私は今までの自分の有り様は、先ず行動を起こしてから考えるということを、行ってきたように思います。 自分の体を動かさなければ、何も分からないということが、前提にあるようです。
座禅(静功)を生まれて初めて行ったときも、そうでした。 千葉に住む大学の級友からの声かけが、クラス会であったときも考えた上で実践することにしました。
はじめての教室に通う前に、気功の基礎という本を買ってきて、よく分からないけれど吐く息を長く吐くということだけが、自分の頭の中にありました。 教室の先生は最初に、胸の中心が燃えるようなイメージで座りなさいという話はしておりましたが、私自身は真っ暗闇の部屋で、1時間ひたすら吐く息を長く吐いていました。
吐く息を長く吐くためには、事前に大きく息を吸ったほうが長く吐けるのですから、自然とラジオ体操のときの深呼吸の要領で、大きく吸ってから出来るだけ長く吐いていました。 すると予期しないのに、頭のてっぺんに電子があり、丁度すっぽりと電子の輪の帽子を被っているような感覚になったのです。
今から思えば幸いなことに、禅宗からのスタートではなかったことです。 禅宗の意識の集中の仕方には、曹洞宗と臨済宗・黄檗宗とは相違します。 前者は壁面の一点を見つめることによって、意識を集中します。 呼吸は普通呼吸です。
後者は長く吐く呼吸に意識を集中します。 然しながら深呼吸の要領での呼吸法ではなく、「無」の概念からはじめに肺からと下腹の臍下丹田から、同時に吐き出す呼吸法です。 私は自分の呼吸法の体験から、肺の動きと臍下丹田との動きは同期しない、否、体の自然の生理に反する動きであると感じています。
私の呼吸法は、口を閉じ鼻だけで呼吸をします。 大きく息を吸って出来るだけ長く吐きます。 極限近くまで吐きます。 然しながら、全部吐ききってしまうと苦しくなって後が続かなくなりますので、そのちょっと手前で、軽く息を止めて、また大きく息を吸います。 その繰り返しの呼吸を続けるだけなのです。
座禅会の多くは30分単位で行う場合が多いようですが、最低でも1時間連続して行うのがよいのです。 1時間行うことによって、実は座禅が楽しくなってくるのです。