平安夢柔話

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大河ドラマ「義経」第13回&以仁王と源頼政

2005-04-07 10:31:05 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第13回の感想です。

 今回は、源行家と、行家が持ってきた以仁王の令旨を受け取った頼朝、義仲、義経の反応の違いがとても面白かったです。
 つまり、行家を信用せず、あくまでも慎重な風に見せかけて、実は自分が源氏の嫡流として人々から忘れられていなかったことを知って、大喜びをしている頼朝さん。
 行家から、「義朝は我々の共通の敵。我々二人が旗頭になって平家を倒そうぞ。」と言われて大喜びをしている義仲さん。すっかり行家叔父さんを信用しているところは、頼朝と対照的です。
 そして、「源氏の一員として戦う。」と言ってはいるものの、まだ迷っている所のありそうな義経くん。
 三人の性格の違いが出ていてとても興味深く思えました。そして、行く先々で態度を変える行家叔父さんも面白かったです。
 でも、熊野の遊女に向かって「平家打倒のため挙兵」という秘密をしゃべってしまうとは……。熊野にも目が行き届いている。平家方にもれてしまうのは当たり前です。行家さん、そのことを全く考えなかったのですか?それとも行家は、いっそのこと頼政など負けてしまえばいい、今度は自分が主役になって平家を倒すのだという野心があったのかもしれませんね。なので、平家方に頼政挙兵がもれるよう、わざと遊女にしゃべってしまったということも充分考えられますよね。

ところで、いつの間にか結婚していましたね、頼朝さんと政子さん…。時政父さんも、頼朝を婿としてしっかり認めているし、頼りにさえしている様子です。これも、先週の義経と国衡・忠衡が急に仲良くなっていたり、突然盛子の死がナレーションされたのと同じく、ものすごく唐突に思えました。あくまでも義経中心のドラマなので仕方がないのかもしれませんが、政子さんが山木兼隆との結婚を嫌がり、雨の中を飛び出して頼朝の許に走ったエピソードも、できれば取り扱って欲しかったです。
それにしても政子さん、立派な女政治家ですね。


 今回の放送では、以仁王と源頼政の平家打倒の挙兵の場面が描かれていましたね。
頼政と以仁王が起つきっかけがどのように描かれるか楽しみだったのですが、だいたい「平家物語」のエピソードを中心に取り入れた描き方でした。つまり、頼政の嫡男仲綱の愛用していた名馬「木の下」を巡る平宗盛との軋轢により、頼政が事を起こそうと決心し、以仁王をそそのかして挙兵に及んだという描き方でしたよね。
 ところが、ドラマのこの場面を観ていたうちのだんなさんが、「この設定はおかしい。」と言ったのです。つまり、「以仁王は、平家の酒宴に加わるような頼政を、そう易々と信じるわけがない」と言うのですよね。
 確かに以仁王と頼政の挙兵について私は、「どちらかというと以仁王が首謀者だったのではないか。」と思っているのです。そこで今回はそのあたりのことを書かせていただきますね。
 まず最初に二人のプロフィールから。

☆以仁王(1151~1180)
 後白河天皇の第三皇子。母は藤原季成の娘成子。同母の兄弟姉妹には、仁和寺門跡の守覚法親王、多くの情熱的な恋の歌を詠んだことで知られる歌人・式子内親王などがいます。
 以仁王は、幼い頃出家して園城寺に入りました。しかし、僧になることを嫌ったのか、世の中に反抗したかったのか、理由はよくわかりませんが、ある日園城寺を飛び出してしまいます。かなり剛胆な性格だったと思われます。その後に還俗し、15歳の時元服しました。そして、八条院子内親王の猶子になっています。
 学問や詩歌・笛などの才能に優れていたようです。

☆源頼政(1104~1180)
 彼は、先日紹介した源行綱と同じく、源頼光の子孫で、本業はもちろん武士です。。保元の乱では後白河天皇側として行動し、平治の乱では平清盛に味方しました。その後は、どちらかというと平家派の人物として行動します。そして治承二年(1178)十二月、彼は武門源氏始まって以来の異例の従三位に叙されますが、これは清盛の推薦だったと言われています。
 頼政は鵺退治の伝説でも知られるように、武勇に優れた人物でした。その反面和歌を作ることが得意で、当代随一の歌人、藤原俊成とも親交があったと伝えられています。

