私は娘が1歳になった時に、多摩ニュータウンに引っ越して来ました。 娘が毎日、牛乳を飲む関係で、当時、牛乳を届けてくれる生協に入会しました。
5月過ぎからの梅雨時に、新しい畳からダニが発生し、ヨチヨチ歩きの娘のことを想い、その怒りからダニ対策委員会を作る、住民闘争を行うことになりました。 そんなお世話をさせてもらう中で、協力してくれた生協の理事を、設計事務所に勤めながら、1ヶ月に一度の理事会に参加することになりました。
本来はノンポリの自分ではありますが、生協の活動を通して、素敵な方々との出会いがありました。 そんな時に仲間から、「東京に原発を」広瀬隆著を紹介され、読む機会を得ました。
広瀬さんは、当時の自民党や原発事業を推進している企業が云うように、原発が安全であると云うなら東京に原発を造れば良いのでは、と云う内容の告発本でした。
そんな知識を持ちながら、3.11の東日本大震災を迎えました。 大きな津波により海岸線に位置する原発が被害を受けて、爆発することになりました。 幸いにメトルダウンによる大爆発まで至らなかったものの、拡散する放射能により、近隣市の方々は避難する事態になりました。
その過程で、それまでの自民党政権下で、原発の安全性の確保のための施作を、経済的な理由で取りやめてしまっていたのです。 不幸なことに当時は、原発に批判的な民主党政権に変わっていました。 原発事故直後の癇癪持ちの菅直人首相の対応の不味さや、内部構想の敵失によってまた直ぐに、自民党政権に戻ってしまいました。
3.11の大震災から6年経っても、放射能の半減期の長さから、未だに原発の近隣の住民の方々は、家に戻ることは出来ません。
小泉純一郎さんは、自分が首相の時には分からなかった原発企業や、自民党内の虚偽の数値を再考し、3.11の原発事故は、原発産業を止める良い時期であると、主張し始めました。
更に日本の内外で原発事業を推進して来た東芝が、経営陣の度重なる粉飾決算んと、買収した米国の原発企業の倒産寸前の状態の中で、東証二部の監理ポストに入る体たらくです。
私は、原発事業を縮小する良い機会だと思うのですが。 4つの大陸プレートが日本の国土の下に入り込んでいる地勢からかんがえれば、当然の帰結だと感じております。 活断層があるかないかではなく、大陸プレートが動く中で、何時どこに断層が動くか分からないからですが。