古代から中世まで存在した、天皇の名代として伊勢神宮や賀茂神社に仕える未婚の皇女、斎王。
便宜的に、伊勢神宮に仕える皇女を「斎宮」、賀茂神社に仕える皇女を「斎院」と呼ぶこともあります。本記事でも、このあとは「斎宮」「斎院」で通させていただきます。
このうち、斎院は天皇の代替わりごとに交替する決まりは特になかったようですが、斎宮は天皇が変わるごとに交替する決まりになっていました。
しかし、父母の死や本人の病気や死亡で交替することもあり、必ずしも天皇1人に対して斎宮1人というわけでもなかったようです。
歴代斎宮の平均在任期間がどのくらいだったのか、資料がないので断定は出来ませんが。多分、在任期間十数年という斎宮が多いのではと思います。
では、実在が確認できる斎宮の仲で最も長く斎宮を勤めた皇女は?
その斎宮こそ、今から紹介する宇多天皇の皇女、柔子内親王(892?~959)なのです。
彼女は兄の醍醐天皇御代の斎宮で、寛平九年(897)から延長八年(930)まで、足かけ34年、斎宮を勤めました(実際に伊勢にいたのは899年から930年)。
え、そんなに長く都を離れて伊勢に。お気の毒に…、と思うのはちょっと待って下さい。
彼女は斎宮在任中も、斎宮を退下して都に帰ってからも、多くの親類縁者に守られ、結構楽しく生活していたようなのです。
それに加えて彼女自身も、社交的で明るい性格だったのではと。
そんな柔子内親王の生活の一場面を切り取って、短編小説風人物伝にしてみました。
前斎宮、柔子内親王の1日は、絵を見たり物語を読んだり、女房たちとおしゃべりしたりして静かに暮れてゆく。
彼女の何よりの楽しみは文のやりとり。
但し恋文ではない。専ら縁者たち、兄弟姉妹やいとこたち、甥や姪たちともやりとりすることがある。
30年余りも伊勢で斎王を勤め、退下して5、6年。都の生活はなじめないのではと心配だったが、そんなことはなく、縁者たちとの文のやりとりで結構楽しく過ごせていると思う。そして、時にはそんな縁者たちが彼女の邸宅を訪ねてくることもあるのだった。しかし、暮れも押し詰まったこの時期は専ら文のやりとりが主になる。
今日の文の相手は藤原能子。
能子は先帝だった兄、故醍醐天皇の妃の1人で、母方のいとこにもあたる。先帝が崩御されたあと、先帝にとっても柔子にとっても弟である敦実親王が、彼女の邸に住み込むようになったという。
兄の次は弟だなんてはしたないと、まゆをひそめた人もいたが、柔子は、
「いいんじゃないの?」
と思ったのを覚えている。
「先帝に崩御されて能子どのもお寂しかったのよね。だから、先帝とよく似ている敦実が愛しくてたまらなかったのでしょうし。能子どのは魅力ある人だから、敦実も夢中になったのよね」
しかし最近、柔子は妙な噂を耳にしたのだった。
「敦実親王は能子どのの許からいなくなったらしい」
そこで心配になり、「この頃、敦実とはどうなっているの?」
と、文をしたためることにしたのだった。
冬の暮れは早い。文をしたためているうちに部屋の中が薄暗くなってきた。ああ、今日も無事に終わる。
翌日、能子から返事が送られてきた。
季節の挨拶や最近の出来事と一緒に、こんな歌がしたためられていた。
しら山に雪ふりぬればあとたえて今はこしぢに人もかょはず
白山に雪が降ったら人の足跡も消えてしまい、今は越の国への路に人が通わないように、あの人も私のところに通ってこないのです。
「まあ!敦実はいったい何を考えているのかしら。一度、呼び出して詰問しなくては。」
柔子は早速、、敦実に、ご機嫌伺いに来るようにと文をしたためた。
しかし敦実は、「弟子に笛の恵子をつけなければならなくて忙しい」とか何とか理由をつけて、なかなか柔子の邸に現れなかった。敦実は当代、並ぶ者がないといわれる笛の名手で、弟子もたくさんいるらしい。そんなわけで、笛で忙しいと言われれば待つしかなく。
敦実がようやく、柔子を訪れてきたのは年も明け、梅が咲こうとしている頃であった。
「姉上、久々に私の笛をご披露しとうございます」
