平安夢柔話

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柔子内親王 ~守られた斎宮

2018-01-28 11:25:26 | 小説風歴史人物伝
 古代から中世まで存在した、天皇の名代として伊勢神宮や賀茂神社に仕える未婚の皇女、斎王。
 便宜的に、伊勢神宮に仕える皇女を「斎宮」、賀茂神社に仕える皇女を「斎院」と呼ぶこともあります。本記事でも、このあとは「斎宮」「斎院」で通させていただきます。 

 このうち、斎院は天皇の代替わりごとに交替する決まりは特になかったようですが、斎宮は天皇が変わるごとに交替する決まりになっていました。
 しかし、父母の死や本人の病気や死亡で交替することもあり、必ずしも天皇1人に対して斎宮1人というわけでもなかったようです。
 歴代斎宮の平均在任期間がどのくらいだったのか、資料がないので断定は出来ませんが。多分、在任期間十数年という斎宮が多いのではと思います。

 では、実在が確認できる斎宮の仲で最も長く斎宮を勤めた皇女は?

 その斎宮こそ、今から紹介する宇多天皇の皇女、柔子内親王(892?~959)なのです。
 彼女は兄の醍醐天皇御代の斎宮で、寛平九年(897)から延長八年(930)まで、足かけ34年、斎宮を勤めました(実際に伊勢にいたのは899年から930年)。
え、そんなに長く都を離れて伊勢に。お気の毒に…、と思うのはちょっと待って下さい。
 彼女は斎宮在任中も、斎宮を退下して都に帰ってからも、多くの親類縁者に守られ、結構楽しく生活していたようなのです。
 それに加えて彼女自身も、社交的で明るい性格だったのではと。
 そんな柔子内親王の生活の一場面を切り取って、短編小説風人物伝にしてみました。


 前斎宮、柔子内親王の1日は、絵を見たり物語を読んだり、女房たちとおしゃべりしたりして静かに暮れてゆく。
 彼女の何よりの楽しみは文のやりとり。
 但し恋文ではない。専ら縁者たち、兄弟姉妹やいとこたち、甥や姪たちともやりとりすることがある。
 30年余りも伊勢で斎王を勤め、退下して5、6年。都の生活はなじめないのではと心配だったが、そんなことはなく、縁者たちとの文のやりとりで結構楽しく過ごせていると思う。そして、時にはそんな縁者たちが彼女の邸宅を訪ねてくることもあるのだった。しかし、暮れも押し詰まったこの時期は専ら文のやりとりが主になる。

 今日の文の相手は藤原能子。
 能子は先帝だった兄、故醍醐天皇の妃の1人で、母方のいとこにもあたる。先帝が崩御されたあと、先帝にとっても柔子にとっても弟である敦実親王が、彼女の邸に住み込むようになったという。
 兄の次は弟だなんてはしたないと、まゆをひそめた人もいたが、柔子は、
「いいんじゃないの?」
と思ったのを覚えている。
「先帝に崩御されて能子どのもお寂しかったのよね。だから、先帝とよく似ている敦実が愛しくてたまらなかったのでしょうし。能子どのは魅力ある人だから、敦実も夢中になったのよね」

 しかし最近、柔子は妙な噂を耳にしたのだった。
「敦実親王は能子どのの許からいなくなったらしい」
 そこで心配になり、「この頃、敦実とはどうなっているの?」
と、文をしたためることにしたのだった。
 冬の暮れは早い。文をしたためているうちに部屋の中が薄暗くなってきた。ああ、今日も無事に終わる。

 翌日、能子から返事が送られてきた。
 季節の挨拶や最近の出来事と一緒に、こんな歌がしたためられていた。

しら山に雪ふりぬればあとたえて今はこしぢに人もかょはず
 白山に雪が降ったら人の足跡も消えてしまい、今は越の国への路に人が通わないように、あの人も私のところに通ってこないのです。

「まあ!敦実はいったい何を考えているのかしら。一度、呼び出して詰問しなくては。」

 柔子は早速、、敦実に、ご機嫌伺いに来るようにと文をしたためた。
 しかし敦実は、「弟子に笛の恵子をつけなければならなくて忙しい」とか何とか理由をつけて、なかなか柔子の邸に現れなかった。敦実は当代、並ぶ者がないといわれる笛の名手で、弟子もたくさんいるらしい。そんなわけで、笛で忙しいと言われれば待つしかなく。

