平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

昼食 ~日帰り小旅行 三島編3

2007-01-30 10:49:58 | 旅の記録
 三島大社の門を出るとそこは車がたくさん通っている大通り。道路を渡ると神社の参道があります。ここには色々なお店があるようなので「当然喫茶店かレストランもあるよね。」ということで、参道を少し歩いてみました。12時近くになっていましたのでおなかもすいてきましたしね。

 ところが…、何と参道は工事中で途中までしか行けなくなっていました。そこで仕方なく大通りの方に引き返すことに…。ああ、食べ物屋はどこに…。こういうとき、知らない町に来ると困るのですよね。

 大通りに出て少し歩いてみると、幸いなことに喫茶店を一軒見つけることができました。お店の名前の看板の横に「お茶室ランチ」という文字も書いてあります。このみやびな名前に引かれて中に入ってみることにしました。知らない町で個人の経営する喫茶店に入るというのは賭に出るようなもの。感じが悪かったりおいしくなかったりしたら最悪ですが、なかに入ってみると感じの良い応対だったので、接客面に関しては「当たり」のようで一安心です。

 何となくパスタ類が食べたかったので、私はスパゲッティーナポリタンセットを注文しました。ナポリタンというと、パスタをトマトケチャップで炒めるだけで単純だと思われがちですが、自分で作ってみるとこれがなかなかうまく行かないのですよね~。なのに、喫茶店で食べるナポリタンはなぜかおいしいのです。だんなさんもちょっと迷った末、私と同じナポリタンセットにしました。

 運ばれてきたナポリタンは、玉ねぎ、きのこ、ハムが入っていました。味加減もちょうど良くておいしかったです。食べ物のおいしさも「当たり」のようでほっとしました。
 何よりも嬉しかったのは、玉ねぎが細かく切られており、しんなりしていて柔らかかったことです。私は元々玉ねぎが苦手で、大きく切られているものや堅くて生っぽいものはちょっと食べられないので助かりました。付け合わせのサラダもおいしかったです。生野菜だけでなく、ポテトサラダもついていたので嬉しかったです。

 そして、最後に紅茶が出てきました。それで、紅茶を入れてあるカップが珍しいものだったので写真を載せてみました。普通、紅茶って白いコーヒーカップで出てくることが多いのですが、黒っぽい陶器のカップだったのですよね。さわり心地が良くてこってるなと思いました。
 紅茶もアップルティーのような味がしておいしかったです。

 おいしいものを食べて飲んで幸せ気分になり、いよいよ本日のメイン、「よみがえる源氏物語絵巻 ~平成復元絵巻のすべて」を観に佐野美術館に向かいます。

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誕生日♪

2007-01-27 14:54:05 | えりかの平安な日々 04~09
 今年も無事に誕生日を迎えることが出来ました。1年間支えて下さっただんなさんや友人たち、周りの皆様に感謝です。そして、生んでくれた両親にも感謝したいです。

 それにしましても……、美容院に行って、ランチを食べて、「もっと知りたい源氏物語」をだんなさんに買ってもらってからもう1年なのですね~。早いです…。20歳を過ぎてから1年が過ぎるのが早くなったように思えますが、ここ2、3年は特に早いように思えます。

 ところで、私はプロフィールでも自分の年齢を証していませんでしたが、今年はここで白状しますね。42歳になりました。ネットの世界では20代や30代の方が多いのでちょっと恥ずかしいですが…それに、お姉さんとおばさんの境界線は28~41歳だという話を聞いたことがありますので、42歳は完全におばさん…ということになってしまいますよね。
 でも、まだまだ自分は若いと思っています。今話題になっている団塊の世代の皆様、テレビなどで拝見しているととっても若く見えますよね。それよりも20年近く年下の私は若くて当然…、団塊の世代の皆様に負けないように頑張らなくては。これからも42歳の青春を楽しんでいきたいと思います。

 さて、こうしてブログに誕生日の記事を書くのも3回目となりました。ちなみに一昨年の記事は「こちら」(私の誕生日に、歴史上で何が起こったかを書いてあります)、昨年の記事は「こちら」です。よろしければご覧下さいませ。

 今夜は、だんなさんと近くの洋食屋さんでディナーを食べてきます。ここの洋食屋さん、ディナーをやっているのは金曜日と土曜日だけなのですよね。なので、私の誕生日が土曜日に当たった今年はラッキーでした。楽しみです。

