平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

家庭菜園でとれたトマトはおいしい♪

2005-07-29 18:40:36 | えりかの平安な日々 04~09
 わ~、写真に撮られたので恥ずかしくて、こんなにも赤くなってしまったわ。

 本日の写真は、隣に住むだんなさんの両親の家庭菜園でとれたトマトです。

 このトマト、とってもおいしいのです。最近スーパーで売っているトマトって、おいしくないと思いませんか?何か変に酸っぱいような気がするのですよね。
「昔のトマトはもっと味がまろやかで甘みもあったのになあ。」と、いつも思ってしまいます。

でも、このトマトは昔食べたおいしいトマトと同じ味がするのです。「このトマトでトマトスパゲッティーを作ったらおいしいかも…。」と思うこともありますが、やっぱりそのまま輪切りにして塩をふりかけて食べるのが一番です!!
今日もまた、庭でとれたトマトを食べるのが楽しみなえりかなのでした。
 

大河ドラマ「義経」第29回&維盛入水の真相

2005-07-27 09:42:08 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第29回の感想です。

 今週の見どころは法皇さまと常磐御前だったと思います。
法皇さまは義経を翻弄し、常磐御前は命をかけて義経をいさめたという感じがしました。では、今週はその当たりから書かせていただきます。

 法皇さまと知康と丹後局、相変わらず謀略を巡らしていましたね。やっぱりこの3人が集まると怖いです。頼朝と義経の兄弟仲を裂いて、源氏の力を弱体化させようとは、悪知恵が働きますよね。

 それとは知らず、知康や丹後局の高圧的な態度に屈するように任官してしまった義経です。この時義経は何としてでも任官を断り、すぐに、任官の話があったことを頼朝に報告すべきなのですよね。本来は…。
 でも、義経はその場で任官を承諾してしまいました…。やはり義経には、「蒲の兄上が官位をもらったのに、一ノ谷で手柄をあげた自分が何ももらえないなんてあんまりだ。」という考えが多少なりともあったと思うのですよね。それと、京育ちなだけに朝廷の権威というものへの、恐れと憧れにも似たこだわりがあったのでしょうね。
 それにしても、「御曹司は法皇の家来ではなく鎌倉殿の家来ですぞ。」と義経をいさめる郎党が誰一人いないのが、やはり今回もとても気になりました。
鎌倉から送られてくる正室の河越の姫についても、「静殿を大切にするのはかまわないが、河越の姫は鎌倉殿から下される大切な正室なのだから、丁重にあつかうように。」とさとす者も、誰一人いません。
 今回の放送を観ていて、頼朝の考え方や武士というものを理解している郎党がいなかったことは、義経にとってはとても大きな不幸だったのだなと、改めて思いました。

 そして、そんな義経を唯一いさめたのが常磐御前でした。「もう会いに来てはなりません。」と言っていたのに、病気を押して夜陰に紛れて義経に会いに来るとは、やっぱり母親の愛情なのですね。きっと、義経のことが心配でたまらなかったのでしょうね。
 でも、「世の中のことを見定めよ。法皇さまのことも、頼朝のことも……」という常磐御前の遺言は、義経の心にどこまで通じたのか疑問です。と言うのは、このあと義経は常磐御前が心配したとおりの道を歩んでしまったのですから…。

 ところで今回の放送で、常磐御前はこの直後に亡くなってしまいましたが、少し早すぎると思いました。現在ドラマであつかわれている時期は元暦元年(1184)です。義経を土御門殿の誘いに乗せないために病気の身を呈した……、というようにしたくてあそこで常磐御前を死なせてしまったのでしょうが、実は彼女はその二年後の文治二年(1186)までの生存が確認できるのです。
 「吾妻鏡」によると、常磐は文治二年六月に義経の行方を尋問されるために鎌倉方に捕らえられたと記述されています。
 これは、かなり信用できる記事だと思われます。それなのに元暦元年のこの時期に常磐御前を死なせてしまうというのは、果たしてどうなのでしょうか?
 いつもは、「お前は史実史実とドラマにつっこみを入れすぎだ。」と私をたしなめるうちのだんなさんも、「母として最後に義経への遺言を残し、身を呈して義経を守ったという形にしたかったのだろうけれど、この時期に常磐を死なせるなんてことはしてはいけない。フィクションをドラマの展開上入れるのは仕方ないけれども、このように主人公にとって重要な人物の生死に関して、あまりにも明らかな虚構を入れることは絶対に許されない!」と憤慨していました。

 私個人としてもここでは常磐御前を死なせないで、稲森いずみさん演じる常磐御前が義経の行方を尋問された時に、「知りません!」と毅然として応えるというシーンを、出来ることなら観てみたかったです。

 さて、平家の方に目を向けると、維盛入水のことにちらっと触れていましたよね。
でも、維盛が戦線から離脱するところはカットされていたと思うのですけれど…。確か維盛のこの前の登場シーンは、三草山で弟の資盛が敗北して屋島に逃げたという知らせを聞き、「弟の不始末はそれがしが取り返します。」と言っていたシーンだと思うのです。なので経子が「維盛が熊野で入水しました。」と言ったときは一瞬びっくりしてしまいました。
 それに、そのあと経子が言っていた「紀州に上陸しようとしたが上陸できず、そのまま入水した。」と言う言葉。何かもっともらしく聞こえますが、これは「平家物語」に描かれている、『維盛入水』の経緯とはほど遠いですよね。この経子のせりふ、何を根拠にしたのか首を傾げてしまいます。
 それから、『維盛入水』については、真偽のほどははっきりわからないようなのですよね。これに関しては色々な説があるようです。では、今回はその当たりを少し書かせていただきますね。

 まず、『平家物語』に描かれている『維盛入水』の経緯について簡単にお話しします。

 平家一門と共に都落ちした維盛ですが、都に残してきた妻子のことが気になってなりませんでした。「もう一度妻子に会いたい!」という思いが募った維盛は、一ノ谷の合戦で平家が大敗したあと、突然屋島から逃げてしまうのです。
 そして維盛は紀州に上陸し、そこから高野山に登りました。最初は上洛して妻子に合おうと思っていたようですが、重衡のように生け捕りにされるのは嫌だと考えて上洛を断念したようです。高野山では、昔なじみの滝口入道(斉藤時頼)と再会、彼の手によって出家することとなります。その後那智の沖に向かい、極楽往生を願って入水したのでした。

 しかし、『平家物語』に描かれている維盛の物語は、どうもきれいすぎて真実からはほど遠いような気がするのです。そこで色々調べてみると、彼の入水については先にも書いたように色々な説があり、正確には真偽のほどがわからないようなのです。

