平安夢柔話

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(示某)子(みわこ)内親王 ~物語や和歌に慰められて

2016-02-07 16:08:34 | 歴史人物伝
 最近、7,8年前に読んだ歴史小説を再読することが多いです。
 しかもそれらの小説、みんな面白くてはまってしまう。
 昨年の11月にこちらで紹介した「望みしは何ぞ」以前に書いた記事に追記した「末世炎上」など…。

 そしてやはり、以前に紹介したことのある「七姫幻想」もその一つ。七夕の七姫をモチーフに、機織りを家業とするある一族の古代から江戸時代までの歴史を描いた連作小説。再読にも関わらず面白くて3日で読了しました。

 それで、「七姫幻想」でネット検索をかけたら、こんなページがヒットしました。
 株式会社双葉社 | 森谷明子「七姫幻想」

 著者の森谷明子さんが、「七姫幻想」の創作の裏側について語った記事だそうです。興味深く読みました。

 で、びっくりしたのは、私がこの連作集の中で一番好きな「朝顔斎王」について語った箇所。

 この小説は後朱雀天皇の皇女で賀茂斎王を勤めた娟子内親王と源俊房の物語なのですが、娟子内親王の後任の賀茂斎王で、、彼女の異母妹に当たる(示某)子内親王も、「みわ」という名前で登場します。
 その(示某)子内親王、病気で斎王を退下した、しかも狂病で亡くなったとは…。知らなかった。というか、本で読んだはずなのに忘れてた。
 確かに小説の(示某)子内親王、思い込みは強いし、夜中に斎院御所を抜け出すなど、かなり破天荒な皇女さまに描かれています。
 それで、実際の彼女はどんな女性だったのかとても気になり、少し調べてみることにしたのでした。

 では、平安時代史事典と岩佐美代子先生の「内親王ものがたり」をもとに、彼女の人生を追ってみることにします。

 (示某)子内親王(みわこないしんのう)は、長暦三年(1039)八月、丹波守源行任(藤原彰子の乳母子)第で産まれました。
 父は後朱雀天皇。母は中宮藤原(女原)子(藤原頼通養女)、実父は一条天皇皇子敦康親王。敦康親王の母は「枕草子」の清少納言が仕えていた藤原定子なので、(示某)子内親王は定子の曾孫に当たります。
 なお、敦康親王室と頼通室隆姫女王は具平親王を父とする姉妹だったので、(女原)子は早くから頼通に養われていたようです。

 しかし、(女原)子は(示某)子を産んで9日後に世を去ってしまいます。祖母の定子が(女美)子内親王を産んですぐ亡くなってしまったことを彷彿とさせますが…。まだ数え2歳の祐子内親王、産まれたばかりの(示某)子を残していかなければならなかったことはさぞ心残りだっただろうと拝察されます。

 それでも、母が関白頼通養女ということで外戚はしっかりしており、同年十二月、百日の儀に際し内親王宣下されます。
 皇子が産まれなかったことに頼通は落胆しましたが、母を失った2人の皇女を妻隆姫女王の自邸、高倉第に引き取り、大切に養育しました。

 翌年十一月、姉の祐子内親王は准三宮(太皇太后・皇太后・皇后に准する位)の宣旨を受け、家司(事務局長)に頼通の弟、長家が任じられます。
 そして十二月、(示某)子内親王の家司に頼通の養子になっていた源師房(内親王の母方の祖母の兄弟)が任じられます。頼通はこのように、信頼できる弟や養子を2人の内親王の側近に任じたのでしょうね。頼通が、2人の内親王をどんなに大切にしていたかがわかるような気がします。

 寛徳二年(1045)、父の後朱雀天皇が崩御します。
 それに伴い、賀茂斎王を勤めていた異母姉、娟子内親王が斎王を退下します。

 翌永承元年(1046)、(示某)子内親王が賀茂斎王(以下、斎院と記します)に穆定されます。その時内親王は8歳でした。
 永承三年、10歳になった(示某)子内親王は潔斎を終えられ、紫野の斎院御所に入りました。その時の行列の華やかさは、藤原資房の日記「春記」にも記載されています。最も資房は、女房たちの装束について、「贅沢きわまりない」と
少し批判的に見ていたようですが…。

 さて、斎院御所に入った(示房)子内親王はどのような日常を送っていたのでしょうか。

 もちろん、斎院としての勤めや神事もたくさんあったと思いますが、大斎院と呼ばれた選子内親王と同じく、歌才や文才に優れた女房が多かったようで、御所ではしばしば歌合わせが催されました。
 そんな女房たちの影響を受けたのでしょうか。(示房)子内親王も自ら歌を詠むようになったと想われます。

 彼女が詠んだ歌で最も初期のものは、永承四年十二月、11歳の時に行われた歌合わせに出詠した作品。               

谷深くすむ鴬もわがごとや心にかけて春を待つらむ

 谷深くの古巣に住む鴬も、私のように絶えず気にかけて、春の来る
のをひたすら待っているだろうか

 こうして2年ほど、「宮殿」という名前で何回か歌合わせに出詠していたのですが。

 14歳の永承七年四月賀茂祭御禊、次いで神事を執り行ったのち、内親王は突然、背中に腫れ物が出来て重症に陥ります。驚いた頼通は、自ら斎院御所に赴き、治療法についての相談をしています。その後、女房たちは歌合わせや物語合わせを行って内親王を慰めていたようですが、自らは出詠出来ないくらいの病身になってしまいました。

 ようやく天喜五年(1057)になって2回ほど出詠しているようですが、翌康平元年(1058)、20歳で病気を理由に斎院を退下します。

 斎院退下後は、曾祖父具平親王から伝領した六条殿に住み、「六条斎院」と称されました。
 相変わらず病気がちで心も病んでいたようですが、岩佐美代子先生によると、いつもそのような状態ではなく、大好きな物語や和歌、付き従う女房たちに慰められ守られて、心穏やかに過ごしていた時期もあったのではないかとのこと、私もそのように考えたいと思います。
 晩年は祖父頼通ゆかりの宇治に住み、時期はわかりませんが出家もしたようです。
 永長元年(1096)九月に薨去。なお、「狂病」と記述されているのは藤原宗忠の日記「中右記」のようです。

 (示某)子内親王の功績は何と言っても二十数回に及ぶ歌合わせ、天喜三年(1055)の物語合わせ、そして、多彩な女房たちとの文化サロンを作っていたことでしょうか。
 美作・中務・讃岐・出羽・小馬・加賀左衛門などの歌人。「狭衣物語」は、六条斎院宣旨の作と言われています。
 また、天喜三年の物語合わせにより、「堤中納言物語」に収められた「逢坂超えぬ権中納言」は小式部という女房の作と推定されていますし、散逸してしまった多くの物語の作者も、(示某)子内親王の女房たちだったようです。

 これだけ多くの女房を集められたのは祖父の頼通の力も大きいでしょうけれど、やはり主人の(示某)子内親王が一条朝に華やかな斎院文化サロンを作っていた選子内親王と同じく、頭の良く、貫禄ある女性だったからではないでしょうか。

 最後に、勅撰集に選ばれた(示某)子内親王の歌を一首、紹介します。岩佐美代子先生は斎院在任中、、18、9歳の頃の作と推定されています。

賀茂の斎院と聞えける時、本院の透垣に、朝顔の花の
咲きかかりて侍りけるを詠める
神垣にかかるとならば朝顔もゆふかくるまで匂はざらめや        (詞花集三四)

斎院であられた時、その御所の垣根に朝顔のからんで咲いていたのを詠まれた歌。
「神域であるここの垣根に咲くとなれば、朝顔だって、神垣に木綿をかけるように、『夕かける』(夕方だよと告げる)まで美しく咲き匂つていないはずはないわ」

 ところで、気になるのは、同じく斎院を勤めた異母姉、娟子内親王を(示某)子内親王がどのように見ていたのかということです。
 やはり母の違う姉、しかも、この記事の最初の方で触れた「七姫幻想」の中の一編「朝顔斎王」にも描かれていたように、自分の持っていない物(生母が健在、相思相愛の恋人など)を持っていることなど、複雑な思いが多々あったと思います。
 「朝顔斎王」は、娟子内親王が
「私は物語の斎院とは違う生き方をしよう」
と決心するところで終わります。                         
 このあと娟子内親王は源俊房のもとに走り、そのため俊房は謹慎処分を受けることになるのです。しかし2人は周囲の反対にもめげず、愛を貫き通したのでした。

 当時、(示某)子内親王は斎院在任中。それでも紫野は平安京の目と鼻の先、2人の噂はしっかりと耳に入っていたと思います。そして、やはりかなりのショックを受けたのではないでしょうか。

 しかし、娟子内親王とは逆に(示某)子内親王は
「私は姉とは違う、物語の斎院のように一生を神の妻として生きよう。神垣に咲く朝顔のようにりんとして…。」
とその時、、決心したのかもしれません。
 物語の斎院とはもちろん、「源氏物語」の朝顔斎院のことです。
 物語好きだった(示某)子内親王は当然、「源氏物語」を愛読していたはずですし、自分と同じ立場の朝顔斎院には親近感を持っていたと思うのです。源氏に言い寄られてもその愛を拒み、ひっそり生きていく姿に…。
 勅撰集に選ばれた朝顔の歌からは、そんな彼女のりんとした姿が見えるような気がします。

