ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

我欲を捨てる・なかなか出来ないことです

2013-12-31 09:47:45 | 座禅

 肺呼吸を伴わない気の呼吸である胎息という呼吸法で、静かに深夜の1時間、座禅を行っていますが、上半身を小周天する体の中の気が、背中から頭部にかけて上がり、おでこから目の視床下部に入り込み、上の歯の付け根に付けてある舌を通して、胸の中心部にある中丹田を通り、下腹にある臍下丹田に入り込んでいきます。

 おでこの真ん中にある目の形をした天目を、とても強く刺激します。 天目は特別なことを意識しない限り、活性化しません(働かないという意味)。 

 私は、そんなときに天目が強く刺激を受け、働きはじめないかなあという欲が出てきてしまいます。 胎息そのものは、ある意味では特別な呼吸法であるので、そんな雑念が沸いてきてしまうのです。

 我欲を捨てるという難しさを、改めて感じております。 勿論、日常生活のもですが。


30年以上続いた12月30日の餅つきが中止になって

2013-12-29 13:30:59 | 食べ物

 もと住んでいた住まいのところで、ソフトボールの仲間と年末の30日に、そこにある集会所のそばで、いつも自分たちのもち米を持ち寄って、正月のお餅をつくようになって30年以上になります。

 

 今年はどうするのか世話役の電話をしたところ、今年は取りやめになったというのです。 昨年の年末にお餅つきを行ったときに、雨が降っていたので5階建ての建物の1階のピロティで行ったときに、上階の居住者から振動、音がすごいので止めてくださいとクレームが入りました。

 

 そんなことがあったせいか、理事会に居住者から30日の餅つきの中止要請があったのでしょう。 やむなく今年はお餅つきがなくなりました。

 

 私は、いつも伸し餅は作らず、乾燥した桜海老を入れたかき餅と、青海苔を入れたかき餅を作り、近所の方にお配りしていたのです。 桜海老を入れたかき餅は、香ばしく、それににんべんのつゆのもとにつけて、海苔を巻いて食べます。

 

 残念ながら来年も、そのようなかき餅は食べることができないでしょう。


わが身の痛さを知って人の痛さを知る

2013-12-27 07:46:04 | 

 私は10月末の定期健診のときに、お医者さんから胃カメラでの検診をすることになり、血圧を測りながら行うために、左腕を強く縛り上げられました。 その結果、左腕の腱を痛め、左腕が痺れるようになってしまいました。

 いつもどのように体を動かすと痛みが強くなるかを確かめながら、神経が集中する首を動かすことによって、腱自体を痛めたことが分かりました。 したがって、始終首を動かすことによって、その痛みがだんだん和らいでくることが分かってきました。

 12月末までは無理としても、1月末には殆ど痛みもなくなり、その痛み成分が溜まっているであろう、鼻の側の目の下の粉瘤(ふんりゅう)のふくらみも、なくなっているだろうと思っております。

 このような結果を招いた病院に言ったところで、タイトな生活を行っている身にとって、半年後の定期健診時には話をするつもりはあっても、この際、自分自身でなぜ、このようなことになったのかを考えてみました。

 私が親しくしている友人が、両手が痺れ頭が重く感じることがしばしばです。 もうかれこれ2年近く、そのような状態になっています。 友人はベットで背もたれに寄りかかりながら、テレビを見ていて、そのまま寝てしまったのです。 首が背もたれに逆V字の形で、寝てしまったのです。

 寝るということは、体のあらゆる部位が力が抜けてしまうのです。 逆V字の状態で頚椎の推間板が、飛び出た状態になってしまったのです。 一度飛び出た推間板はヘルニアとなり、その周りの全身から集まっている神経の腺を刺激し、痺れをもたらしているのです。

 友人にはリラックッスして、力を抜き、首のストレッチを始終するように話をしております。 それは頚椎の推間板がヘルニア状態になったときの状態にしながら、首のストレッチを行うことによって、時間がかかるけれども治っていく方向に進んでいくと、確信しているからなのです。

 残念ながら友人は、人の言うことを聞きません。 そんな友人に少しでも分かっていただくために、私自身に体の一部の左腕の痺れをもたらすことによって、友人の痺れや頭痛を和らげる手助けをするようになったと感じたのです。


座禅を楽しむⅣ無理をしながらも無理をせず

2013-12-26 06:23:44 | 座禅

 無理をしながらも決して無理をせず、自然の流れを大切にするという言葉は、自らの座禅の実践から出てきた言葉です。

 口を閉じ鼻だけで深呼吸の要領で、できるだけ長く息を吐こうとしたとき、全部吐ききるまで吐いたことがあります。 そうすると後が続きません。 そのときに吐ききる寸前で、軽く息を止めまた大きく息を吸いました。 すると吸う、吐くの呼吸の流れが、とてもスムーズにいったのです。

 私はこのことから、流れるような自然の流れが、とても大切であると感じたのです。 極限ぎりぎりまで吐き、その寸前で軽く息を止めることによって、またスムーズな呼吸ができるのです。