と言い、自慢の笛を奏で始める。いつもならうっとりと聞き惚れるところだが、能子のことを考えると気が気ではない。
それでも弟の増えにじっと耳をかたむける。
ようやく笛が終わり、柔子は切り出した。
「そなた、最近、能子どのとはどうなっているの?邸からいなくなったという噂もあるし、能子どのも嘆いておりましたよ」
「ああ、そのことですか」
敦実は悪びれた様子もなく答えた。
「あの女とは、昨年の秋に切れましたよ。どうやら藤原実頼どのと文のやりとりをしていたみたいでね。」
敦実はさらに続ける。
「近いうちに実頼どのの邸に迎えられるそうですよ」
びっくりした、能子が藤原実頼どのとそんなことになっているなんて。
6歳の時に斎宮に穆上され、8歳で伊勢に下向してから三十数年間、神に仕え、恋とは無縁だった自分には考えられない。
そう言えば能子は、先帝の妃だった頃、先帝には弟、、柔子には兄に当たる敦慶親王と密通したらしいという噂があったのを思い出した。
「私の兄弟3人と恋をしたとはねえ」
しかし、能子に対する腹立たしさは不思議と起こってこない。
「同姓の私から見ても魅力的な人だから、男はたちまち、恋に落ちてしまうのかも」
実頼は摂政忠平の子息、将来が約束された貴公子だ。大炊御門の南に小野宮第という豪勢な邸宅を所有していると聞く。能子どのには今度こそ、落ち着いて幸せになって欲しいと思う。
「それに比べると私の人生は静かなものだったよね。」
柔子は母の記憶があまりない。明るくて、よくおしゃべりする人という印象が頭のかたすみに残っているけれど。
母は柔子が5歳の時に急死してしまったのだ。
それから1年ほど経った頃だった、柔子の身辺があわただしくなったのは。
「姫宮さまはこれから、伊勢の神様に仕える尊いご身分になるのですよ」
と乳母に言われ、何が何だかわからずに宮中を出て初斎院に移ることになったのだった。そして間もなく、嵯峨の野々宮に移った。川で禊ぎをしたり、のりとを唱えたりしてひたすら潔斎をする日々は、遊びたい盛りの年頃には辛くて退屈だった。
しかし、そんな日々にも終わりがやってきた。いよいよ伊勢に下向することになったのだ。
久しぶりに訪れた宮中で兄帝から別れの御串をさしてもらい、斎宮の行列は伊勢に出発した。出発の日は大嵐だったことを鮮明に覚えている。
この時、柔子を伊勢まで送った長奉送使の随員に藤原兼輔がいた。
乳母は兼輔のことを、「姫宮さまのお母君のいとこさまでいらっしゃいますよ」と言った。まだ20代前半の若者で、もの静かで優しい雰囲気に柔子は好感を持った。何より、父や兄弟たちと引き離された柔子には、兼輔が血縁だということがとても安心できた。
「もしかすると、あれは恋だったのかもしれないわ。もちろん片思いだけど」
兼輔は、柔子の斎宮在任中に一度、伊勢に来たことがある。あの時の胸のときめきを忘れることが出来ない。
何もわからないまま斎宮になってしまった柔子だったが、伊勢で過ごすうちに、斎宮とは何なのか、少しずつ理解していったような気がする。帝のため、国のため、ひたすら伊勢神宮の神に奉仕する、それがこの国の民すべての幸せにつながるのだ。私は喜んでその役目を務めよう。
それに、伊勢での生活はわりと楽しかった。斎宮の役人たちも女官たちも、柔子を大切にしてくれたし、食べ物も都よりもずっとおいしかった。自然も豊かで、時折のお忍び歩きも楽しみだった。
何より、譲位して「院」と呼ばれていた父や、兼輔や、母の弟の定方からの便りは柔子を慰めてくれた。
やがて、兄弟たちやいとこたちからも文が届くようになった。その中には、定方の娘の能子もいた。父院が「斎宮をひとりぼっちにしてはいけない。度々文を送るように」と言ってくれたらしい。
22歳の時柔子は大病を患った。
一時はかなり危ない状態で、都から定方が来てくれた。そうしたら何だかほっとして。それからだった、病気が快方に向かったのは。
伊勢にいること三十数年、柔子が39歳の時、兄帝が崩御した。柔子は斎宮の任を解かれ、帰京した。