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私家版かげろふ日記

2007-01-24 10:35:20 | 図書室2
 今回は、少し異色の「蜻蛉日記」の現代語訳の本を紹介します。

☆私家版かげろふ日記
 著者=杉本苑子
 発行=文化出版局(単行本) 講談社(文庫版)

☆本の内容紹介
 「私は身分違いの相手に想われ、玉の輿に乗った女である。」並外れた美貌と作歌の才に恵まれた平安朝の一女性が、浮気の絶えない夫との生活から女同士の確執、一人息子への溺愛ぶりまでを赤裸々に綴る。無類に面白い千年前の記録を、大胆かつしなやかな日本語で生き生きと再現させた現代人必読の日記。

*図書館で借りた本なので画像はありません。ご了承下さい。

 タイトルの通り、杉本苑子さんによる独自の、蜻蛉日記の現代語訳です。

 「蜻蛉日記(かげろふ日記)」は、藤原倫寧の女で藤原兼家の妻の一人となり、兼家との間に道綱を産み、のちに「藤原道綱母」と呼ばれることになる女性が、兼家との20年にわたる結婚生活をつづったものです。テーマはズバリ、「一夫多妻の世界」、夫の浮気に悩み、時には、時姫や町の小路の女や近江など、夫の他の妻たちに嫉妬する様子が赤裸々に描かれています。また、夫の病気により夫婦の愛情を確認したり、息子のことを心配したり…といった、愛憎と悲喜こもごもの日常が淡々と描かれており、その内容は、書かれてから千年経った現在でも共感できる部分が多い日記です。

 この本は、そんな「蜻蛉日記」を現代的にわかりやすく訳したものです。外来語も多く使われており、会話も現代的で親しみやすいです。

 この現代語訳の大きな特徴は、原文にはあまり書かれていない当時の政治情勢を、本文の中にうまく盛り込んでいることだと思います。兼家と言えば右大臣師輔の三男、つまり若い頃から政権の中枢の近くにいた人で、最終的には摂政にまで出世した人物です。なので、兼家と当時の政治情勢は切っても切れないものなのです。

 たとえばこの本では、冷泉天皇即位、その弟守平親王立太子の事情が詳しく描かれています。実は、冷泉天皇と守平親王は村上天皇を父に、藤原安子を母に持つ同母兄弟ですが、二人の間にはもう1人、為平親王という同母兄弟がいました。つまり、守平親王は兄の為平親王を飛び越えて皇太子に立てられたのです。
 これには、為平親王が、当時左大臣で実力者であった源高明の女を妃にしていた…という理由があったようです。「もし為平親王が天皇になったら、舅の高明が実権を持ってしまうかもしれない。」という、藤原氏の人たちの思惑があったのでしょう。そこで強引に、守平親王を皇太子にしたのではないか…とこの本に描かれています。
 さらにこの本には、道綱母の兄の「あんたの夫の兼家も、守平親王立太子に一役買ったかもしれないぜ」というせりふが出てきます。道綱母はそれを聞き、「男の世界はおぞましい」と思ったのでした。この場面を読むと、「兼家という人物は若い頃から野心家だったのだな」というイメージを強く受けます。

 その他、上で述べた為平親王の舅、源高明が左遷された事件「安和の変」のこと、兼家と兄の兼通の対立といった政治情勢についての事柄がたくさん出てきます。「道綱の加冠役は、醍醐天皇の皇子として生まれ、臣籍に下って源姓を賜り、政界では左大臣にまで昇りながら、後に兼通の陰謀によって実権のない一親王に戻されてしまった源兼明だったのか…という事実に改めて気づかされたりもしました。

 また、道綱母はわりと交際範囲が広いなとも感じました。兼家の妹で村上天皇の後宮に入り、「貞観殿尚侍」と呼ばれた藤原登子、兼家の異母妹で源高明の妻となった愛宮などとも交際があったようです。これらの人々との様々なエピソードも面白いです。

 しかし、何と言ってもこの本で一番光っているのは兼家です。確かに女好きで浮気者で、道綱母を悩ませる男ですが、とにかく明るくてユーモラスで、私はこの兼家という人、結構好きなのですよね。
 そして道綱母も、そんな兼家のことが大好きだったのではないか…と思います。
 もちろん、この本は道綱母の語りで話が進行しますので、彼女の行動や心の動きも生き生きと描かれています。 夫に対して素直になれず、その上いつまでも子離れできない道綱母、何か身近に感じます。そんな両親の間で右往左往する道綱くんもなかなかかわいい。この3人、とても魅力的です。