 では次に、維盛の戦線離脱後についての説を二つほど紹介させていただきます。

 まず一つ目です。維盛は高野山に潜伏していたものの命の危険を感じて上洛し、後白河法皇を頼ることとなります。
 後白河法皇も維盛に同情し、「何とか命を助けてあげたい。」と思って鎌倉の頼朝にうかがいをたてました。頼朝から、「ひとまず鎌倉に身柄を送るように。」という返事が来たため、維盛は鎌倉に向かうこととなります。しかし維盛は鎌倉に向かう道中で食を断ち、相模国湯下宿で世を去ってしまいました。
維盛は敵の手に渡されると思い込み、人生に絶望してしまったのでしょうか。

 もう一つの説ですが……。藤原兼実の日記『玉葉』の二月十九日の条に、「維盛は船三十数艘を率いて屋島から南海を指して去った。」という記述があります。
 つまり、維盛は単独で戦線を離脱したのではなく、多くの部下を連れて南海に逃げていったというのです。当時の情報通の兼実の日記に記載されていることですので、かなり信憑性がありそうです。
 では、南海とはどこなのでしょうか?色々な本で調べてみると、やはり熊野のことらしいのです。実はこの時期の熊野はどちらかというと平家寄りでした。そして維盛は、どうやら熊野の湯浅党にかくまってもらっていたらしいのです。もしかすると世の中に再び出る時期をじっと待っていたのかもしれませんね…。
 しかし、そのあと維盛が上洛し、鎌倉に向かう途中に亡くなったのか、あるいは『平家物語』に描かれているように高野山に登って出家し、そのあと入水してしまったのか……。真相は不明のようです。
私の考えでは、その後維盛は上洛し、鎌倉に送られる途中で亡くなったと思うのですが…。
そして維盛は、心にかけていた妻子とはついに再会できないまま亡くなったのではないかと思います。

 維盛は言うまでもなく重盛の長男、つまり平清盛の嫡孫に当たります。本来なら平家の棟梁になってもおかしくない人物なのですが、清盛亡き後平家の棟梁になったのは、彼の叔父の宗盛でした。そしてその陰で強い発言力を持っていたのが宗盛の母、時子ではなかったかと私は思っているのです。
 しかし、維盛の父の重盛は時子の実子ではありません。母親を通してのつながりが強かったこの時代、維盛をはじめとする重盛の息子達は、いわば平家の反主流派のような立場になってしまったのだと思います。急に決まったと思われる平家の都落ちに対しても、彼らは多少なりとも不満に思っていたかもしれません。

 実は、重盛の息子六人のうち四人は、何らかの形で戦線を離脱しているのです。
 維盛(重盛の長男)に関しては前に長々と述べてきたとおりです。
 資盛(重盛の次男)は、『平家物語』によると壇ノ浦で入水したことになっていますが、維盛と共に船で南海に去った……という説があります。つまり、本当に壇ノ浦で入水したかどうかははっきりしていません。
 清経(重盛の三男)は一ノ谷合戦に先立つ寿永二年(1183)、豊前の柳ヶ浦で入水自殺をしています。
 忠房(重盛の六男)は、屋島の合戦直後に戦線離脱します。その後紀州に潜伏していましたが、頼朝の「小松殿重盛の息子は命を助ける。」という偽りの誘いに乗り鎌倉に下向。都への帰途、頼朝の命により斬首されています。

 重盛の息子のうち、確実に最後まで平家と運命を共にしたのは、一ノ谷で戦死した師盛(重盛の五男)と、壇ノ浦合戦の時に一門と共に入水をした有盛(重盛の四男)の二人だけです。

 このように、重盛の息子達は複雑な立場に置かれており、たとえ戦線離脱をした者も数奇な運命を辿らざるを得なかったと言えそうです。

 維盛の入水は史実かどうかはわかりませんが、『平家物語』に描かれている彼の入水シーンをドラマで取り上げるのは、私にとっては大歓迎でした。しかし、ドラマではそんな維盛の立場の微妙さや戦線離脱に至る経緯についてを一切触れていないため、彼の法衣姿での入水のシーンも何か唐突で違和感があるのですよね。「南無阿弥陀仏」と何回も念仏を唱えながら入水する維盛の姿は映像的にはきれいだっただけに、そのことがとても残念でした。

 さて来週は、法皇さまが泣き脅し作戦に出るようですね。義経はその作戦に乗せられてしまうのでしょうか。
 一ノ谷ではかなり勇ましい武士に描かれていた義経も、再び元の甘ちゃんに戻ってしまったような感があります。今回常磐御前が、「あの子は弱いところと強いところを合わせ持っている。」というようなことを言っていましたが、うちのだんなさんは「このドラマではその内にある弱い面があまりにも強調されている。これでは今までの義経の英雄としてのイメージが完全に壊されてしまう。」と言っていました。
 私も義経さんは、もっと明るくて自由奔放な人物だと思うのです。法皇に翻弄されるというのはある意味史実なのでしっかり描いてもらいたいですけれど、彼の明るくて強い面をもっと表に出して欲しいものです。
 

エリカのお食事

2005-07-23 23:49:46 | 猫のお部屋
 トップのブログタイトルの文字を縮小版からオリジナル版に変更してみました。
おかげで、タイトルの文字が大きくなって目立つようになりました。左側にある四つ葉のクローバーも大きくなっています。満足満足♪

 ついでに、トップに表示されるコメントと自己紹介のコメントも変更しました。

 さて、本日は久しぶりに我が家のエリカの登場です。

 エリカは、いつもはだいたいキャットフードの上にかつおの削り節をかけた物を食べています。ちなみにこのかつおの削り節、一袋60グラム入りで300円の高級品です。安売りの削り節をあげたこともあるのですが、嫌がってほとんど食べてくれませんでした。

 そして、時々食べさせるのが煮干しです。ある時、煮干しを私たちのおやつ用(私もだんなさんも煮干しが好きなのです)に買ってきたのですが、私とだんなさんが食べているのを見たエリカは、「ニャー!ニャー!」と鳴いてしきりに欲しがるので、分けてあげたのでした。
そんなことがあってからエリカは煮干しが大好きになったのです。でも我がままに育ててしまったために、エリカは人間用のしかも少し小さめで、高い物しか食べなくなってしまいました。

 でも、一番の大好物はやっぱりまぐろのフレークの缶詰と静岡産のかまあげしらすですね。ただ、どちらも塩分が多いのでたまにしか食べさせないのですが…。
なので食べさせた時はとても喜びます。
 私がまぐろのフレークの缶詰を開けてお皿にのせただけで、エリカは「ニャン!」と嬉しそうに鳴いて飛んできます。そして満足そうに食べるのです。食べ終わったあとはお皿をペロペロなめています。
 かまあげしらすも同じです。しかもエリカは、スーパーで買ったかまあげしらすはぺろっとなめただけでその場を去ってしまって、絶対に食べようとはしません。食べるのは魚屋で買ってきた大井川沖や静岡沖で捕れた新鮮で高級なしらすだけです。
本当に贅沢な猫なのです…。

 本日の写真は、だんなさんが好きでおやつ用に買って来た、小ぶりでおいしい煮干しを、せがんで鰹にまぶして嬉しそうに目を輝かして食べているエリカの姿です。
とっても幸せそうな顔をしているエリカを見てやってくださいね。

大河ドラマ「義経」第28回&大姫の生涯

2005-07-20 06:32:14 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第28回の感想です。

 今回の見どころは重衡と大姫&義高だったと思いますが?…、私個人としては重衡と頼朝の対面が一番印象に残りました。私が重衡のファンであり、しかも現在、彼を主人公にした小説を読んでいるので、よけいこの場面に感情移入ができたのかもしれませんけれど…。
  あくまでも私の意見ですが、重衡と頼朝の対面の場面は間違いなく今までのこのドラマの№1です。重衡さん、とっても格好良かったです!

