平安夢柔話

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2005年大河ドラマ「義経」 もくじ

2005-12-14 23:59:59 | 2005年大河ドラマ「義経」
 このページは、『2005年大河ドラマ「義経」』の関連記事のもくじのページです。

 2005年に放映された大河ドラマ「義経」に時にはつっこみを入れ、時には妄想に走った私の感想と、ドラマの登場人物のうち、私が気になった人物、気になった出来事、また、ドラマでは無視されてしまった人物たちについてなどを書いています。

 各項目をクリックするとそれぞれの記事に直接ジャンプできますので、ぜひご利用になってみて下さい。

第1回 池禅尼
第2回 ちょっと妄想
第3回 源希義
第4回 遮那王と弁慶の出会いの前
第5回 建春門院滋子
第6回 蛭ガ小島の頼朝
第7回 藤原基房
第8回 常磐御前の後半生
三位さまって誰のこと?(7回・8回に登場した「三位さま」についての考察)
第9回 遮那王の元服
第9回 遮那王の元服(追記)
第10回 無視されてしまった藤原基成

第11回 鹿ヶ谷事件に関わった人たちのその後
第12回 源義仲の生い立ち
第13回 源頼政と以仁王
第14回 梶原景時
第15回 やっぱり無視されていた阿野全成
第16回 ちょっとつっこんでみました
第17回 平重衡と藤原輔子
第18回 清盛の遺言
第19回 源範頼
第20回 源行家

第21回 義経の正妻・河越重頼女
第22回 無視されている大夫房覚明
第23回 丹後局
第24回 無視されてしまった猫間中納言
第25回 巴御前のその後
第26回 一ノ谷合戦前の後白河法皇
第27回 重衡生け捕り
第28回 大姫の生涯
第29回 維盛入水の真相
第30回 後白河法皇の生い立ち

第31回 廊の御方
第32回 無視されている平教経
第33回 弁慶と湛増
第34回 守貞親王
第35回 能登殿最期
第36回 清盛出生にまつわるエピソード
第37回 建礼門院
第38回 今回の重衡をめぐるエピソードについて
第39回 大江広元
第40回 腰越状に対するさまざまな反応

第41回 重衡・宗盛の処刑
第42回 またまた無視されてしまった人物が…
第43回 小説「土佐房昌俊」
第44回 後白河法皇の心の内
38回・39回の記述の訂正のお知らせ
第45回 平維盛の妻
第46回 静御前
第47回 勧進帳、そして…
第48回 義経の娘と婿?
最終回 えりかが選ぶ名場面ベスト5
参考文献一覧

参考文献一覧

2005-12-14 10:58:06 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」の感想や人物紹介を書くに当たって参考にさせていただいた本の題名、著者名、出版社名を列挙させていただきます。小説から専門の歴史書まで様々ですが、私の力不足で「平家物語」や「吾妻鏡」の原文に当たることができなかったのがちょっと心残りです。


○書名の50音順に並べてあります。
○著者の敬称は略させていただきました。ご了承下さい。


『朱の流れ ー女人平泉』
  三好京三 中央公論社
『猪名の笹原風吹けば 紫式部の娘・賢子』
  田中阿里子 講談社
『炎環』
  永井路子 光風邪社出版
『公卿補任 第1編』
  黒板勝美 吉川弘文館
『源氏の花 平家の花 歴史に咲いた女たち』
  石丸晶子 廣済堂出版
『コンサイス日本人名事典 第4版』
  上田正昭 編 津田秀夫 監 永原慶二 監 三省堂

『最後の御大将 平重衡 義経が最も恐れた男』
  中津文彦 PHP研究所・PHP文庫
『式子内親王伝 面影びとは法然』
  石丸晶子 朝日新聞社
『史伝 後鳥羽院』
  目崎徳衛 吉川弘文館
『人物叢書 大江広元』
  上杉和彦 吉川弘文館
『人物叢書 後白河上皇』
  安田元久 吉川弘文館
『人物叢書 藤原忠実』
  元木泰雄 吉川弘文館
『人物日本の女性史3 源平争乱期の女性』
  円地文子 監修 杉本苑子他六名共著 集英社
『新・歴史をさわがせた女たち』
  永井路子 文藝春秋
『波のかたみ ー清盛の妻』
  永井路子 中央公論社
『二条の后 藤原高子 ー業平との恋』
  角田文衞 幻戯書房

『百人一首 100人の歌人』
  歴史読本特別増刊 新人物往来社
『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』
  野口実 新人物往来社
『平安朝 女の生き方 輝いた女性たち』
  服藤早苗 小学館
『平家後抄 落日後の平家(上・下)』
  角田文衞 講談社・講談社学術文庫
『平家物語(古典の旅7)』
  永井路子 講談社
『平家物語(日本古典文庫13)』
  中山義秀訳 河出書房新社
『平家物語の虚構と真実(上・下)』
  上横手雅敬 塙書房
『平家物語の女性たち』
  永井路子 文藝春秋・文春文庫
『平家物語を知る事典』
  日下力 編 東京堂出版

『源満仲・頼光(ミネルヴァ日本評伝選)』
  元木泰雄 ミネルヴァ書房
『歴史をさわがせた女たち 日本編』
  永井路子 文藝春秋
『歴代天皇 年号事典』
  米田雄介 吉川弘文館


 この中で私が特に気に入っている何冊かの本については、いずれ「お薦めの本」のコーナーで詳しく紹介させていただきたいと思っています。

☆1年間連載してきた大河ドラマ「義経」の感想も、今回が最終回です。読んで下さったみなさま、毎回掲示板に感想を書き込んで下さったりトラックバックを送って下さったみなさま、色々教えて下さったり間違いの指摘をして下さったみなさま、本当にありがとうございました。
     

大河ドラマ「義経」最終回&えりかが選ぶ名場面ベスト5

2005-12-13 00:21:29 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」最終回の感想です。

 色々つっこみを入れつつ観てきたこのドラマも、いよいよ最終回となりました。終わってしまうとなると寂しいですね。
この最終回、確かに感動的な部分も所々ありましたけれど、やっぱりつっこみ所も満載でした。

 今回の放送が始まったばかりの時点で、すでに鎌倉軍が白河の關を超えていたのにはびっくりしました。
 そして、おびえきっている泰衡さん……。あまりにも情けなさすぎて、「果たしてここまで情けなく描く必要があるのかしら。」と思ってしまいました。
 国衡や忠衡と、義経についての対処の仕方で対立する……というのも、何か唐突に思えますし…。忠衡が泰衡に殺されたときも「あれ、こんなところでなぜ殺されるの?」と、私の頭の中はしばらく?でいっぱいになりました。

それと、 泰衡が「頼朝からの脅迫まがいの書状」を読んでいる場面がなかったので、緊迫感が伝わってこなかったです。確かに頼朝からの書状らしいものを拡げ、手をぶるぶる震わせている場面はありましたが、それが頼朝からの書状なのか。また、どのような文面なのかもわからず、何となく、見ている側にはその実感が伝わっては来ないのですよね、実際のところ。「謀反人九郎義経を差し出さなければ平泉を攻める」という大まかな内容だけでなく、どんな文面の書状が来ていたのか、ちょっとぐらいバックで流すなり泰衡が震え声で読むなりして、頼朝からの書状がどれほど恐ろしいものであったのかを雰囲気だけでも伝えて欲しかったです。多田頼朝の書状に青ざめているだけだなんて、私には多田の臆病者にしか感じられませんでした。

 京都に目を向けてみると……、なんとそこには鼓判官こと平知康が、まだ後白河法皇の側近にいるではありませんか。史実では、とっくに後白河法皇から見捨てられているはずなのに…。これには呆れて声も出ませんでした。

 知康は、頼朝と義経が不和になった文治元年(1185)十一月、「義経に同調した」という理由で、頼朝の要求により他の何人かの院側近と供に解官されています。しかも翌文治二年には鎌倉に下向し、「私は義経に同調した事実は全くないので、解官を解除して欲しい。」と頼朝に直訴しているのです。
 しかし頼朝は知康には返事をせず、「朝廷の方で決めて欲しい。」と後白河法皇に書状を出しました。法皇からは長いこと返書がなく、知康も鎌倉に居座り続けていたため、頼朝もかなり困惑していたようです。
 そして文治三年になってやっと法皇から頼朝に返書が来ました。「知康は勝手に鎌倉に下向したのであり、その後もこちらに全く連絡がない。なので京に帰すなり何なり好きなようにして欲しい。」という返事でした。つまり知康は法皇に見捨てられたのです。そのあと、知康は京に帰って出家したとも、鎌倉に居座り続けて頼家の側近になったとも言われていますが、はっきりしたことはよくわかりません。いずれにしても、その後知康が再び後白河法皇の側近として仕えたという事実はないようです。