「斎宮を退下した私が、すんなりと都の生活に溶け込めたのは、父院と兼輔どのと定方どののおかげだわ」
その父院も兼輔も定方も、数年前に相次いで世を去りこの世の人ではないが、都に帰って来たときにはまだ生きていて、再会できたことは幸せだったと思う。
「そのおかげで、三十年以上、離れていた敦実とも親しくできるのですものね。」
それに、先日もこんな事があった。
敦慶親王と有名な歌人、伊勢の間に生まれた中務が、柔子を訪ねてきたのだ。つまり中務は柔子の姪に当たる。
彼女も歌人として頭角を現し始めていて、古今東西の歌の話をして楽しかった。
そして帰り際、中務はこんな事を言ったのだ。
「わたくし、おばさまの五十の賀の屏風に歌を詠んで差し上げますわ」。楽しみにしていて下さいね。
能子どののように波乱に富んだ恋は出来なかったけれど、こうして親族や縁者に守られ、幸せな人生だったと思う。
「そう、こういう生き方で良かったのよね」
そしてこれからも、兄弟や甥や姪、兼輔どのや定方どのの子供たちを見守り続けていこう。
そんなことを思いながら、満足な微笑みを浮かべる柔子であった。
☆柔子内親王プロフィール(平安時代史事典より)
柔子内親王(よしこないしんのう) 892?~959
宇多天皇の第二皇女。母は藤原高藤女胤子
同母兄に醍醐天皇、敦慶親王、敦固親王。同母弟に敦実親王がいる。。
寛平四年(892)二月、内親王宣下。
寛平九年(897)、醍醐天皇践祚により斎宮穆上。
昌泰元年(898)四月、初斎院入御、八月には野宮に移る。同二年、伊勢に向けて出発。
延長八年(930)、斎宮退下。
天慶三年(940)ごろ、五十賀が行われ、その屏風のために三十六歌仙の一人中務(柔子の兄敦慶親王女、母は伊勢)が歌を詠んでいる。
天徳三年(959)正月二日に薨去。六条斎宮と号する。
☆当ブログ内の関連記事紹介
藤原定方とその子孫たち
柔子の母方の叔父、藤原定方とその子孫を紹介しています。
宮道列子 ~思いがけない人生
柔子の母方の祖母、宮道列子の1人語り。
〈追記〉
本記事は、史実や「大和物語」に書かれたエピソードをもとに書きましたが、柔子が兼輔に恋心を抱いていたことはフィクションですし、柔子を取り巻くネットワークに父の宇多院がいたことは私見です。学術的な根拠はありませんので、小説として読んでいただければ幸いです。
また、柔子内親王の住居について、右京三条より発掘された斎宮の邸宅址の候補者に柔子内親王が上がっていることをマイミクさんから教えていただいたのですが、「六条斎宮」と称されているからには六条に住んでいたのかな?という気もしますし。そのあたりについての資料も手許にないので、住居については言及しませんでした。
☆参考文献
「平安時代史事典 CD-rom版」 角田文衞・監修 角川学芸出版
「斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史」 榎村寛之 中央公論新社 中公新書
「伊勢斎宮と斎王」 榎村寛之 塙書房
*御著書を参考にすることを許可して下さいました榎村寛之先生、どうもありがとうございます。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
☆トップページへ
便宜的に、伊勢神宮に仕える皇女を「斎宮」、賀茂神社に仕える皇女を「斎院」と呼ぶこともあります。本記事でも、このあとは「斎宮」「斎院」で通させていただきます。
このうち、斎院は天皇の代替わりごとに交替する決まりは特になかったようですが、斎宮は天皇が変わるごとに交替する決まりになっていました。
しかし、父母の死や本人の病気や死亡で交替することもあり、必ずしも天皇1人に対して斎宮1人というわけでもなかったようです。
歴代斎宮の平均在任期間がどのくらいだったのか、資料がないので断定は出来ませんが。多分、在任期間十数年という斎宮が多いのではと思います。
では、実在が確認できる斎宮の仲で最も長く斎宮を勤めた皇女は?
