ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

ブログを書いているのは何故

2005-11-30 19:04:05 | 自分
 親しい友人が、私のブログをいつも見ていてくれるのですが、先日、お会いした折に、自分に言い聞かせているように聞こえますね と言っていただきました。
書き始めたきっかけは、座禅(静功)の素晴らしさをできるだけ多くの人に知ってもらい、できうればブログを読むことによって、一人でもよいから座禅を始めてもらえればということでした。
 自分自身は、たまたま色々なことを感じることが先行し、追いかけるように本を読んで、こういうことだったのかと後から学習すような雰囲気でしたので、何事も全て分かった人の話を聞くよりも、より分かりやすく理解(感じること)をしてもらえるのではないかと思っております。
 座禅を通して普段感じていることを、日常生活を通して素直な感じ方を表現できればと思っております。
 その意味で、人生の中で出会いの大切さを強く感じることがあります。 振り返ってみれば出会いの強弱によって、自分の人格形成とか、人生をどう歩むべきかという岐路に立ったとき、それなりの影響力をもって関わってきております。 出会いの中で、どれだけの心のふれあいができたか、否、どれだけの心と心の襞のふれあいができたか がとても大切なような気がします。 一生の間に男女を含め、1人いれば最高、2人いればもっと最高。 
 どんな場面でも、どんな状況下でも どんな出会いができるかわかりませんので、いつも人と会うときは裸でいます。 自分が裸にならなければ、相手も裸にはなってくれません。 話の過程で相手が裸になってくれないのが分かったなら、そそくさと洋服を着ればよいのです。 いつも裸のほうが楽だと思うんですが。 

ある種のペンギンは産卵の時だけ一緒です

2005-11-29 08:28:53 | 自然
 あるペンギンの種類では、いつもは別々に海で暮らして、産卵期になるといつも同じ場所(陸地の海から離れた洞窟)にそれぞれが集まり、浮気することもなく同じ雄雌が、変わることなく子供を誕生させるという。
 始めに雄が洞窟に来て、できるだけ産卵によい場所を求めて、雄同士で小競り合いをし、次に雌が洞窟に近づきますが、自分の雄を求めて声をあげて鳴きます。 その雌の鳴き声を聞いて,雄は自分の連れ合いであるかどうかを確かめ、声をあげて呼び寄せます。 卵を産み付けると、1週間おきに雄と雌が交代で卵を温めます。 交代したものはまた、海まで行って餌を見つけて出産に備えます。
 私達は、結婚するといつも同じ屋根の元に、一緒に生活をします。 最初は新鮮な気持ちで毎日の生活を送りますが、時間の経過とともに慣れが出てきてしまい、お互いに気を使うことも忘れがちになり、空気のような存在と感じてしまったりします。 
 私の友人で、いわゆる正式な結婚といえるかどうか分かりませんが、互いに別々に暮らしている2人がおります。 2人ともある程度年齢も高いせいもありますが、子供はおりません。 そのペンギンのことを指していうわけではありませんが、いつ会っても新鮮なようです。 友人のようなスタイルが、これからも増えてくるのかなという予感もあります。
  

構造計算書の偽造について思う-3

2005-11-28 08:33:21 | 社会・経済
 構造計算書を偽造して建築した建物の現場で働いていた職人さんは、どのように感じて仕事をしたであろうかを考えてみました。 数多くの工事を手がけた例えば鉄筋を組み立てる職人さんの世話役であれば、当然鉄筋の本数がおかしいのではないかと気づいたはずです。
 一例を挙げれば、1階から10階まで柱の大きさが同じなおかつ鉄筋の本数も同じとあれば、おかしいと気づくはずです。 本数が多く入っているのであれば問題はないのですが、10階にはいるような本数がそのまま1階まであるということのようです。
 また鉄骨の場合でも、鉄骨を立ち上げたときにへなへなとして、鉄骨だけでは自立できないような構造であったとも聞き及びます。 鉄骨の場合は、まずそのような鉄骨の厚さ、断面で設計されることはありませんから、鉄骨工事に携わった方々もおかしいと気づいていたはずです。
 私達が、錯覚してしまうのは建築確認が下りているから大丈夫だろうという信頼感があるからです。 今までは何事も善意で行えたことが、これからは、先ず疑うことから出発しなくてはならないとは、さびしい限りです。 バブルが崩壊し、少しずつアメリカ主導によるインターナショナル化が始まり、外国人の大量の流入化により、なんとなく不安定な世の中になってきたのかなというのが実感です。
 昔は銀行の支店長は信用の塊のようなイメージでしたが、一番信用できないのが銀行であるということがこれまでの社会の流れの中で、私達みんなが認識し始めたのも事実です。 