 私の一日のスケジュールは、深夜の1時間の座禅が中心になっているような気がいたします。 ただ座っているだけが楽しいのですから、昼間の動きのあることは、もっと楽しく感じるのです。 多少の波風があろうとも。


座禅を楽しむⅢ意識を集中する中でふと浮かぶ雑念を

2013-12-25 06:59:08 | 座禅

 長く吐く息だけに意識を集中しながら座禅を行っていると、1時間はあっという間に過ぎていきます。 意識が長く吐く息だけに集中していると、雑念は浮かんでこないものです。

 それでも問題解決しなければならないようなことが、ふと浮かんできます。 そんな時には雑念を払うことなく、そのことを考えて見ます。 不思議なことに意識が集中している中で考えると、こう考えたらどうですかというサジェスチョンがあります。

 私は、これを宇宙の叡智がサジェスチョンしてくれていると思っています。 禅宗では、雑念を払いなさい、雑念はいけないものだという考え方があるようですが、何事も既成概念にとらわれる必要はありません。 自分が静かに座る座禅で、何を感得するかが大切なのです。

 その前提になるのが、自分自身が謙虚であることが大切です。 また自然の流れを大切にし、自然の摂理に委ねる気持ちを、つねに持っていることが大切なのです。


座禅を楽しむⅡ1時間続けることにより真髄を感得する

2013-12-24 06:33:06 | 座禅

 座禅は最低でも連続1時間座っている必要があります。 長く吐く呼吸を行いながら、胡坐を組んで座っているのですが、表面的な静かではなく、体のあらゆる部分・微細な部分が静かになる必要があるからです。

 30分では、これからようやく静かになろうとするときに、止めてしまうのです。 静かになるには、また一からはじめなくてはならないのです。

 出来るだけ長く吐く息だけに意識を集中しますが、意外と時間はあっという間に過ぎていきます。 座禅を始めて45分から1時間経過すると、脳が今までとは違った感覚になります。

 日常的なストレスから解放され、セクシャルなエクスタシーを遥かに超える、崇高な至福感を感得することになります。 実はこれこそが、座禅の真髄だと思っております。

 お寺の和尚さんには、参禅者から何ゆえ結跏趺坐をするのですか、と問われて逃げられないため等という、トンチンカンな答えをしていた方がおりましたが、ご自分の修行時代の厳しい座禅から一歩も、脱出できていないのだなあと感じたものです。

 私は座禅は楽しいと感じ、またただ座っているだけでも楽しいのですから、昼間の動きのあることはもっと楽しいと感じるのです。 この感覚は、連続して1時間静かに座っていなければ、感得できないと思うのです。 人によって相違はあるでしょうが。


座禅を楽しむⅠ深呼吸の要領で吐く息を長く

2013-12-23 07:57:06 | 座禅

 私は今までの自分の有り様は、先ず行動を起こしてから考えるということを、行ってきたように思います。 自分の体を動かさなければ、何も分からないということが、前提にあるようです。

 座禅(静功)を生まれて初めて行ったときも、そうでした。 千葉に住む大学の級友からの声かけが、クラス会であったときも考えた上で実践することにしました。

 はじめての教室に通う前に、気功の基礎という本を買ってきて、よく分からないけれど吐く息を長く吐くということだけが、自分の頭の中にありました。 教室の先生は最初に、胸の中心が燃えるようなイメージで座りなさいという話はしておりましたが、私自身は真っ暗闇の部屋で、1時間ひたすら吐く息を長く吐いていました。

 吐く息を長く吐くためには、事前に大きく息を吸ったほうが長く吐けるのですから、自然とラジオ体操のときの深呼吸の要領で、大きく吸ってから出来るだけ長く吐いていました。 すると予期しないのに、頭のてっぺんに電子があり、丁度すっぽりと電子の輪の帽子を被っているような感覚になったのです。

 今から思えば幸いなことに、禅宗からのスタートではなかったことです。 禅宗の意識の集中の仕方には、曹洞宗と臨済宗・黄檗宗とは相違します。 前者は壁面の一点を見つめることによって、意識を集中します。 呼吸は普通呼吸です。

 後者は長く吐く呼吸に意識を集中します。 然しながら深呼吸の要領での呼吸法ではなく、「無」の概念からはじめに肺からと下腹の臍下丹田から、同時に吐き出す呼吸法です。 私は自分の呼吸法の体験から、肺の動きと臍下丹田との動きは同期しない、否、体の自然の生理に反する動きであると感じています。

 私の呼吸法は、口を閉じ鼻だけで呼吸をします。 大きく息を吸って出来るだけ長く吐きます。 極限近くまで吐きます。 然しながら、全部吐ききってしまうと苦しくなって後が続かなくなりますので、そのちょっと手前で、軽く息を止めて、また大きく息を吸います。 その繰り返しの呼吸を続けるだけなのです。

 座禅会の多くは30分単位で行う場合が多いようですが、最低でも1時間連続して行うのがよいのです。 1時間行うことによって、実は座禅が楽しくなってくるのです。


聖職者と言えども謙虚さが足りないのかとも思う

2013-12-22 09:58:35 | 座禅

 私を色々な形で支援していただいている方は、敬虔なクリスチャンですが、昔から農業をやりながら造園業をもこなしてきました。 ちょっとした作業であれば小屋も造ってしまいます。