 周囲の反対にもめげず、愛する人のもとに走った娟子内親王の生き方も好きですが、(示某)子内親王の「私は私」という生き方も素敵だと思います。
そして、大好きな物語や和歌に慰められ、病気がちでも心穏やかに生涯を終えたと考えたいです。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『内親王ものがたり』 岩佐美代子 岩波書店

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藤原実方 ~悲運の人?、それとも…

2014-10-13 08:59:26 | 歴史人物伝
 「百人一首」51番目の歌

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな もゆる思ひを

の作者藤原実方について、出世コースの左近衛中将にまで昇進しながら突然陸奥守に任じられて任地に下ったこと、様々な逸話など、以前から興味を持っていて、「いつか人物伝に書いてみたい」とずっと思っていました。そこで今回、久しぶりの人物伝で取り上げることにしました。

 では彼のプロフィールと系譜から

藤原実方(ふじわらのさねかた) ?~998
 父は小一条流の藤原定時。母は源雅信女
 祖父は藤原師尹、父方の叔父に済時、いとこに三条天皇皇后(女成)子。母方の叔母に藤原道長室の源倫子などがいます。

 実方は早く父母と死別したため、叔父済時の養子となり、また、済時室の母である源延光室(藤原敦忠女)にも養育されたようです。

 天延元年(973)叙爵。右兵衛権佐、左近少将、右馬頭、左近中将等の武官を歴任。このように名門小一条流の子息らしく、出世コースを歩んでいました。

 その間に歌人としても頭角を現し、寛和二年(986)六月、内裏歌合に出詠、藤原道信・為任・公任・道長、源経房・宣方らと親交を持ちました。『道信集』三二)、家集一巻を遺し、『拾遺』(一二四・六七〇ほか)以下の勅撰集に六七首入集しています。。

 また、大変な色好みで、関係を持った女性は小大君・源満仲女・東三条院藤原詮子の女房小侍従・清少納言など二十人以上にも及んだと伝えられています。歌がうまくて美男子で、宮中の女房たちの人気の的だったのでしょうね。

 このように宮中の人気者、出世コースを歩き、公卿の仲間入りも間違いなしと思われていたのですが、突然彼の運命が一変します。

 左近衛中将を務めていた長徳元年(995)正月、突然陸奥守に任じられたのでした。
 陸奥守というと受領、左近衛中将を勤めていた者が任じられる官職ではありません。普通に考えると左遷です。

 実方がどうして陸奥守に「左遷」されたのかについてはいくつかの逸話が伝わっています。

 ある時、殿上人たちが東山でお花見をしていると、突然雨が降ってきました。
 さあ、大変…、とみんな騒ぎ出したのに、実方だけは桜の下で雨にぬれたまま、「桜がり 雨は降りきぬ 同じくは 濡るとも花の かげにかくれん」と風流に歌を詠んでいました。当然、装束はびしょ濡れです。

 人々はこれを面白く思い、藤原斉信がこのことを一条天皇に奏上しました。その席にいたのが能書家としても知られる藤原行成です。

 で、行成はこう言いました。
「歌は面白いけれど、実方ってやつ、馬鹿じゃないの?」

 確かに…。やっていることが普通の人とちょっと違いますよね。

しかしそれを聞いた実方は激怒します。

 それから間もなく、実方は行成と宮中で口争いすることがあり、怒った実方は行成の冠をつかんで落とし、庭に投げ捨ててしまいました。

 当時の貴族にとって、冠を取られるというのはひどい侮辱でした。
 しかし行成は落ち着いて、宮中の雑益をする役人を呼んで冠を拾わせ、頭にかぶると実方に向かい、このように言ったとか。

「これはこれは、ご乱暴な。どうしてこのようなお仕打ちを受けますのか、向学のために聞かせていただきたいものです。」

 実方はしらけて逃げてしまったそうです。

 これを物陰から見ていた一条天皇は、行成の冷静沈着な態度に感銘し蔵人頭に任じ、実方の軽率さを不快に思われて陸奥守に左遷したということです。でもそこは王朝の雅さで、「陸奥の歌枕を見て参れ」と言って送り出したとか。

 しかしこれはあくまでも逸話であって、事実ではなさそうです。

 実方は陸奥守赴任に当たって官位が一段階上がっていること、朝廷で赴任の儀式が行われていること、花山院を初め多くの貴族たちから別れの歌が送られていること、そのためその頃、陸奥で不穏な動きがあり、有能な武官であった実方に何らかの使命を与えて陸奥に派遣したという、非左遷説が有力なようです。

 でも、説話の中には史実も隠されているのでは?と考えてしまう私、このような説話が誕生したということは、実方と行成って、仲が悪いことで有名だったのでは?
 実際、行成は真面目で冷静な人物、ただ、『大鏡』にも記述されていますが歌は苦手だったようです。気が短く感情をすぐに表に出し、歌が得意な実方とは性格的にも合わなかったのではないかと思います。

 それで、都から遠く離れた陸奥に赴任した実方はどうなったのでしょうか?

 赴任から4年目の長徳四年(998)、実方は陸奥で亡くなりました。道祖神の前を馬で通ったとき、下馬しなかったことで祟りに遭い、落馬して亡くなったと伝えられています。生年不詳なので正確な享年はわかりませんが、だいたい40歳くらいだったようです。「道祖神なんか関係ねえ」と思ったところがいかにも彼らしいというか。
 彼が「悲劇の人」と言われるのは都に帰ることなく遠い陸奥で亡くなったことが原因のようです。

 ちなみに『百人一首』に採られている歌は、「こんなにあなたのことを愛していて、この思いは伊吹山のもぐさのようにくすぶっているのに、あなたは気がついては下さらないのでしょうね。」という意味です。

 誰に贈られた歌なのかは不明ですが、田辺聖子さんの『田辺聖子の小倉百人一首』によると、もしかしたら贈られたのは清少納言かもしれない、とのことです。

 しかし、実方が陸奥で亡くなったあと、彼の亡霊が上賀茂神社の御手洗川に映ると聞いた清少納言は、「嫌だ、気味悪いわ」と言ったとか。田辺さんによるとどうも清少納言の方は、実方を本当に愛してはいなかったのではないかとのことでした。

 それにしても実方は陸奥でどのような生活を送っていたのでしょう?

 調停から命じられた陸奥の不穏な動きへの探索は真面目にやっていたと思いますが、気の短い性格ゆえ、時折 、現地の豪族といざこざを起こしていたのではと心配になってしまいます。

 その一方、源重之などの歌人たちとの交流もあったようですし、美しい女性を近づけて歌も思い切り詠んでいたのでは。

 都から遠く離れた土地で亡くなったという意味で悲運な生涯だったかもしれませんが、我が道を行くという実方さんは案外、都から遠く離れた陸奥でも毎日を楽しく生きていたのでは?そんな気がします。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞 監修 角川学芸出版
 『百人一首 100人の歌人』 歴史読本特別増刊 新人物往来社
 『田辺聖子の小倉百人一首』 田辺聖子 角川文庫

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(女是)子内親王 ~専制君主に愛された皇女

2013-01-19 10:44:21 | 歴史人物伝
 以前私は、「白河天皇というお方は罪なお方だ」と書いたことがあります。
 白河天皇(その頃は退位して上皇)が、養女である藤原璋子を寵愛し、彼女が鳥羽天皇との間にもうけたとされる崇徳天皇は実は白河上皇の子だと噂されたことが、後に保元の乱を引き起こすきっかけになったのですから。

 白河天皇は専制君主として知られていますが、どうやら自分の気に入った女性を異常とも言えるくらい寵愛するところもあったようで、中宮の藤原賢子が重病になっても里第に返さず、内裏で彼女を抱きしめて離さなかったそうです。ケガレを嫌う内裏において、このような天皇の行動は異例でした。そして賢子が世を去ると天皇は、ショックのあまり悶絶し、宮中は大混乱に陥ったと伝えられています。。

 そしてもう一人、白河天皇が異常に愛した女性がいました。その女性こそ、これからお話しする(女是)子内親王です。
 では、彼女のプロフィールからご紹介します。

☆(女是)子内親王(やすこないしんのう)
 1076~1096、父は白河天皇、母は藤原賢子(源顕房女・藤原師実養女)

 彼女に変化が起きたのは承暦二年(1078)八月、数え3歳の時でした。伊勢の斎王に卜定されたのです。そして2年後、(女是)子は伊勢に下向することとなるのです。
 伊勢で彼女はどのような生活を送っていたのでしょうか。後年、彼女は田楽(庶民の田植え神事に由来するもので、太鼓を打ち鳴らしながら集団で踊り興じる芸能)見物が好きになることを考えると、好奇心旺盛だったことが想像されるので、伊勢でも案外楽しく暮らしていたのではないかと、個人的に思ったりします。

 応徳元年(1084)、上の方でも書きましたが、白河天皇の中宮で(女是)子の母である藤原賢子が崩御します。(女是)子は母の喪によって斎王を退下し、帰郷します。帰京後は外祖父源顕房所有の六条殿を御所としました。また、すぐには父と対面せず、同母弟の善仁親王(後の堀河天皇)と同居していたようです。

 (女是)子内親王が父と帰京後に初めて対面したのは、寛治元年(1087)のことでした。
 すでに12歳になっていた(女是)子と、白河上皇(この頃は退位していましたのでこのように呼ぶことにします。)はどのような気持ちで対面したのでしょうか。
 おそらく(女是)子は、母の賢子に生き写しではなかったかと推察されます。賢子を異常に愛していた上皇は、賢子が生き返ったようだ、美しく成長したこの娘を絶対に幸せにしてあげようという気持ちになったのではないでしょうか。その後彼女は、父と行動をともにすることが多くなります。

