☆生没年 1143~1165
☆在位期間 1158~1165
☆両親
父・後白河天皇 母・藤原懿子
☆略歴
名は守仁。後に後白河天皇となる雅仁親王の第一皇子として誕生しました。生後間もなく母を失ったため、藤原得子(美福門院)に養育されることとなります。
久安六年(1150)十二月、北白河殿において着袴。久寿二年(1155)九月二十三日、親王宣下。即日立太子。同十二月、元服。保元三年(1158)八月十一日践祚します。
永万元年、第二親王順仁(六条天皇)に譲位し、七月二十八日、二条東洞院殿において崩御。陵は京都市北区にある香隆寺陵。
強い性格だったらしく、天皇による親政を主張し、院政を行おうとする父、後白河上皇と対立しました。そのため、天皇側近の藤原経宗や藤原惟方が流罪になるという事件も起きました。
ちなみに、経宗は天皇の伯父、惟方は乳母子で、2人は天皇側近として権力を握ろうと画策したと言われています。
また、この2人は、近衛天皇の后であった藤原多子を入内させたいと願う天皇に協力し、後白河上皇を一時幽閉して、多子の入内を実行したとも言われています。多分、天皇の命で行ったことなのでしょうね。二条天皇の性格の強さが伝わってくる話でもあります。
また、二条天皇が崩御の直前、位を我が子、順仁親王に譲ったのは、父への最後の抵抗だったかもしれませんね。
☆父方の親族
祖父母
祖父・鳥羽天皇 祖母・待賢門院藤原璋子(藤原公実女)
主なおじ
崇徳天皇 近衛天皇 覚姓法親王
主なおば
統子内親王(上西門院) 子内親王(八条院) (女朱)子内親王(高松院)
主ないとこ
重仁親王(父は崇徳天皇)
海恵(母は(女朱)子内親王
☆母方の親族
祖父母
祖父・藤原経実 祖母・藤原公実女
*藤原経実は、道長の孫師実の子で、藤原公実は閑院流藤原氏の人物。つまり二条天皇の母方は、摂関家と閑院流藤原氏の血を受け継いでいるということになります。閑院流藤原氏についてはこちらの記事からご覧下さい。
☆主なおじ
藤原経宗 藤原光忠 藤原経定
主ないとこ
藤原頼実(父は藤原経宗)
*藤原経宗の子孫は、大炊御門家として後世まで続いた。
☆主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*高倉天皇 *守覚方親王 *以仁王
☆主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
*亮子内親王(殷富門院) *式子内親王 *観子内親王(宣陽門院)
☆主なおい
安徳天皇 後鳥羽天皇 守貞親王 惟明親王(以上、父は高倉天皇)
北陸宮(父は以仁王)
☆主なめい
功子内親王 範子内親王 潔子内親王(父は高倉天皇)
☆后妃と皇子・皇女
(女朱)子内親王(鳥羽天皇皇女)
藤原多子(藤原公能女)*もと近衛天皇皇后 二代の后と呼ばれた。
藤原育子(藤原実能女)
伊岐致遠女 → 順仁親王(後の六条天皇)
春日局(中原師元女) → (イ善)子内親王
☆末裔たち
二条天皇は、位を我が子順仁親王(六条天皇)に譲って崩御します。しかし、六条天皇は3年後に退位、平清盛の妻、時子の甥に当たる異母弟、高倉天皇が即位します。
六条上皇は13歳で崩御し、皇女の(イ善)子内親王は生涯独身でしたので、二条天皇の血統は絶えてしまいました。
ところで、二条天皇の后妃のうち、(女朱)子内親王と藤原多子については、当ブログの歴史人物伝ですでに紹介しましたので、詳しくは「后妃と皇子・皇女の項からリンクを貼ってあるそれぞれの記事をご覧下さい。
ここでは、二条天皇の中宮となった藤原育子を紹介したいと思います。
☆藤原育子(1146~1173)
二条天皇の中宮。父は藤原実能(閑院流藤原氏) 母は源顕俊女(関白藤原忠通家の女房督殿)。母の縁で藤原忠通の養女となります。
以下、彼女の経歴を列挙します。
応保元年(1161) 二月十七日入内。従三位に叙され、二十七日には女御となり飛香舎に入る。
応保二年(1162)、中宮に冊立される
永万元年(1165)、七月二十八日、二条天皇崩御。
仁安三年(1168)宇治大僧正覚忠を戒師として出家。
承安元年(一一七一)、御所高松殿が放火にあい、五条中納言藤原邦綱の東山第に移る。
承安二年(1172)、皇后となる。
承安三年(1173)八月、崩御。
育子は順仁親王(六条天皇)の母の身分が低かったため、天皇を自分の養子として養育しました。しかし、二歳で即位した天皇は五歳で退位、そのあと、ほとんど世捨て人のようになってしまった我が子を、どのような思いで眺めていたのでしょうか。
なお、育子は上でも書きましたように、承安元年の火災のあと、藤原邦綱の東山第に移っていますが、六条上皇はこの東山第で崩御しています。そのためこの時、上皇も育子と一緒に東山第に移ったものと思われます。
育子は上皇に先立って崩御しますが、最後まで上皇の行く末を気にかけていたと思います。
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☆在位期間 1158~1165