 「平家が三種の神器を返さないことをどう思うか。」という質問に対して、「それは当たり前のことだ。」と悪びれず答える重衡。また、南都焼き討ちに対しても、「これは私の一存でやったこと。」と堂々と答えていました。
 そして、そんな重衡の立派な態度に感服する頼朝。何故かとっても感動してしまいました。
 ただこのドラマでは、南都焼き討ちの場面の描き方があまりにも簡略でしたので、重衡の立場の微妙さがいまいち伝わってこない……という部分があります。それがとても残念でした。南都焼き討ちとそれに関わった重衡の心の内面をしっかり描いておけば、この場面はもっともっと感動的だったと思うのですが…。
 それと、義経と重衡の会話もなかなか良かったです。二人は幼い頃、お互いに兄弟のような親しみを持っていたのですね…。でも今は敵と味方に別れてしまった……、観ていて切なかったです。 

 このように重衡が登場する場面はとても良かったですけれど、やはり今回もいつものようにつっこみ所満載でした。

 まず、重衡に「三種の神器を返すように。」という手紙を書かせたのは、義経ではなくて後白河法皇ではなかったでしょうか?
 三種の神器を一番欲しがっているのは法皇のはずです。というより、義経が法皇の許可なく、平家に対して神器の返却についての交渉をしていた……というようなことは絶対になかったと思うのです。なのでいつ法皇が登場するのか、画面を食い入るように見ていたのですけれど、ついに登場しませんでしたね。
せめて法皇には、平家から送られた「神器は返さない。」という手紙を見ながら、一言毒のあるせりふを吐いて欲しかったです。

 「重衡を鎌倉に連れてこい。」という頼朝の命を受け、義経は鎌倉に一時帰還することになります。しかしこれは完全にドラマの創作です。重衡を鎌倉に連行したのは梶原景時だったと思うのですが、ドラマでは当の景時は都に残っていたようですね。
「戦目付だから都に残っているべきだ。」というもっともらしい理由をつけられていたようですが……。何かわけわかりませんよね。

 史実にはない義経鎌倉帰還を創作した理由は、大姫と義高の事件に彼を関わらせるためだったのだと思います。
 それにしても義高出奔から殺害まで……、私は観ていて何が何だかわかりませんでした。大姫には隠してあった義仲の討ち死にを、侍女が姫に告げ口し、それにより大姫自身が義高を逃がした……というようなことにしたかったのでしょうか?
義高を逃がしたことはひた隠しにしなければならないはずなのに、大姫の侍女たちが「義高さま出奔」と大騒ぎをしてそれが頼朝の耳に入り、怒った頼朝が「義高の首をはねよ。」と命令したようですね。でもこのあたりの展開は、まるで何か三流の芝居を観ているような気分でした。

 私が前に読んだいくつかの本によると、「義高は殺す。」という頼朝の意向を察した政子が、義高を女装させて鎌倉からこっそり逃がした……ということになっていたと思います。どうやら義高は、父義仲の生まれ故郷に向かったようですよね。もしかするとそこには、彼の有力な支援者になり得るような人物(義仲における中原氏のような)がいたのかもしれません。
こうしてみると政子は、「何とかして義高の命を救ってあげたい。」と実際思っていたとも考えられますよね。
 なので今回のドラマのストーリーも、「政子が義高をこっそり逃がした。」という感じにした方がすっきりしたと私は思うのです。それなら、「姫のためにどうか義高の命を助けてやって下さい。」という政子のせりふも生きてくると思うのです。
 でも、今回のドラマのようなストーリーでは、政子のこのせりふに違和感と唐突さを感じてしまいます。今までの政子の描き方が描き方だけに、よけいそう感じるのかもしれませんが。と言うより、今までの政子の描き方を考えると、政子が義高をこっそり逃がすという展開にはできなかったのかもしれませんよね。

 義高が殺されるところも何かあっけなくてがっかりしてしまいました。
そしてその場に義経主従が駆けつけるとはどういうわけ……と思ってしまいました。 

 それでも大姫が「義高さま!!」と叫びながら泣いている場面を観たときは、「かわいそうに……」と思って目が熱くなりました。大姫役の子がかわいらしくてしかも演技が上手だからかもしれませんね。
 そこで今回は、大姫の短くも波乱に富んだ生涯について書かせていただきたいと思います。


 大姫 1178(79とも)~1197年
 源頼朝と北条政子の長女として伊豆国で生まれました。大姫は長女という意味の呼称であって、本名は不明ですが、「小松姫」という名前だったという説もあるようです。(コンサイス日本人名事典による。)

 寿永二年(1183)、父頼朝と木曽義仲との和睦のために鎌倉に送られてきた義仲の子義高と婚約します。大姫にとっては自分とそれほど年も変わらず、しかも許婚者だという親しみもあったのでしょう。それは突然知らない土地に送り込まれた義高も同じだったと思います。そのようなわけで、二人は大変仲睦まじかったようです。
 しかし翌年、義仲が敗死すると、義高は頼朝の命によって殺害されてしまいました。
 頼朝にとっては、「義高はかつての自分と同じ。もし生かしておけば長じて自分の仇になるに違いない。」と考えたのでしょう。政子にしても、何とか義高の命を救おうと彼を逃がしたり、殺されてしまったことを聞いたときに頼朝に猛講義はしたものの、一方では「仕方がない。」という気持ちの方が強かったと思うのです。そして頼朝も政子も、「大姫はまだ小さいから、じきに義高のことなど忘れてしまうだろう。」とたかをくくっていたと思います。