 同年、(女是)子内親王は、堀河天皇の准母として入内します。母と行っても、(女是)子と堀河天皇の年齢差はたったの三歳でした。
 寛治五年(1091)、(女是)子は中宮に立てられます。これは、寛平九年(897)、醍醐天皇の養母として立后した藤原温子の例に倣うものですが、未婚の皇女が中宮になった先例はありません。白河上皇がいかに(女是)子を寵愛していたかがわかる出来事だと思います。更に二年後、(女是)子は郁芳門院の院号を賜りました。

 中宮、女院となった(女是)子はあいかわらず白河上皇とともに暮らし、その御所では歌合せなどが催されて、多くの女房や廷臣に囲まれる華やかな日常が繰り広げられていました。
 しかし、(女是)子内親王は体が弱く、心配した白河上皇は彼女を伴い、寺社参りに出かけていたようですし、しばしば祈祷も行われていました。

 長久元年(1096)、夏から初秋にかけて、世の中は「長久の大田楽」がブームになっていました。この田楽ブームは庶民にとどまらず、内裏や院の御所でも殿上人が太鼓を演奏したり、踊ったりしていたそうです。(女是)子はこの田楽が気に入り、見物に熱中していました。

 ところがそのさなかの7月下旬、(女是)子は発熱を伴った病にかかってしまいます。八月二日には非常赦が行われますが、六日には重体となり、加持祈祷もむなしく、翌日、六条殿にて世を去りました。まだ21歳の若さでした。
 最愛の娘を失った白河上皇は悲しみのあまり、周りが止めるのも聞かず、その二日後に出家をしてしまいます。

 白河上皇がそれほど愛した(女是)子内親王とは、どのような女性だったのでしょうか。

 藤原宗忠は日記「中右記」の中で、「伝え聞くところによれば、立ちふるまいが優美で、顔立ちもたいへん美しく、生れつき心が寛くてひたすら施しを好んだ」と書いています。美しく、心の優しい女性だったと思われます。
 白河上皇は、そんな最愛の娘に、先例を無視してまでも中宮・女院といった、女性としての最高の位を与えてあげたかったのだと思います。

 しかし私は、(女是)子内親王がもっと長生きしていたら…と、考えずにはいられません。もしそうなったら、白河上皇の行きすぎた愛情がかえって彼女の負担になり、不幸な結果になってしまったのではと…。父と娘の対立も起こっていたかもしれませんし。その意味では(女是)子内親王は、幸せのまっただ中で世を去っていったと言えるかもしれませんね。

☆参考文献
 「平安時代史事典 CD-ROm版」 角田文衞 観衆 角川学芸出版
 「歴史のなかの皇女たち」 服藤早苗 観衆 小学館

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平 教経 ~「平家物語」が語り継ぐ勇猛果敢な武将

2011-08-17 20:02:58 | 歴史人物伝
 平家の人物の中で、私の好きな人物は平知盛、平重衡、そして、今から紹介する平教経です。

 ただ、教経について当ブログで紹介するのはこれが始めてではありません。

 2005年、その年に放映された大河ドラマ「義経」の感想を毎週連載していたのですが(もくじはこちら)、ドラマで教経が無視されてしまったことに納得が行かず、32回と35回の感想で特集を組んでいます。

 それで今回、教経について新しくページを作ろうと思った理由は、先日、gooブログのアクセスキャンペーン中に私のブログへの検索キーワードを調べたところ、「平教経」で検索をかけて見に来て下さる方がとても多いことがわかったからです。それに教経は大好きな人物ですから、過去に書いた記事の焼き直しで手抜きになってしまうかもしれないけれど、独立した人物伝のページがあってもいいかな?……とも思いました。

 では、平教経についてまとめてみます。

平 教経 たいらののりつね (1160?~1185)

 通称能登殿。平清盛の異母弟教盛の次男。つまり、清盛の甥に当たります。兄は平通盛(一ノ谷合戦で戦死)。

 彼は、元服したときの名は「国盛」といいました。

 国盛は仁安元年(1166)十月、憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子に際し伯耆守に任じられました。この時、若年ながらすでに元服し、従五位下に叙されていたことが考えられます。

 仁安四年(1169)正月、任民部権大輔 止伯耆守。
 治承三年(1178)十一月、清盛のクーデターによる人事移動により、兄通盛が能登守から越前守に転じたことによって、そのあとをついで能登守に任じられています。彼の通称「能登殿」は、官職であるこの「能登守」に由来しています。なお、民部権大輔に任じられた仁安四年から能登守に任じられた治承三年の間に、「国盛」から「教経」と改名したと思われます。なのでここからは、「教経」と記述することにします。

 養和元年(1181)九月、加賀国で敗れた兄通盛の支援のため北陸道へ出陣しています。

 寿永二年(1183)七月、平家一門と共に都落ち、同八月六日、能登守を解任されます。なお同日には、都落ちをした平家の貴族たちは平時忠を除いてすべて解任されています。(なお、平時忠も八月十六日に権大納言を解任されています。)

 その年、教経は水島の合戦に従軍して大活躍をし、平家が再び力を盛り返すのに貢献しています。ただし、翌寿永三年(1184)二月の一ノ谷合戦では、義経の奇襲を真っ先に受けて敗戦し、そのまま船で屋島に逃れています。

 このように、教経は勇猛果敢な武将であり、合戦ではたびたび武功を挙げています。一ノ谷合戦は別ですが、ほとんど平家の負けが決まってしまったような戦においても、教経は最後まで全力で戦っていました。私は彼の魅力はこんな所にあるのだと感じます。

 さて、一ノ谷で大敗した平家は、讃岐の屋島に本拠地を置くのですが、一ノ谷合戦の約1年後、元暦二年(1185)二月に源義経によって奇襲攻撃をされ、敗走することとなります。

 この時の教経の動向について、「平家物語」巻十一「継信最期」に沿って、簡単に書かせていただきますね。

 「源氏の総大将はこの手で討つ!」と決心した教経は、義経に向かって弓矢を射かけました。しかし義経の前には伊勢三郎や佐藤継信・忠信がおり、なかなか命中しません。
けれども、この教経の放った矢の一本が佐藤継信を貫いたのでした。
 それを見ていた教経の童の菊王丸が、継信の首を取ろうとして走り寄ります。菊王丸は元々通盛の童だったのですが、通盛が一ノ谷で戦死した後に、教経が兄の形見だと考えて引き取ったのでした。
 駆け寄った菊王丸は、逆に継信の弟忠信の放った矢に射抜かれて倒れてしまいました。そこで教経は、左手で弓矢を持ち、右手で倒れた菊王丸を抱え込んで船に逃げ込んだのでした。菊王丸はやがて息絶えたといいます。兄の形見だと思って可愛がっていた童の死に気落ちした教経は、戦うことをやめてしまいました。

 このエピソードを読むと、教経という人はただ勇ましい武士と言うだけではなく、童の死に涙して戦いを辞めてしまうといった、情にもろくて人間味のある若者という感じがします。なのできっと郎党達からも慕われていたのではないでしょうか。

 なので、このような愛すべき武将が大河ドラマ「義経」で無視されてしまうなんて、どうしても納得がいかなかったです。

 ところが……、実は教経に関しては「一ノ谷で戦死した」という記録があるのです。「吾妻鏡」によると、教経は甲斐源氏の安田義定(源義家の弟義光の曾孫)に討ち取られたと記載されているのです。

なので大河ドラマ「義経」を好意的に見ると、「教経は一ノ谷で戦死した。」という説を採用して、この後の屋島や壇ノ浦には一切登場させない……というようにしたということなのでしょうか。

 これに関しては、「教経には双子の弟がいた。」。「屋島や壇ノ浦で活躍したのは教経とは別人だが、勇猛な教経の名前を出すことによって源氏側に圧力をかけた。」など様々な説があるようです。しかし最近では、「吾妻鏡」に記載されている教経戦死は誤報であり、彼は壇ノ浦合戦の日まで生きていた。」という説の方が有力になっているようです。

 と言うのは、藤原兼実の日記「玉葉」(1185)二月十九日条に、屋島での平家の動向が記述されているのですが、その文中に「教経者一定現存」という一文があることです。
「現存」という言葉は通常、生きているという意味なのですよね。

  また「醍醐寺雑事記」でも、壇ノ浦で自害した者の中に教経の名前があることから、彼が壇ノ浦合戦の日まで生きていたということは、ほぼ間違いないようです。

 では、「平家物語」巻十一、「能登殿最期」に描かれた、壇ノ浦での教経の活躍について書かせていただきたいと思います。

 壇ノ浦合戦が行われたのは、元暦二年(1185)三月二十四日のことでした。

 最初は平家が優勢でしたが、潮の流れが変わり、形勢はたちまち逆転します。

 そこで、これが最後だと思った教経は、弓矢で源氏の兵を傷つけ、射殺し、弓矢がなくなると太刀を持って敵陣に斬りかかっていきました。
 それを見た平知盛(清盛の子。壇ノ浦合戦にて、平家軍の指揮を取っていた。)は、「雑兵を相手にあまり罪作りなことをしないように。」と使者を通して教経に言ってきたのでした。
 それを聞いた教経は、「さては大将と組めということだな。」と思い込み(そのように思ってしまうところが教経らしくてほほえましくもありますが。)、敵陣の中を義経を捜し回ります。教経が自分を捜していることに気がついた義経も、組み敷かれてはたまらぬと思ったのか逃げ回っていました。
 そのうち教経は義経を見つけ、あわや一騎打ちということになったのですが、義経はさっと他の船に飛び移ったのでした。これが有名な「八艘飛び」です。