 敦実がようやく、柔子を訪れてきたのは年も明け、梅が咲こうとしている頃であった。

「姉上、久々に私の笛をご披露しとうございます」 
と言い、自慢の笛を奏で始める。いつもならうっとりと聞き惚れるところだが、能子のことを考えると気が気ではない。
 それでも弟の増えにじっと耳をかたむける。
 ようやく笛が終わり、柔子は切り出した。
「そなた、最近、能子どのとはどうなっているの?邸からいなくなったという噂もあるし、能子どのも嘆いておりましたよ」
「ああ、そのことですか」
 敦実は悪びれた様子もなく答えた。
「あの女とは、昨年の秋に切れましたよ。どうやら藤原実頼どのと文のやりとりをしていたみたいでね。」
 敦実はさらに続ける。
「近いうちに実頼どのの邸に迎えられるそうですよ」

 びっくりした、能子が藤原実頼どのとそんなことになっているなんて。
 6歳の時に斎宮に穆上され、8歳で伊勢に下向してから三十数年間、神に仕え、恋とは無縁だった自分には考えられない。
 そう言えば能子は、先帝の妃だった頃、先帝には弟、、柔子には兄に当たる敦慶親王と密通したらしいという噂があったのを思い出した。
「私の兄弟3人と恋をしたとはねえ」
 しかし、能子に対する腹立たしさは不思議と起こってこない。
「同姓の私から見ても魅力的な人だから、男はたちまち、恋に落ちてしまうのかも」
 実頼は摂政忠平の子息、将来が約束された貴公子だ。大炊御門の南に小野宮第という豪勢な邸宅を所有していると聞く。能子どのには今度こそ、落ち着いて幸せになって欲しいと思う。
「それに比べると私の人生は静かなものだったよね。」

 柔子は母の記憶があまりない。明るくて、よくおしゃべりする人という印象が頭のかたすみに残っているけれど。
 母は柔子が5歳の時に急死してしまったのだ。

 それから1年ほど経った頃だった、柔子の身辺があわただしくなったのは。
「姫宮さまはこれから、伊勢の神様に仕える尊いご身分になるのですよ」
と乳母に言われ、何が何だかわからずに宮中を出て初斎院に移ることになったのだった。そして間もなく、嵯峨の野々宮に移った。川で禊ぎをしたり、のりとを唱えたりしてひたすら潔斎をする日々は、遊びたい盛りの年頃には辛くて退屈だった。

 しかし、そんな日々にも終わりがやってきた。いよいよ伊勢に下向することになったのだ。
 久しぶりに訪れた宮中で兄帝から別れの御串をさしてもらい、斎宮の行列は伊勢に出発した。出発の日は大嵐だったことを鮮明に覚えている。

 この時、柔子を伊勢まで送った長奉送使の随員に藤原兼輔がいた。
 乳母は兼輔のことを、「姫宮さまのお母君のいとこさまでいらっしゃいますよ」と言った。まだ20代前半の若者で、もの静かで優しい雰囲気に柔子は好感を持った。何より、父や兄弟たちと引き離された柔子には、兼輔が血縁だということがとても安心できた。
「もしかすると、あれは恋だったのかもしれないわ。もちろん片思いだけど」
 兼輔は、柔子の斎宮在任中に一度、伊勢に来たことがある。あの時の胸のときめきを忘れることが出来ない。

 何もわからないまま斎宮になってしまった柔子だったが、伊勢で過ごすうちに、斎宮とは何なのか、少しずつ理解していったような気がする。帝のため、国のため、ひたすら伊勢神宮の神に奉仕する、それがこの国の民すべての幸せにつながるのだ。私は喜んでその役目を務めよう。
 それに、伊勢での生活はわりと楽しかった。斎宮の役人たちも女官たちも、柔子を大切にしてくれたし、食べ物も都よりもずっとおいしかった。自然も豊かで、時折のお忍び歩きも楽しみだった。
 何より、譲位して「院」と呼ばれていた父や、兼輔や、母の弟の定方からの便りは柔子を慰めてくれた。
 やがて、兄弟たちやいとこたちからも文が届くようになった。その中には、定方の娘の能子もいた。父院が「斎宮をひとりぼっちにしてはいけない。度々文を送るように」と言ってくれたらしい。