 しかし大姫にとって、義高が殺されたことは、大変な悲しみでありショックでした。彼女は飲食を絶ち、ついに寝込んでしまいます。また、何事に対しても興味を示さなくなり、気鬱のような状態になっていきました。物事を感じやすい性格だったと思われる大姫にとっては、義高を失った心の傷は計り知れないものだったのです。
 これには頼朝夫妻も驚き、大姫の心身を回復させようとあらゆる手段を構じることとなりました。義高殺害を実行した者を殺してしまったのもその一例でした。
そして、あちらこちらの寺社に加持祈祷を頼んだりもしています。しかし、大姫の心身はいっこうに良くなりませんでした。

 建久五年(1194)、頼朝は自分の甥に当たる藤原高能と大姫の婚約を取り図ろうとします。しかしそれを知った大姫は、「私はどこにも嫁ぎません。もし無理やり結婚させるなら身を投げて死んでやる!」と言ってがんとして受けつけなかったといいます。頼朝や政子は、「結婚でもさせれば大姫の気鬱も治るかもしれない。」と考えたのでしょうが、大姫の心の中には依然として義高が大きなウエイトを占めていたのでしょうね。

 しかし頼朝は、大姫を政略の道具として考えることも忘れていなかったようです。
建久六年になると彼は、大姫を後鳥羽天皇の後宮に入内させようと色々画策するようになるのです。やはり頼朝も、京都の貴族や朝廷を無視することはできなかったのでしょう。彼も結局、平清盛と同じ道を歩こうとしていたように思えます。
 そのようなわけで彼は、長年の盟友であった藤原兼実と決別せざるを得なくなります。と言うのも兼実の娘任子は後鳥羽天皇の中宮でした。しかも任子は皇子を産んでいなかったため、兼実にしてみれば頼朝の娘に入内されては困るわけです。
兼実の協力が得られない以上、頼朝が大姫入内のために頼ったのは、兼実の仇敵と言うべき源通親や丹後局でした。頼朝はこの頃、東大寺の大仏開眼供養のために政子や大姫を連れて上洛していますが、通親や丹後局と直接合って大姫の入内についての交渉をする目的もあったと思われます。
 そこまでして娘の入内を実現させようとした頼朝でしたが、大姫は入内を拒否し続け、更に病気がますます重くなり、建久八年(1197)七月、その短い生涯を閉じました。まさに、義高のことを思い続け、頼朝に抵抗し続けた一生だったと言えそうですね。

 大姫にとっては、乱世の武家の棟梁の家に生まれてしまったことが、そもそもの不幸だったのかもしれません。それに、義高を想う気持ちはあまりにも幼く、純粋すぎたように思えます。
 ただ、二人が悲劇的な運命に翻弄されたことで、大姫と義高の幼い恋は現代の私たちに感動を与えるのかもしれませんね。

 頼朝からは立派な人物だと感服されたものの、このあと南都の僧に斬首される平重衡。御家人たちに嫌われながら、ついには鎌倉幕府に反旗をひるがえして敗死する梶原景時。そして兄頼朝と不和になり、最後には平泉で自刃する義経……。
大姫と義高もそうですが、今回登場した人物たちの様々な運命を考えたとき、乱世という時代が人間に及ぼす影響の大きさを思い、少ししんみりしてしまいました。

 さて来週は、いよいよ義経が法皇さまに翻弄されるみたいですね。そして頼朝の怒りを買い、「今度の合戦には出陣しなくていい。」と言われるようです。
 更に、義経の正室となる河越の姫が登場するようですね。彼女がどのようなキャラクターに描かれるのか楽しみです。
 

悪徳リフォーム商法に引っかかりそうになったこと

2005-07-18 09:34:47 | えりかの徒然なるままに
 今朝のNHKニュースでも取り上げられていましたが、最近、悪徳リフォーム商法というのが話題になっていますよね。巧妙な手口で住宅に上がり込み、どうでもいいような不要工事をして高額な料金をだまし取る……、というのが彼らの手口のようです。
 確かに……、「あなたの家の土台はガタガタで、このままでは倒れてしまいますよ。」と言われたら誰もが不安になってしまうと思います。そのような不安につけ込んで、しかも老人や主婦を中心にだますとは、全く許されざる行為としか言えません。

 実は何を隠そう私も、清水市草薙(現在は静岡市清水区草薙)に住んでいた頃2回ほどそんな悪徳リフォーム商法に引っかかりそうになったことがあるのです。そこで今日はその時の経験をお話ししますね。

 1回目は、5年くらい前のことだったと思います。その時我が家にやってきたのは女性の業者でした。「おたくの家の屋根はぼろぼろで、このままだと雨漏りがしてしまう。」と言われました。
 その時私は突然やってきたその人を、「屋根の鑑定士」だと思ってしまったのですよね。そして、「屋根がぼろぼろだ」と言われてびっくりしてしまいました。その人の言うのには、「向かいの洋食屋さんも今うちの会社で屋根の工事をしていますよ。お宅もどうですか?」さらに、「雨漏りはしませんか?」と聞かれました。
 そこまでいった時になって私は、「何かおかしい」と感じました。と言うのは、私がその時に住んでいた家は築15年くらい、全体に白い壁で化粧し、外観を見た感じではきれいで、それほど古い家には思えない状態だったのです。
私がそれ以前に住んでいた県の職員住宅は築40年の古い家でしたが、このような業者は来たことがありません。何よりも、築40年のその家でも雨漏りなどしたことがありませんでした。「この家の屋根がぼろぼろだったら、あの職員住宅はどうなるのだろう……。」と思ったとき、私はこの業者は怪しいと確信しました。そして、こう言って断りました。
「うちは雨漏りは一切しません。なので工事は必要ありません。お帰り下さい。」
 とは言ったものの、「うちの屋根って穴でも開いているのかしら……。」としばらくとても不安でした。こういう事って、自分たちではわかりませんものね。でも、私たちがこの家を引き払うその日まで、雨漏りは一切しませんでした。余計な工事を頼まなくて良かったです。

 2回目はそれから半年ほど経った頃だったと思います。
 今度の業者は、「地下水の点検に参りました。」という用件で、突然家にやってきました。そして、裏口の方に行き、勝手に何人かで点検を始めたのです。なので私は最初、水道局の人が来たと思いこんでしまったのです。
 ところがそのうちのひとりが玄関に戻ってきて言うには、
「いやあ、ものすごく汚れていますね。これは掃除の必要があります。少しお安くして20,000円でどうでしょうか。」
 その言葉で私は「おかしい!」と思いました。相手は男の人が数人……、ちょっと怖かったけれど勇気を出してこう言いました。
「そんなに費用がかかるというと私一人では決められません。主人と相談して決めますので、おたくの会社の名前を教えて下さい。」
 するとその人の態度ががらっと変わりました。明らかにむっとした調子で会社の名前を言い、そのまま帰っていきました。