 そしてラストには嬉しいことに、「その後の蜻蛉日記」と題して、道綱母のその後の様子もまとめられています。彼女が養女にした「兼家が一時通っていた女に産ませた娘」がその後どうなったのか、ずっと気になっていたのですが、どうやら円融天皇に入内した藤原詮子の女房になったようです。もちろん、兼家や道綱のその後についても書かれています。

 ただ、この本では和歌の贈答部分など、省略されている部分も多いようです。今度はぜひ、正統派の「蜻蛉日記」の現代語訳も読んでみたいなあと思いました。

 なおこの本は、1996年に文化出版局から単行本として出版され、その後、講談社文庫からも刊行されましたが、現在では単行本・文庫本ともに絶版のようです。興味を持たれた方は図書館か古本屋で探してみて下さい。これから「蜻蛉日記」に触れようと思っていらっしゃる方、「蜻蛉日記」の時代背景を知りたい方には特にお薦めです。

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三島大社参拝 ~日帰り小旅行 三島編2

2007-01-21 11:14:28 | 旅の記録
 三島大社は、大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえ ことしろぬしのかみ)を御祭神としています。そして、この二柱の神を総じて三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と称しています。

 三島大社がいつ、どのようにして創建されたかははっきりわかりませんが、平安時代中期の古記録に記録がみえるため、創建はかなり古いものと考えられます。
 また、平治の乱に敗れて伊豆に流されてきた源頼朝は、流人時代にたびたび三島大社を訪れ、源氏再興を祈願したと伝えられています。そしてその願いが成就すると、社領神宝を寄進し、ますます三島大社を尊崇したと言うことです。つまりこの神社は、頼朝とはとてもゆかりが深いのです。その頼朝ゆかりの三島大社を、私も参拝したいと思います。

 とはいうものの、実は私、前項でも書きましたが、子供時代にこちらを何回も参拝しているのです。私は、三島市の隣町の沼津市で子供時代を過ごしたので、初詣に何回か訪れたこともありますし、七五三もこちらで行いました。なので三島大社というと千歳飴が頭に思い浮かんでしまうのです。
 それと学生時代、だんなさんとつきあっている頃に三島でデートをしたこともあり、その時に二人で三島大社を参拝しました。それから約20年ぶりにこちらを訪れたわけですが、「あの頃に比べるときれいに整備されているな」という印象を受けました。

 神社の中に入ってまず思ったことは、「込んでいる」ということでした。有名な神社なので訪れる人も多いのでしょうか。

 私たちは、今年はまだ初詣に行っていなかったので、今回の三島大社参拝が初詣ということになります。まずこちらで手を浄めます。ちなみに、写真に写っているのは私です。



 手を浄めて身も心もすっきりしたあと、本殿でお参りをしました。お賽銭を入れてお辞儀をし、手を合わせてお祈りをします。今年も良い年になりますように。

  

 お参りしたあとは境内を少し歩いてみました。そこで見つけたのが、三島大社の天然記念物の金木犀の木です。緑が鮮やかできれいです。木の前には、おみくじを結ぶところもあります。昨年は久しぶりにおみくじを引いて大吉を引き当てた私ですが、今年はパスしてしまいました。



 それとこのようなものも見つけました。



 狛犬ですね。なかなかかわいいです。隣に「厳島神社」という文字が見えますが、広島県の宮島にあるあの厳島神社と関係があるのでしょうか。頼朝ゆかりのこの神社で平清盛を連想させられる厳島神社という文字を見る…というのも面白いですね。

☆三島大社のホームページはこちら
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出発 ~日帰り小旅行 三島編1

2007-01-19 21:48:43 | 旅の記録
 「よみがえる源氏物語絵巻 ~平成復元絵巻のすべて~」が、私の住んでいる町から普通電車で1時間半ほど行ったところにある静岡県三島市の佐野美術館で開催される…という情報を得たのは、昨年の夏頃だったでしょうか。
 この催し物は、国宝源氏物語絵巻を科学的に解析し、それをもとに忠実に復元模写をした絵巻を一挙に展示する…というものでした。なので、源氏物語絵巻が完成した当時の人々が観ていたであろう絵巻とほとんど同じものを観ることができるというわけで、これは源氏物語ファンにとってはたまりません。それに、このようにわりと近いところで平安時代や源氏物語に関する催し物が行われることはめったにないので、とても嬉しくなりました。