それはともかくとして、最終回のメイン、義経と郎党達の最期の場面の感想に移りますね。

 とにかくたった6人で戦っているのですから、勝敗は目に見えています。郎党達が次々に討たれていく場面は、さすがに切なかったです。
 そして最も壮絶だったのはやはりこの人!あれほど矢を討たれても倒れない弁慶はさすがです。「こんな事はあり得ない!」と思いながらついつい感情移入してしまいました。「とにかく殿を守るのだ!」という弁慶の執念が伝わってくるようでした。
 でも、それだけの覚悟があるなら、泰衡の兵達に向かって、「ここから先は一歩も通さぬ!」くらいのせりふは言って欲しかったなと、個人的には思ったりしました。

 そして義経の最期のシーン……。しかし、最後の最後まで清盛に想いをはせるとは、やはり何か違うような気がしてしまったのは私だけでしょうか。「それほど清盛さん命なら、あなたはどうして頼朝と供に平家討伐に立ち上がったの?」と、またまたつっこみたくなりました。
 義経が自ら刀で首を切ったとき、白い光のようなものが舞い上がって白馬が現れましたよね。。私はこれを観たとき、義経自刃は幻で、実際の彼は白馬に乗って平泉を去り、大陸に行ってしまったかと思いましたよ。
 でもこれだけ「新しい国」を連発していたのですから、先週うちのだんなさんが言っていたように、「義経は大陸に渡り新しい国(蒙古帝国)を造った」というストーリーでも良かったのではないかなと思いました。安徳天皇と守貞親王のすり替えという歴史の大捏造をやってのけたこのドラマなのですから、義経ジンギスカン説をやっても、それほどびっくりしなかったと思います。もしそのような描き方をしてくれたら、だんなさんはきっと、拍手喝采をして大喜びをしたと思います。

 結局、義経の目指した「新しい国」は、彼が幼い日に落書きをした屏風の中にあったということなのでしょうか…。


 さて、このドラマ全体の感想を書きますと、とにかく役者さんの演技が素晴らしかったなと思います。渡哲也さんの清盛、高橋英樹さんの秀衡、中井貴一さんの頼朝……挙げればきりがないです。ただし、タッキー演じる義経くんは期待を裏切ることばかりで、がっかりしましたが…。
 そこで、素晴らしいほどに人物を演じた役者さん達がみせてくれた数々の場面の中から、私が特に心に残った名場面ベスト5を発表させていただきたいと思います。
 このほかにも、重衡と輔子の涙の別れの場面、「新しい国」について熱く語る清盛、鶴岡八幡宮での静の舞いなど、涙を飲んで引っ込めたシーンもありますが…。

☆第5位 平家都落ちを前にしての知盛と治部卿局の会話
 あまり目立たないシーンですが、平家都落ちを前にしての知盛の覚悟と、それを冷静に受け入れる治部卿局の夫婦の会話がとても感動的でした。静かな場面ながら、胸に迫ってくるものがありました。

☆第4位 頼朝と義経の兄弟対面
 「父義朝最期の地で元服しました。」という義経の言葉を聞き、「九郎か。」と言った頼朝の声音と表情が何とも感動的でした。これを見て、中井頼朝がますます好きになってしまったえりかです。

☆第3位 安宅の関での弁慶と富樫の対決
 「何としてでも殿を守る」という弁慶の気迫と、義経主従とわかっているのかわかっていないのか判断がつかない富樫の対決はとても見応えがありました。結局彼はわかっていたのですね。出もとても奥の深い人物だなと私には映りました。富樫の人間味、人情にも感動。

☆第2位 頼朝と重衡の対面の場面
 捕虜として鎌倉に送られてきた重衡、頼朝の前でも悪びれず受け答えをしていたシーンはとても格好良かったです。そして、そんな重衡の立派な態度に感服する頼朝、何かとても感動してしまいました。

☆第1位 壇ノ浦での知盛入水のシーン
 合戦のすべてが終わったとき、「見るべきものは全部見た。もはやこれまで…」と言って錨を抱いて入水する知盛。オンエアーからすでに3ヶ月経っていますが、あの壮絶なシーンは今でも目に焼き付いて離れません。私にとっては文句なしの第1位です!!

 …と言うわけで、平家びいきの私にとってはやはり平家の方々にまつわるシーンで印象的なものが多いですね。

 でも……これだけ豪華な役者さんを集めていながら、ストーリー面では矛盾が多く、そこがとても物足りなかったです。それから、あくまでもドラマなのですから、多少の史実の歪曲は仕方がないとは思います。けれども、義経とその周辺の人物の心の動きなどはもっとしっかり描いて欲しかったです。何と言ってもドラマの大事な構成要素なのですから。

 そして最も不満だったのは、明らかに義経と関わりを持っていた人物がたくさん無視されたことです。義経の同母兄の全成や義円、陸奥の藤原基成、それに能登殿平教経や時忠女まで無視されているとは…。あまりにも不満だったので、ついついコノブログでそれら無視された人物の詳しい経歴などを紹介してしまいましたが…。そして、その人物達について調べたり妄想したりするのも楽しかったです。

 結論。何だかんだ言っていても結局は楽しんでドラマを観ていたということかもしれません。こうなったら今度はぜひ、「平家物語」そのものをドラマ化して欲しいです。

 最後に……、私の大好きな平安末期をあつかった大河ドラマ「義経」が放映されたおかげで、たくさんのものを得ることができました。最終回の平知康のように、「あれ?この人この時期にはここにいないはずなのだけど…」と思った人物について詳しく調べ、それをブログに発表したりしたおかげで、さらに深い知識を得ることができました。また、今まで気がつかなかった色々なことに気づかされたりしました。何よりも、平安末期や「平家物語」の好きなたくさんの皆様と巡り会うことができました。
 1年間、ずいぶん好き勝手なことを書いてきましたが、毎週読んで下さったみなさま、本当にありがとうございました。

 近日中に、ドラマ感想や考察、人物紹介を書くにあたって参考にした本を列挙した記事をUPさせていただきたいと思いますので、そちらもご覧下さいますと嬉しく思います。
 

大河ドラマ「義経」第48回&義経の娘と婿?

2005-12-09 00:00:00 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第48回の感想です。

 エンディングの義経紀行で、私が前回紹介した珠洲神社の伝説について取り上げられていたのでびっくりするやら嬉しいやら…。でも、その解説の中にはつっこみ所もありました。それについては後半に述べることにして、まず感想を書かせて頂きますね。

 さまざまな苦難を乗り越え、ようやく平泉に到着した義経一行を秀衡が暖かく迎えていましたね。「九郎殿のすべてを受け入れる。」なんて、このご時世、普通だったらこんな事を言ってくれる人なんて、まずいませんよね。それだけ秀衡は器が大きいということなのでしょうね。

 でも、「争いもなく、家族が仲良く暮らせる理想の国を造りたい。」という今の時代でも夢のような、本当に「非現実的ではないの?」と聞きたいようなことを言う義経に対して、「そなたは成長した。」と感心する秀衡の気持ちがよくわかりませんでした。このドラマの中で義経は昔からこのようなことを言っていた様な気がしますが?
世の中が古代から中世へと音を立てて移り変わっている激動の時代をしっかり見ているはずの秀衡が、「そんなバカな!」と思われる義経のこの考えを、受け入れる。う~ん?…ちょっと理解に苦しむところです。

 それはともかくとして、今回、秀衡と泰衡の度量の違いの対比がなかなか面白かったです。

 『鎌倉に貢ぎ物を差し出せ。』という頼朝の命令に対して、「それでは鎌倉の言う通り、貢ぎ物を差し出して相手をいい気持ちにさせればいい。」と、悠々とした風情で構えている秀衡はさすが人物が大きいです。歴史に「もし」は禁物ですが、彼があと1年でも良いから長く生きていたら、義経の運命はだいぶ違ったものになったかもしれません。