 私はそのあとだんなさんに電話をし、その会社に断りの電話をかけて欲しいと頼みました。だんなさんは、勤務先の学校からすぐに電話をしてくれました。かなりきつい調子で、「もう二度と家に来るな!」と言って断ったようです。彼の話によると、「何かやくざのような会社」だったそうです。
 多分地下水の掃除をして、「床下がガタガタですね。このままだと家が倒れてしまいます。」と不安をあおり、どうでもいい工事をして高額な料金をだまし取る……という手口だったと思います。本当に引っかからなくて良かったです…。

 とにかく、飛び込みの業者はあまり信用しない方が良さそうですね。それと、「○○円で安く掃除させていただきます。」というのも怪しいです。皆様も悪徳リフォーム商法には充分お気をつけ下さいませ。

 今思うと、草薙というところは、こういったセールスマンの訪問がとても多い所でした。他にも、宗教の勧誘、布団の販売員、消化器の販売等、様々な押し売り……、多いときはそれらが1日おきくらいに来ていました。
そんな訪問販売やセールスを断るだけで疲れてしまったこともたびたびだったです。
 だんなさんの話によると、草薙という所は「静清(静岡と清水)の田園調布」と言われている地区なのだそうです。確かに立派な家がたくさん建っていましたし、物価も高かったです。そう言えば私たちが住んでいた家は南が空き地、西が川と、立地条件の良い1戸建ての2階屋で、4LDK、家賃は月11万円でした。よくこんな高い家賃を払って生活できていたなと、今になって時々思ったりしています。
 そのようなわけで、「草薙はお金を持っている人が多い。」というのがセールスマンや訪問販売員の常識なのかもしれません。なので悪徳商法の会社からもねらわれる地域なのでしょうね。きっと…

 何度も言うようですが、最近頻繁に報道されている悪徳リフォーム商法のニュースを観るにつけ、「引っかからなくて良かった。」と思う今日この頃です。

「幻想譜」・「最期の御大将 平重衡」

2005-07-15 23:59:59 | えりかの平安な日々 04~09
 今日は買い物のため静岡に行って来ました。

 まず一つ目の買い物場所はCDショップ。4日前に注文してあった東儀秀樹さんの「幻想譜」が入ってきましたという電話があったので、取りに行ってきたというわけです。
 何しろ、私の住んでいる町は駅前にあったCDショップがつぶれてしまったため、静岡まで買いに行くしかなくなってしまったのでした。
 この「幻想譜」というアルバムCDなのですが、京都の風俗博物館でいつも流れているCDだそうです。私はこのことを最近、なぎさんのブログ「晴れのち平安」で知りました。風俗博物館は大好きで京都に行くたびごとに訪れていましたが、そこでいつも流れている雅楽のBGMもとても気になっていました。なのでそれが東儀秀樹さんの「幻想譜」だとわかったので、早速静岡の大きなCDショップに問い合わせてみたのです。
 でも、雅楽のCDは静岡の大きなCDショップにも置いてなかったようで、取り寄せになってしまったわけです。

 そのようなわけで、今日無事に手に入れることができました。精算をすませ、「このCDが手に入ったのはなぎさんのおかげ、感謝感謝…。」と思ったとき携帯電話が鳴っているのに気がつきました。急いで出てみると、何と当のなぎさんからでした。
偶然ってあるのですね♪ なぎさん、久しぶりにお声が聞けて嬉しかったです。どうもありがとう♪

 家に帰って早速聞いてみたのですが、「そうそう、この曲も風俗博物館で流れていたわ♪」という曲ばかりで嬉しかったです。博物館で買った「光の君リカちゃん」と、お香の香りと「幻想譜」があれば気分はもう平安の世界です。何より、家にいて風俗博物館の気分が味わえるのが嬉しいです。

 二つ目の買い物、こちらは「徒然独白 ~手鞠のつぶやき~」の手鞠さんから教えて頂いた「最期の御大将 平重衡(中津文彦 PHP文庫)」という本を捜すことでした。この本は数年前に「平家慕情」というタイトルで発行されたのですが一時絶版となり、最近上記のタイトルになって復刊されたのだそうです。
題名の通り平重衡を主人公にした小説ですが、正室の藤原輔子さんが無視されている(彼女の役割を内裏女房と千手前が分け合う形になっているのだそうです)など、不満な点もあるようです。でも、平家の武将の立場から源平時代を描いた本ってなかなかありませんし、何より私は重衡さん大好きなので、読んでみたいと思い購入することにしました。

 それで、まずCDショップの近くの昔からある静岡商店街の本屋さんに行ってみたのですが、見つかりませんでした。そこで最近出来た、静岡で一番大きな駅前の本屋(地下1階から4階まで本屋さんのビル)に行くことにしました。
 しかし、こちらの本屋さんでも最初見つけることができませんでした。「この前の大河で重衡生け捕りの場面が放映されたので、本も売れてしまったのかな…。」と一瞬思ってしまいました。
 なので、取り寄せてもらおうと思って、一緒にいただんなさんに頼んで、この本のデータを本屋さんの中にある検索用コンピューターでコピーしてもらったところ、「在庫あり。」となっていたのです。そこでもう一度だんなさんに捜してもらったところ、一番下の段にありました。と言うわけで、こちらも無事に手に入れることができました。できるだけ早いうちに読んでみたいと思っています。

 それにしても、欲しい物を買うことはとても良い気分転換になりますね。
今日は気持ちがハッピー&すっきりです。


(追記)
 「最後の御大将 平重衡(平家慕情を改題)」について、「徒然独白 ~手鞠のつぶやき~」の手鞠さんにトラックバックをしていただきました。この本について興味を持たれた方はぜひ手鞠さんの記事もご覧下さいね。

大河ドラマ「義経」第27回&重衡生け捕り

2005-07-13 09:46:07 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第27回の感想です。

 やっと、義経の英雄としての、また指揮官としての部分が描かれましたね。
 そして、彼の戦の天才としての部分もよく現れていたと思います。
「三草山に敵がいる。」とかぎ取ったところはさすがです。
 軍を二つに分けたあと、鵯越の奇襲を実行するところを観て、「義経くんもやっと勇ましい武士に成長したわね。」と思いました。これなら、屋島や壇之浦での彼の描き方に期待できるかもしれません。でも、前回までの描き方が描き方だけに、あまりにも急に武士らしくなった義経に戸惑う部分もありましたが…。

 このように、今回は義経の描き方に関してはかなり満足だったのですけれど……、相変わらず今回もつっこみ所満載でした。特に、重衡の生け捕りのシーン、「あれはいったい何?……」という感じで、とても違和感がありました。