 その後、昨年の秋に、この展覧会が広島県福山市で催され、観に行った友人たちから、「すごく良かったよ、絶対に観に行くといいよ。」という話を聞き、「三島で開催されている期間中に絶対に観に行こう」と決心したのでした。

 そして年が明けて間もなく、開催期間は1月5日から2月5日だと知り、「週末は込んでいてゆっくり観られないだろうから」ということで、1月16日の火曜日に行くことにし、準備を始めたのでした。そうそう、せっかく三島に行くのだから、源頼朝ともゆかりが深い三島大社にも行ってこよう、まだ初詣に行ってないからちょうど良いわ…とも思いながら、指折り数えて16日を待ちました。

 ところが…、旅行にはハプニングがつきものの私、その前日の夜に体調を崩してしまいました。何か悪い物でも食べたのか、おなかが痛いのです。それでも一晩寝て当日の朝を迎えたときは、痛みもかなりおさまっていましたが、おなかにはまだ違和感があります。でも、今日を逃したら次に行けるのは1週間後の23日です(写真係のだんなさんの現在の仕事の休みは火曜日なので…。もちろん土日はお休みですが、今週末は両方とも何かしら用事が入っていました。それに、上でも書いたように土日は込むので避けたかったですし)。そこで、胃腸の薬を飲んで旅行を決行することにしました。今日は何とか天気が持ちそうですが、1週間後はわかりませんものね…。

 さて、朝9時に家を出た私たち、駅に行くと、ちょうど始発の電車が出るところだったのでそれに乗り込みました。始発ならすいているので、ゆっくりと座っていけます。ただ、この電車は沖津という、静岡の4つ向こうの駅までしか行かないので、静岡で熱海行きに乗り換えることにしました。と言うのは、静岡駅のホームでは温かいお茶が売られているので、欲しいなと思ったからです。

 こうして静岡駅のホームでお茶を買い、電車を乗り換えて約1時間、ようやく三島に到着しました。これだけ長い時間普通電車に乗ったのは久しぶりです。幸い、薬のおかげでおなかもおかしくならずにすみました。

 まず、三島大社を参拝し、そのあと昼食を撮ってから佐野美術館に行こうと計画していました。三島大社は駅の南側、わりと近いところにあるので、私たちは南口に出ましたが、三島大社への道順がどうしても思い出せないのです…。三島大社の項で詳しく書きますが、実は私は、子供の頃、三島大社を何回か参拝しています。でも、最後に訪れてからもう20年になるので、行き方を全く覚えていなかったのでした…。そこで、「迷うよりはいい」ということでタクシーを利用することにしました。タクシーに乗り込んで間もなく、三島大社の大きな入り口が見えてきました。頼朝も参拝したこの由緒ある神社を、いよいよ私も20年ぶりに参拝します。

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源氏物語絵巻展に行ってきました

2007-01-17 00:18:26 | えりかの平安な日々 04~09
 昨日1月16日、今月5日から来月5日まで静岡県三島市の佐野美術館で開かれている、「よみがえる源氏物語絵巻 ~平成復元絵巻のすべて」を見てきました。この展覧会について、詳しくは「こちら」をご覧下さい。

 私の住んでいる地方は、平安時代や源氏物語に関する催し物が少ないので、いつも残念に思っていました。でも今回、私の住んでいる町から普通電車で約1時間半、ほど行った所でこんな素敵な催し物があると知り、「これは行くしかない!」と思いました。そこで、いつものようにだんなさんを私の趣味に巻き込んで、観に行ってきた…というわけです。

 会場には、国宝源氏物語絵巻、昭和の復元絵巻、それと、今回復元模写された平成の復元絵巻が並べて展示してありました。やはり何と言っても、今回復元模写された絵巻は色も鮮やかで線もくっきりとしていました。今回の復元模写は、国宝源氏物語絵巻を科学的に解析し、当時使われたものと同じ染料を使って復元されたものなので、私たちは900年前、源氏物語絵巻が完成した当時と同じものを目にすることができるわけです。これはとっても貴重だと思います。