 それに対して、頼りになる父親が亡くなり、平泉の新しい主になった泰衡、「わしはどうすれば良いのじゃ。」とは…。そう嘆きたいほど苦しい状況はわかりますが……、何か頼りなくてため息が出てしまいます。そのうえ、頼朝には泰衡の度量をすっかり見抜かれてしまったようですし…。
 泰衡はかつて、義経に命を助けられたことがあります。(第11回)そんな泰衡がどうして義経を裏切ることになるのか?、次回の最終回ではしっかりそこの?の理由を~説明して欲しいです。間違っても回想シーンをたくさん入れるといった手抜き(ごまかし)はして欲しくないです。

 ところで、ドラマを観ていると泰衡、国衡、忠衡の3人は仲が良いように見えますが、実際の彼らは大変仲が悪かったようなのですよね。

 泰衡は秀衡の正室藤原基成女の所生ですが、国衡は身分の低い側室の産んだ子供でした。しかも、国衡の方が年上であったと言われています。
 その結果2人には、「長幼の順か正妻腹を重視するか」ということで家督相続争いがあったと思われます。奥州藤原氏の場合は正妻腹が重視されて泰衡が跡を継ぐことになったのですが(それに泰衡には外祖父基成がついていますし…)、年長の国衡は少なからず泰衡が当主になることに不満を持っていたのではないでしょうか。

 そこに割り込んできたのが義経の存在です。元々泰衡は、義経を平泉に入れることに反対だったようです。当然、義経と泰衡の二人の関係はあまりうまくいっていなかったと考えられます。
 しかし、泰衡の同母弟の忠衡は親義経派でした。
 そして、ドラマでは国衡、泰衡、忠衡の3人しか登場していませんが、秀衡には他に少なくても3人の息子がいたようです。これらの息子達が、親義経と反義経、あるいは親泰衡と反泰衡に別れて複雑に争っていたのではないかと想われます。

 それでも秀衡が生きていた頃は兄弟争いが表面化することはあまりなかったようですが、彼の死後はもうどうしようもない状態に陥っていたと思われます。
 ドラマでも、こうした兄弟争いをもっとしっかり描いて欲しかったと思います。
なぜならば、このことが義経自刃の要因になっていると私には思えるからです。


 さて、初めの方で少し触れた、エンディングの「義経紀行」ですが、珠洲神社を取り上げてもらえたことは個人的には嬉しかったです。義経は笛の他に刀も奉納していたなんて興味深かったですもの。

 ところが、解説を聞いていて一箇所とても疑問に思えるところがありました。『義経の妻は一説によると平時忠の娘』というところです。
「一説によると」ではなく、私の知っている説に因ると、実際に時忠女は義経の妻だったのですが…。

 ただ、時忠が能登国に配流され、義経も都を去ったあとの彼女の消息については、こちらも全く不明なようです。
 平泉で義経と最期を共にしたのが時忠女であったという説もあるようですが……。もしそうだとすると、今回のエンディングで紹介されていたように、「時忠女は義経一行と一緒に平泉に向かう途中、義経の計らいによって晴れて父と対面した……」ということも充分考えられそうですね。
 しかし「吾妻鏡」の記述などから、最後まで義経と行動を共にしていたのは河越重頼女でほぼ間違いなさそうです。時忠女はおそらく、義経が都を離れる際に実家に戻されたのではないかと思います。

ところで、「義兄記」その他色々な伝説によると、義経と関わった女性は十人くらいいると言われています。「義経って、かなり女好きだったのでは……」という気がします。

 しかも義経には、平家を滅ぼした文治元年当時、すでに結婚適齢期を迎えた娘がいたようなのです。その娘は、源頼政の孫に当たる源有綱の妻となっていたようです。「吾妻鏡」の文治元年五月十九日條に、「有綱は義経の婿」といった記述があるそうです。
 当時は10歳くらいになると結婚適齢期になります。そこで彼女が当時10歳くらいだとすると、義経は一回目の平泉滞在中に、すでに父親になっていたということになります。
 現在京都女子大学教授の野口実先生の著書、「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」によると、この義経の最初の妻は、佐藤継信・忠信の縁者ではないかと推論されています。

 ついでに義経の婿と言われる源有綱についても少し調べてみました。

 祖父頼政が平家に反旗をひるがえして敗れたとき、有綱は伊豆国にいたため難を逃れました。
 有綱はやがて頼朝の配下に入り、寿永元年(1182)に頼朝の命令によって土佐国に出陣しています。頼朝の同母弟源希義を討った平家方勢力を討伐するためでした。

 土佐国において首尾良く平家方を討った有綱は、これと前後して義経の与力に加えられました。その後は義経の忠実な武将として行動していたようです。義経と頼朝が不和になったときも、迷わず義経方に身を投じました。
 文治元年十一月、義経の西国下向に同行、船が難破し義経が吉野に逃れたときも、彼は義経の身辺にあったようです。

 しかし、どのような経緯かははっきりしませんが、有綱はその後義経と別れ、伊賀国名張に単独で潜伏していたようです。文治二年、義経の残党を探索していた鎌倉方の配下に見つけだされ、合戦の末に討ち死にしています。なお、終焉の土地は下野国とも言われていますが、はっきりしたことはわからないとのことです。

 ただ、「有綱が義経の婿」という説には年齢的なことを考えると異論もあるようです。はっきりした史料がないため、当時義経に結婚適齢期の娘がいたかどうかは判断しかねるのかもしれません。
 それか、有綱と義経女は婚約していただけで、生活を共にしてはいなかったのかもしれませんね。

 でももし、「吾妻鏡」に書かれていた「有綱は義経の婿」が真実だとしたら……、
父親は謀反人として指名手配中、夫も鎌倉方と合戦の末戦死…。残された有綱室となっていた義経の娘は世間から隠れて生きるしか道がなかったと考えられます。彼女は一体どのような思いで、どのような後半生を送ったのでしょうか。
しかし、彼女についての史料は全くないので、想像するしかありません。
 そして義経の娘と同じく、父や夫を合戦で失い、運命を変えられてしまった女達がこの時代には数え切れないほどいたはずです。先に書いた義経の最初の妻や平時忠の娘もその一人と言えますよね。史料も何も残されていないそんな女達のことに想いをはせるとき、私はとても切ない気持ちになります。歴史の影にはこうした名もない女性が数多くいたことも、忘れてはならないと想います。

 さて、次回はいよいよ最終回ですね。
 義経の最期がどのように描かれるか、期待半分、心配半分で見守りたいと思っていま す。旦那さんは、『年齢からしてそんなことはまずあり得ないのだが、願望として(ドラマの中で勝手な歴史歪曲をしてきたのだから)……』としながら、『義経は生き延びて大陸に渡り、蒼きオオカミとなった…。なんてならないかな』と、テレながらこんなことを言っています。
 それにしても、色々つっこみを入れつつ観てきたこのドラマがいよいよ終わるとなると、ちょっと寂しいですね…。
 

大河ドラマ「義経」第47回&勧進帳、そして…

2005-12-02 00:32:48 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第47回の感想です。

 マツケン弁慶の演技は期待通りでした。とにかく感動しました。
 また、弁慶と富樫左衛門尉の息詰まるやりとりも十分堪能できました。
 でも、やっぱり義経は役不足ですね……。

 勧進帳についてはあとでゆっくり述べるとして、まずその他のシーンの感想を書きますね。

☆義経の行き先がどこなのかしっかりわかっている鎌倉方

 「九郎殿の行く先は奥州なのでは」と真っ先に発言したのが大江広元だったことは、かなり当を得ていると思いました。冷徹な広元なら、そのあたりをしっかりわかっているはずですよね。
 なぜならば、義経を追討するという目的での守護や地頭の設置を初めに提案したのは広元なのですものね。


☆生きていた巴

 これにはびっくりしました。それに、巴役の小池栄子さん、すっかり別のキャラクターになっていましたよね。私、一瞬彼女が誰なのかわかりませんでしたもの。
 第25回の感想(2005年6月29日)でも書きましたが、巴の後半生には色々な伝説があり、はっきりしたことはわからないようです。しかし、木こりの妻になったという今回の話は聞いたことがなかったです。多分これは、ドラマのオリジナルストーリーなのでしょうね。
 けれども、巴が木こりの妻になって子供を産み、平穏な後半生を送った……というストーリーは、夢があって良いなと思ったりします。彼女が幸せな後半生を送ったなら、私も嬉しいですもの。


