもであれば、真面目に対応するところですが、ちょっと眠くもあるので、話も半分に聞くのが精一杯でした。 それでも2時間ほどで帰られました。 

 日曜日は前日の深酒で、ちょっぴり疲れ気味です。 事務所のソファーで少し仮眠もしました。 仕事の事務処理もしながら、午後3時になってからは、競馬・日本ダービーのテレビを見ながら、改めて馬券の予想をして買いました。

 めでたく3連複が当たって、良かった良かったと思いながら、ちょっと早めに家に帰り、シャワーを浴びて、寝てしまいました。 深夜の2時半から座禅を1時間。 

 そのままキャベツを切って八宝菜を作り、朝食を息子と一緒に食べて、5時半には事務所に向かいました。 改めて昨日からの1日を振り返ってみると、1時間の座禅を行うことによって、心身ともに疲れが癒される感じがしたのです。 不思議な感じがいたします。


ダービー前日に改めて想い起こします・お馬さんのこと

2013-05-25 07:16:31 | 文化

 私が競馬に関心を持つようになったのは、検査入院している仕事仲間から、中山競馬場の1200mのレースで、1点10万円を買ってきてほしいと、頼まれたのがきっかけでした。

 私は20代のころ、京成立石駅のそばで建築現場の仕事に携わっていましたが、現場監督をはじめとして、みんなが競馬の話をするので、一度行ってみようと思い、近くの中山競馬場に行ったことはありましたが、余り関心を持つことはありませんでした。

 丁度、土曜日でしたので、親しくしている友人(ブログ・お馬さんは恋人の作者である)に、お願いして、一緒に近くの府中にある東京競馬場へ行って、銀行から下ろしてきた10万円で、馬連一点10万円の馬券を購入しました。

 残念ながら、その1頭は出遅れで、その馬券は紙くずになってしまいました。 私は、その紙くずを持って、検査入院している友人を訪ね、はずれ馬券を渡しました。 その友人からは、その後また1点10万円を買ってきてといわれ、更にもう一度1点3万円(その時も10万円といわれたのですが3万円に下げてもらったのです)買いにいきましたが、全て外れでした。

 そんなことがきっかけで、その友人の発案で、10数人から1万円を集め、それを元手に70倍が3回連続してあたれば、34億円になるねと、何か夢を見るような感じで、出資者が東京競馬場に集まっては、少しでも元金が増えるように願って、馬券を買っていましたが、結果的に数ヶ月で、ゼロになりました。

 競馬場にいくうちに、やはりその友人の発案で、みんなで一口馬主にもなりました。 そんなことを経験するうちに、私自身も競馬にも関心を持つようになったのです。

 現在は、日曜日のメインレースだけ、東京スポーツを買っては、熟読しレースの展開を予想して、買うようになっています。 私はその日のついている騎手を中心にして、買うことが多いのです。 メインの11レースの前の10レースに勝った騎手(3位以内に入った騎手)も、参考にします。 峠を越えたと思われる武豊騎手や、長く下積みが長かった柴田大地騎手を、応援しています。


力を抜く力が働かないように上体を維持する・座禅の姿

2013-05-24 08:08:24 | 座禅

 胡坐を組んで長く坐っていると、はじめの内は足も痺れてきます。 肩の力を抜いてリラックスしていてもです。 胡坐の姿勢に慣れてくれば、自然と足の痺れも無くなってきます。 

 私は、かなり長い間、胡坐の組み方は普通の胡坐でした。 数年前に近くの(車で15分位ですが)お寺で毎朝、座禅会を行なっているのを知り、月に1回参禅するようになって、和尚さんから注意を受け、それからは崩れた半跏趺坐で、坐るようになりました。

 高校時代のバスケットボール部での、右ひざの不完全骨折の後遺症で、右ひざの調子が悪く、正座も出来ないほどだからでした。

 普通の胡坐でも上半身は、どういうわけか頭のてっぺんが天から引っ張られているような感覚で維持していました。 禅宗でいうお尻と両膝の3点で、上体を維持するということも、知れませんでした。

   上体の重心が、上半身の垂直上にあれば、両膝にも力はかかりません。 私の両膝は、転倒しないように床に触れる程度です。 また重心が体の垂直上にあることによって、床からの反力があるため、体には力が一切働かない感じがします。

 また法界定印で組む手印の親指の先にも、軽く触れるだけで力がかかりません。 あらゆる筋力が働かない姿勢が、座禅には一番よいのです。

 勿論、姿勢を良くしようとして、体を反らせては筋力が働きます。 全ての体の力が抜けてきた時に、究極的には目は半眼になってきます。 私は目は半眼にするものではなく、半眼になるものと思っています。