構造計算書の偽造について思う-2

2005-11-27 10:20:40 | 社会・経済
 今朝のテレビでデベロッパー(分譲開発会社)の社長が出て、建築確認の民間検査機関が不正を見抜けなかったと言って、その検査機関ならびに国にも責任があると主張しておりました。
 建築主は設計事務所(または建設会社)に設計契約をして設計を依頼します。 建築主の要望に沿って設計図を法規制の中で最低限クリアできるようにして、建築確認の申請をします。 設計上に問題が起これば、当然設計を担当したものがその責を負わなければなりませんし、体外的には設計を依頼した建築主が負わなければなりません。
 ところがテレビで発言している社長さんが話されているのは、設計会社が悪いのではなく、ましてや自分のところは被害者だと言っておりました。 建築の確認検査をするところは、あくまで法規上最低限の条件をクリアしているかどうかの確認をするところであり、故意に構造計算書を偽装したものをチェックできなかった責任はあるものの、裁判になったところでその責の大半は建築主が負うのは、明白です。
 建築主が強い立場を利用して構造事務所を紹介し、数値のごまかしを結果的に誘導するようなことをしておきながら、まず謝りもすることもなく設計会社を訴えることもなく、確認機関なり委託した国も悪いと言う。 見ていてどうもおかしいと言うのが実感でした。 残念なことに建築主から構造事務所を紹介されて設計を行った元請の設計会社社長が、自殺したという報道をみて痛ましくも感じました。

構造計算書の偽造について思う

2005-11-26 18:26:38 | 社会・経済
 構造計算書の偽造問題が社会をにぎわしていますが、故意に数値をごまかすという今まででは考えられないことを行ってしまいました。 地震の多い日本にとって、建物の耐震性を最優先させるべきなのに、デベロッパー(開発分譲会社)や、設計施工を一括請け負う建設会社が、強い立場を利用して弱い立場の人間に無理やり数値のごまかしを誘導したようにも思います。 
 民間の確認検査機関が槍玉に挙げられていましたが、ほかの確認機関(特定行政庁も含め)でも詳細な確認漏れが出てくるのではないかと思っておりましたが、やはり、平塚市役所でも見落としが発見されました。 建物の設計監理を行う場合、最新の注意を払って設計をしますが、故意に違法なことをしない限り、法的にも抵触するようなことは、出てくるはずがありません。
 視覚的に見劣りするものは仕様を落とすわけにはいきませんので、収支を優先してしまうと人の目には見えない構造部分の仕様を落とすしかないのかもしれません。 耐震性はあればあるほどよいのですが、コスト優先になると一般的には、ぎりぎりの構造にしてしまうようです。
 建築主が過大な要求をしない限りは、より以上の地震に強い構造ができるはずです。 この問題をきっかけに悪しき風習がなくなることを、計画する立場の人間として願ってやまないことではあります。

牛乳について思うーカルシュームはあるのか

2005-11-25 08:38:23 | 食べ物
 私の子供は、乳離れをした後、粉ミルクから牛乳へ飲むものが変わってきていました。 ある時期、生協活動に関わった折に本来の牛乳はどうあるべきか、どうつくられるべきかという議論の中で、今現在行われている140度3秒の殺菌は、カルシュームそのものを壊してしまうのではないかという結論に達し、酪農国の多いヨーロッパで行われている60度30分の低温殺菌牛乳を近隣の農協に働きかけ、開発し現在に至っています。
 食べ物本来持っている栄養素を、経済効率だけの理由で短時間に高温殺菌することによって、失ってしまっており、私達は安い牛乳ということで少し割高な低温殺菌牛乳を、積極的には飲むことはしません。 食品スーパーをみても売られている牛乳は殆んどが高温殺菌牛乳になっていて、低温殺菌牛乳は端っこに恥かしそうに置いてあるのが現実です。
 野山に生える草を食べて人間の手で手間隙かけてできる牛乳より、山から自然に湧き出る自然水のほうがポットボトルに入れられて、高く売られていることを思うと、ちょっとおかしいのではないかと思わせます。
 日本人は本来農耕民族なので、積極的に牛乳は飲むべきではないのではありませんか という議論もあることも付け加えておきます。

これからの介護施設でも受け入れられるように

2005-11-24 16:06:40 | 
 今日は、母が病院へ入る前までお世話になっていた特別養護老人ホームの方が6人でこられ、腹膜透析をする母を施設側で受け入れられるかについて、担当医師を交えて話し合いがもたれました。
 先日の施設での話し合いの折に、私が施設へ出向いて透析の施術をしますからどうぞまた受け入れてください とお願いしたためでした。 今までは介護だけで済んでいたかも知れませんが、高齢化のなかで施設側でもこれからはおこなっていく必要があるのではないか、また自宅でも腹膜透析が出きるということですから、施設側でもできるのではありませんか と問うたためでした。
 残念ながら、腹膜透析は安定するまで半年はかかるとの医師のお話を聞いて、あきらめるしかありませんでした。 あと何年過ごしていけるか分からない90歳の母のことを思うと、また私が食事の補助へ病院へ行くたびに、甘えたり喜んだりし、帰るよと言うと今度は泣いちゃうから と言ったりします。 思わず涙が自然と出てきたりもします。
 9月23日以来、まだ一度もお風呂に入れませんので、いつも行くと真っ先にタオルに充分熱いお湯をつけて、それで顔を拭いてあげるようにしています。 ですから私が行くと、いつも赤ら顔になり元気そうに見えます。 とても気持ちがよいといって喜んでくれます。
 