その斎宮こそ、今から紹介する宇多天皇の皇女、柔子内親王(892?~959)なのです。
彼女は兄の醍醐天皇御代の斎宮で、寛平九年(897)から延長八年(930)まで、足かけ34年、斎宮を勤めました(実際に伊勢にいたのは899年から930年)。
え、そんなに長く都を離れて伊勢に。お気の毒に…、と思うのはちょっと待って下さい。
彼女は斎宮在任中も、斎宮を退下して都に帰ってからも、多くの親類縁者に守られ、結構楽しく生活していたようなのです。
それに加えて彼女自身も、社交的で明るい性格だったのではと。
そんな柔子内親王の生活の一場面を切り取って、短編小説風人物伝にしてみました。
前斎宮、柔子内親王の1日は、絵を見たり物語を読んだり、女房たちとおしゃべりしたりして静かに暮れてゆく。
彼女の何よりの楽しみは文のやりとり。
但し恋文ではない。専ら縁者たち、兄弟姉妹やいとこたち、甥や姪たちともやりとりすることがある。
30年余りも伊勢で斎王を勤め、退下して5、6年。都の生活はなじめないのではと心配だったが、そんなことはなく、縁者たちとの文のやりとりで結構楽しく過ごせていると思う。そして、時にはそんな縁者たちが彼女の邸宅を訪ねてくることもあるのだった。しかし、暮れも押し詰まったこの時期は専ら文のやりとりが主になる。
今日の文の相手は藤原能子。
能子は先帝だった兄、故醍醐天皇の妃の1人で、母方のいとこにもあたる。先帝が崩御されたあと、先帝にとっても柔子にとっても弟である敦実親王が、彼女の邸に住み込むようになったという。
兄の次は弟だなんてはしたないと、まゆをひそめた人もいたが、柔子は、
「いいんじゃないの?」
と思ったのを覚えている。
「先帝に崩御されて能子どのもお寂しかったのよね。だから、先帝とよく似ている敦実が愛しくてたまらなかったのでしょうし。能子どのは魅力ある人だから、敦実も夢中になったのよね」
しかし最近、柔子は妙な噂を耳にしたのだった。
「敦実親王は能子どのの許からいなくなったらしい」
そこで心配になり、「この頃、敦実とはどうなっているの?」
と、文をしたためることにしたのだった。
冬の暮れは早い。文をしたためているうちに部屋の中が薄暗くなってきた。ああ、今日も無事に終わる。
翌日、能子から返事が送られてきた。
季節の挨拶や最近の出来事と一緒に、こんな歌がしたためられていた。
しら山に雪ふりぬればあとたえて今はこしぢに人もかょはず
白山に雪が降ったら人の足跡も消えてしまい、今は越の国への路に人が通わないように、あの人も私のところに通ってこないのです。
「まあ!敦実はいったい何を考えているのかしら。一度、呼び出して詰問しなくては。」
柔子は早速、、敦実に、ご機嫌伺いに来るようにと文をしたためた。
しかし敦実は、「弟子に笛の恵子をつけなければならなくて忙しい」とか何とか理由をつけて、なかなか柔子の邸に現れなかった。敦実は当代、並ぶ者がないといわれる笛の名手で、弟子もたくさんいるらしい。そんなわけで、笛で忙しいと言われれば待つしかなく。
敦実がようやく、柔子を訪れてきたのは年も明け、梅が咲こうとしている頃であった。
「姉上、久々に私の笛をご披露しとうございます」
と言い、自慢の笛を奏で始める。いつもならうっとりと聞き惚れるところだが、能子のことを考えると気が気ではない。
それでも弟の増えにじっと耳をかたむける。
ようやく笛が終わり、柔子は切り出した。
「そなた、最近、能子どのとはどうなっているの?邸からいなくなったという噂もあるし、能子どのも嘆いておりましたよ」