 義経を見失った教経はもはやこれまでと思ったのか、弓も太刀も海に投げ捨ててしまいました。そして、「我こそはと思う者は誰でもかかってこい。」と言います。
 すると、土佐の住人で安芸太郎という三十人力の者が、「我こそが…」と郎党一人を引き連れて教経に挑んできたのでした。そして太郎の弟の次郎も加わり、三人は一気に教経に襲いかかります。
 すると教経はまず、郎党を海に突き落としてしまいました。そして、太郎を左腕で、次郎を右腕で抱え込み、「我の死出の共をせよ!」と言って海に飛び込んだのでした。

 この教経最期の部分は、哀れさよりも勇猛な武将を感じさせて、何となくすがすがしい気持ちになります。

 この時教経は、26歳だったとも27歳だったとも言われています。彼の一生は短かったけれども、壮絶で激しく、それ以上に何かさわやかなものを私は感じてしまいます。彼の勇猛さは、「平家物語」によってこれからもずっと伝え続けられていくことでしょう。

☆参考文献
 平家物語を知る事典 日下力ほか 東京堂出版
 平家物語 ー日本古典文庫13 中山義秀訳 河出書房新社

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婉子女王 ~花山天皇女御、そして、実資の妻へ

2009-07-08 11:14:09 | 歴史人物伝
 私は、最初、天皇の女御となり、天皇の崩御後や退位後に臣下の妻となった女性になぜか心を引かれます。2005年6月5日に紹介した藤原元子もその一人です。
 今回はそんな女性、元子のいとこにも当たり、彼女よりも少し年上になる婉子女王を紹介したいと思います。

 ではまず、彼女のプロフィールと両親についてから、書かせていただきますね。

☆婉子女王(えんしじょおう又はつやこじょおう)
 生没年 972~998
 父・為平親王(952~1010) 母・源 高明女

 婉子女王の父、為平親王は村上天皇と、皇后藤原安子との間に産まれた皇子でした。そして、村上天皇の東宮に立てられていたのが、為平親王の同母兄の憲平親王です。生まれつき心身が弱かった憲平親王に対し、為平親王は大変聡明で才気のある人物だったようです。つまり彼は、次の東宮に立てられてもおかしくない人物だったのです。

 ところが、康保四年(967)、憲平親王が即位して冷泉天皇となったものの、東宮に立てられたのは為平親王ではなく、その弟の守平親王だったのです。これには、藤原伊尹・兼通・兼家兄弟の思わくがありました。為平親王は右大臣源 高明(同年十二月に任左大臣)の娘を妃にしていたため、「為平親王が東宮になったら、舅の高明が権力を持ってしまうかもしれない。それでは都合が悪い」と考えたからでした。
 更に安和二年(969)に起こった安和の変によって高明は太宰府に左遷、為平親王も昇殿を止められ、その前途はふさがれてしまったのでした。

 婉子女王はそんな為平親王と高明女との間の皇女として生を受けました。彼女の少女時代については全くわかりませんが、昇殿を許されない父と、権力を失ってしまった高明の娘である母との間であまり陽の当たらない生活を送っていたのだろうと推察できると思います。ただ、「栄花物語」によると婉子女王は「いみじううつくしうおはします」と記述されており、その美貌は早くから世間の評判になっていたのかもしれません。

 そんな婉子女王に転機が訪れたのは、彼女が14歳の寛和元年(985)のことでした。彼女の美貌の噂を聞きつけた花山天皇に望まれ、その後宮に入内することとなったのです。
 実は花山天皇は、同じ年の七月十八日、寵愛していた女御、藤原(女氏)子(藤原為光女)を妊娠中に亡くして大変悲しんでいました。そんな中、婉子女王の美貌の噂を聞き、「もしかしたら婉子女王は、(女氏)子を失った辛い気持ちを忘れさせてくれるかもしれない。」と考えたのかもしれません。

 こうして婉子女王は十二月十八日に入内し、花山天皇の女御となりました。2人の仲はわりとうまくいったようですが、残念ながら花山天皇の心から、(女氏)子の面影や彼女を失った心の傷を忘れさせるほどの寵愛とまでは行かなかったようです。花山天皇の心の傷をいやすのには、まだ14歳の婉子女王はあまりにも幼すぎたのかもしれません。
 ただ、彼女が入内し、女御となったおかげで、長い間昇殿を許されなかった父、為平親王の昇殿が許されたことは、娘である婉子女王にとっては大きな喜びだったと思います。

 しかし、婉子女王が入内してわずか半年後、自分の孫である東宮、懐仁親王の世が1日も早く来ることを望んでいた藤原兼家は、(女氏)子を忘れることができない花山天皇の心につけ込み、息子の道兼を使って天皇をだまし、内裏から連れ出して出家、退位させてしまいます。寛和二年六月二十三日のことでした。
 これは、婉子女王にとっては思いも寄らぬ出来事で、ただまごまごするしかなかったと思います。花山天皇の出家、退位と共に彼女は内裏を下がり、実家に戻ったようです。

 ところが、彼女の生涯はこれで終わったのではありません。やがて彼女の前に2人の男性が現れることとなるのです。

 一人は藤原道信(972?~994)…。藤原為光の子で、藤原兼家の養子になった人物です。若くして亡くなったため、最終官職は左近衛中将。歌才に優れ、中古三十六歌仙の一人にも選ばれています。彼は婉子女王とはほとんど同年代でした。

 そしてもう一人は藤原実資(957~1046)…。藤原済敏の子で、藤原実頼の養子になった人物です。村上天皇から後冷泉天皇まで、九代の天皇に仕え、最終的には右大臣に昇りました。日記「小右記」を書き残したことでも有名です。彼は、婉子女王よりも15歳年上でした。

 同年代の男性と、ずっと年上の男性に同時に愛され、どちらにも心引かれる…ということは、現代でもありそうな話です。そして、婉子女王が選んだのは、同年代の道信くんではなく、年上の頼りになる男性、実資さんの方でした。
 彼女は上でも少し書いたように、あまり陽の当たらない両親に育てられたためか、ちょっと控えめでおとなしく、「私は年上の頼りになる方が好きだわ~」という考えだったと思うのですよね。
 そんなわけで婉子女王は正式に実資と結婚し、父為平親王が所有する染殿と呼ばれる邸宅にて実資と暮らし始めたのでした。繁田信一氏の「かぐや姫の結婚」によると、2人の結婚は正暦四年(993)の秋頃ではないかと推定しておられます。なお、婉子女王は実資にとっては二人目の正式な妻だったこともつけ加えておきます。

 さて、失恋した道信くんは、実資さんに対して嫉妬と羨望の思いを抱き、こんな歌を詠んだと『大鏡』に記述されています。

 嬉しきは いかばかりかは 思ふらん 憂きは身に染む ものにぞありける

 「あなたは恋がかなって嬉しく思われていることでしょう。それに比べて、恋を失った私の哀しみは深くなるばかりです」という意味でしょうか。

 さて、実資と婉子女王の結婚生活はどのようなものだったのでしょうか。

 実は実資さん、なかなか女好きだったらしく、婉子女王と結婚するまで、最初の妻とだけでなく、他の何人かの女たちとの間に娘を数人もうけていますが、すべて夭折してしまいました。娘が欲しいと熱望していた実資は当然、婉子女王にも期待していたと思います。
 ところが、2人の間には子は生まれませんでした。これは私の推察なのですが、婉子女王は短命だったこともあって元々体が弱く、実資も彼女を妊娠させることをあきらめたのではないでしょうか。そして、子供がいなかったことでかえって2人の間には強い愛情が結ばれたのではないかと思うのです。実資は頼りになる優しい夫で、婉子女王は満ち足りた幸せな結婚生活を送っていたのではないでしょうか。

 しかし、2人の結婚生活は5年しか続きませんでした。長徳四年(998)、婉子女王はまだ27歳という若さで亡くなってしまいます。

 実資は婉子女王を失ったことを大変悲しみ、その後は正式な結婚をしませんでした。寛仁元年(1017)、実資に故関白藤原道兼の娘との結婚話が持ち上がりますが、彼はこれをきっぱりと断ってしまいます。(小右記)
 また、小右記には、亡き婉子女王を偲ぶ歌も書き残しているようです。

 しかし、元々女好きの実資さん、実姉の女房に手をつけて子供を作ったりもしたようですが、多くは行きずりだったようです。その中でただ一人、婉子女王に仕えていた女房の一人を長く大切にしたようです。彼女は婉子女王の弟、源頼定の乳母の娘だったようですが、早くから女王に仕え、彼女の腹心のようになっていたのでしょう。実資はこの女性を女王の形見のように思っていたのかもしれません。
 そして婉子女王の女房は、寛弘八年(1011)に女の子を出産しました。この娘こそ、実資が蝶よ花よと猫かわいがりし、ついには「自分の財産はすべて譲る」と遺言状にしたためさせることとなる千古(かぐや姫)その人なのです。