 さて、そんなこんなで安宅の関所に着いた義経一行……。いよいよ「勧進帳」の始ま
りです。この話の真偽のほどはともかく、物語『義経』を描くのには欠かせない話ですよね。

 感想を述べる前に「勧進帳」について調べたことを書いておきますね。
 
勧進帳とは、歌舞伎の演目の一つで、天保十一年(1840)江戸の河原崎座で、初演。能の演目安宅を歌舞伎化したものだそうです。この話、元々は能として演じられたものだったのですね。と言うことは、室町時代にはもう民衆の間で広まっていたことになります。

 なお、「勧進帳」の本来の意味は、寺院、仏像等の建立などに必要な費用の寄付を求める際に使用した趣意書のことです。義経一行は「東大寺の大仏を再建するための寄付を集める」という目的で出羽まで旅をする……ということになっていましたよね。

 では、感想に移りますね。

 最初の方でも書きましたが、弁慶と富樫左衛門尉の息詰まるやりとりは見事だったと思います。
 そして偽の勧進帳を読む弁慶、「とにかく義経様の命を守らなくては…」という必死の思いが伝わってくるようで感動してしまいました。それと義経を殴るシーン、私、弁慶が主人で義経が弟子に見えてしまいましたよ。でもその裏には、弁慶の辛い気持ちが込められているのですよね。弁慶の心情を思うと涙が出てきそうでした…。

 それにしても……、弁慶が義経を殴っている姿を見て辛そうにしている他の郎党達、「あなた達、顔にそんなに表情を出したら関守に疑われてしまうよ。」とつっこみたくなってしまいました。

 そして、相変わらず存在感がないのが義経です。今回も、ただぶたれているだけでしたものね。
 それに義経は、関所で自分の偽の名前を名乗ったときからすでに富樫に疑われていたのではないかと思います。郎党達はみんな、「伊勢坊!」「駿河坊!」というような感じで名乗っているのに、「和泉坊でござります。」とは……。「ござりますは余計じゃないの?こんなしゃべり方では関守に怪しまれるよ。」と私はここでもつっこんでいました。だんなさんにいたっては、「評価する以前!」「こんな義経など、観たくない。」と画面を一顧だにしませんでした。

 それから、富樫が義経を怪しいと見とがめた理由は、「彼が色白で女のような顔をしていたから」と「人相書きの義経と似ていたから」だったのではなかったでしょうか。義経が笛を持っていたから疑われた……という話は今回初めて聞いたのですが…。でもこれは、「静の笛を肌身離さず持っていた義経の心情」と、「その笛を壊さざるを得なかった弁慶の哀しみ」を描きたくてこのような設定にしたのでしょうね。だんなさんは、小さい頃に笛の件は聞いた覚えがある…(自信なさそう)と、言っていましたが。
   
 このように義経に関してはつっこみ所はありましたけれど、今回の勧進帳の場面の描き方は◎です。そして弁慶率いる山伏の一行が義経主従だとわかっていながら見逃した富樫の最後の一言、「九郎殿…」は胸に迫ってくるものがあってじーんとなりました。富樫はこの時きっと、義経の無事を祈っていたのでしょうね。厳しいけれど情のある人だと感じました。


 しかし……、今回の「勧進帳」に感動した皆様に水を差すようなことを書いてしまって申し訳ないのですが、実際の義経は安宅の関は通らなかった……という説が現在では有力のようなのです。
 義経の逃亡経路は一説によると、吉野から伊賀、伊勢を通り、そこから美濃を抜けて白山に至り、日本海に抜けて船で出羽に渡ったと言われています。また、吉野から伊賀、近江に至り、そこから比叡山の庇護を受けつつ近江を抜けて越前から船に乗って出羽に渡ったという説もあります。どちらにしても安宅の関は通っていないことになります。
 角田文衞先生の著書『平家後抄』でも、義経一行は敦賀あたりから船に乗って日本海を沿岸づたいに北上し、出羽国に至ったのではないかと記述されており、先生は「戦略にたけた義経が危険の多い北陸道を通ったとは考えにくい。」という意見を述べられています。

 確かに今回のドラマの設定、「義経は近江を半年もうろうろし、北陸道を早足で通る」は不自然なところがありますよね。だんなさんも、義経一行が陸路平泉に向かうことに対しては、『バカ!』と、吐き捨てていました。なぜかと聞きましたら「今まで半年近く何をしていたのかわからない。このドラマで言うなら、もっと早く向かうべきだ。」さらに、「もし平泉に向かうなら、海路を使うのが当然。もし俺なら伊勢から、太平洋上を平泉に向かう。しかし決断がなさ過ぎる。!」と、私に吐き捨てました。
義経を今まで英雄として慕っていただんなさんにすれば、今回のドラマでの義経の言動と行動には、失望と反発がかなり強くなって来ているようで、何となく可哀想になります…

 それはともかくとして……、ところでこの『平家後抄』には、角田先生による「義経の行動についての大変興味深い説」が記述されていましたので、ここに紹介させていただきたいと思います。

 義経は、「船で能登半島沖を通ったときに夜陰に紛れて上陸し、当時能登国珠洲郡に流罪になっていた平時忠に会いに行ったのではないか」というのです。
 このことは角田先生もおっしゃっていますが、進出気没の義経ならそのくらいやってのけたかもしれませんよね。

 以前にも書きましたが、時忠は自分の機密文書を取り返すため、娘を義経の許に差し出しています。時忠の娘は、一時義経の正妻という待遇を受けていたとも考えられます。つまり、時忠は義経の舅になるわけです。
 また時忠は文治元年六月にはすでに能登国への流罪が決まっていました。しかし彼が能登に向けて都を出発したのはその三ヶ月後です。これは時忠が最後まで流罪を逃れようとしていたということもありますが、義経が時忠出発の時期を一日延ばしにしていたことも充分考えられると思います。このように義経と時忠は不思議な縁で結ばれていたのでした。

 また、能登の珠洲神社にはこんな伝説も残っているようです。

 珠洲神社には、「義経が奉納したと伝えられている笛」が残っているそうです。
 これは義経一行の船が能登半島沖で暴風雨にあったため珠洲神社に祈願したところ、難を逃れたのでそのお礼として神社に奉納した笛とのことです。

 もちろんこれは史実ではないようですが、「伝説の中には何らかの真実が隠されているのではないか。」という私の考えから推察すると、義経は珠洲に上陸したのではないかと思うのです。そしてもし、義経と時忠が会っていたとしたら……、2人はいったいどんな話をしたのでしょうか?もしかすると頼朝討伐の話とか……。

 いずれにしても2人が会っていたという説は、色々想像力をかき立てられて夢のある話ですよね。

 さて来週はいよいよ、義経一行は平泉に入るようです。秀衡と3人の息子たちの再登場に期待です。
 でも、秀衡さんはすぐにお亡くなりになってしまうようですね…。秀衡さんを失って
義経のいる場所が果たして平泉にあるのでしょうか?
 来週もしっかり観ようと思っています。
 


大河ドラマ「義経」第46回&静御前

2005-11-24 11:02:47 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第46回の感想です。

 今週はやはり静御前の舞いとそれに対する政子の反応が印象的でした。ただ、ちょっと不満な点や疑問点もあるのですが……。それらはのちに述べるとして、最初に今週の大まかな感想を述べさせていただきます。


☆生きていた忠信さん

 吉野で谷底に落ちたと思っていた佐藤忠信、生きていたのですね!!
 しかも、静の輿が都を出発する日に現れ、その静を救い出そうとしたところを鎌倉方の武士に斬られてしまうとは…。忠信は、自分が護衛していたのにもかかわらず静が鎌倉方に捕らえられたことに自責の念を禁じ得なかったのですね、きっと。

 斬られた忠信を朱雀の翁がさっと連れだしたところは見事でした。そのおかげで忠信は、義経や郎党達と最期のお別れができたのですものね。
 でも、これは兄の継信の最期の場面でも思ったのですが、死ぬ前にあんなにたくさんしゃべれるものなのでしょうか?それに、義経や郎党達に取り囲まれて最期を迎えたと言うところも、継信の時と全く同じですよね。このあたりも何か安易で手抜きのような気がしてしまいました。


☆半年近くも近江をうろうろしている義経
 
 義経が都を出発したのは3月。でも、夏の終わり頃になってもまだ近江と越前の国境をうろうろしているってどういうこと?
 こんなにゆっくりしていたら、たちまち追っ手に捕まってしまうと思うのですけれど…。