 では次に、以仁王がなぜ親王宣下をされなかったかを考察してみました。

 ドラマでは、「母の身分が低かったため」となっていましたが、外祖父の藤原季成は閑院流藤原氏の血を引く人で、大納言にまで昇進しています。しかも季成は、後白河天皇の母待賢門院璋子とは異母兄弟です。なので、母の身分が低かったために親王宣下をされなかったというのは理由にならないと思います。
 では、以仁王はなぜ親王宣下をされなかったのか?
 彼のプロフィールにも書いたように、一度出家をして還俗したという目まぐるしい幼少期を送ったため、親王宣下のチャンスを逃してしまったということも充分考えられると思います。
しかし、もっと大きな理由は平家による圧迫だと思われます。
 つまり、以仁王は建春門院の生んだ憲仁親王(後の高倉天皇)のライバルと見なされていたのです。さらに、憲仁親王が即位したあとも、清盛の娘徳子所生の皇子を待ちわびる平家にとっては、以仁王は邪魔者以外の何でもなかったのでした。
 「以仁王に親王宣下でもしてみろ。徳子が皇子を生む前に、皇位はあちらの系統に行ってしまう。それだけは避けなくては…」
と言うのが、清盛や時忠、時子の思わくだったのではないでしょうか。
 自ら寺を抜け出すような性格の以仁王ですから、そんな平家方の思わくにはしっかり気がついていたと思います。そのようなことから、以仁王は平家に対して恨みを抱いていたのではないでしょうか。
 実は、平家打倒の挙兵の少し前、以仁王の所領は平家に没収されています。こうしたことも引き金になり、以仁王は密かに平家打倒の計画を練り始めていたのではないでしょうか。

 一方の頼政は、清盛の推薦によって従三位まで昇進し、歌人としての名声も高まってそれなりに充実した生活を送っていたと考えられます。平家に対しては、恨みどころか感謝の気持ちを持っていたかもしれません。木の下を巡る仲綱と宗盛との事件が史実かどうかはわかりませんが、仮に史実であったとしても、ただそれだけで頼政が平家討伐に挙兵するとは思えません。

 では、頼政はなぜ以仁王の平家討伐計画に巻き込まれてしまったのでしょうか?
 これには、二人の接点となる第三の人物がいたはずだと思い、色々調べてみたところ、やっとそれらしい人物が見つかりました。
その人物は、以仁王を猶子にしていた八条院子内親王です。
 八条院子内親王は、鳥羽天皇とその寵姫である美福門院藤原得子(藤原氏魚名流)との間に生まれた皇女で、近衛天皇の同母姉妹です。近衛天皇の崩御後は、女帝として即位させようという声も挙がった実力者です。
 さらに、彼女は鳥羽天皇と美福門院から広大な所領を相続しており、今で言う「女大富豪」と言えるような存在でした。
 そして、その美福門院から八条院と母子二代にわたって使えていたのが、他ならぬ源頼政だったのです。
 八条院の猶子だった以仁王と、彼女に使えていた源頼政が女院御所で顔を合わせるということは、充分考えられると思います。文武両道に優れた頼政と、学問や、詩歌・笛などの才能に優れ、それでいて剛胆な性格の以仁王は、わりと気が合ったのではないでしょうか?二人とも和歌に優れていましたので、その方面での交流もあったはずです。
 以仁王から、平家討伐の挙兵を打ち明けられた頼政は、最初はもちろん躊躇したと思います。しかし、「この皇子のためなら、思い切って賭に出るか。」という気持ちにだんだんなっていったのかもしれません。
これは私の勝手な解釈ですが、以仁王には「この方のためなら」と思わせる何かが、何とも言えない不思議な魅力があったのだと思います。
それから、「もしかすると八条院がバックで糸を引いていたのでは…」という詮索もしたくなってきます。ここまで来ると私の妄想になってしまいそうですが…。
 八条院にしてみれば、「平家なんて成り上がり者。」という考えがあったと思うのです。なので、以仁王の親王宣下を邪魔する平家一門には、あまり快く思っていなかったと思います。彼女は以仁王の母代わりとして、「何とかこの皇子に親王宣下を」と色々運動していたはずですから。
 八条院が挙兵計画に関わっていたかどうかはともかくとして、治承四年に起こったこの平家討伐計画の首謀者は、以上長々と述べてきた理由から以仁王だと考えた方が自然だと私は思っています。

 ところで、以仁王は挙兵後、一時園城寺にかくまわれていますが、これは、幼い頃の以仁王が出家をして園城寺で過ごしていたという関係もあったのですね。このあたり、全く知りませんでしたので、今回調べてみてとても勉強になりました。

 さて、来週は橋合戦が描かれるのでしょうか?楽しみです。
 また、予告に清盛と常磐との間の娘、能子が出てきていましたね。彼女は、正真正銘の義経の妹なので、これからのドラマのストーリーに大きな役割を果たすのかもしれませんね。そのあたりも楽しみです。
 

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