「ああ、そのことですか」
敦実は悪びれた様子もなく答えた。
「あの女とは、昨年の秋に切れましたよ。どうやら藤原実頼どのと文のやりとりをしていたみたいでね。」
敦実はさらに続ける。
「近いうちに実頼どのの邸に迎えられるそうですよ」
びっくりした、能子が藤原実頼どのとそんなことになっているなんて。
6歳の時に斎宮に穆上され、8歳で伊勢に下向してから三十数年間、神に仕え、恋とは無縁だった自分には考えられない。
そう言えば能子は、先帝の妃だった頃、先帝には弟、、柔子には兄に当たる敦慶親王と密通したらしいという噂があったのを思い出した。
「私の兄弟3人と恋をしたとはねえ」
しかし、能子に対する腹立たしさは不思議と起こってこない。
「同姓の私から見ても魅力的な人だから、男はたちまち、恋に落ちてしまうのかも」
実頼は摂政忠平の子息、将来が約束された貴公子だ。大炊御門の南に小野宮第という豪勢な邸宅を所有していると聞く。能子どのには今度こそ、落ち着いて幸せになって欲しいと思う。
「それに比べると私の人生は静かなものだったよね。」
柔子は母の記憶があまりない。明るくて、よくおしゃべりする人という印象が頭のかたすみに残っているけれど。
母は柔子が5歳の時に急死してしまったのだ。
それから1年ほど経った頃だった、柔子の身辺があわただしくなったのは。
「姫宮さまはこれから、伊勢の神様に仕える尊いご身分になるのですよ」
と乳母に言われ、何が何だかわからずに宮中を出て初斎院に移ることになったのだった。そして間もなく、嵯峨の野々宮に移った。川で禊ぎをしたり、のりとを唱えたりしてひたすら潔斎をする日々は、遊びたい盛りの年頃には辛くて退屈だった。
しかし、そんな日々にも終わりがやってきた。いよいよ伊勢に下向することになったのだ。
久しぶりに訪れた宮中で兄帝から別れの御串をさしてもらい、斎宮の行列は伊勢に出発した。出発の日は大嵐だったことを鮮明に覚えている。
この時、柔子を伊勢まで送った長奉送使の随員に藤原兼輔がいた。
乳母は兼輔のことを、「姫宮さまのお母君のいとこさまでいらっしゃいますよ」と言った。まだ20代前半の若者で、もの静かで優しい雰囲気に柔子は好感を持った。何より、父や兄弟たちと引き離された柔子には、兼輔が血縁だということがとても安心できた。
「もしかすると、あれは恋だったのかもしれないわ。もちろん片思いだけど」
兼輔は、柔子の斎宮在任中に一度、伊勢に来たことがある。あの時の胸のときめきを忘れることが出来ない。
何もわからないまま斎宮になってしまった柔子だったが、伊勢で過ごすうちに、斎宮とは何なのか、少しずつ理解していったような気がする。帝のため、国のため、ひたすら伊勢神宮の神に奉仕する、それがこの国の民すべての幸せにつながるのだ。私は喜んでその役目を務めよう。
それに、伊勢での生活はわりと楽しかった。斎宮の役人たちも女官たちも、柔子を大切にしてくれたし、食べ物も都よりもずっとおいしかった。自然も豊かで、時折のお忍び歩きも楽しみだった。
何より、譲位して「院」と呼ばれていた父や、兼輔や、母の弟の定方からの便りは柔子を慰めてくれた。
やがて、兄弟たちやいとこたちからも文が届くようになった。その中には、定方の娘の能子もいた。父院が「斎宮をひとりぼっちにしてはいけない。度々文を送るように」と言ってくれたらしい。
22歳の時柔子は大病を患った。