 実際の義経はこの時期、比叡山の庇護を受けていたとも言われていますよね。でも、ドラマでは比叡山の影も形も感じられませんでした。
 半年近くも近江をうろうろするといった非現実的な描き方よりも、都を出てすぐに敵に襲われた義経一行が比叡山に逃げ込み、そこでしばらくかくまってもらっていた……といった描き方の方が現実味があると思います。


 さて、今回印象に残ったのは「静の舞いと政子の反応」と私は最初の方で書きました。プロローグでも触れられていましたが、2人は全くタイプの違う女性のように見えますが、愛する人に対して一途になれるという点ではとても似ていたと思います。

 では、今週は静にスポットを当ててみたいと思います。

 静の出自については、母親が磯禅師という白拍子であったという事の他はわからないようです。生い立ちについても不明です。
 いつの頃からか白拍子となって活躍していたのですが、やがて「日本一の白拍子」と呼ばれるようになりました。そのように有名になったきっかけにこんな話があります。

 ある年、都では日照りが続いていました。そこで神泉苑に百人の高僧が集められ、雨乞いの祈祷をさせたのですがいっこうに雨が降りません。そこで同じ神泉苑に百人の白拍子を集め、一人一人舞いを舞わせることにしました。九十九人の白拍子が舞っても雨が降らなかったのに、百人目の静が舞いを舞うと空が暗くなって雷鳴がとどろき、雨が降り始めたのです。雨は三日間降り続きました。そこで静は後白河法皇から「日本一の白拍子」という宣旨を受けたのでした。
 「義経記」によると、その時義経が静を見そめ、自分の堀川の館に連れ帰ったようです。
 しかし、この話は伝説の域を出ていないような気がします。義経と静が初めて出会ったのは、義経の羽振りが良かった元暦元年(1184)頃、義経の館で何かの宴があり、そこに静が招かれたときだったのではないかと思います。でも、「義経と静の出会いは神泉苑だった。」という話もなかなかロマンチックですよね。

 そのようなわけで静は義経の館で暮らし始めたようです。
 文治元年(1185)十月、土佐房昌俊が義経の館を襲撃したときには、静の機転により義経はその襲撃に気づき、早急に対処できたと言われています。

 同十一月三日、義経の西国行きに同行、しかし船が転覆して吉野に逃れることとなります。
 静は最後まで義経との同行を望んだのですが、「このままだと足手まといになるし、あなたにも辛い思いをさせることになるから。」という義経の説得に応じて泣く泣く義経と別れて都に戻る決心をします。一説では、自ら都に帰ることを申し出たとも言われていますが…。
 義経は静に供の者を一人つけ、その供の者に金銀財宝を渡して「静を無事に都まで送り届けるように。」と命じました。しかし、供の者は金銀財宝を持ったまま途中で静を置き去りにして逃げてしまいます。途方に暮れた静でしたが、十一月十七日に鎌倉方に捕らえられてしまったのでした。

 捕らえられた静は義経の愛人ということで、当然彼の行方を詰問されます。しかし静は「知りません。」を繰り返すばかりだったようです。そこで鎌倉方は静を鎌倉に送ることにしたのでした。

 文治二年三月六日、静は鎌倉に召し出され、再び義経の行方について詰問されることとなります。しかし静は相変わらず「知りません。」ときっぱり答えるばかりでした。
 実際鎌倉幕府は、この頃義経の行方については何も把握できなかったようです。と言うのは、静が鎌倉に捕らえられていた文治二年六月、義経の母常磐御前とその娘が都の河崎観音で捕らえられ、義経の行方についてを尋問されているからなのです。鎌倉幕府はとにかく、義経ゆかりの者を片っ端から召し出し、彼の行方について尋問していたと考えられます。
 ちなみに静の母の磯禅師、ドラマでは都に残っていたという設定でしたが、実は彼女も静と一緒に鎌倉に召し出されていたようです。

 そんな中、静は四月八日に鶴岡八幡宮にて舞いを奉納することとなります。この時に舞いながら歌ったのが、「吉野山 峯の白雪 踏みわけて いりにし人の あとぞ恋しき」と「しづやしづ しづのをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」の二首の有名な歌です。
 閏七月二十九日、義経の男児を出産しますが、その男児は間もなく鎌倉方によって殺されています。傷心の静は九月十六日に帰洛しています。

 ドラマを観た方はお気づきだと思いますが、史実での静は実は出産前に舞いを奉納しているのです。

 では、なぜドラマではそれを逆にしたのか…。やはり、静の舞いと政子の反応を視聴者に印象づけるためだと思いました。私も、そんなNHKの戦略にすっかり乗せられてしまった視聴者の一人なのですから…。静の舞いを一番最後に持っていった今回の描き方は、ドラマとして見る分にはとても良かったと思います。
 とにかく、愛する人の敵の前で、その愛する人を恋い慕う歌を歌いながら舞う静を見て感動しました。そんな静に「見事じゃ!敵の前で愛する人を慕う歌を詠むとはあっぱれじゃ。」と言った政子の度量の大きさにも一瞬感動してしまいました。

 しかし……、一瞬感動はしたものの、そのあと政子に対して疑問と違和感がわいてきました。
 政子はドラマの中では、静の生んだ男児を殺してしまった張本人なのですよね。静が「私の子はどこ?」と尋ねたとき、ものすごーく怖い顔をしていましたもの。その時私は、政子のことを鬼女だと思いました。
 その政子が、静の舞いに感心するという設定はちょっと無理があるのではないかなと思ったのです。かえって頼朝が「見事じゃ!」と言った方が素直に受け入れられたかもしれません。

 それに、「吾妻鏡」などの史料によると政子は、静の舞いを見て「けしからん!」と怒った頼朝に対して、自分が山木兼隆の館を抜け出して頼朝の許に走った夜のこと、石橋山で頼朝が敗戦し、行方不明になったと聞いたときの心境が今の静の心境に似ていることなどを切々と説いています。ただ、「あっぱれじゃ」だけでなく、そういった政子の心の内面もしっかり描いて欲しかったなと思います。
 しかし考えてみると、このドラマでは、政子が山木の館を抜け出して頼朝の許に走った場面も、石橋山の敗戦を聞いて心配する政子の心の内も、カットされていたのですよね…。なので静の舞いの場面で突然政子がこの話をしてもピント来ない視聴者もいるかもしれません。なので政子に「山木の館を抜け出した話」や「石橋山合戦のあとの話」はさせられなかったのでしょう。
 そこで、単純に「政子は同じ女性として静に共感した。」というように描きたかったのでしょうけれど、今までの政子の描き方を考えるとやはり違和感が残りました。
 そして、政子に関わる有名で大切な場面をしっかり放映しなかったため、この場面で矛盾が出てきてしまったような気がしました。静の舞いも政子の一言もなかなか感動的だっただけに残念に思えてなりません。

 ところで、都に帰った静はその後どうなったのでしょうか。
 残念ながら、静のその後の消息は不明なようです。間もなく病にかかって亡くなったとも、出家をしたとも言われていますが確証はありません。
 また、エンディングにも紹介されていたように、義経の後を追って平泉に向かう途中に病にかかって越後で亡くなったなど、多くの伝説が各地に残されているようです。
 どちらにしても、義経と吉野で別れたあとの静の生涯は、敵の前で義経を恋い慕う歌を詠むといった行為に代表されるように、義経を思い、慕い続けた日々だったと思います。そして、鎌倉幕府からの詰問に対して「知りません。」と言い続けた裏には、「何とかこの間に義経様に少しでも遠くに逃げ延びて欲しい。」という必死な願いが込められていたように思えます。


 さて来週はいよいよ勧進帳のようですね。やはり弁慶が楽しみです。
 ついついこのドラマに対して批判的になってしまう私ですが、やっぱり楽しみなのですよね。

大河ドラマ「義経」第45回&平維盛の妻

2005-11-18 00:15:58 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第45回の感想です。

今週は行家の最期と時政に尋問される静が印象的でした。では、そのあたりから感想を書きますね。

 船が難破したために義経とはぐれてしまった行家叔父さん、あっさりと捕らえられてしまいましたね。でも、「源氏は頼朝だけのものではない!」と今後に及んでもまだ悪あがきを言っているあたりは、ある意味ではさすがです。でも、悪く言えば覚悟がないとも言えますよね。
 頼朝から、「最期だけは源氏の武将らしくするように」と言われた時はさすがにショックだったと思います。彼は、熊野に隠れていた方が幸せだったのかもしれませんね。考えてみると哀れな生涯と言えそうです。

