私が行って来た座禅のスタートは、禅宗による座禅ではありませんでした。 気功の静かな功である静功が、出発点でした。 指導されたのは中国からの留学生で、子供の頃から意念派と呼ばれる静功でした。
生まれて初めて胡座を組んで静かに、真っ暗闇の中で1時間過ごしました。 指導者の云われることは聞いたものの、それとは関係なく、ひたすら深呼吸の要領で長く吐く呼吸を行いながら、座っておりました。
胡座も結跏趺坐と云う座り方ではなく、普通の胡座で座っておりました。 手の組み方も両膝の上に両手を上に向けて、重ねる組み方で、凡そ法界定印と呼ばれるようなものではありませんでした。
10年近く、上記のような禅宗の作法には、ほど遠いやり方でした。 呼吸の仕方も、禅宗の腹式呼吸とも違うもので、空の理念によるはじめに息を吐き出し、なおかつ下腹からも同時に吐き出すと云う呼吸法ではありませんでした。
また禅宗のHPにあるような、両膝とお尻の三点で上体を維持すると云う座り方ではなく、基本的にはお尻の一点で上体を維持する、両膝はあくまで転倒しないようにするだけの座り方でした。
その後、結跏趺坐の意味や、法界定印の意味を感得しましたが、余り禅宗の座禅の作法には、拘って来ませんでした。
何故、座禅を連続して1時間以上座り続けることが大切なのか、深呼吸の要領で行う長く吐く呼吸法の方が、体の自然な生理的な動きに合致していることを、感得して来ました。
調身、調息、調心は基本的に大切にしながらも、余り禅宗の作法に拘る必要がないと、感じております。
飽くまでも座禅の根本は、長く吐く息に意識を集中し、最低でも1時間は座り続けることによって、日常的なストレスから解放され、崇高な至福感を感得出来ることにあるからです。 そのことによって、全ての出来事が明るく、楽しく、前向きに過ごすことが出来るようになるのです。