 絵巻は思ったより小さめだったので、私の視力では残念ながら細かい部分まで見ることはできませんでしたが、それでも色の鮮やかさやだいたいの形はわかりました。とにかく素晴らしかったです。図録も購入したので、これから絵巻の素晴らしさをゆっくり堪能しようと思っています。

 せっかく三島を訪れたので、源頼朝が流人時代によくお参りをしたという三島大社にも行ってきました。そこで、「日帰り小旅行 三島編」と題して、全5回ほどの旅行記を連載することにしましたので、どうぞおつき合い下さいますよう、よろしくお願いします。

 写真は、佐野美術館の庭「隆泉苑」の中にある池です。

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実資さんって…

2007-01-14 18:10:27 | 歴史雑記帳
 11月に購入した「平安時代史事典」ですが、日記にも書いているようにブログの歴史記事を書く上でとても役に立っています。本当に買って良かった…と思っています。

 ところで、事典で平安時代の人物を調べているとよく目にする文字が「小右記」の三文字です。

 「小右記」というのは、藤原実資(957~1046)の書いた日記です。彼は藤原斉敏の子で、祖父に当たる藤原実頼(小野宮流藤原氏の祖))の養子となった人物です。村上・冷泉・円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉の九代の帝に仕え、最終的に右大臣にまで昇進し、「賢人右府」と称されました。そして、21歳の時から約60年に渡って日記を書き続けました。その日記が「小右記」です。
 現在では散逸している部分も多いようですが、当時の政治情勢が細かく書かれており、貴重な史料となっています。特に興味深いのは、実資と同時代に生きた人々……、藤原道長やその周囲の人たちの性格や行動が生き生きと描かれていることだと思います。その結果、現代に生きる私たちは、当時の人たちのことをかなり詳細に知ることができるわけです。

 その中には、実資さんに痛烈に批判されてしまった人たちもいます。例えば藤原道綱などは、「一文字も読めない人」などと言われてしまいました。お母さんは「蜻蛉日記」の作者で、和歌が得意な才女だったのに、息子の道綱は才能もなく、ただ父兼家や異母弟道長の引き立てによって出世したようなところはありますが、いつもお母さんの陰に隠れているような気がしてちょっとお気の毒になったりします。
 また、道長の下で長い間右大臣を勤めていた藤原顕光も、「愚人」などと言われ、「小右記」のあちらこちらで痛烈に非難されています。。

 そして最近、「平安時代史事典」を使って調べものをしていたとき、実資さんの意外な一面がうかがえるすさまじい話を発見してしまいました。

 藤原師輔の息子さんに、藤原為光という人がいます。ちなみに彼の母は醍醐天皇皇女雅子内親王、つまり兼家や伊尹の異母弟、道隆や道長、上で述べた道綱の叔父に当たります。最終的には太政大臣にまで昇進していますが、あまり目立った業績もなく、凡庸な人物だったようです。為光には、誠信、斉信、花山天皇女御の(女氏)子など、多くの子息や息女がいました。ただ、そのわりには子孫が繁栄しなかったようですが…。

 永延二年(988)、為光の長男、誠信が上席にいた実資を飛び越えて参議に任じられたのですが、追い越された実資は「誠信が参議になれたのは為光が昇進運動をしたためと、この実資に対する嫌がらせだ。」と日記に書いています。参議になれば公卿の仲間入りですから、七つも年下の誠信に先を越されたことが悔しくてたまらなかったのでしょうね。しかも、彼がようやく参議に任じられたのは、誠信に遅れること1年後のことだったのですから…。

 為光は承暦3年(992)に世を去ったのですが、実資は為光の周忌の法事に招かれてもいっさい出席しなかったそうです。「彼には全く恩がないから」と日記にも書いているようです。当時は現在に比べると死者の怨霊とか、怨念がはるかに恐れられていた時代です。つまり、死者を供養しないということは、自分にどんな災難がふりかかってくるかわからない…と考えられていた時代でもあったのではないかと思います。それを承知でいっさい為光の法事に出ない……、実資の執念が感じられるエピソードではないでしょうか。

 とは言っても、私は決して実資さんのことが嫌いではありません。出世欲が強くて、執念深くて、色々口うるさいところはありますが、彼は真面目で誠実な人だったと思います。紫式部日記」によると、敦成親王(のちの後一条天皇)の五十日の賀の際、紫式部は実資の真面目な態度に感動しています。才女の紫式部から好意を持たれたのですから、彼はなかなか魅力的な人だったのでは…。あまり人としゃべらず、近づきがたい感じはするけれど、何か不思議なオーラのようなものが出ている…そんな人だったのではないかと思ったりします。