 それに比べると時政に尋問されている静は見事だったと思います。義経の行方を詰問されても「知りません!」「私に教えていただきたいくらいです!」ときっぱり答えるあたりは立派です。吉野では義経一行の足手まといになっているような感じがしましたけれど、今回のこの立派な態度で私は彼女を見直しました。
 それにしても時政さん、自分より官位の高い公卿に対して、果たしてあんなに高圧的な態度がとれるものなのでしょうか?特に、法皇に直接口を利いているところは違和感さえも感じてしまいます。このあたり、絶対に史実とは異なっていると思います。
 それに時政が上洛してきた目的は義経の探索や朝廷への圧迫だけでなく、他にも大きな目的があったはずなのですが、それについては後ほど書かせていただきますね。その前にもう少し、今回の感想を述べさせていただきます。

 法皇さま、相変わらずふらふらしていますね。
 北条時政が都に入ってきて、後白河法皇側近の公卿たちを次々と解官していったため、「頼れるのは九郎殿だけじゃ。九郎殿をかくまうようにと、寺社におふれを出そう。」と言ってみたり…。
 でも、いざ当の義経から書状をもらうと、今度は頼朝に遠慮をして返書を出さなかったりしています。ここまで来ると、帝王の威厳も何も無いように思いますよね。

 さて、その義経ですけれど、吉野をさまよったあげく近江まで逃げ、ついに都に入ってしまいましたね。吉野ではあれだけ追っ手に襲われたのに……。簡単に都に入ることができたなんてとても不思議です。
 それから、忠信はあのまま谷底に落ちて死んでしまったのでしょうか?
確か忠信って、吉野で襲われた義経をかばって敵と戦い、亡くなってしまったと思うのですが、今回のドラマでは鎌倉方の追っ手に捕らえられた静を捜し回っているうちに谷底に落ちたということになってしまったようですね。勇猛な武将としては何か余りにもあっけない最期ですね。

 さて、上で書いた時政上洛のもう一つの目的なのですが、それは言うまでもなく平家の残党狩りでした。
 この「平家の残党狩り」は義経もやっていたようですが、義経の残党狩りは相変わらずかなり緩いものだったようです。それに対して時政の「平家残党狩り」はかなり厳しく、残酷なものでした。平家のゆかりの者は家臣だろうが幼子だろうが次々と捕らえられて斬首されています。
 そして、ドラマではしっかりカットされていますが、時政の探索に引っかかったのが平維盛の遺児の六代御前でした。六代は母や妹と共に嵯峨に隠れていたのですが、見つけだされて時政の許に連れて行かれてしまいました。
 当然、六代の母は嘆き悲しみます。「平家ゆかりの者は幼子も斬首されていると聞く。六代もきっと……」という嘆きを見た女房の一人は、高尾の文覚上人が頼朝と親しいということを思い出し、文覚の許に六代の命乞いに行ったのでした。
 文覚は自ら頼朝の許に六代の助命嘆願に行き、その結果六代はその時には処刑を逃れることができたのでした。母親も胸をなで下ろしたことでしょうね…。

 では、この六代の母……つまり維盛の妻とはどのような人だったのでしょうか。
今回は彼女について少し調べてみました。

 彼女の父は後白河院側近であり、鹿ヶ谷事件で捕らえられ、配所で殺された藤原成親です。つまり、同じく鹿ヶ谷事件で捕らえられて鬼界島に流され、後に赦免されて官界に復帰し、参議にまで昇進した藤原成経は彼女の兄弟になります。

 平重盛の子維盛と成親女とは、維盛15歳、成親女13歳の承安二年(1172)頃に結婚したと推定されます。維盛は重盛の正妻の子ではありませんが、重盛の正妻は成親の姉妹という関係から、2人は幼い頃から顔見知りだったのかもしれません。
そして、年頃になってからお互いを意識するようになり、自然に結ばれたとも考えられます。とにかく2人は大変仲睦まじい夫婦だったようです。鹿ヶ谷事件で維盛の妻の父と兄弟が捕らえられたときも、維盛は妻の大きな支えになっていたのかもしれません。

 しかし、幸せは長続きしませんでした。源頼朝が伊豆で挙兵すると、維盛は頼朝追討軍の総大将となるのですが、富士川で水鳥の音におびえて逃げ帰るというとんでもない失態をやってしまいます。
 そしてその2年後の寿永二年、平家はついに都落ちをすることとなります。この時、平家一門の主だった者は妻子同伴で都落ちをしたのですが、維盛は妻の同伴を許しませんでした。
「あなたを西国に連れて行っても、辛い目にあわせるのは目に見えている。」というのです。そして彼は、
「私が死んだと聞いても決して出家などしてはいけない。誰か他の人と再婚して幸せに暮らしなさい。」とも言いました。妻は嘆き悲しみ、
「死ぬも生きるも一緒と誓ったのに、連れて行って下さらないなんてひどい!」と言いました。
 「平家物語」の「維盛都落ち」に描かれたこの2人の別れの場面は何度読んでも哀しく、涙を誘います。もし自分が維盛の妻の立場だったら……と思うと切なくなってしまいます。
 
 維盛はなぜ、妻を都落ちに同伴しなかったのでしょうか?やはりその理由は、彼女が平家討伐に加担した藤原成親の娘だったからではないでしょうか。彼女は、成親の娘ということで他の平家一門の人から白眼視されることは目に見えていたと思われます。維盛は、妻をそんな辛い目にあわせたくなかったのでしょうね。

 さて、都と西国に別れ別れとなった維盛とその妻ですが、たびたび文のやりとりをしていたようです。しかし妻の心配は絶えなかったようですね。
 一ノ谷で三位中将が生け捕りにされたと聞くや、「もしや我が夫では?」と心配したり…。
 「いいえ、捕らえられたのは本三位中将、つまり重衡さまのようですよ。」と女房が慰めると、「では斬られてしまったのでは?」とさらに心配します。そして、都大路にさらされた首の中に維盛の首がないことを聞いて、ようやく安心したのでした。

 しかし、その後間もなく、維盛からの便りが途絶えることとなります。妻は心配のあまり、屋島に使いを出しました。そしてその使いがもたらした便りは、「維盛は屋島を抜け出し、熊野で入水した。」ということだったのです。「ああ、やっぱり……」と、きっと妻は思ったことでしょうね。彼女の嘆きが目に見えるようで切ないです。

 このように色々辛い目にあった妻ですが、六代が処刑を逃れたことは絶望の中にも一筋の光が差し込んだような心地だったと思われます。間もなく、彼女に手を差しのべてくれる一人の男性が現れました。彼女はやがてその男性と再婚することになります。
 その人の名は藤原経房……。紫式部の夫藤原宣孝の直系の子孫に当たる人です。彼は後白河法皇側近で朝廷の有力者でもありました。そのような頼りがいのある新しい夫に支えられ、彼女にもようやく平穏な日々が訪れたようです。

 彼女のその後の人生についてはよくわかりませんが、正治元年(1199)の六代処刑は大きな哀しみだったと思われます。一度処刑を逃れた六代はその後出家して文覚上人の弟子になっていました。しかし、清盛直系を根絶やしにしたいという鎌倉幕府の思惑や、後ろ盾の文覚上人の流罪なども重なり、結局六代は鎌倉幕府によって処刑されてしまいます。
 そして頼りになる夫の経房も翌正治二年に世を去っています。その後の彼女は経房の未亡人としての待遇を受けながら、娘(六代の妹)と共に静かに余生を送ったと思われます。

 こうしてみると彼女はどこにでもいるような普通の女性という感じがします。戦場にいる夫を心配し、その死に際して涙するという平凡な女性です。しかし、様々な不幸にあいながら少しずつ強くなっていったのではないでしょうか。最晩年の彼女の心境は、「私にはもう失うものはない。」という静かな思いだったのかもしれません。