 さて、こうして婉子女王の生涯をたどってきましたが、彼女がどんな性格の女性だったかについては記録がなく、今となっては想像するしかありません。でも、ちょっとひねくれたところのある実資さんを夢中にさせたのですから、ただ美しいだけでなく、素直でやさしく、魅力のある女性だったのではないでしょうか。有職故実に詳しく、教養の高い彼の話し相手も充分勤められるくらいの機知や教養もあったと思います。もう少し、実資さんと一緒にいさせてあげたかったとも思いますが…。でも、短いながらも幸福な結婚生活を送り、満足のうちにこの世を去っていった…、私はそう思いたいです。


☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『かぐや姫の結婚』 繁田信一 PHP研究所
 『大鏡 全現代語訳』 保坂弘司 講談社・講談社学術文庫


☆当ブログ内の関連ページ

実資さんって…
 藤原実資について、私の妄想や推察も交えて覚え書き的に綴った記事です。

平惟仲と藤原在国 ー平安時代のライバル
藤原詮子 ~藤原摂関家の女あるじ
 花山天皇の退位と出家の経過に触れています。

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藤原歓子 ~仏道に帰依した皇后

2009-07-01 11:38:06 | 歴史人物伝
 後冷泉天皇の崩御直前に皇后に立てられ、その後出家をした藤原歓子について、私は以前から関心を持っていました。彼女がなぜ、小野に隠遁したのか、小野での生活は…など、色々と興味を引かれるところがあります。そこで、彼女の生涯について、私の妄想や推察も入れてまとめてみることにしました。

☆藤原歓子(1021~1102)
 父は藤原道長の息子教通。母は藤原公任の女。同母の兄弟姉妹には、信家、信長、生子(後朱雀天皇女御)など、母方のおじには定頼がいました。なお、彼女の母方については当ブログ内の、「藤原高光とその子孫たち」もご覧下さい。

 歓子は物心つくかつかないうちに母を亡くしますが、父教通を始め、母方の祖父母の公任夫妻にもかわいがられ、当時の貴族女性として最高の教育を受けて成長したものと思われます。幼いときから容姿美麗で、枇杷や絵に巧みだったと伝えられています。そんな彼女は姉の生子と共に一家の希望の星で、将来は入内することを運命づけられていたのでしょう。

 そのようなわけで、まず姉の生子が後朱雀天皇に入内します。しかし、生子は天皇との間に子をもうけることができませんでした。やがて後朱雀天皇は寛徳二年(1045)に崩御し、第一皇子親仁親王が即位します(後冷泉天皇)。

 そしてその2年後の永承二年(1047)十月、26歳になった歓子は後冷泉天皇の後宮に入内することとなります。皇子を期待する教通の希望を一身に受けた入内でした。その翌年七月、歓子は女御の宣旨を受けます。

 聡明な歓子は後冷泉天皇に気に入られたようで2人の仲は睦まじく、彼女はやがて懐妊し、永承四年(1049)に皇子を出産しました。父の教通はもちろん、大役を終えた歓子もどんなに嬉しかったことでしょう。

 しかし、皇子は間もなく世を去ってしまいます。(一説には死産だったとも言われています)
 さらに追い打ちをかけるように翌永承五年(1050)、教通の兄、関白頼通の娘で15歳の寛子が後冷泉天皇の許に入内します。寛子の入内は大変華やかで、有力貴族の娘たちをも女房に従えての入内だったとか。

 そのようなこともあり、歓子はこの頃から里邸の二条東洞院第に引きこもるようになります。せっかく産まれた皇子を失ったことですっかり気落ちをした歓子は、自分よりずっと年下の寛子と天皇の寵愛を争うことが絶えられなかったのかもしれません。歓子は永承六年頃から、異母兄、長谷の法印静円(1016~1074)が住む小野に籠居するようになり、その年に准三宮に叙されましたが、この頃には完全に後宮生活を離れたものと思われます。

 ところで、この静円、教通が和泉式部の娘、小式部内侍に産ませた子で、若くして出家をした人です。しかも母を早く亡くしています。歓子もごく幼くして母を失っていますので母のない者同士、子供の頃から心が通じ合っていたのでしょう。天皇との間に生まれた子を亡くし、傷ついた心を慰めてくれたのはこの異母兄だったのかもしれません。また、その頃から出家願望があったと思われる歓子とこの静円は、仏教の教えについて色々話していたとも考えられます。

 さて、時は流れ、治暦四年(1068)四月、後冷泉天皇が崩御しますが、その直前、歓子は皇后に立てられました。すでに寛子が皇后となっており、章子内親王(後一条天皇皇女)が中宮となっていたのにもかかわらず、後冷泉天皇は自らの意志により、歓子を皇后に立てたのです。同じ時期に一人の帝に3人の后が立つというのは大変異例なことでした。後冷泉天皇は、自分の子供を産んでくれた歓子のことを忘れておらず、同時に感謝の気持ちを表したかったのかもしれませんね。
 このような後冷泉天皇の行為に対して歓子がどのように感じたのか、今では想像するしかありませんが、複雑な気持ちはあるもののやはり嬉しく思ったのではないでしょうか。

 さらに延久六年(八月に改元して承保元年)(1074)六月、歓子は皇太后となります。皇后から皇太后へ…、宮廷社会に戻って華やかな生活を送るという選択肢も、彼女には残されていたはずです。しかし、彼女はそうしませんでした。
 その年の八月、歓子は出家しました。実は皇太后となる少し前、同じ年の五月に、彼女の良き理解者であった静円が亡くなっているので、それが彼女が出家に踏み切る大きな原因になったとも考えられると思います。でも、長年の出家願望をようやく果たすことが出来てほっとした気持ちも大きかったのではないでしょうか。彼女は引き続き小野に住み小野皇太后と称されました。

 歓子は深く仏教に帰依し、小野亭を常寿院と改め仏教三昧の静かな生活を送っていましたが、71歳になったある日、彼女にとっては久しぶりとなる華やかな日が訪れます。有名な白河上皇の小野雪見行幸です。

 寛治五年(1091)10月27日、珍しく大雪が降った朝、白河上皇は小野に雪を見に行くことを口実に、歓子の小野の山荘を訪ねてみようと思い立ちました。そして牛車に乗り、殿上人や随身を従え、突然、歓子の許を訪ねたのです。

 注進によって訪問を告げられた歓子は、女房たちを寝殿の簀子に座らせ、鮮やかな紅の衣で御殿を華麗に装飾しました。やがて白河上皇が訪れると、歓子はすかさず女童に玉盃と銚子を持たせて車中の上皇に捧げ、ついで唐衣を着た正装の女房に錦で包んだ松が枝をたてまつらせられましたが、銀世界の中でこれらの行事は、まことに趣の深い光景であったと伝えられています。考えてみると白河上皇は歓子のかつての背の君、後冷泉天皇の甥に当たります。歓子は白河上皇を通して後冷泉天皇の面影を見ていたのでしょうか。そして、短かったけれど幸せだった後冷泉天皇との日々を思い出し、華やいだ気持ちになっていたのかもしれませんね。

 さて、上皇は雪見行幸の常として御殿にはお入りにならず、そのままお帰りになりましたが、歓子の心のこもった奥ゆかしいもてなしに感激したようです。後に上皇は、美濃国の荘園を歓子に贈られたと言うことです。

 こうして歓子はその後も仏教三昧の静かな生活を送り、康和四年(1102)八月十七日、八十二歳で崩御しました。そして、藤原氏の他の女性たち同様、宇治木幡に墓所が定められました。

 以上、歓子の生涯について書いてみましたが、書きながらふと後朱雀天皇の皇后、禎子内親王のことを思い出しました。彼女も歓子同様、天皇との間に皇子をもうけていますが、権力者の娘の入内により後宮を去ります。しかし、彼女は歓子と全く違う後半生を送ることとなるのです。すなわち、皇子が成長して後三条天皇となり、彼の子孫たちが皇位につくこととなったため、彼女は宮廷社会で大きな権力を握ることとなるのです。
 しかし歓子の場合は、皇子が夭折してしまったため、完全に宮廷から離れ、仏教に帰依する後半生を送ることになってしまったのでした。もし彼女が産んだ皇子が成長し、皇位についたとしたら、歓子が宮廷社会で権力を握ることになったかもしれません。人間の運命は紙一重のところで違ったものになってしまうのだなと、少し暗澹とした気持ちになってしまいました。

 でも歓子は、良き理解者の兄、静円がいたことや、彼女が生まれながらに持っていた聡明さ(白河上皇への心のこもったもてなしの様子を見ても、彼女の聡明さがよくわかるような気がします)など、幸運なところもあったと思います。仏教に帰依する静かな生活が、意外と彼女の性に合っていたのではないでしょうか。歓子の後半生が心静かなものであったことを祈りたいと思います。


☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版 角田文衞監修 角川学芸出版
 『平安京散策』 角田文衞 京都新聞社


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源 師子 ~関白の妻への道

2009-03-02 10:15:16 | 歴史人物伝
 先日UPした、第72代 白河天皇」を書くに当たって色々調べていたところ、源師子という人物に興味を引かれました。それで、手持ちの本などで調べて彼女の生涯をまとめてみることにしました。相変わらず、妄想と推察が炸裂していますが、ご覧頂けますと幸いです。

☆源 師子(みなもとのもろこ 1070~1148)