 何よりも、日記「小右記」によって、私たちは当時の貴族たちの様子を詳細に知ることができるのですから、これは実資さんに感謝しなくてはいけませんよね。

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(女朱)子内親王 ~激動の時代を愛に生きて

2007-01-10 01:18:48 | 歴史人物伝
 女帝の世紀とも言われた飛鳥・奈良時代は別として、平安時代以降は結婚経験のある内親王というのはほんの一握りです。それでも平安中期には、藤原師輔と結婚した醍醐天皇の3人の皇女、勤子内親王・雅子内親王・康子内親王、藤原顕光と結婚した盛子内親王(村上天皇皇女)冷泉天皇皇后の昌子内親王(朱雀天皇皇女)、円融天皇女御の尊子内親王(冷泉天皇皇女)など、何人かの内親王を挙げることができます。

 ところが院政期、、特に鳥羽天皇御代以降になると、結婚経験のある内親王は皆無と言ってもよい…という状態になってしまうのです。
そして今回は、その中でも唯一、結婚経験のある内親王を、紹介させていただきたいと思います。
 しかし、今から紹介する(女朱)子内親王は、大変謎に包まれた人物です。特に、彼女の後半生についてはわからないことが多いです。そして、もっとわからないのが彼女の心の中です。そこで今回は、そんな彼女の心中について迫ってみることにします。かなり妄想に走った内容になると思いますが、おつき合い頂けますと嬉しいです。


 (女朱)子内親王(よしこないしんのう)は、鳥羽天皇を父に、美福門院藤原得子(藤原長実女)を母に、永治元年(1141)十一月に誕生しました。同母の兄弟姉妹に近衛天皇、子内親王(のちの八条院)などがいます。そして、母の里第である白河押小路殿で成長することとなります。その頃は「乙姫宮」と呼ばれていたようです。

 久寿元年(1154)十一月、内親王宣下され、名を「寿子」と称しました。ところが、当時左大臣で高い学識もあった藤原頼長が、「寿子という名前は縁起が良くない」と言ったため、その月のうちに名前を「(女朱)子」と改めました。このように、内親王としての彼女の人生は、出発点から波瀾含みだったと言って良いと思います。

 保元元年(1156)、東宮守仁親王(のちの二条天皇)と結婚し、「東宮女御」と呼ばれます。この結婚は、守仁親王が(女朱)子内親王の母、美福門院の融子になっていたため、母によって取り決められた政略結婚だったと考えられます。翌年三后に准ぜられます。

 保元三年(1158)、二条天皇が即位すると、翌平治元年(1159)二月、後白河上皇の御所である高松殿において立后します。その年の十二月に起こった平治の乱に際しては、天皇とともに平清盛の六波羅第に避難しています。

 しかし、翌永暦元年(1160)、(女朱)子内親王は病のため出家をしてしまうのです。
 実は、二条天皇はこれより以前に、藤原師元女(のちの春日局)を身辺に近づけて寵愛し、彼女は平治元年(1159)に二条天皇の皇女をもうけていました。
 しかし、(女朱)子内親王が最も我慢できなかったのは、永暦元年(1160)正月に行われた藤原多子の入内だったのではなかったでしょうか。
 確かに彼女は春日局が皇女を産んだ頃から出家を希望していましたが、これを後白河上皇に止められていました。また、この頃から二条天皇と離れて住んでいたことも多かったようですが、上で書いたように平治の乱の際、天皇とともに六波羅に避難しているので、この頃はまだ、二条天皇との夫婦関係は持続していたと考えられます。

 ここで藤原多子について述べておきますと……、藤原多子は左大臣頼長の養女として久安六年(1150)正月に近衛天皇に入内し女御となり、さらに皇后に立てられた人物です。久寿二年(1155)に近衛天皇が崩御されると、里第の近衛河原に下がり、保元三年(1158)には太皇太后に立てられていました。
 ところが二条天皇は、この先々帝の后であった女性の美貌の噂を聞き、「ぜひ我が後宮に…」と、入内を強く懇願したのでした。多子はもちろん、最初は断ったようですが、天皇の強い懇願に屈し、永暦元年(1160)正月、ついに二条天皇の許に入内します。