 22歳の時柔子は大病を患った。
 一時はかなり危ない状態で、都から定方が来てくれた。そうしたら何だかほっとして。それからだった、病気が快方に向かったのは。

 伊勢にいること三十数年、柔子が39歳の時、兄帝が崩御した。柔子は斎宮の任を解かれ、帰京した。
「斎宮を退下した私が、すんなりと都の生活に溶け込めたのは、父院と兼輔どのと定方どののおかげだわ」
 その父院も兼輔も定方も、数年前に相次いで世を去りこの世の人ではないが、都に帰って来たときにはまだ生きていて、再会できたことは幸せだったと思う。
「そのおかげで、三十年以上、離れていた敦実とも親しくできるのですものね。」

 それに、先日もこんな事があった。
 敦慶親王と有名な歌人、伊勢の間に生まれた中務が、柔子を訪ねてきたのだ。つまり中務は柔子の姪に当たる。
 彼女も歌人として頭角を現し始めていて、古今東西の歌の話をして楽しかった。
 そして帰り際、中務はこんな事を言ったのだ。
「わたくし、おばさまの五十の賀の屏風に歌を詠んで差し上げますわ」。楽しみにしていて下さいね。

 能子どののように波乱に富んだ恋は出来なかったけれど、こうして親族や縁者に守られ、幸せな人生だったと思う。
「そう、こういう生き方で良かったのよね」
 そしてこれからも、兄弟や甥や姪、兼輔どのや定方どのの子供たちを見守り続けていこう。
 そんなことを思いながら、満足な微笑みを浮かべる柔子であった。

☆柔子内親王プロフィール(平安時代史事典より)

柔子内親王(よしこないしんのう) 892?~959

 宇多天皇の第二皇女。母は藤原高藤女胤子
 同母兄に醍醐天皇、敦慶親王、敦固親王。同母弟に敦実親王がいる。。
 寛平四年(892)二月、内親王宣下。
 寛平九年(897)、醍醐天皇践祚により斎宮穆上。
昌泰元年(898)四月、初斎院入御、八月には野宮に移る。同二年、伊勢に向けて出発。
 延長八年(930)、斎宮退下。
 天慶三年(940)ごろ、五十賀が行われ、その屏風のために三十六歌仙の一人中務(柔子の兄敦慶親王女、母は伊勢)が歌を詠んでいる。
 天徳三年(959)正月二日に薨去。六条斎宮と号する。

☆当ブログ内の関連記事紹介

藤原定方とその子孫たち
 柔子の母方の叔父、藤原定方とその子孫を紹介しています。

宮道列子 ~思いがけない人生
 柔子の母方の祖母、宮道列子の1人語り。

〈追記〉

 本記事は、史実や「大和物語」に書かれたエピソードをもとに書きましたが、柔子が兼輔に恋心を抱いていたことはフィクションですし、柔子を取り巻くネットワークに父の宇多院がいたことは私見です。学術的な根拠はありませんので、小説として読んでいただければ幸いです。
 また、柔子内親王の住居について、右京三条より発掘された斎宮の邸宅址の候補者に柔子内親王が上がっていることをマイミクさんから教えていただいたのですが、「六条斎宮」と称されているからには六条に住んでいたのかな?という気もしますし。そのあたりについての資料も手許にないので、住居については言及しませんでした。

☆参考文献
 「平安時代史事典 CD-rom版」 角田文衞・監修 角川学芸出版
 「斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史」 榎村寛之 中央公論新社 中公新書
 「伊勢斎宮と斎王」 榎村寛之 塙書房
*御著書を参考にすることを許可して下さいました榎村寛之先生、どうもありがとうございます。

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名古屋一泊旅行2017年12月 第3回

2018-01-14 16:53:13 | えりかの平安な日々 10~18
 名古屋一泊旅行2017年12月 第1回

 名古屋一泊旅行2017年12月 第2回

の続きです。

 前回UPから時間が経ってしまいましたが、どうしても完結させたいので。

 金吾さん、石川さんと写真を撮ったあと、DOXY近くの駐車場に車を取りに行った恐妻家さんを待つことに。そう、本当にありがたいことに、帰りもホテルまで送ると言って下さったのでした。

 ところが、なかなか戻ってこなくて。
 それで、打ち上げの幹事さんが心配して連絡を取って下さいました。どうやら一方通行が多くて迷われたらしく。
 お店のお姉さんも心配して外に出てきて下さり、、「寒いから店に入っていていいよ」と言って下さいました。でも、コートを着ていたので全然寒くなくて、外で待つことに。それよりお店のお姉さん、薄着だったので、外に出ていたときはとても寒かったと思います。今考えるととても申し訳なかったような。
 で結局、恐妻家さんがお店の前に戻ってきたのは2時頃でした。お店の電話番号をカーナビに入れ、やっとたどり着けたようで。本当にお疲れ様でした。それにしても名古屋って町は道がとても複雑なようです。