一時はかなり危ない状態で、都から定方が来てくれた。そうしたら何だかほっとして。それからだった、病気が快方に向かったのは。
伊勢にいること三十数年、柔子が39歳の時、兄帝が崩御した。柔子は斎宮の任を解かれ、帰京した。
「斎宮を退下した私が、すんなりと都の生活に溶け込めたのは、父院と兼輔どのと定方どののおかげだわ」
その父院も兼輔も定方も、数年前に相次いで世を去りこの世の人ではないが、都に帰って来たときにはまだ生きていて、再会できたことは幸せだったと思う。
「そのおかげで、三十年以上、離れていた敦実とも親しくできるのですものね。」
それに、先日もこんな事があった。
敦慶親王と有名な歌人、伊勢の間に生まれた中務が、柔子を訪ねてきたのだ。つまり中務は柔子の姪に当たる。
彼女も歌人として頭角を現し始めていて、古今東西の歌の話をして楽しかった。
そして帰り際、中務はこんな事を言ったのだ。
「わたくし、おばさまの五十の賀の屏風に歌を詠んで差し上げますわ」。楽しみにしていて下さいね。
能子どののように波乱に富んだ恋は出来なかったけれど、こうして親族や縁者に守られ、幸せな人生だったと思う。
「そう、こういう生き方で良かったのよね」
そしてこれからも、兄弟や甥や姪、兼輔どのや定方どのの子供たちを見守り続けていこう。
そんなことを思いながら、満足な微笑みを浮かべる柔子であった。
☆柔子内親王プロフィール(平安時代史事典より)
柔子内親王(よしこないしんのう) 892?~959
宇多天皇の第二皇女。母は藤原高藤女胤子
同母兄に醍醐天皇、敦慶親王、敦固親王。同母弟に敦実親王がいる。。
寛平四年(892)二月、内親王宣下。
寛平九年(897)、醍醐天皇践祚により斎宮穆上。
昌泰元年(898)四月、初斎院入御、八月には野宮に移る。同二年、伊勢に向けて出発。
延長八年(930)、斎宮退下。
天慶三年(940)ごろ、五十賀が行われ、その屏風のために三十六歌仙の一人中務(柔子の兄敦慶親王女、母は伊勢)が歌を詠んでいる。
天徳三年(959)正月二日に薨去。六条斎宮と号する。
☆当ブログ内の関連記事紹介
藤原定方とその子孫たち
柔子の母方の叔父、藤原定方とその子孫を紹介しています。
宮道列子 ~思いがけない人生
柔子の母方の祖母、宮道列子の1人語り。
〈追記〉
本記事は、史実や「大和物語」に書かれたエピソードをもとに書きましたが、柔子が兼輔に恋心を抱いていたことはフィクションですし、柔子を取り巻くネットワークに父の宇多院がいたことは私見です。学術的な根拠はありませんので、小説として読んでいただければ幸いです。
また、柔子内親王の住居について、右京三条より発掘された斎宮の邸宅址の候補者に柔子内親王が上がっていることをマイミクさんから教えていただいたのですが、「六条斎宮」と称されているからには六条に住んでいたのかな?という気もしますし。そのあたりについての資料も手許にないので、住居については言及しませんでした。
☆参考文献
「平安時代史事典 CD-rom版」 角田文衞・監修 角川学芸出版
「斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史」 榎村寛之 中央公論新社 中公新書
「伊勢斎宮と斎王」 榎村寛之 塙書房
*御著書を参考にすることを許可して下さいました榎村寛之先生、どうもありがとうございます。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
☆トップページへ