 帝の后だった女性がもう一度入内する……、これは前代未聞のことでした。それより何より、夫の愛情がかつての兄嫁に移っていくことに、(女朱)子内親王は耐えきれなかったのではないかと思います。彼女は次第に健康を損ねて病気になり、ついに危篤になってしまいます。彼女の苦しみもだえるうめき声は、部屋の外まで聞こえたと言われています。やがて彼女は出家を決意し、ついに落飾……。こうして出家をした(女朱)子内親王は、病気は回復したものの、もはや二条天皇の許に戻る気はありませんでした。こうして二条天皇と(女朱)子内親王は破局を迎えたのでした。

 (女朱)子内親王は応保二年(1162)、立后を行った第宅に因み「高松院」という女院号を宣下されます。そして、安元二年(1176)六月、脚病に痢病を併発し崩御します。享年三十六。死因については当時から様々な憶測が流れていたようです。すでにその11年前、夫であった二条天皇も崩御されていました。


 以上が(女朱)子内親王の経歴ですが、最初にも書きましたが、女院号を授かってから崩御までの彼女について、正史は何も伝えていません。

 しかし、彼女の後半生を知る手がかりとして、藤原兼実の日記「玉葉」の建久二年(1191)四月二十四日条の記事があります。
これは、法印大僧都澄憲(藤原通憲男)の子、海恵が仁和寺において灌頂を受けた際の記事なのですが、「御室御弟子、高松院御腹、澄憲令レ生之子也、雖二密事一人皆知レ之」と記述されています。この文章を口語訳すると、「御室のお弟子海恵は高松院((女朱)子内親王)と藤原通憲の子、澄憲との間に生まれた子である。これは公的には秘密にされているが、みんな知っていることだ」ということでしょうか。

 もしこれが事実とすると、(女朱)子内親王は出家後、澄憲と恋仲になり、彼との間に子をもうけていた…ということになります。兼実の妻の母は(女朱)子内親王の乳母なので、このことはかなり信憑性が高いのではないかと思います。このあとは、海恵は澄憲と(女朱)子内親王との間に生まれた子であった。つまり(女朱)子内親王と澄憲は恋仲であった。…と仮定し、話を進めさせて頂きたいと思います。

(では、澄憲とはいったいどのような人物だったのでしょうか。

 澄憲(1126~1203)は平安末から鎌倉初期の天台宗の僧で法印、大僧都です。 少納言藤原通憲(入道信西)の七男として生まれました。平治の乱で父信西が殺されると、彼も下野国に流されますが、のち許されて帰洛します。

 彼は説法が大変うまく、常に聴衆を魅了し、法会の導師として招かれたことも多かったようです。ただ、僧侶でありながら妻を何人も持ち、あちらこちらで子供を作る…といったところもあったようです。それだけ魅力的な人物で、女性に人気があったということでしょうか。

 話を(女朱)子内親王に戻しますと…、出家した(女朱)子内親王は、世間の評判を聞いて澄憲の説法を聞きに出かけたこともあったかもしれません。また、彼女が催す法会に澄憲を招いたこともあったと思います。そして、女院号を授かって生活は安定していたものの、夫から裏切られ、寂しい日々を送っていた(女朱)子内親王が、説法もうまく、人間的にも魅力的な澄憲に引かれていったことはごく自然なことだったのではないかと思います。その結果彼女は妊娠し、承安二年(1172)に海恵を出産することとなったのではないかと思います。

 このことについては、「(女朱)子内親王は澄憲の好色の犠牲になった」と見る向きもありますが、それではあまりにも彼女がお気の毒のように思えます。少なくても(女朱)子内親王自身は、愛する対象を得ることができて満足していたように思えるのです。
 そして澄憲も、かつて帝の后であり、現在は出家の身である女性と恋仲になる…ということは、相当の覚悟があったと思えます。もしこのことが露見したら、澄憲は間違いなく流罪です。それを覚悟の上で、(女朱)子内親王と関係を持ったということは、澄憲も(女朱)子内親王に対して愛情を持っていたのではないでしょうか。