いつも明るく前向きに建設的に考えることによって

2013-05-23 06:50:20 | 座禅

 昨日、「いくらを訪ねて」の作者である伊倉雅晴さんが、5月17日からの「伊倉サミット・イン御殿場」の集まりの報告を兼ねて、お昼ご飯を一緒に食べました。 昨年の5月に、熊本の玉名市伊倉町での伊倉サミットには、御殿場の伊倉性を名乗る方々が集まり、伊倉姓の発祥の地で和やかな交換会がありました。 そのお返しということで、今度は御殿場でのサミットという集まりに発展したのです。

 その伊倉さんから、昨日のブログについてのストレスの記述で、何か指摘を受けました。 そんなこともあり、昨日の深夜の1時間の座禅では、自分のストレスについて想い起こしてみました。

 30歳前後のときに、仕事でチョンボしてしまい、寝汗をかきながら1ヶ月ぐらい過ごしたことがありました。 その時の反省で、起きてしまったことをくよくよしてもしょうがないと反省し、そのことを素直に受け止め、明るく前向きに建設的に考えることによって、マイナスをプラスに考えられると、思うようになったのです。

 マイナスを明るく前向きに建設的に考えることによって、不思議なことに、それ以上に良い結果が得られるようになったのです。 

 それ以来、いつもそのように考えるようになったのです。 残念ながら、そのように考えていても、相手がいる時には、必ずしも自分が良いと思うようにはいかない場合もありますが、いつの日にか分かっていただけるものと、考えるようにしております。

 したがって私は、様々な問題は抱えつつも、ストレスがない、ストレスがあっても、自分の生活のリズムの中で、解消、吸収していくようにしています。


自分の生活のリズムの中でストレスを吸収していく

2013-05-22 06:32:56 | 座禅

 私がいつも心がけているのは、毎日の生活の中での精神的なストレスを、自分の生活のリズムの中で、吸収してしまうということです。

 そんなことを云っても、ある限度を超えた時にはどうか、と問われた時には、その時には出来ないということも、あるかも知れませんが、少なくとも、自分はそのようにしてきました。

 したがって、殆んどの時間は、ストレスというものを感じたことがありません。 然しながら、ある日突然、その緊張の糸が切れた時に、腎臓結石で救急車を呼んで入院したり、網膜はく離で眼科に検診に行って、そのまま着の身着のままで、25日間の入院生活を送ったことがあります。

 ある意味では、自分自身ではストレスを感じないまでも、体がある日突然、いうことを聞かなくなってしまうということなのでしょうか。 ということはストレスを抱えていても、気がつかないということだったのかもしれませんが。

 そんなことを改めて思い出しながらも、基本的には、最初に述べた通り、心身とものストレスは、毎日の生活のリズムの中で、解消というよりも、吸収していくといったほうが正解です。

 呼吸法を伴いながら座禅を行ってからは、特にそのように感じます。 深夜の1時間の座禅も、私の生活のリズムになっています。 精神的なストレスは、座禅を通して全く、無くなってしまうのです。 

 座禅で意識が集中する中で、ふと浮かぶ日常的な問題解決をしなくてはならないことも、宇宙の叡智が「このように考えたら、どうですか」とサジェスチョンを与えてくれますので、感謝しています。


逆腹式呼吸の深化の過程で気の呼吸を感得する

2013-05-21 07:29:27 | 座禅

 我流の逆腹式呼吸は、大きく胸いっぱいに息を吸い(同時に下腹は大きく凹みます)、出来るだけゆっくりと長く吐きます。 吐く息は下腹にある臍下丹田に向けて吐きます。

 一般的に逆腹式呼吸というと、下腹の動きに注視し、息を吐く時には下腹は膨らむといいます。 これは一般的な腹式呼吸を基準に考えるから、下腹が膨らむという言い方をするのです。

 ここでの逆腹式呼吸は、凹みはしますが、決して膨らむということではなく、元の大きさに戻ると考えています。

 はじめは、息を吸うときに胸を膨らますことを意識しますが、次第に息を吸うときには下腹を凹ますということに、深化の過程で気がつくと推移していきます。

 この意味は、息を吸うときには、下腹の臍下丹田は気を吐いていることに気づきます。 下腹を大きく凹ますときには、気がつくと息を吸ってはいるのですが、胸を広げようとはしていないことに気づきます。 

 下腹の動きは意識しなくても、自然と息を吸うときには大きく凹み、吐く時には元に戻る動きをします。

 はじめは肺で呼吸をしているのですが、ここでの逆腹式呼吸を日常的に行うことによって、下腹の臍下丹田での気の呼吸を、自然と身につけてしまうのです。

 ここでの我流の逆腹式呼吸が、肺の動きと丹田の動きが、生理的に自然の動きをしているからだと、私自身は考えています。 肺で息を吸うときには、下腹の丹田は気を吐き、肺で息を吐く時には、下腹の丹田は気を吸うというのが、生理的な自然の動きなのです。