 父は右大臣源 顕房(村上源氏)、母は権中納言源 隆俊女の隆子(醍醐源氏)。
 しかし、「栄花物語」では、後冷泉天皇の女房、式部命婦となっています。師子の母が誰なのかは謎ですが、彼女が賢房からほとんど認知されなかったこと、源麗子の女房になっていたこと、白河上皇の正式な妃になれなかったことなどを考えると、姉の賢子と同母と考えるのは不自然のような気がします。やはり彼女の母は式部命婦と考えた方が自然のように思えます。

 彼女の生涯を語る前にまず、姉の白河天皇中宮、賢子について触れておきます。源師子の前半生を語る上で、賢子は重要だと思いますので…。

 藤原賢子(1057~1084)、実父は源顕房、実母は源隆俊女の隆子。

 延久三年(1071)、藤原師実(頼通の子)の養女として東宮貞仁親王(のちの白河天皇)に入内しました。その時の華やかな様子は「栄花物語」などに記述されています。 賢子は3年後に、すでに即位していた白河天皇の中宮に冊立されました。白河天皇の寵愛を一身に受け、敦文親王(早世)、(女是)子内親王、善仁親王(のちの堀河天皇)、令子内親王、禎子内親王と、次々と皇子や皇女をもうけます。
 まさに幸せな人生を送っていたのですが、(1084)に発病し、あっけなく亡くなってしまいます。その際、白河天皇は(天皇が后の臨終に立ち会うなんて前例がない」と批判されながらも賢子をしっかりと抱きしめ、離そうとしなかったといいます。よほど賢子を強く寵愛していたのでしょうね。

 賢子のことが忘れられない白河天皇は2年後に賢子との間にもうけた善仁親王に譲位してしまいます。これが堀河天皇です。上皇として自由な身分になった白河は何人かの女性を近づけることとなるのですが、その一人が賢子の妹に当たる師子でした。

 師子はいつ頃からかはわかりませんが、源 麗子に仕えていたようです。麗子は賢子を養女とした藤原師実の妻で、師子の父方のおばに当たる女性です。もしかすると麗子は、顕房の愛情が薄かった師子を気の毒に思い、自分の身の回りの世話をさせるために手元に引き取ったのではないかとも考えられそうです。

 師子は18、9歳の頃に白河上皇の目にとまり、寵愛を受けるようになります。というのは、師子の面差しが賢子にそっくりだったからでした。白河上皇は賢子が生き返ってきたような気分になり、師子に夢中になったのでしょうね。やがて師子は懐妊、寛治五年(1091)に皇子を生みました。

 ところが、かわいそうに偽物はやっぱり偽物だったようで、やがて白河上皇の師子への寵愛は冷めていったようです。賢子は華やかなイメージがあり、明るく積極的な女性だったのではないかと思うのですが、師子は父からあまり顧みられなかったこともあり、控えめでおとなしい性格だったのではないでしょうか。そのようなわけで師子は麗子の身の回りの世話をしながら、まれに訪れてくる白河上皇をひたすら待つという日を送っていました。しかし、そんな彼女に大きな転機が訪れます。

 ある時、麗子の孫に当たる藤原忠実というまだ16、7の少年が麗子を訪ねてきました。その時、忠実は麗子に使える師子をかいま見て一目ぼれしてしまったのです。

「ああ、何て美しくて可憐な人なんだろう!しかし、あの女は上皇さまの愛妾なのだ。私には手の届かない方だ。私はあの女を盗み出すか、恋いこがれて死んでしまうかのどちらかだ。ああ、どうしたものだろうか」
 と、悩みに悩んだ忠実はついに麗子にこのことを訴えました。

「おばあさま、私は師子どのに恋してしまったのです。どうかあの女を私に下さるよう、おばあさまから上皇さまに頼んで頂けないでしょうか?」
「頼むのはよいが、上皇さまがお許し下さるかねえ」
と麗子は言ったものの、実は上皇の訪れがまれになって寂しい思いをしている師子をかわいそうに思っていました。

 このまま上皇のお手つきとして一生を終わってしまうのはあまりにも哀れだ、それよりも忠実の妻として落ち着いた生活をさせてあげた方がよっぽど幸せなのではないか。それに忠実も、最初の妻任子(源俊房女)との間に子をなしたものの、子供は早世、任子との中も冷え切ってしまったようだから、師子は新しい妻に適任なのでは……と考えた麗子は上皇に忠実が師子に恋していることを話し、何とか師子を忠実に譲るようにと頼み込んだのでした。

 意外にも白河上皇は、
「なに?師子を忠実にだと?うん、いいだろう」
とあっさりと承知。実は白河上皇も愛情が冷めた師子をもてあましていました。そうかといって、堀河天皇の叔母にも当たる師子を粗末にもできません。なので上皇も渡りに船だと思ったのでしょう。それに、忠実の頼みを受け入れたということで、これからは摂関家に遠慮する必要もあまりないのではないか…と考えたのかもしれませんね。

 こうして師子は忠実の許に行くことになったのですが、8歳年下の忠実との相性が良かったらしく、嘉保二年(1095)に女子を、承徳元年(1097)に男子を生みました。女子は後年、鳥羽天皇の後宮に入った高陽院泰子、男子は摂政・関白を歴任した忠通です。
 一方、白河上皇との間にもうけた皇子は、長治元年(1104)に出家、仁和寺に入って覚法法親王と名乗り、数々の仏事を行い、天下第一の僧と言われました。
 このように、師子の生んだ子供たちは、それぞれ立派に成長していきました。

 ところで、夫となった忠実は父師通が康和元年(1099)に死去したのを受けて氏の長者となり、続いて関白となりましたが、後に白河上皇と対立して関白を罷免されたりなど、かなり波乱に富んだ生涯を送ることとなります。師子はそんな忠実の嫡室として、康和四年(1102)従三位に叙され、天仁二年(1109)従二位に進み、政所を開設、更に従一位に昇りました。

 しかし、長承三年(1134)出家、次第に対立していく夫忠実と、息子忠通に心を痛めたためでしょうか。

 康治元年(1142)には仁和寺に堂舎を建てて常在の所としました。仁和寺というと、白河上皇との間にもうけた覚法法親王が入っている寺です。彼は多分、師子が忠実に嫁してからは別々に暮らしていたのでしょうし、14歳で出家してしまいましたので、母子の縁は非常に薄かったと考えられます。やはり師子はこの皇子のことが気になっていたでしょうし、覚法法親王も幼い頃に別れた母の面影が忘れられなかったのでしょうね。法親王は心をこめて母の世話をしたと思われます。

 久安四年(1148)十二月、病を得、その十四日、79歳の天寿を全うしました。晩年は宇治の別荘に居住していた忠実とは離れて住んでいたようですが、立派に成長した子供たちの世話を受け、心安らかな日々を送っていたことでしょう。
 何より、夫忠実と息子忠通が決定的に対立してしまった保元の乱を見なかったこと、仁平三年(1153)に世を去った覚法法親王や久寿二年(1155)に世を去った泰子よりも先に冥土に旅立ったことも幸せだったかもしれません。

☆参考文献・参考サイト
 『平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
 『人物叢書 藤原忠実』 元木泰雄 吉川弘文館
『歴代天皇と后妃たち』 横尾 豊 柏書房
 『源平争乱期の女性 人物日本の女性史3』 円地文子監修 集英社
 葉つき みかんさんのサイト 月桜村上源氏の人物紹介内の源 師子のページ。自作のイラストつきで師子のことを紹介なさっています。参考にすることを許可して下さいました葉つき みかんさん、ありがとうございました。

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菅原孝標 ~「更級日記」の作者の父

2008-11-01 09:48:01 | 歴史人物伝
 先日、久しぶりに「更級日記」の現代語訳を読み返してみたのですが、作者菅原孝標女の父、菅原孝標とはどんな人物だったのか、ちょっと興味を引かれました。娘は日記作者として有名なのに、その父親は名前だけは有名でも、どんな人物だったのかはすっかり忘れられてしまっていますよね。それではあまりにも孝標さんがお気の毒なので、こちらの人物伝で取り上げさせていただくことにしました。

 では、彼の生涯や人となりを紹介しましょう。なお、かなり私の妄想、推察も入っていますのでそのあたりはご了承下さいませ。

☆菅原孝標(973~? 1036以降か)

 菅原道真四世の孫。父は大学頭・文章博士の経歴もある右中弁菅原資忠、母は民部大輔源包女。藤原倫寧女との間に定義、「更級日記」の作者とその姉などをもうけました。また、高階成行女との間にも子供がいたようです。この女性は、「更級日記」中に「継母」として登場する人物です。

 菅原家は学問の家であり、代々、大学頭や文章博士を輩出していました。孝標も大学頭や文章博士を目指していたのでしょう。最初は大学寮に入り、大学の業を終えたあとに文章生となりました。

 しかし、なぜか彼は学問とは別の道を歩むことになるのです。
 正暦四年(993)正月、因幡掾として昇殿を許されました。長保二年(1000)正月蔵人、同三年叙爵。このころ頭弁として孝標の上司だったのが藤原行成(972~1027)です。

寛仁元年(1017)正月上総介、同四年十二月に帰京、長元五年(1032)二月常陸介。同九年秋上京後は官途を退いたようです。彼はついに、父の資忠や息子の定義のように、大学頭や文章博士になることはありませんでした。