 なお、角田文衞先生の説によると、(女朱)子内親王は安元二年に澄憲との二人目の子を妊娠したものの、妊娠浮腫から出血を起こし、それが原因で亡くなったのではないかと推定されています。
 (女朱)子内親王が出産したことを世間から隠すため、海恵は誕生と同時に彼女から引き離されたと考えられます。そして、今度身ごもった子とも生き別れになる……ということは、彼女も覚悟していたと思いますが、やはり寂しくてやりきれなかったのではないでしょうか。そんな気持ちが身体に影響し、体調を崩してしまったのかもしれません。
 愛する人との間の子を身ごもったままこの世を去っていかなければならなかった(女朱)子内親王の心中は想像するしかありませんが、最後まで澄憲と海恵のことを心にかけていたのだと思います。さぞ心残りだったことと推察されます。

 でも考えてみると、(女朱)子内親王は後半生になって澄憲と巡り会えたことは、ある意味では幸せなことだったかもしれません。院政期の内親王の多くは、恋をすることも知らず、人生を終わっていったのですから…。「愛することができる人と巡り会えて良かったね」と、私は(女朱)子内親王に言ってあげたいような気がします。

☆参考文献
 「平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
 「二条の后 藤原高子 ー業平との恋」<悲運の后 高松女院>の部分 角田文衞著 幻戯書房


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2007年 年賀状

2007-01-07 11:48:22 | 美術館
 2007年1月1日から7日まで、トップページを飾った新年のご挨拶と画像です。


☆★☆明けましておめでとうございます(^^)☆★☆

 昨年は皆様には大変お世話になり、どうもありがとうございました。たくさんのアクセスと掲示板への書き込みをいただき、感謝しています。
 おかげさまで昨年は、平安時代の人物紹介と書籍紹介の記事を30記事あまりUPでき、満足しています。旅行記2本もUPできました。

 今年も、平安時代の人物紹介と書籍紹介を中心に、我が家の猫、エリカのことや私の日常もちょこちょこUPしていこうと思っています。旅行に出かけたあとは旅行記も作成しようと思っています。相変わらず勘違いな事を書いたり、誤字や脱字も多いかもしれませんが、どうか暖かく見守って下さいますよう、よろしくお願いします。それと、マイペースなので更新はゆっくりですが、時々拙ブログをのぞいて頂けますととっても嬉しく思います。

 何よりも、私自身が楽しみながらこのブログを作成していけるよう、ぼちぼち都頑張りたいと思います。本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 画像は、鏡餅とお正月飾りです。お正月飾りには招き猫がついています。かわいいです♪

               


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今年のお正月&お正月料理

2007-01-03 12:05:30 | えりかの平安な日々 04~09
 毎年のことながら、今年のお正月も、食べて、寝て、テレビを見て…というようにまったりと過ごしています。これでは太ってしまいそうですね(笑)。でも、お正月だからいいか~。

 1日の夜は、ワインを飲みながらハムとチーズを食べたのですが、ワインとチーズはすごくおいしかったのですけれど、ハムが脂っこくて、ちょっと気持ちが悪くなってしまいました。気持ちが悪くなった原因はそれだけではなく、チーズを食べ過ぎたという話も(笑)。

 ところで、年末に正月料理作りを頑張ったおかげで、お正月は炊事をしなくて良いので楽です。と言うわけで、今年のお正月料理の献立を…。実は、買ったものの方が多かったりします。

☆薩摩揚げと野菜の煮しめ
 薩摩揚げ、にんじん、こんにゃく、たけのこ、れんこんが入った煮しめです。薩摩揚げは静岡のデパートで買いました。こちらのスーパーで買うよりずっとものがいいので。そのおかげか、コクのあるおいしい煮しめができました。

☆干ししいたけの煮つけ
 干ししいたけを水で戻し、しょうゆ、砂糖、酒、しいたけの戻し汁で煮込んだもの。不思議なことに、出来上がってから時間が経てば経つほど、味がしみておいしくなります。

☆伊達巻き
 静岡のデパートで買った1本千円の伊達巻きです。おいしかったです~。

☆かまぼこ
 こちらも静岡のデパートで買いました。おいしかったです。

☆まぐろのお刺身
 まぐろは最近高くなっている…、という話をよく聞くので今年はやめようかとも思いましたが、やっぱり買ってしまいました。近所の魚屋で買ったのですが、それほど値が上がってはいませんでしたし、しかもすごくおいしかったです。買って良かった☆

 写真は、「薩摩揚げと野菜の煮しめ」と「干ししいたけの煮つけ」と「伊達巻き」の盛り合わせです。

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