 その重衡については後に述べることにして、まず法皇さまからつっこませていただきます。

 「平家には負けてもらおう」って……。この時点の法皇さまは三種の神器を取り戻すことが第一の目的であって、勝敗についてはそれほど気にしていなかったと思うのですが?…。でも、院宣を出した以上は源氏に勝ってもらいたかったのでしょうね。
 それで、法皇さまが二月上旬に、平家の陣に対して和議についての書状を出していた事実があったかどうか。色々調べてみたのですが、どうしてもはっきりしたことはわかりませんでした。私の考えでは、一ノ谷合戦の直前、法皇さまは平家の陣に書状などは送っていないと思うのですが…。

 前回の感想でも書いたように、法皇さまは正月二十六日頃に、「静賢法印を和議の使者に遣わす。」という旨を書状に書いて平家の陣に送っています。しかし、二十九日には強硬派に押し切られるような形で平家追討の宣旨を出すこととなります。
 平家追討の宣旨を出した以上法皇は、「和議の使者は派遣しないことにした。」という書状をわざわざ平家の陣に送る……という馬鹿なことはしていないはずです。
つまり平家の陣ではずっと、静賢法印が和議の使者に来ると思いこんでいたということになります。そこへ範頼と義経の大軍が攻めてきたのですから、平家のみなさまはきっっと「法皇にだまされた。」と思ったはずです。
 つまり、ドラマで描かれていた合戦直前の法皇さまの書状は、史実ではないと思うのですが、平家は結果的には法皇にだまし討ちにされたということになります。
しかし史実での法皇さまご本人は、だまし討ちという意識が全くなかったと思うのですよね。。

 三草山の合戦から鵯越に至るまでの義経の動向は、だいたい「平家物語」の記述通りだったと思います。ただ、鷲尾三郎が出てきたのは良いとしても、一緒に出てきたのがお父さんではなく妹だったというのには戸惑ってしまいましたが…。
 それと、義経の周りには畠山重忠、和田義盛、佐々木高綱などの錚々たるメンバーの鎌倉武士がいたはずなのに、その人達の姿が全く見えなくて残念でした。さらに、義経軍の数も1万人ほどいたと言われていますが、画面を観る限りとてもそんなにいたとは思えませんでした。エキストラを使うなどして大軍に見せて欲しかったです。

 さて、一ノ谷合戦の描写は今までの橋合戦や宇治川合戦、法住寺合戦に比べるとかなり良かったと思います。というより、義経にとっては重要な合戦なのですから、あのくらいきちんと描いて当たり前なのですが…。

 でも、やっぱり不満はたくさんありました。
 史実ではこの一ノ谷合戦において、平通盛(教盛の子)、平敦盛(経盛の子)、平忠度(清盛の弟)、平経正(経盛の子)、平知章(知盛の子)など、たくさんの平家の公達が討ち死にしています。しかし、ドラマではそれらをすべてカットしていました。
義経が主人公だから仕方がないとは思うのですが、どれも一ノ谷合戦の名場面なのですから、ほんの少しでも映像で見せて欲しかったです。
 特に、敦盛が熊谷直実に討ち取られる哀切な場面と、知盛をかばって討ち死にする知章の壮絶な場面はぜひ観てみたかったです。そして知盛には、「鵯越の側にも軍勢を配置しておけば良かった。」と後悔させるより、自分の子供を死なせてしまったことに対して後悔させて欲しかったです。実際の知盛も、知章を死なせてしまったことに自責の念を禁じ得なかったと思うのです。

 それはともかく、私が一番がっかりしたのは、最初にも書いた重衡生け捕りの場面です。義経に矢を射ろうとして弁慶に生け捕りにされた重衡を観て、私の頭の中は「?」でいっぱいになりました。そして、画面の中に梶原景季の姿を捜してみたのですが見あたらなかったので、余計に混乱してしまいました。

 では、「平家物語」巻の九「重衡生け捕り」の項から、彼が生け捕りになった経緯を辿ってみますね。

 重衡は東側の生田の陣の副将軍でした。生田というと、範頼が攻め込んだ方ですよね。
 しかし、戦の結果は平家軍の惨敗でした。平家軍はちりぢりになり、重衡も乳母子の後藤盛長と主従二騎で、西に向かって逃走することとなります。それを追跡していたのが鎌倉軍の梶原景季と庄高家でした。
 海上には、逃走用の船も用意されていたのですが、追跡されている以上、乗り移ることもできなかったため、重衡と盛長は西に向かって逃走するよりほかはありませんでした。幸い二人とも名馬に乗っていたため、追跡する景季と高家との距離は徐々に広まっていきました。

 あせったのは景季たちです。そこで景季は意を決して、重衡主従に矢を射かけました。すると矢は重衡の乗った馬に当たります。馬は見る見るうちに弱り、またたく間に動けなくなってしまいました。
 それを見た乳母子の盛長は、自分の馬に乗り換えられたら困ると思ったらしく、馬にむちを当てて逃げていってしまいます。重衡は、「何という仕打ちを!…。死ぬも生きるも一緒だと誓ったのを忘れたのか。」と叫びますが、盛長は聞こえないふりをしてどんどん逃げていってしまいます。
 本来、乳母の一族というのは若君を守る親衛隊のようなものです。つまり、若君が出世をすればその恩恵を受けますが、若君の一大事には命をかけて守るというのが役目なのです。なので、盛長のこの行為はとんでもない裏切り行為でした。

 覚悟を決めた重衡は馬から降り、自刃しようとしたところを高家に生け捕られてしまいました。一緒に追跡をしていた景季もそばにいたはずです。「平家物語」は虚構もかなりありますが、この場面はかなり史実に近いのではないかと思います。

 つまり、弁慶が重衡を生け捕ったという今回のドラマでの描写は、全く根拠のない創作だと思うのです。多分、義経と重衡を劇的に再会させたくてこのシーンを作ったのでしょうけれど、私から見ると何ともやりきれない思いでした。景季が重衡を生け捕って義経の許に連れてくる。そして義経が名前を尋ねて二人が再会する……。せめてそのような描写にしても良かったような気がします。

 このドラマでは、義経を清盛と関わらせることによって「平家」を描きたかったのかもしれませんが、やはり無理があるのかもしれませんね。
 このように、今回の大河ドラマの流れを観ていると、義経を主人公にしたドラマではなく、単純に「平家物語」を放映した方が良かったのではないかとさえ思います。
 
 さて来週は、史実にはない義経の鎌倉一時帰還が描かれるようです。そしてなんと、義高の処遇について頼朝に直訴するとか…。
 そのようなわけで、いよいよ義高と大姫の悲劇が描かれるようです。これはかなり辛いシーンになるかもしれませんね。
 そして、義経と共に鎌倉に下る重衡にも注目です。

三色どんぶりを作りました♪

2005-07-11 17:04:13 | えりかの平安な日々 04~09
 今日は、昼間に家の外壁の工事をしていたため振動がひどかったです。ただでさえあまり調子の良くない私のパソコンなので、振動によってまたおかしくなったら大変……と、午前10時頃からパソコンの使用を控えていました。幸いなことに、工事は1日で終わりましたので、また安心してパソコンを使うことができます。