 さて、私たちが泊まっているホテル、夜中の1時になると玄関が閉まってしまい、それ以降はインターホンで呼び出して玄関を開けてもらうという決まりになっていました。
 打ち上げに参加するため、私たちの帰りは当然、1時を過ぎてしまいます。で、ホテルの人に、「1時過ぎに戻ってきます」と言ってあったのですが、このようにしてホテルに戻ったときは2時をかなり過ぎていました。
 そんなわけでインターホンを押し、ホテルの人が出てくるのを待つことに。
 一瞬、2年前に名古屋駅の上のホテルに戻ってきたとき、なかなか中に入れなかった思い出が頭の中をよぎりましたが、そんなことはなく、ホテルのおかみさんがすぐに出てきて下さいました。
「遅くなってしまい、すみません」
と恐妻家さんが言って下さったので、何か一安心。今回もたくさん、お世話になってしまいました。その上、お土産まで頂いてしまって。今冬にありがとうございました。

 このようにして部屋に戻った私たち。もう時間も遅かったので、寝る支度をしてすぐに就寝。でも興奮していてなかなか寝つけなくて。少しうとうとしては目が覚め、という感じでした。

 そして翌朝、目が覚めて時計を見たら6時。
 寒いし、6時ならまだ早いよねと思い、布団の中でぐずぐずしていました。
 そうしたら、ひとちゃんとあゆちゃんが起きたので、私も起きなきゃと思い、もう一度時計を見たら7時20分。そう、起きたばかりの時、時計を1時間、見間違えていたのでした。遅くても8時半には出発しようということになっていたのでさあ大変。あわてて布団から出て着替えをして、洗面所に行って色々準備。

 こうして予定通り、8時半頃にチェックアウトしました。外に出ると空気はひんやりしているものの、風がないのでそれほど寒さを感じなくてありがたかったです。
 昨日歩いてきた道を辿って、無事に名古屋駅の太閤通口にたどり着くことが出来ました。どうして「太閤通り」なのか不思議ですが。考えてみるとホテルのあった場所は中村区なので、このあたりも中村区だよね。太閤秀吉は尾張の中村の出身だから、そのあたりと関係あるのかしらと思ったりしました。

 さて、ひとちゃんとあゆちゃんがお土産を買うというので、まずお土産屋を探すことに。
 幸い、歩いていたらお弁当を買っている人とお店の人の会話が聞こえてきて、もしかしてあそこがお土産屋さんかもと思い、入ってみることに。
 そうしたらばっちり、その店でお土産がたくさん売られていました。
 ひとちゃんとあゆちゃんは家や職場に赤福を買っていくとのこと。
 私は、赤福はお餅なので父が食べられないため、お土産は静岡でコッコかウナギパイを買っていけばいいと思っていました。
 でも、もし父が食べられそうな物があればここで買った方がいいかもと思い直し、店員さんに、
「柔らかいお菓子ってありますか?」
と聞いてみたのです。そうしたら、
「なごやんというおまんじゅうがありますよ」
とのこと。
 あ、おまんじゅうなら父は大好きだし、いいかも(^^)と思い、即それに決めました。

 ひとちゃんとあゆちゃんも無事にお土産をゲットし、改札に向かうことに。歩いていくとチャイムの音が聞こえたので、そちらの方に行ってみたら、新幹線の改札口でした。私たちは帰りも普通電車を利用することにしていたので、そのことを言うと手配して下さいました。感謝。
 このようにして無事に豊橋行きの新快速に乗り込みました。ここでようやく朝食。昨日、ひとちゃんにホテルの隣のコンビニで買ってきてもらったお茶とおにぎり2個。みんなでおしゃべりしながらおいしく頂きました。
 こうして豊橋、浜松で乗り換えて藤枝へ。豊橋駅のホームが寒かったですが。
 電車に乗っている間、私たち、ずっとしゃべっていました。あとで知ったのですが、浜松からの電車の同じ車両に、専門学校時代の先輩の方が乗っていたのだそうです。気を使って声をかけなかったのだそうですが。ものすご~くうるさかっただろうなとちょっと申し訳ない気も。