☆両親
父・後白河天皇 母・藤原懿子
☆略歴
名は守仁。後に後白河天皇となる雅仁親王の第一皇子として誕生しました。生後間もなく母を失ったため、藤原得子(美福門院)に養育されることとなります。
久安六年(1150)十二月、北白河殿において着袴。久寿二年(1155)九月二十三日、親王宣下。即日立太子。同十二月、元服。保元三年(1158)八月十一日践祚します。
永万元年、第二親王順仁(六条天皇)に譲位し、七月二十八日、二条東洞院殿において崩御。陵は京都市北区にある香隆寺陵。
強い性格だったらしく、天皇による親政を主張し、院政を行おうとする父、後白河上皇と対立しました。そのため、天皇側近の藤原経宗や藤原惟方が流罪になるという事件も起きました。
ちなみに、経宗は天皇の伯父、惟方は乳母子で、2人は天皇側近として権力を握ろうと画策したと言われています。
また、この2人は、近衛天皇の后であった藤原多子を入内させたいと願う天皇に協力し、後白河上皇を一時幽閉して、多子の入内を実行したとも言われています。多分、天皇の命で行ったことなのでしょうね。二条天皇の性格の強さが伝わってくる話でもあります。
また、二条天皇が崩御の直前、位を我が子、順仁親王に譲ったのは、父への最後の抵抗だったかもしれませんね。
☆父方の親族
祖父母
祖父・鳥羽天皇 祖母・待賢門院藤原璋子(藤原公実女)
主なおじ
崇徳天皇 近衛天皇 覚姓法親王
主なおば
統子内親王(上西門院) 子内親王(八条院) (女朱)子内親王(高松院)
主ないとこ
重仁親王(父は崇徳天皇)
海恵(母は(女朱)子内親王
☆母方の親族
祖父母
祖父・藤原経実 祖母・藤原公実女
*藤原経実は、道長の孫師実の子で、藤原公実は閑院流藤原氏の人物。つまり二条天皇の母方は、摂関家と閑院流藤原氏の血を受け継いでいるということになります。閑院流藤原氏についてはこちらの記事からご覧下さい。
☆主なおじ
藤原経宗 藤原光忠 藤原経定
主ないとこ
藤原頼実(父は藤原経宗)
*藤原経宗の子孫は、大炊御門家として後世まで続いた。
☆主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*高倉天皇 *守覚方親王 *以仁王
☆主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
*亮子内親王(殷富門院) *式子内親王 *観子内親王(宣陽門院)
☆主なおい
安徳天皇 後鳥羽天皇 守貞親王 惟明親王(以上、父は高倉天皇)
北陸宮(父は以仁王)
☆主なめい
功子内親王 範子内親王 潔子内親王(父は高倉天皇)
☆后妃と皇子・皇女
(女朱)子内親王(鳥羽天皇皇女)
藤原多子(藤原公能女)*もと近衛天皇皇后 二代の后と呼ばれた。
藤原育子(藤原実能女)
伊岐致遠女 → 順仁親王(後の六条天皇)
春日局(中原師元女) → (イ善)子内親王
☆末裔たち
二条天皇は、位を我が子順仁親王(六条天皇)に譲って崩御します。しかし、六条天皇は3年後に退位、平清盛の妻、時子の甥に当たる異母弟、高倉天皇が即位します。
六条上皇は13歳で崩御し、皇女の(イ善)子内親王は生涯独身でしたので、二条天皇の血統は絶えてしまいました。
ところで、二条天皇の后妃のうち、(女朱)子内親王と藤原多子については、当ブログの歴史人物伝ですでに紹介しましたので、詳しくは「后妃と皇子・皇女の項からリンクを貼ってあるそれぞれの記事をご覧下さい。
ここでは、二条天皇の中宮となった藤原育子を紹介したいと思います。
☆藤原育子(1146~1173)
二条天皇の中宮。父は藤原実能(閑院流藤原氏) 母は源顕俊女(関白藤原忠通家の女房督殿)。母の縁で藤原忠通の養女となります。
以下、彼女の経歴を列挙します。
応保元年(1161) 二月十七日入内。従三位に叙され、二十七日には女御となり飛香舎に入る。
応保二年(1162)、中宮に冊立される
永万元年(1165)、七月二十八日、二条天皇崩御。
仁安三年(1168)宇治大僧正覚忠を戒師として出家。
承安元年(一一七一)、御所高松殿が放火にあい、五条中納言藤原邦綱の東山第に移る。
承安二年(1172)、皇后となる。
承安三年(1173)八月、崩御。
育子は順仁親王(六条天皇)の母の身分が低かったため、天皇を自分の養子として養育しました。しかし、二歳で即位した天皇は五歳で退位、そのあと、ほとんど世捨て人のようになってしまった我が子を、どのような思いで眺めていたのでしょうか。
なお、育子は上でも書きましたように、承安元年の火災のあと、藤原邦綱の東山第に移っていますが、六条上皇はこの東山第で崩御しています。そのためこの時、上皇も育子と一緒に東山第に移ったものと思われます。
育子は上皇に先立って崩御しますが、最後まで上皇の行く末を気にかけていたと思います。
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