かつては我慢を遊びの中から学んだのではありませんか

2005-11-23 10:25:03 | 友人
 すぐ切れてしまう子供や大人が増えてきて、関係ない人に害を与えてしまうことが多くなってきて、いつもニュースをにぎわし、どうしてこんなことができるのだろうか又は、どうしてこのようなことをしてしまうのだろうか と考えてしまいます。 
 自分が子供の頃を思い出すと、近所にガキ大将がいてその子を中心にして、良かれ悪かれ影響を受けて遊びの中から、自分の思うようにいかない、いわゆる我慢ということを自然と覚えてきたようにも思うし、小学校の時にはいつも放課後は、校庭で下校時間(暗くなる直前まで)までクラスメートと遊んで帰った記憶があります。
 今の子供達は、学校で問題を起こされると先生達が困るので、授業が終わればさっさと帰らされ、はたまた、学校では不足する学力をつけるため、一目散に学習塾に通ったりします。 したがって、地域の中では日常的な仲間による遊びの中での学習ができず、室内でのゲーム機による一人遊びが蔓延しているようにも見えます。
 子供を育てる親達も、子供を誕生させる行為の時にも、必ずしも我慢を十分しているのか疑問です。 受胎時の状態をいつもよい状態にし、大いに喜び又我慢をし、そして受胎に至るのが、種族保存の法則につながって来ます。 私も含めそれほどの我慢ができたであろうかと、自分の子供を改めて見て思うこの頃ではあります。

マシュマロを食べてすべり症も治ります

2005-11-22 10:48:25 | 
 先日、知人の奥さんと久しぶりに道端でお会いして、いつも寒い季節になると背骨の骨がすべり症で痛くなり、寝込んでしまうのが常でしたので、最近はどうですか と声をかけたところ、マシュマロの話を聞いてから食べるようになり、おかげさまでここ何年間かは痛くはなりません と返事が返ってきました。
 以前にテレビで見た38歳の主婦が、マシュマロを毎日10個食べていたら背が4センチも伸びた話をしておりました。 その主婦の方の骨と骨の間の髄核を調べたところ、普通の人と比べると丸々と太っていた写真を見たことも、話しておりました。 すべり症は髄核が痩せてくることに問題があるわけですので、太らせればよいのです。 マシュマロ(不純物の入らないものープロテイン)を毎日お茶の中に溶かしたり工夫をして食べていけば、すべり症も治り、背も伸びてきるという一石二鳥にもなります。
 その奥さんのご主人とは、かつて一緒に部屋を真っ暗にして1時間座禅をし、その後つまみを食べながらお酒を呑んで色々な話をし、楽しんでいた事もあります。
 

メル友について考えてみました

2005-11-21 14:47:44 | 文化
 携帯でもパソコンでもメールだけでやり取りしているだけでも、自然と心が通じ合うことがあるようです。 友人達と勉強会を企画した折に、友人が勉強会の講師の先生にメールで依頼をし、内容についてもメールで交換して、勉強会の当日に初めて会ったというのに、とても親しく話しているのを近くで見て、メールの交信はすごいなと思ったりもしました。
 インターネットでメル友を探したり、自殺志願者を募ったりして現実に、私達の社会を色々な意味でにぎわしています。 顔を見なくてメールで交信するだけでも、心の交流ができてしまうようです。 私がブログを書くようになったのは、座禅(静功)の素晴らしさを、一人でも多くの方に知ってもらうことが第1でしたが、自分の気持ちをどれだけ素直に表現できるかな、との思いもありました。
 数あるブログの中で、ひとつでもよいから何か感じてもらうことがあればよい という気持ちです。 私も時々本を書店で買って読みますが、自分が今捜し求めている命題の答えになるようなことは、1冊の本から1行でもあればよいほうです。 ひとりで座禅を行うということは、わからないことだらけですが、先人の話から問題解決の糸口を探すしかありません。
 電話での交流は、かけている状態や気分が顔は見えませんが、すぐそのありようが分かってしまいます。 メールの場合は比較的冷静にかつ、中庸に表現できるため、相手の心に深くいり込んでしまいがちなのかもしれません。 私自身もそんな気分になる事もありますが、その気持ちを大切にしたいとは思っております。