 途中、掛川で自宅に帰るあゆちゃんとお別れ。2日間ありがとうね。
 私は、ひとちゃんと一緒に藤枝で途中下車しました。そして、駅前の喫茶店へ。
 こちらの喫茶店、だんなさんと何回か来たことのある思い出の場所でもあります。
 12時になっていたので、こちらでランチすることにしました。1ヶ月前にも食べたお気に入りのメニュー、豚肉のしょうが焼きセットを注文。おしゃべりしながらおいしく頂きました。
 続いて紅茶を注文し、2時間あまりおしゃべり。ひとちゃん楽しい時間をありがとうね。

 こうして身も心も満腹になって再び電車に乗り、静岡で途中下車をして夕食用のお弁当を買い、再び電車に乗って自宅の最寄り駅へ。ああ現実が~。

 帰宅したのは4時半過ぎでした。往復約8時間の旅、おまけに夕べは3時間くらいしか寝ていないと思うのに、思ったほど疲れていませんでした。今回は体調も良かったからね。10月の大阪のことを考えるととてもありがたかったです。

 改めまして、

 素敵なライブを聴かせて下さった金吾さんと石川さん。
 楽しい時間を共有し、とてもお世話になった参加された皆様。
 行き帰りの道中、その他、お世話になったたくさんの皆様、
どうもありがとうございました。 
 そして、一緒に名古屋に行ったひとちゃんとあゆちゃん、ありがとうね。また行きましょう。

 さて、次のライブ参加ですが。
 第2回にも書きましたが、来月3日の東京BITのライブに参加しま~す。宿泊ホテルに続いて、名古屋から帰宅後に会場も予約できました。
 半年ぶりのバンドライブ楽しみ。それに、久しぶりに会うファン友さんもたくさん。
 またまた、皆様にお世話をかけてしまいそうですが、思い切り楽しもうと思います。

          名古屋一泊旅行2017年12月 終わり

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2018年 今年のお正月

2018-01-06 20:57:26 | えりかの平安な日々 10~18
 皆様、明けましておめでとうございます。

 今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。2018年が皆様にとって幸い多き年となりますように。

 さて、今年のお正月も、テレビを見たり、ラジオを聞いたり、本を読んだりしてのんびりと過ごしました。

 2日・3日の箱根駅伝を見ていると、いつも母校を応援していただんなさんのことを思い出します。2009年に初優勝したとき、大喜びして応援歌を歌っていた姿もはっきり思い浮かびます。
 そのだんなさんの母校、東洋大学は往路優勝はしたものの、復路で抜かれて2位でした。
 でも、青山学院にあのような素晴らしい走りをされての2位、は仕方ないかなと。何より、今年は1、2年生中心で、3強にも入っていなかったのですから、往路優勝、、総合2位は立派だと思いました。本当にお疲れ様でした。だんなさんもきっと喜んでいるはず。

 今年の読書初めは「伏見宮 もうひとつの天皇家」。暮れに植松三十里さんの「大正の后」(大正天皇の皇后、九条節子の生涯を描いた小説)を読んで、近代皇室に興味を持ったので。
 でも、伏見宮家の成立のきっかけになった南北朝~室町時代の皇位継承争いにも興味津々です。今年も興味深い歴史の本にたくさん巡り会いたいです。

 そして今年も、濱田金吾さんのライブにはたくさん行きたい。来月、東京のライブへの参加が決まっていますが、打ち上げつきの4月の大阪にも行きたい、でも、会場のあるホテルは名称が変わったりしてお値段が倍近くになってしまったので、他を探すことにしました。
 最初、新幹線とセットになったパックを利用しようと考えていたのですが、3ヶ月前にならないと予約できないし、安いパックがある保証も空いている保証もないので。で昨日、1ヶ月に一度の病院を受診し、そのあと友人と静岡駅で待ち合わせてランチすることになっていたので、そのついでに静岡市内の旅行会社に寄って探してもらおうと思っていました。
 その、今年初めての外出がなかなかハプニングだらけで、でも色々な偶然が重なっていい方向に行ったような外出だったので少し書いてみることにします。