 では、どうして孝標は大学頭や文章博士になれなかったのでしょうか。実は、どうやら彼は学問の家である菅原家に生まれながら、あまり優秀ではなかったようなのです。

 「扶桑略記」、治安三年十月十九日の条にこんな記事が載っています。

 ある時、藤原道長は吉野の竜門寺に参詣しました。その時、菅原孝標もお供の行列に加わっていました。
 竜門寺の方丈の扉には、菅原道真の神筆が遺っていました。孝標は、その道真の神筆の横に仮名文字の添え書きをほどこした上、へたな詩文を脇に書いたりなどして、道長はじめ公卿・殿上人の失笑を買ったというのです。
 孝標は、ご先祖さまの神筆にお目にかかった嬉しさのあまり、「自分は道真の子孫である」ということをひけらかしたかったのでしょうけれど、かえって逆効果になってしまったようですよね。

 この他にも、聞き違いの情報を他人に伝えて迷惑をかけるなど、あまり芳しい記録が残っていないようです。

 確かに「更級日記」から伝わってくるイメージも、「凡庸な人物」です。

 しかし、それと同時に私は、「更級日記」の孝標からは家族思いの好人物という印象も受けるのです。

 例えば、孝標女は、藤原行成女の書いた文字を書道の手本にしていたということ、これは孝標が行成に頭を下げて手に入れたものではないかと思うのです。

 上でも書きましたが、孝標の蔵人時代の上司が行成でした。娘たちが、行成女の書にあこがれていることを知った孝標は、上総から帰京すると間もなく、様々な贈り物を持ってかつての上司、行成の許に挨拶に行ったのでは…と思うのです。実は孝標と行成はほぼ同年代、でも、当時は年齢より身分が優先されますから、孝標は緊張しています。何しろ寛仁四年(1020)当時の行成はすでに権大納言、前上総介の孝標からしてみれば雲の上の存在です。

 孝標からの様々な贈り物に行成も大喜び、そこで孝標は、「実は、うちの娘たちが大納言さまの姫さまの書にあこがれております。ぜひ所望したいのですが」と言ったのでは?もちろん、「大納言さまに似ておじょうさまの書も美しくて達筆でいらっしゃいますなあ。血は争えませんです。」などと、お世辞を言うことも忘れてはいません。

 自分と愛娘の書をほめられた行成も気をよくし、早速娘の書いた書を孝標に手渡したのではないかと思います。孝標はなかなか娘思いの良いお父様です。
 余談ながらこの行成女は当時、藤原道長と源明子との間の子、長家の妻となっていましたが、翌治安元年(1021)に病死してしまいます。孝標女も大変悲しがっていた記述が、「更級日記」にあります。

 …と、ここまで書いてきて、私はあることに気がつきました。もしかすると孝標は、行成に以前から接近していたのでは?上総のような大国の介になれたのも、ひょっとすると行成の推薦があったからなのではないかと…。

 ついでに孝標は、50年間も関白を務めた藤原頼通にも接近していたように思えます。というのは、孝標女は後年、宮仕えに出るのですが、出資先は後朱雀天皇の皇女、祐子内親王の宮廷です。祐子内親王の母君は藤原(女原)子です。この方の実父は一条天皇の皇子、敦康親王ですが、彼女は頼通の養女になっていました。当然、頼通の後ろだてで入内しています。つまり祐子内親王の外祖父は頼通なのです。孝標女がそんな祐子内親王に使えることができたのは、やはり孝標が頼通派だったからではないかと思うのです。

 あと、「更級日記」を読むと、孝標女はかなり豊かな生活をしているような気がします。あちらこちらに物詣でもしていますし、中級貴族にしては物語が手に入りやすい環境だったようですし。上総で等身大の観音様を造ってもらったりもしていますよね。これは、孝標がかなりやり手の国司だったからでは?平安時代史事典にこんな記述がありました。

ー引用開始ー

『更級日記』に描かれた孝標像は凡庸な好人物であるが、近時、能吏としての側面が指摘されるに至った。

        ー引用終了ー

 孝標がどのような人物だったかは推測するしかありませんが、家では優しいマイホームパパ、仕事ではかなりやり手、でも、時々ドジをして失笑を買う…といったなかなかユーモラスな好人物だったように思えます。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『更級日記 ー古典の旅5』 杉本苑子 講談社

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禎子内親王 ~天皇家のために生きた女性

2007-08-14 13:45:40 | 歴史人物伝
 後三条天皇というと、桓武天皇の孫班子女王を母とする宇多天皇以来の藤原氏の娘を母に持たない天皇で、摂関政治の終焉を象徴する天皇とも言われています。そんな後三条天皇の母、禎子内親王については以前から興味を持っていました。
 そこで今回は、禎子内親王を紹介したいと思います。

 では、彼女のプロフィールから。

☆禎子内親王(1013~1094)
 三条天皇の第三皇女。母は藤原道長の二女妍子。

 禎子内親王が誕生したとき、皇子の誕生を期待していた外祖父道長は、「何だ、皇女か…」と不快をあらわにしたと伝えられています。それでも彼女は高貴な内親王であると同時に権力者道長のれっきとした外孫でした。彼女の人生には華やかな舞台が用意されていたのです。

 3歳の時に着袴、さらに三后に准ぜられます。5歳の時に可愛がってくれた父の三条天皇と死別しますが、そのあとは摂関家の一員として大切にあつかわれて育てられました。

 治安三年(1023)四月、太皇太后藤原彰子の土御門第で着裳、裳のひもを結んだのは彰子でした。禎子内親王の着裳については『栄花物語』などに記載されており、調度品も儀式も大変華やかだったと伝えられています。こうしてみても、禎子内親王は道長や彰子に可愛がられていたことが想像できると思います。

 万寿四年(1027)、禎子内親王は敦良親王(後の後朱雀天皇)に入内しました。
 この入内に関しては、この二年前に敦良親王の妃であった道長の娘、嬉子が親仁親王を出産後間もなく薨じているので、道長にしてみればその後釜という意味もあったと思います。敦良親王の妃候補としては、禎子内親王と同じく道長の孫である、教通の娘生子という選択肢もあったのですが、道長は、高貴な内親王である禎子内親王を選んだのかもしれません。

 しかし、15歳の禎子内親王は婚姻の当日になっても入内を嫌がって泣いてしまい、なかなか車から降りようとしなかったという話も伝わっています。それでも入内後は、敦良親王との仲はわりとむつまじく、二人の間には良子内親王、娟子内親王、尊仁親王が生まれました。

 敦良親王は長元九年(1036)に兄の後一条天皇のあとを受けて踐祚します。つまり後朱雀天皇です。それに伴い、禎子内親王は翌年長暦元年(1037)二月に中宮に冊立されました。

 ところが、禎子内親王が中宮になる前の長暦元年正月、頼通の養女(女原)子(実父は一条天皇皇子敦康親王)が入内し、3月に中宮に冊立されます。これに伴い禎子内親王は皇后と称されることとなります。

 当時、一条天皇中宮彰子に対して皇后定子、三条天皇中宮妍子に対して皇后(女成)子など、中宮は後ろだてに強い権力を有している后、皇后は後ろだてのない后という風潮がありました。禎子内親王の場合、頼もしい後見役になってくれるはずの祖父道長はこの時すでに薨じており、母の妍子も世を去っていました。つまり後ろだてがなかったのです。聡明な禎子内親王はそのあたりをしっかり理解していたと思われます。さらに禎子内親王にとっては、「皇子を生んだ私という后がありながら、自分の娘を割り込ませてくる頼通が許せない!」という感情を強く持っていたと思います。(女原)子が中宮に冊立されたことによって禎子内親王は後宮を下がり、後朱雀天皇が「後宮に戻ってきて欲しい」と勧めても戻ろうとしませんでした。

「皇子を生んで欲しい」という頼通の期待を一身に受けて入内した(女原)子でしたが、二人の皇女をもうけたあとに24歳という若さで亡くなってしまいます。それを待っていたように、今度は教通が娘の生子を入内させます。まだ(女原)子の喪が明ける前でしたので頼通は激怒、二人の兄弟仲は険悪なものになっていきました。さらに頼宗(頼通・教通の異母兄弟)も娘の延子を入内させます。このように、当時の貴族たちにとって、娘を入内させて皇子を生ませ、天皇の外戚になることは、権力の伸長を図る上で欠かせないことだったのです。が、どの妃にも皇子が生まれませんでした。そして間もなく、後朱雀天皇は病を得て崩御します。後朱雀天皇の皇子は結局、東宮に立てられていた親仁親王と、禎子内親王が生んだ尊仁親王の二人だけでした。当然のことながら、尊仁親王は後冷泉天皇となった親仁親王の東宮に立てられます。

 ところでその頃、禎子内親王と尊仁親王は強い絆で結ばれていました。というのは、後朱雀天皇の踐祚に伴い、良子内親王は伊勢斎王に、娟子内親王は賀茂斎院に卜定され、母の許を離れていったからです。一人残った尊仁親王は幼いながら、母の哀しみや寂しさを理解していたと思いますし、禎子内親王にとっても尊仁親王はただ一つの希望でした。そんな尊仁親王が東宮に立てられたことは、禎子内親王にとっては大きな喜びでした。