 それにしても今日は蒸し暑かったです。気温の高さよりも湿度の高さの方がこたえます。街を歩いていると、まるでサウナに入っているような気分でした。外出するときは、そろそろ帽子をかぶった方がいいかもしれませんね。

画像は、昨日の夕食に作った三色どんぶりです。
 しょうゆと酒を少し入れて炊いたご飯(これをさくらご飯というそうです。)に、ほうれん草のお浸し、炒り卵、鶏のひき肉を砂糖としょうゆで炒ったものがのせてあります。彩りもよくきれいに仕上がりました。
 ほのかに味がついたご飯と上にのっている具の味がマッチして、とてもおいしかったです。

田辺聖子の小倉百人一首

2005-07-09 14:15:41 | 図書室2
 私が歴史上の人物について一番最初に興味を持ったのは、小学校4年生のころ、家にあった百人一首のカルタを見たときだったと思います。
 その時、家族と「坊主めくりゲーム」というのをやっていました。中央にある百人一首の絵の入った方の札を重ねて、それを一人ずつ順番にめくっていきます。そして、坊主が出たら手許にある札は全部没収、逆に姫が出たら没収されている札をすべてもらえるというゲームでした。
 そのときに、「どうか姫が出ますように…」と祈りながらめくったのを思い出します。

 ところで、その姫様は全員とても素敵で、きれいに描かれていました。長い髪の毛と彩りのきれいな衣装を見て、子供心にもとてもあこがれたものです。そして、「この姫様達は大昔に実際に生きていた人なのだろうけれど、いったいどういう生涯を送ったのかしら。」ととても興味を引かれました。今考えると、私と平安時代との最初の出会いはこの時だったように思えます。
 でも、その姫様たちについて自分で調べてみることはしませんでした。ただ、小学6年の社会科で歴史を習ったとき、「紫式部」「清少納言」「小野小町」といった百人一首のカルタで見た姫様の中の数人の名前が教科書に載っていて、とても嬉しかったです。そして、そのような有名な方々は百科事典にも載っていたので調べることができましたが、大多数の姫様のことは載っていなかったので、残念ながら調べることができませんでした。

 その後私は彼女たちのことをすっかり忘れていました。再び思い出したのは二十代の前半、平安時代に本格的に興味を持ったときでした。そして、「百人一首の歌人たちのことをもっと詳しく書いた本はないかしら…」と思っていたときに出版されたのが、この「田辺聖子の小倉百人一首」です。

  この本は、百人一首に収められた百首の歌の現代語訳とその歌が読まれた背景はもちろん、私が一番知りたかった作者についてのエピソードなどがわかりやすく書かれていました。特に、小さい頃にあこがれた姫様たちのことを知ることができたのがとても嬉しかったです。

 またこの本は、百人一首の歌人たちの紹介と共に時代背景や歴史的なエピソードも盛り込まれています。なので、読みながら平安時代を中心に、飛鳥~鎌倉前期の歴史についても楽しく勉強できると思います。

 私はこの本を読んで、今まで知らなかった興味深いエピソードをたくさん知ることができました。
 例えば、宇多天皇は一時臣籍に降下して「源定省」と名乗り、父の光孝天皇の侍従をつとめていたこと、三跡の一人として有名な藤原行成の父義孝は、大変な美男で宮中の人気者だったが若くして亡くなってしまったこと、……などです。

 特に面白かったのは、平兼盛と壬生忠見の所に書かれてあった「天徳内裏歌合わせ」のエピソードでした。

 天徳内裏歌合わせとは、村上天皇御代の天徳四年(960)三月三十日に内裏にて行われた歌合わせです。歌合わせとは左右に分かれて歌の優劣を競うという優雅な遊びなのですが、この時の歌合わせは当代の有名歌人や殿上人が勢揃いした大がかりなものだったようです。
 そして宴もたけなわになった頃、右方から出されたのが平兼盛の「忍ぶれど 色にでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」で、左方から出されたのが壬生忠見の「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか」でした。
 どちらも優れた歌なので甲乙つけがたい……、と判者が迷っているとき村上天皇が「忍ぶれど…」と口ずさんだために、右の平兼盛が勝ちになったと言われています。
村上天皇ご自身は、判者と同様、どちらも甲乙つけがたいので取りあえず二首とも口ずさんでみようと思ったようですが…。
もしこの時天皇が、「恋すてふ…」の歌を先に口ずさまれていたら、壬生忠見の勝ちになっていたかもしれませんね。

 この本はこうした興味深い話が満載です。百人一首と平安時代を中心とした歴史の入門書としてお薦めです。そして、この本を読んで興味を持った歌人がいたら、その歌人についてさらに深く調べてみる……というのもきっと楽しいと思いますが…。

☆田辺聖子の小倉百人一首  田辺聖子著
 角川文庫 735円(税込み)

 

大河ドラマ「義経」第26回&一ノ谷合戦前の後白河法皇

2005-07-06 23:04:28 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第26回の感想です。

 「義仲の首をさらす」という範頼の言葉を聞いた義経、ものすごく哀しそうな顔をしていましたよね。「義仲殿は親族だから…」と異を唱えました。それで、範頼と景時にたしなめられていましたよね。
 私はこの場面を観て義経が心配になりました。頼朝からは確か、「義仲には情をかけるな。」と言われていましたから…。義経のこの行動が鎌倉に伝えられたらどうなるのでしょう?
 多分景時が書状によって頼朝に伝えたと思うのですが、案の定このことは頼朝の耳に入っていました。義経はまた一つ、頼朝の信頼を失ってしまったようです。

 そんなわけで義経くん、相変わらず覚悟がないですね…。静と二人でいるとき、「わしが望んでいたのはこういう生活だ。」と言っていたのを観て、「あなたはいったい何のために京都に来たの?義仲や平家と戦うためではないの?もっとしっかりしてよ…」と思わずつっこんでいました。

 ところで、もう出てこないと思っていた巴御前ですが、入京していたのですね…。
そして義経と再会……。「こんな事はあり得ない!」と、ここもつっこんでいました。彼女はこれからどのように描かれるのでしょうか?私個人としては義仲の菩提を静かに弔っているという風に描いて欲しいのですが、多分そのようには描かないのでしょうね。ひょっとしたら鎌倉に下るのかもしれませんが…。いずれにしても注目していようと思います。