 私はいつも、病院の最寄りの駅まで行くときは誘導をお願いしています。病院の最寄りの駅、上りと下りが同じホームで、その上地面が白くてまぶしく、よく見えなくてとても怖いのです。
 それで昨日も、自宅の最寄り駅で誘導をお願いしようと窓口に行ったら、切符を買う人でとても込んでいて。
 小さな駅なので駅員さんが一人しかいないため、私が誘導をお願いするとその間、窓口を閉めなければならないのですが、普段はこんなに込んでいることもないので、わりと気軽にお願いしています。でも、これほど込んでいたら、私のために窓口を閉めさせるのは申し訳ない、まあ、こちらの駅はわりとなれているし、病院の最寄りの駅は乗降客も多いので、どなたかに助けていただけば何とかなるかもと思い、自力で乗ることにしたのでした。

 ところが、アクシデントが起こったのは富士駅に停車する直前でした。
 8時頃、清水で電車と人が接触したため、富士~静岡間で運転を見合わせているというのです。えっ、この電車、富士で止まってしまうの?どうしようと思いました。
 でも、間もなく富士を出発したので、ああ良かったと思いましたが、静岡から約25分の所にある蒲原という駅で止まってしまいました。
 どうやら運転再開まで1時間半くらいかかるようで。
 そうすると病院に着くのは10時半近くになります。その時間だと込んでいるだろうから終わるのは12時過ぎ。友人の悠(はるか)ちゃんとの待ち合わせが10時半~11時なのでかなり待たせてしまいますし、旅行会社に行くのも遅くなります。
 そこで、まだ薬もあったし、、来週また出てくればいいので病院はキャンセルし、直接静岡に行こうと決めました。 
 で、はっと思ったのは、もし誘導をお願いしていたら変更できない、絶対に病院の最寄りの駅で降りなければならなかったのですよね。わあうまくできている~。

 でも、とにかくじっと待つしかないので。電車が止まっていた1時間半の間はネットを見たり、最近お気に入りの木戸やすひろさんのアルバム「kid65」を聴いたりしていました。特に「kid65」にはいやされました。とっても素敵なアルバムなんです~。(^^)

 電車は10時少し前に蒲原を出発、静岡で無事に悠ちゃんと合流できました。で、早速旅行会社へ。とにかく少しでも宿泊代を安くしなくては。頑張れ私と思いながら旅行会社へ乗り込みました。

 まず、Mister Kelly'sの住所を見せ、この周辺1、2キロの所で、15000円程度で泊まれるところを探して欲しいとお願いしました。新幹線大が約15000円なので、なるべくそれ以上は出したくないんですよね。
 ところがこの日はほとんど空いていないようで。しかも一番値段の高い時期、なので空いているところは20000円以上の所がほとんどのようでした。なので、20000円くらいに譲歩してもいいかも…と思い始めたとき、梅田で4桁で泊まれるところを紹介できると言われたのでした。あ、これはいいかもと思い、早速問い合わせてもらうことに。 
 その結果、部屋までの誘導は可能、、門限もないとのこと。ただ、朝食バイキングの手伝いは難しいようで。でも、朝食はどこかで買って軽く食べ、静岡に帰ってきてからランチをゆっくり食べればいいので、素泊まりのプランで予約することにしました。やはりどこかで譲らないとですよね。

 旅行会社の人が言っておられましたが、この日にこちらが空いていたのはものすごくラッキーだったのだそうです。どうやら規模もそれほど大きくないホテルのようで。でも、それで誘導可だなんて、サービスも良さそうです。ありがたい。(^^)

 そこで、ホテル代も支払ってきてしまいました。旅行会社の手数料を入れたら5桁になってしまいましたが。
 それと、新大阪からも会場からも少し離れているので、タクシー料金は今までより割高になりそうです。それでも充分予算内です。

 そんなわけで安いホテルが取れ、ああ4月も行ける嬉しいと幸せ気分でランチを頂きました。駅ビルのレストランでなすのミートソースパスタのセット。まろやかな味でとてもおいしかったです。
 ランチを食べながら悠ちゃんと話したこと。
「病院に行っていて、旅行会社に行くのが遅くなったらこのホテル、取れなかったかもね」
 そうなんですよね、自宅の最寄りの駅で誘導をお願いしていたら、違った結果になっていたかも。 
  電車が止まってしまうのは困りますが、アクシデントをラッキーに換えられた、今年初のお出かけでした。

追記・今後の更新予定

 まず、名古屋ライブ旅行記の完結編を来週中にUPしようと思っています。
 そのあとは、「斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史」を読んで興味を惹かれた平安時代のある内親王さまの人物伝に取りかかります。今月中のUPが目標です。

 今年もマイペース更新ですが、「平安夢柔話」をよろしくお願いいたします。

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