 さて来週は、鎌倉に送られた静が鶴岡八幡宮で舞いを舞う……という名場面が描かれるようです。この舞いを見たあとの頼朝と政子の反応が楽しみです。
 一方、子供の頃に落書きをした屏風と再会した義経は、平泉に向かうことを決心しましたよね。そこで、いよいよ平泉に向かって出発をするようですね。さて、平泉への道中にはどのような出来事が待っているのか…。
ただ一つ気になるのは、「義経の希望する国の実現と、平泉に行くこととが果たして彼の中でどのようにつながっているのだろうか?」と言う点です。さらにもう一つ、義経は「平泉こそ私の理想の国」とドラマの中で言っていましたけれど、彼は自分の理想の国を造るために藤原一族から平泉を奪う気でいるのでしょうか?ちょっと理解に苦しむところです。
 相変わらずつっこみ所満載だと思いますが、来週もしっかり観ようと思っています。

「義経」38回・39回の感想の記述を一部訂正しました

2005-11-17 23:56:02 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」の第38回と第39回の感想の中に間違った記述がありました。お詫びをして訂正させていただきます。UPからかなり時間が経っていますので、どこを訂正したのかをこちらに書かせていただきます。

☆第38回 平頼盛の経歴について
 治承三年の平清盛のクーデターにおいて、頼盛は官位のすべてを剥奪されたような書き方をしてしまいましたが、これは正確ではありません。彼はその時権中納言兼右衛門督でしたが、解官されたのは右衛門督だけです。どちらにしても、解官されたということは清盛から後白河院側近と見られていたわけですが…。
それと、頼盛の最終的な官位を正三位権大納言と書いてしまいましたが、正しくは正二位権大納言です。

☆第39回 大江広元の経歴について
 広元は明経得業生から少外記に任じられたと書きましたが、正しくは明経得業生出身で縫殿允から権少外記に任じられ、のちに少外記に転じています。
 また、「広元は健保四年に大江姓への改姓が認可されるまで中原広元と名乗っていたと思われます。」というあいまいな書き方をしてしまいましたが、実際に「中原広元」と名乗っていたのです。

 以上、すでに記事を訂正してありますがお知らせしておきますね。

 歴史についての記述を書くときは、間違いがないよう最善の注意をしています。しかし、これからもこのような間違いを書いてしまうかもしれませんので、お気づきのことがございましたら遠慮なくおっしゃっていただけますと助かります。

 なお、管理人は歴史好きの普通の主婦にすぎません。学校の宿題やちょっとした情報を求めて検索等でこちらにたどり着いたみなさま、参考にしていただくのは嬉しく思います。けれど私は専門の学者ではありませんので、他のサイト様や書籍などでも調べてみて下さい。

☆もう一つお知らせ☆
 gooのサーバーのメンテナンスのため、下記の時間、gooのブログは閲覧が出来なくなります。ご了承下さい。

 11月21日(月)午前1時~御前7時

 今回は機能追加のためのメンテナンスだそうです。gooのスタッフのみなさま、頑張って下さいね。


大河ドラマ「義経」第44回&後白河法皇の心の内

2005-11-11 21:17:57 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第44回の感想です。

 萌さん、あっさり退場してしまいましたね…。以前、義経から「鎌倉に帰るように」とすすめられても、「私は帰りませぬ。」だったのに、今回は自分から「私は鎌倉に帰ります。」と言って引き下がってしまいました。
 そして、それを見送る義経の態度、切ないことですけれど萌さんへの愛情が感じられませんでした。少し意地悪な言い方をすると、萌さんをやっかい払いできてほっとしたのかもしれませんね。
 それにしても、史実では最後まで義経と行動を共にする正妻の退場にはやっぱり納得できません。今回の放送の最後に流れた、おとくばあさんのナレーションによると、今回の静との別れも2人の今生の別れになってしまったとか…。となると、義経の最期に立ち会うのはうつぼということなのでしょうね。ちょっと受け入れがたいかも…。

 さて、西国に向かうために船出をした義経一行ですが、途中で船が難破してちりぢりになってしまいましたね。史実では嵐にあったということらしいのですが、今回の放送では平知盛の亡霊が現れて船が沈められたということになっていました。
 これは謡曲「船弁慶」から題材を取ったもののようです。「船弁慶」でも、西国に向けて船出をした義経一行の前に知盛の怨霊が現れ、その怨霊を弁慶がお経を唱えて沈めたことになっています。
 でも、「見るべきほどのことは見つ」と言って覚悟の入水をした知盛が、亡霊や怨霊になるという設定はちょっと疑問を感じてしまいます。何か、これまでの知盛のイメージが悪くなってしまうようでがっかりしてしまいます。

 ともあれ、和泉の浜に打ち上げられた義経、静、弁慶の3人は熊野詣でを装い出発することとなります。しかし、ここでもまた義経の考えの甘いこと…。「都に戻る」って……、「そんなこと、できるわけないじゃないの!」とまたまたつっこんでいました。
 そして、私がつっこみを入れたときに現れたのが鬼一法眼!…。こんな所に出てくるなんてびっくりです。その鬼一法眼、よくお見通しですよね。義経に、「都に戻ってはならぬ。」と言い残し、お経を唱えてすーっと消えてしまいます。知盛の亡霊と言い、鬼一法眼と言い、今回は何か不思議な世界に引きずり込まれたという感じがしました。

 しかし、義経にはすでに追っ手がかかっていたようで、至る所で襲われることとなります。そのたびに活躍していたのが弁慶……。今回は、義経と静を守る頼りがいのある郎党に描かれていました。お笑いキャラだった弁慶、やっとりっぱな郎党になってきましたよね。そう言えば勧進帳でも、義経最後の場面でも、弁慶は大活躍をするのですよね。これからはマツケン弁慶の演技に大いに期待したいです。

 このように、今回をざっと振り返ってみると弁慶がとても光っていました。しかし、もう一人印象に残った人物がいました。後白河法皇です。たったひとこまでしたけれどインパクトが大きかったです。さすが、平幹二郎さんの演技はすごいです。

 都を離れる際、義経は後白河法皇の許に挨拶に行ったのですが、その時の法皇、何かしらじらしかったですよね。義経や行家の許に兵が集まらないことを聞き、「義経と行家に頼朝追討の院宣を出したのは早まった。」と後悔していた法皇です。義経にねぎらいの言葉をかけている裏で、頼朝と組むことを考えていたりして……と私は思ったのですが、義経によって西国に連れて行かれることを恐れていたのですね。なるほど…。
 確かに実際の法皇も、この時点では頼朝と組むことを本気で考えてはいなかったようなのです。では、今回はそのあたりを少し書かせていただきますね。

 多分後白河法皇には、義経に官位を与えることによって頼朝の嫉妬を仰ぎ、それによって源氏の力を分断してしまおうという考えはあったと思います。しかし、それとは別に義経は、法皇にとって頼りになる存在だったことも十分考えられると思います。
そんな理由から、法皇は義経が願い出た「頼朝追討の院宣」を出さざるを得なくなったのではないでしょうか。
 義経と行家に頼朝追討の院宣が出たことを知った頼朝は、早速大軍を率いて上洛する決心を固めます。頼朝はこの時、義経を追討すると同時に後白河法皇の勢力を圧迫することも考えていたようです。

 そしてその頃から都でも混乱が起こり始めます。混乱の原因の一つは、義経・行家につき従う兵が集まらなかったことです。前回の放送で法皇が、「頼朝追討の院宣を出すのは早まったか。」と嘆いていましたが、これは案外真実だったかもしれません。混乱の原因の二つ目は、鎌倉から大軍が攻めて来るという噂が立っていたことでした。

 このような情勢の中で義経は、自分を九州の地頭職に、行家を四国の地頭職に補すようにと法皇に願い出ます。そして文治元年十一月三日に静かに都を去っていきました。この義経の行動は、情勢を見極めた上での冷静な態度とも言えますが、逆に頼朝を恐れての逃避行とも言えそうな気もします。

 そして義経が都を去った2日後、鎌倉軍(実は、この鎌倉軍は頼朝の先発隊だったようです。なお、当の頼朝は鎌倉を出発したものの、黄瀬川付近に逗留し、やがて鎌倉に引き返しています。)が入洛したのでした。
 義経がいなくなった今、法皇はこの鎌倉軍に都の警備を頼むほかはなかったと思われます。まず法皇は、摂政を藤原基通から頼朝と親しい藤原兼実に交代させました。そして十一月七日、法皇は義経の官位を剥奪します。(七日には、義経の乗った船が難破したことがすでに都に伝わっていたようです。)そして十二日、法皇は頼朝に「義経及び行家を追討すべし。」という院宣を出すことになります。
 こうしてみると、義経が都を去ってから、法皇が義経追討の院宣を出すまで、わずか10日間だったことになります。法皇の心中がどれだけ混乱していたかがわかるような気がします。