 経験も豊富なために、あらゆることに詳しく、従って積極的にどんな分野でも、どんなことが大切かを発言していきます。 せっかくの意見も、相手先が謙虚な気持ちでいれば、よく話を聞いてよいと思えば実践できるものを、謙虚さがないために、よくなる方向に進まないことがあります。

 そんなもどかしさを、私はその方からお話を伺うことが、しばしばです。 つい昨日も、教会を音楽会等の様々な形でお貸しするのはよいのですが、肝心の責任者である牧師さんが、万が一の火災等の非常時のことを考えての、あらかじめの配慮が足りないというのです。

 災害時には、どのように安全に避難階である1階まで逃げられるか、誘導できるかが大切なのですが、その方がそのような配慮をしてから貸し出すことを提案しても、聞く耳をなかなか持っていただけないというのです。

 そんな話を聞くと、聖職者も心の修行が足りないのだなあ、ああやっぱり人間なんだァと感じてしまうのです。 私が一時期、近隣の臨済宗のお寺に参禅したときにも、そこの和尚さんに感じたことと同じであったことを、思い出してしまいました。

 人間としてはとても立派な方でしたが、もう少し謙虚さが足りなかったのです。


体を緩めるとは力を抜いて体を温めることにあり

2013-12-18 07:34:34 | 

 最近になって自分の周りの人たちも、加齢化が進行している人が多いせいか、手が痺れる、足が痺れるという方が多くなったように感じます。 事実、私が親しくしている友人も然り、私の連れ合いもそうです。 私も、血圧を測るために腕を縛り上げられた結果、腕の腱を痛め腕が痺れています。

 多くの方が何故、痺れるようになったかが分からないままに、お医者さんに診てもらい、一般的な治療を受けているというのが、自然の動きのようです。

 私は自分の腕が何故、痺れるようになったかは認識しておりますので、ひたすら体を温めては日常的に、いつも首をゆっくりと回しては、左腕の腱の付け根に刺激を与えるようにして(少し痛むのですが)、自分なりの方法で痛みが癒えるように心がけています。

 友人や連れ合いの症例から、力を抜いた状態(寝てしまって)が変則的な姿になっていて、結果的に骨の推間板が飛び出た状態を、作り出してしまっているのではないかと考えています。 全てがそうであるとは云えませんが。

 背骨の腰部あたりですと、なかなか体を回したりしてのリラックス状態は作り出せませんが、頚椎の場合は比較的に簡単に、首を回すことができます。

 友人のように痛いから首を動かさないのではなく、痛いのを我慢して少しずつ動かすことが、大切なのではないかと思うのです。

 そのため体を緩めるためにも、半身浴で何度もお風呂に入った上で、体を動かし首を動かして、ストレッチをする必要があるのではないかとも思うのです。

 寝た状態というのは、力が抜けた状態ですので、あえて覚醒時にも力を抜いた状態を作り出す中で、ゆっくりと体を動かすことによって、わずかな動きながらも少しずつ、体にも変化をもたらすのではないかと感じております。


大学の級友たちと西新宿のほしので会う

2013-12-17 08:41:23 | 友人

 昨夜は、西新宿のとんかつ・ちゃんこの「ほしの」に10人が集まった。 藤沢に住む幹事役のK君の呼びかけで、表参道に住む元大手建設会社の研究畑で働いていたM君、池袋で相変わらず設計事務所を運営しているT君、脳梗塞で半身不随ながら絵を描き続け、精力的に展覧会に出品しているN君、K大学の教授を退職して悠々自適に、陶器造りに精を出すS君、皇后陛下の親戚でT大学で来年まで客員教授をしているSy君、演劇活動を続けている役者のMu君、耐震事業に相変わらず関係しているA君、NPO活動で民家の保存活動などを行っていて、朝ごはんにビフテキを食べているH君。

 昨夜、来れなかった級友の話も出ました。 元大学教授のMa君は、娘さんが危篤状態にあり、そばにいてあげたいからと欠席。 元大手建設会社の設計部にいたY君は、真面目な性格が災いしたのか、元上司からのきつい叱責からうつ病になって、人と会うのを避けるようになってしまったと奥さんからの話。

 大阪に住むNa君の連絡が取れなくなってしまったが、老舗のかばんやを継いだのだろうかと話が出て、ネットで検索してK君が電話をしてみるとのことに。 長野にいるU君は、現役で設計事務所を行っているとのこと。 

 名古屋にいるSa君は、のんびりと過ごしているようだとのこと。 Mu君のそばに住む元大手設計事務所の構造部門で働いていたNah君と出会って、スナックで話したが、生まれ育った環境からか、その堅さが滲み出ていたと話していました。

 ちゃんこ鍋を真ん中にして、トンカツ、牡蠣フライ、焼き鳥をつまみに、ビールと日本酒で久しぶりの再会を、楽しませていただきました。