 さて、平家の方に目を向けると……、西国で勢力を盛り返して何となく生き生きしているように見えました。特に、来るべき戦のための指揮をとっている知盛が良かったです。でも、「こんな険しい山から敵が攻めてくるわけがない」とは…。やはり少し油断があったのですね。「こちらにもちゃんと備えの兵を配置しておけば、あのように惨敗することはなかったのに…」と平家びいきの私は、どうしても思ってしまいます。
そして平家はやっぱり貴族化してしまっていて、戦のことがわかっていなかったのではと思わざるを得ませんでした。
 また、宗盛から通盛の補助役を命じられてしまった維盛の何とも言えない表情が印象的でした。富士川の合戦と倶利伽羅峠の合戦で敗北したとはいえ、戦の時は常に大将軍を勤めていた維盛です。なのでさぞ無念だっただろうなと思います。このことが、彼が戦線を離脱する複線になるのかもしれませんね。

 さて今回は、義仲の最期から一ノ谷合戦に至る数日間の出来事が描かれていたわけですが、頼朝、平家、後白河法皇三者の駆け引きをもう少し細かく描いて欲しかったです。そして、義経の行動も何か抽象的で、「これから大きな戦に出るのだ!」という整然とした気持ちが伝わってきませんでした。
静の戦勝祈願の舞いをあんなに長々と見せる時間があったなら、三者三様の駆け引きや義経の一ノ谷合戦への意気込みの描写に時間を使って欲しいと思いました。

 特に後白河法皇に関しては、調べてみるとこの時期に色々面白い動きをしていることがわかりました。そこで今回は、一ノ谷合戦を前にしての後白河法皇の行動にせまってみました。

 寿永三年正月二十一日に義仲が敗死すると、それまで公式には院政を止められていた後白河法皇は、ようやく政権を回復することとなりました。義仲と結んでいた藤原基房・師家は失脚し、法皇の寵愛が深かった藤原基通が摂政に返り咲きます。この時の後白河法皇は、目の上のこぶであった義仲がいなくなったことにほっとしていたことでしょうね。
 そこで次に誰を頼るかを考えたとき、当然鎌倉の頼朝、そして彼の代官である範頼や義経が頭に浮かんだと思います。以前から頼朝としばしば書状のやりとりをしていた法皇は、都に入ってきた範頼や義経を喜んで迎えたと思います。

 しかし、その頃の法皇にとって一番の問題は三種の神器のことではなかったでしょうか?
 三種の神器とは、天皇の象徴である八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三つの宝物のことです。これらの宝物が天皇のそばに置かれていることで、正式な天皇と認められるというわけです。
 ところが、平家の都落ち直後に即位した後鳥羽天皇のそばには、天皇のしるしと言うべきこの三種の神器がありませんでした。なぜならば、平家が都落ちと共に西国に持ち去っていたからです。平家は安徳天皇を奉じており、そのそばに三種の神器があることによって安徳天皇の正当性を主張できるわけです。逆に言うと都にいる後鳥羽天皇は、そばに三種の神器がないために正式な天皇ではないということもできたわけです。
 そのようなわけで、幼い後鳥羽天皇に代わって院政を行っていた後白河法皇は、こちらの正当性を主張するために何とかして三種の神器を取り戻さなくては……と、ずっと思っていたようです。そこで西国の平家にしばしば書状を送り、「三種の神器を返すように。」と何度も言上していました。しかし当然のことながら、平家はこれには全く耳を貸しませんでした。

 一ノ谷に陣を敷いていた平家と都に入ってきた鎌倉軍の衝突はほとんど避けられないものとなっていたのですが、どうやらこの時期の後白河法皇は、「神器を返してもらえるなら平家と和睦してもいい。」と考えていたようなのです。

 というのは正月二十二日、後白河法皇は摂関家の実力者で見識のある藤原兼実に、「神器はどうすべきか。追討軍と一緒に院の使者を派遣してはどうか。」と相談を持ちかけているからなのです。それに対して兼実は「神器を無事に取り戻すなら追討軍は派遣すべきではない。平家に和平の使者を派遣し、頼朝にも和平の使者を派遣して仔細を申し述べるべきだ。追討軍と一緒に和平の使者を派遣しても意味がない。」と進言しています。(玉葉による)この兼実の言葉は、有職故実に明るく、堅実な彼の人柄がよく現れているような気がします。

 二十六日には法皇側近の僧である静賢法印(信西入道の遺児)を、和平の使者として平家の陣に派遣するという話が具体的になっていたようです。静賢法印が使者に立つという話は平家の陣中にも伝えられました。この噂を聞いて兼実は安心したようです。
 しかし後白河法皇の周囲では、「平家と和睦して神器を取り戻すべきだ。」という穏健派と、「平家は追討すべきだ。」という強硬派が激論を重ねていました。そして、あくまでも平家追討に執念を燃やす頼朝の思惑なども重なり、法皇は結局頼朝に平家追討の宣旨を出すことになります。
このような動きの中、静賢法印は使者に立つことを辞退しています。

 なお、後白河法皇が平家追討の宣旨を下したのは正月二十六日であるという事が、今までの定説となっていたようです。しかし、安田元久著「後白河上皇」には、上記に挙げたような経緯や正月二十六日説の根拠が薄いことなどから正月二十九日の間違いではないかと記述されていました。そして、法皇の宣旨を得て官軍となった鎌倉軍は同正月二十九日、意気揚々と都を出発することとなります。(吾妻鏡による。)

 ところで、「平家は追討すべきだ。」という強硬論を唱えた法皇の側近の中に大変面白い人物がいましたので、ついでに紹介させていただきます。

 その人の名は平親宗……。何と、都落ちをした平時忠・時子の同母弟(異母弟という説もあるようです。)なのです。
 彼は早くから兄の時忠とは別行動をしていました。つまり平家とは距離を置き、後白河法皇に近づいていた人物だったようです。もちろん平家の都落ちにも参加していません。
 都落ちした平家の公達は寿永二年八月に全員解官されています。都落ちしなかった頼盛も一時的に解官されるのですが、平家の縁者であるのにもかかわらず親宗は解官されることもなく、参議右大弁として官界で活躍していました。但し、義仲のクーデターによって解官されることとなるのですが、このことは親宗が法皇の側近であった証拠のように思えます。

それにしても、平家追討を法皇に唱えていた親宗の心中はどうだったのでしょうか…。
 平家の陣中には兄や姉、甥達がいるはずです。そのような血縁者のことを全く考えていなかったのか、それとも清盛によって栄達した兄や甥達への復讐のつもりだったのか……。いずれにしても色々思うことは多かったはずです。

 さて来週はいよいよ一ノ谷合戦ですね。相変わらず覚悟が定まっていない感じの義経は、いったいどのような行動を取るのでしょうか?まさか、成り行きに任せてひよどりごえの奇襲をするという描き方はされないと思いますが…。
 もしかすると優柔不断で貴族ぼけしてしまったような感じのまま、義経は平泉まで行ってしまうのでしょうか?もしそうならば、今までの英雄像がうすれてしまうような気がします。
 何はともあれ、来週も期待半分、心配半分です。