 法皇は最初、義経と頼朝を戦わす気はあまりなかったかもしれません。しかし結果的には、法皇の心中の混乱が頼朝と義経をさらに対立させ、その上義経を悲劇の道に追いやることとなったのだという気がします。
やっぱり法皇は罪な御方なのかもしれませんね。

 さて来週は、静が鎌倉方に捕らえられるようですね。そして予告を観た印象では、頼朝もようやく策略家ぶりを発揮するようです。
 来週も楽しみに観たいと思います。

大河ドラマ「義経」第43回&小説「土佐房昌俊」

2005-11-04 00:00:00 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第43回の感想です。

 今回は、歴史の史実としてではなく、単なるドラマとして観る分には結構迫力があって面白かったです。

 土佐房昌俊が最後に言い残した、「九郎殿を討ちに行こうと志願する者は誰一人いなかった。それだけ九郎殿は今でも恐れられているということじゃ。」・「私が志願した理由は所領が欲しかったからだ。母に残してやりたかったからだ。」というせりふは胸に迫るものがありました。
 また、土佐房の軍勢と戦っている義経の郎党達、みんな勇ましかったですよね。
 萌さんまで薙刀を持ってきたときはびっくりしました。萌さんは義経を慕っていて、「九郎殿のためなら私もお役に立ちたい!」と思ったのでしょうね。でも、相変わらず義経は静の方が好きみたいで、萌さんはあまりかまってもらえないようで可哀想です。

 ……というように今週はやっと好意的な感想を書くことができました。でもやっぱり私的に観ると、物足りない部分は多かったです。

 まず、土佐房昌俊と弁慶はいったいどこで知り合っていたのでしょうか?
 同じ僧と言っても、土佐房は興福寺の僧、弁慶は延暦寺の僧ですよね。この二人の接点はどこにあるのか、何よりも弁慶は土佐房にどのような感情を抱いていたのか、ドラマでは全く語られませんでした。そのあたりを説明してくれたら、もっと二人に感情移入できたと思うのですが…。

 鎌倉から刺客が来ていることに気づきながら、そのことを主君の義経に伝えない郎党達にもちょっと違和感を感じてしまいました。もっともうちのだんなさんに言わせると、「義経に知らせたらまた変な所に気を使って、また女々しい程気にして騒ぎ出す。そうなったら郎党達も気を使うだろうから、ハッキリするまで黙っていて正解だよ。」とのことでした。

 あと確か私の記憶では、土佐房って義経の六条堀川の邸への夜討ちの後、鞍馬寺に逃亡したのでは無かったかと…?でも、その場で捕まって斬首されていましたよね。鞍馬寺の僧が再登場して彼を義経の前に突き出すという設定にしても面白かったと私は思います。

 それにしても義経の思い描く「新しい国」って現実離れしていますよね。鎌倉幕府から義絶されて所領も取り上げられ、郎党数名しかいない義経に、この日本のどこにそのような国を作る場所があるのでしょうか?あるわけがないですよね。相変わらず義経は夢ばかりを追う甘ちゃん大将ですね。
 でも義経は、土佐房が刺客として送られたあと、やっと本気で頼朝と戦う決心をしたようですね。今回の最後の方で「頼朝」と呼び捨てにしていましたから…。
 そして同じように、義経への「情」を捨てきれずうじうじ悩んでいた頼朝も、義経・行家に頼朝追討の院宣が出たと聞いた時点で、「もはやこれまで…」と言っていました。頼朝もやっと、本気で義経を討つ決心をしたようです。そして義経はこれから平泉まで、悲劇への道を突き進んでいくわけですよね…。

 さて、今回の土佐房昌俊と堀川夜討ちの場面を観ていて、私はある小説のことを思い出しました。そこで今回はその小説を紹介させていただきたいと思います。

 私の好きな作家さんの一人、永井路子さんの著書に、『右京局小夜がたり』という短編集があります。昭和53年発行ですので、現在は当然絶版です。この単行本は数年後に集英社文庫から「寂光院残照」というタイトルで文庫化されましたが、こちらも10年ほど前に絶版になってしまいました。
 私は15年ほど前、単行本の方を図書館から借りて読みました。この本には平安末期~鎌倉初期をあつかった短編が6編収められていました。後白河法皇の大原御幸の話や、藤原忠通と藤原頼長の兄弟争いを下級女房の視点で描いた話など、読み応えのある小説が多かったです。手許に置きたいと思い、古書店で探しているのですがなかなか見つかりません。
 そしてこの本には「土佐房昌俊」(土佐坊と書いてあったかもしれません。原本が手許にないものですからご容赦下さい。)という、短編が収められていました。ではこの「土佐房昌俊」のあらすじをざっと紹介しますね。ただ、先にも書いたように15年前に読んだ本でもあり、しかも手許にないためあやふやな部分や勘違いをしている部分もあるかもしれません。間違った部分がありましたらどうかお許し下さい…。


本によると、義経を追討しようと決心をした頼朝は、「所領を褒美に取らせるので、誰か志願する者はないか。」と、御家人達に尋ねました。しかし、誰一人志願する者がありません。半分あきらめかけた頼朝でしたが、「私が参りましょう。」と下席から名乗り出た者がいました。それが土佐房昌俊でした。「少し頼りないかな?」とは思ったものの、せっかく志願をした土佐房に、頼朝は義経追討を命じたのでした。

 土佐房は家に帰ると喜び勇んで妻にそのことを告げます。しかし妻の反応は冷ややかでした。「あんたは馬鹿だ。あの九郎義経を追討するなんて正気の沙汰とは思えない。」というのです。あげくの果てに、「誰も引き受け手のない仕事を引き受けてしまうなんて、あんたは人が良いにも程がある!」と言う始末。でも、「褒美がもらえるから良いではないか。」と、のこほんとしている土佐房なのでした。そんなこんなで土佐房は80騎程の軍勢を率いて上洛したのでした。

 しかし、土佐房が軍勢を率いて上洛したことはたちまち義経の耳に入ってしまいます。義経は土佐房を召し出し、「まさか私を討伐しに来たのではないだろうな!」と詰問します。
 しかし土佐房は、「私は熊野詣でのために上洛したのです。」としらを切るばかり。そして「九郎殿には何も敵意がない。」ということを起請文に書き、それを飲み込んでしまったのでした。「そこまでするなら…」ということで、義経はようやく土佐房を宿所に帰したのでした。

 しかし土佐房は義経との約束を破り、その日の夜に義経の六条堀川の邸に夜襲を駆けることになります。結果は土佐房の軍勢の惨敗に終わりました。軍勢はちりぢりとなり、土佐房も逃亡してしまいます。
 そして土佐房の逃げ込んだ先は鞍馬寺……。鞍馬寺と言えば義経が幼い頃を過ごした寺であり、その頃も当然義経派の寺でした。そのため土佐房はたちまち鞍馬寺の僧達に捕らえられ、義経の前に引き出されたのでした。

 その時、土佐房は覚悟を決めていたのか、大変落ち着いた静かな態度だったのでした。それを見た義経は、「起請文を破ったことは大罪であるが、命だけは助けてやろう。」と土佐房に告げたのです。
 しかし、土佐房は「私の命は鎌倉を出たときに、すでに鎌倉殿にお預けしてあります。」と言い、自ら死罪になることを選んだのでした。
 小説の最後は、「彼が与えられることになっていた所領は、彼の老母と幼子に与えられた。」というような文章で結ばれていたと思います。

 土佐房は自分の命と引き替えに、家族を守ったということでしょうね。こういった生き方も鎌倉武士としての一つの生き方だったかもしれませんね。
 それにしても、鞍馬寺に逃げてしまうとは……。土佐房という人はかなりおっちょこちょいで人間的な人だったのかもしれません。何となく憎めないキャラクターだと思います。
 とにかく彼は、この堀川夜討ちで歴史に名を残すことになったのです。歴史に関わった大多数の人物と同じく、彼も歴史の闇に消えてしまう運命だったのでしょうけれど、義経を襲撃したということで名が残った……、このようなところは歴史の面白いところですよね。

 さて来週はいよいよ、義経と行家が船出をして嵐にあうようですね。そして静や萌ともお別れ……なのでしょうか?
 義経に感情移入できるかは心配なのですが、来週もしっかり観ようと思っています。