 ところが頼通は、尊仁親王が藤原氏腹の皇子でないという理由により、東宮累代の宝物である「壺切剣」を親王に渡さなかったそうです。(『江談抄』)。『栄花物語』は、この時期の禎子内親王の頼通に対する不信感が記されているようです。(女原)子の中宮冊立に始まる二人の対立はまだ続いていたのでした。
 頼通に関して私は、角田文衞先生の「平安の春」の影響で、心の優しい、ちょっと気弱なお坊ちゃんというイメージを持っていたのですが、禎子内親王や尊仁親王に対しては意外と執念深かったのですね~。それだけ頼通は焦っていたのかもしれませんね。父道長の築いた摂関体制を継承するため、何とか娘に皇子を生ませたかったのでしょうけれど、(女原)子は皇子をもうけることなく亡くなり、藤原祇子との間にもうけた寛子はまだ幼くて入内できないでいたのですから…。

 その後頼通は、成長した寛子を後冷泉天皇の後宮に入れますが、ついに皇子をもうけることはありませんでした。後冷泉天皇の他の后妃たちにもなぜか皇子が生まれず、皇位は藤原氏の娘を母としない尊仁親王に移ります。治暦四年(1068)、尊仁親王は踐祚、後三条天皇となります。

 これより先、禎子内親王は寛徳二年(1045)七月に出家をしています。法名を妙法覚と称しました。永承六年(1051)皇太后となり、治暦四年(1068)後三条天皇の踐祚に伴い、太皇太后となります。

 翌延久元年(1069)、院号(陽明門院)が授けられます。女院号を授かったことにより、禎子内親王は調停から上皇と同じ待遇を受けることとなりました。その発言力は絶大なもので、朝廷・後宮・政界に大きな影響を与えたと伝えられています。嘉保元年(1094)正月十六日、鴨院において疱瘡のため崩御。時に82歳でした。

 禎子内親王は摂関家の娘として入内したわけですが、頼通・教通・頼宗の外戚制作によって失速した生活を送り、結果的には摂関家と対立していきました。しかし、頼通らの外戚制作が失敗したため摂関家の力が衰え、禎子内親王はゴッドマザーとして朝廷で大きな発言力を持ちました。彼女は後三条天皇の子である貞仁親王(後の白河天皇)や、その子供たちにまで手をさしのべています。つまり、天皇家のために身を捧げた一生だったというイメージを受けます。
 入内を嫌がって泣いていた少女が様々な苦悩を乗り越えて成長し、発言力を持った一人の女性となった姿を思うとき、私は彼女に女性として、母としての強さを感じます。見事な生き方だと思います。

 ついでに、禎子内親王・後三条天皇親子を支えていたのが道長の息子の一人である能信だったということも注目していいと思います。能信の妻は閑院流藤原氏の藤原実成女であり、養女の茂子は東宮時代の後三条天皇の妃となり貞仁親王を生みました。つまり、禎子内親王は結果的には、新興勢力である閑院流藤原氏の繁栄の基礎をもたらしたわけです。新しい時代を作った女性とも言えそうです。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『歴史のなかの皇女たち』 服藤早苗監修 小学館

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藤原実定 ~激動の時代を生き抜いた風流人

2007-04-25 12:19:06 | 歴史人物伝
 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞのこれる 」

 「百人一首」の81番目の歌です。情景がぱっと浮かんでくるような風流な歌ですよね。歌の意味は、「ほととぎすの鳴き声がしたのでそちらの方を見てみましたが、ほととぎすの姿は見えず、ただ有明の月がはかなく輝いていました。」ということでしょうか。

 ほととぎすは夏の訪れを告げる鳥、そして有明の月は明け方にはかなく輝く月…。つまり、この歌が詠まれたのは初夏の明け方ということになります。一瞬の間鳴いていたほととぎすと、はかない有明の月のコントラストが胸に迫ってきます。そして、明け方というと夜を一緒に過ごした恋人が別れる時刻、この歌からはそんな切なさも伝わってくるような気がします。

 このような風流でありながら、ちょっと切ない歌を詠んだ後徳大寺左大臣、藤原実定という人はいったいどのような人だったのでしょうか?

 彼は、先日UPした藤原多子の兄に当たる人です。それではまず、プロフィールから書いてみますね。

☆藤原実定(1139~1191)
 父・藤原公能 母・藤原豪子 二人の嫡男として生まれました。姉には後白河天皇中宮の忻子、妹には近衛天皇皇后、後に二条天皇の後宮に入った多子、弟には大納言実家などがいます。
 
 父の公能は、徳大寺家の祖となった左大臣実能の嫡男で、最終的には右大臣にまで出世した人物です。母の豪子は藤原俊忠の女でした。つまり、歌人として有名な俊成は実定のおじ、その息子定家はいとこに当たり、この親子とは親しい交流があったようです。実定の歌才は、母方の血を受け継いだものと思われます。

 そんな両親の間に生まれた実定は官位の昇進もなかなか順調で、永治元年(1141)従五位下に叙され、左兵衛佐、左近衛権中将等を経て、保元元年(1156)、姉の忻子が後白河天皇の中宮に立てられたことから中宮権亮となり、その年のうちに従三位に叙されます。

 長寛二年(1164)26歳の実定は権大納言に任じられます。ところが、翌年にはこれを辞して正二位に叙されています。『古今著聞集』には、同じ閑院流の藤原実長(1130~1182)に同官で位階を超えられたことに悔しがり、権大納言を辞すことによって実長より上の正二位をもらったと記述されています。つまり、官職を辞めてまで、実長より上位になろうとしたわけです。実定の、実長に対するライバル心のすさまじさがうかがえる話です。

 実定が権大納言に還任するのは、それから12年後の治承元年(1177)三月のことでした。この間彼は復任運動を行っていたようですが、世は平家の全盛時代、福任はなかなか実現しませんでした。そのため彼は和歌に没頭していたようです。

 さらに、同年十二月には左大将を兼ねます。この任左大将の人事に関して、『平家物語』二は、実定が平清盛の同情を乞うために厳島神社に参詣したからだと描かれています。またこの頃、藤原兼実主催の歌合わせに出詠しています。このように、平家とも摂関家ともつかず離れずで要領よくつきあっていたようです。このあたりは、平家を倒そうと謀反を企てて流罪になり、その後殺された藤原成親と対照的と言えます。

 こののち、寿永二年(1183)に内大臣、文治二年(1186)に右大臣と昇進し、文治五年(1189)には左大臣に任じられました。祖父の実能が「徳大寺左大臣」と呼ばれていたため、実定は「後徳大寺左大臣」と称しました。

 しかし翌年、左大臣を辞し、建久二年(1191)六月二十日病により出家、法名を如円。同年閏十二月十六日薨去、五十三歳。源頼朝も、その死を深く嘆いたと伝えられています。家集に『林下集』があり、『千載』以下の勅撰集に七十三首入集しています。

 こうして彼の生涯を見てみると、乱世を要領よく生き抜き、最終的には左大臣という朝廷の実力者にのし上がったと言えそうです。世捨て人のような生活をしていた妹の多子にとっては頼もしいお兄さんだったであろうことが想像されます。『平家物語』巻五『月見』の項では、新都福原から京に戻り、多子のもとを訪れた実定が、多子や女房たちと月見をしながら昔語りをする様子が描かれていますが、多子が兄の訪れを喜んでいる様子が伝わってきます。

 ただ、よくわからないのは彼の性格や実像です。

 彼については説話文学に様々な逸話が描かれていますが、どうも権力者にこびたり昇進運動に躍起になったりするといったあまり良くないイメージがあります。実際彼は、平清盛の盟友で、大富豪として知られた藤原邦綱の婿になろうとして清盛に制止され、世の中の失笑を買ったようです。でも、考えてみるとこの時代は激動の時代、古い秩序が壊れ、新しい芽が吹き出して来るという時代でした。そんな時代だからこそ、権力者にある程度こびることは必要なことだったかもしれません。
 実は実定は、不遇なおじの俊成に皇太后宮大夫を譲るなどの優しい面もありました。また、和歌、今様、管絃など各種の文化に優れ、俊成・定家親子だけでなく、西行、源頼政、待宵の小侍従など階級を問わず、交際範囲も広かったようです。なかなか面倒見の良いところもあったのかもしれませんね。

 ところで、実定が40歳を過ぎた頃になると、あれほどの栄華を極めた平家は没落し、源氏に追われて西海に滅び去っていきました。壇ノ浦で救われ、京に戻って落飾された建礼門院平ら徳子(高倉天皇中宮・安徳天皇母)を後白河院が大原に訪ねたのは文治二年(1186)の春のことでした。実定もその際、院に供奉して大原を訪れました。墨染めの衣姿の女院と対面し、実定も哀れに思ったのでしょうか。彼は庵室の柱に次のような歌を書きました。

 いにしへは 月にたとへし 君なれど その光なき 深山辺の里
 
 「昔はまるで月の光のように輝いていましたのに、今ではその面影もございません。こんな山里でこのようなお姿を拝見しようとは夢にも思いませんでした。」という意味でしょうか。世の移り変わりの早さを女院の姿と重ね合わせた歌とも言えそうです。

 実定が「百人一首」にとられているほととぎすと有明の月の歌を詠んだのは、50歳頃のことなのだそうです。激動の時代を生き抜いてきた彼の人生を、はかないほととぎすの鳴き声と有明の月に重ね合わせたのでしょうか。彼は要領の良い政治家である前に、自然と文化を愛する風流人だったような気がします。

☆参考文献
 『平安時代史事典』 角田文衞 監修 角川学芸出版
 『平家物語を知る事典』 日下力 鈴木彰 出口久徳 東京堂出版
 『百人一首 100人の歌人』 歴史読本特別増刊 新人物往来社
 『田辺聖子の小倉百人一首』 田辺聖子 角川文庫

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