平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

移徙・仏名会 ~秋の日帰り京都旅行2

2008-11-28 09:53:58 | 旅の記録
 京都市下京区にある風俗博物館では、六条院春の御殿を四分の一に縮小し、その中に「源氏物語」の色々なシーンが人形や調度品の模型などで再現されています。私が初めてこちらを訪れたのは2003年3月、それ以来すっかりファンになってしまい、京都を訪れるといつも立ち寄らせていただいています。

 さて、2008年下半期の展示は

●六條院移徙(わたまし)「乙女」より : 六條院が完成し、紫の上達が引き移ってくる場面 
●仏名会「幻」より 平安時代の十二月の年中行事 : 御仏名の展示
●御冊子つくり『紫式部日記』より
●女房の局 ~伏籠と重陽節句~
●四季のかさねの色目に見る平安の美意識
●御格子参る 『枕草子』『紫式部日記絵巻』『源氏物語』「末摘花」より : 女房のお勤めの一場面

となっていました。今回も、その中からいくつかをご紹介します。

*この展示は、2008年7月1日より11月29日までとなっております。

 さて、最初に目に飛び込んできたのはこれ、糸毛車(身分の高い女性が乗る車)です。


  


 この展示は、六條院移徙(わたまし)の一場面です。

 光源氏35歳の8月、六条院が完成しました。そして彼岸の頃、紫の上が六条院の春の御殿に引っ越してきます。この場面は、紫の上や彼女に養育されていた明石の姫君が到着した場面です。それにしても立派な糸毛車です。私も人形のように小さくなってこの糸毛車に乗ってみたいなあ。

 では、この場面からもう1枚。車を引いてきたと思われる牛も映っていますね。なお、牛車から降りてきた女の子は明石の姫君だそうです。


  


 牛車の前では引っ越しの儀式が行われています。陰陽師らしい人が祈祷を行っていますね。


  


 現在でも、家を新築した際には神主さんがのりとを唱える行事がしばしば行われていますが、平安時代の引っ越しの儀式の名残なのでしょうね。


 さて、東の対には平安時代の十二月の年中行事、仏名会の場面が展示されていました。


  


 光源氏52歳の12月19日から3日間、六条院にて仏名会が行われました。御導師が光源氏の長寿を願って念仏を唱えるのを、光源氏はしみじみと、聞き入っています。しかし、光源氏は年明けとともに出家することを決意しています。「自分の命もあとどのくらいか」と思うと少し複雑だったのでしょうね。
 この仏名会は、光源氏の物語の最後を飾る場面でもあります。この場面には、引きこもっていた部屋から外に出てきた光源氏のことを、「まるで光り輝くようでこの世のものとも思えない」と老僧が表現する箇所もあります。光が消える前の一瞬の輝きのようだったのかもしれませんね。

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出発 ~秋の日帰り京都旅行1

2008-11-26 10:39:16 | 旅の記録
 10月24日、6時ちょっと前に目を覚ましました。旅行の前の日にしてはよく眠れ、頭もすっきりしています。

 今回の日帰り京都旅行の目的は、風俗博物館の2008年下半期展示を見ること、ネットでお知り合いになった平安時代好きの友人たちと、京料理の店、六盛さんの創作平安王朝料理を食べることです。平安時代の衣食住を堪能できる旅ということで、この日を楽しみにしていました。

 さて、いつもの日帰り旅行の時のように荷物を確認し、化粧をし、エリカの朝食の用意をして、7時15分頃に家を出発しました。外は雨がしとしとと降っています。でも、西の方から天気が回復してきているようなので、「京都は大丈夫だよね」とだんなさんと話ながら駅まで歩きました。在来線で掛川に出て、新幹線に乗り換えるのですが、ここでちょっとした問題が発生しました。

 実は、私たちが新幹線の切符を取ったのは10日前で、禁煙席はすでにほぼ満席の状態でした。帰りの新幹線では何とか禁煙車の座席が取れたのですが、15号車の20番。「これって車両の一番前の座席ではないの?」ということに気がついたのです。
 昨年11月の京都旅行の時、帰りの新幹線の座席が車両の一番前で、テーブルが座席から離れていて食事はできないし、しょっちゅうドアが開くので疲れているのにゆっくり休めませんでした。まあ、この日は連休の真ん中の日だったので込んでおり、座席が取れただけでも贅沢は言えなかったのですが、「もう、できることならこの席には座りたくない」と思ってしまったのですよね。

 そこで、だめもとで席を換えてもらおうと思い、掛川駅での待ち合わせ時間を利用して切符売り場に行ってみました。すると、16号車の真ん中へんの座席が空いているということだったので、換えてもらうことができました。喫煙車ですが、車両の一番前の座席に座るよりはずっとましです。そのようなわけでほっとして、新幹線のこだまに乗り込みました。

 そんなこんなでいつものように、浜松でひかり号に乗り換え、やっと落ち着くことができたので、キヨスクで買ったおにぎりとお茶で朝食を食べました。だんなさんもいつものように、車内販売のコーヒーを買ってご機嫌です。名古屋あたりまでは雨が降っていたようですが、関ヶ原のトンネルを出たあたりから空が明るくなっているような気がしました。これなら京都は大丈夫そうです。

 9時40分過ぎに京都着。京都駅は複雑でなかなか覚えられません。駅から外に出ると雨は降っておらず、良かった良かった。雨が降っていたらタクシーで風俗博物館に行こうと思っていたのですが、せっかくなので歩いていくことにしました。駅から風俗博物館まで歩くのは、一昨年の春の京都旅行以来のことです。碁盤の目のように区切られた通りを歩き、七条通を右に折れて堀河通りを上がっていきました。左に西本願寺、右に宿望が見えると、風俗博物館のある井筒南店ビルはもうすぐです。

 と言うわけでビルの中に入り、エレベーターで5階まで上がり、風俗博物館に到着したのは10時20分頃でした。お香の匂いがして気持ちが弾みます。

 では、次回は風俗博物館の今回の展示の様子を紹介しますね。

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ホテルでランチ♪

2008-11-21 17:42:59 | えりかの平安な日々 04~09
 今朝、UPした日記にも書きましたが、今週の火曜日(18日)、だんなさん、だんなさんの教員時代の教え子の方3人と、静岡市内のホテルでランチを食べてきました。こちらのホテルのランチは以前にも食べたこともあり、6月10日の日記でも紹介しましたが、今回のランチはそれよりも一段上のランチだそうで、楽しみにしていました。その上、前に食べたときと同じくケーキもついているとのこと、ケーキなんてしばらく食べていないのでそちらも楽しみ♪

 さて、メインのおかずはこんな風に、ふたがついた形で出てきました。


          


 わ~、本格的ですね。

 そしてふたを開けるとこんな風になっていました。


          


お料理は上段左から

☆かつおのタルタルソースがけ
 タルタルソースが美味で何とも言えません。こってりとしていておいしかったです。

☆炊き合わせ
 色々な野菜の煮物です。ちょっと変わった味でしたが、おいしかったです。特にかぼちゃがおいしかったです。私はかぼちゃが苦手なので不思議です。

☆お刺身
 最近、値段が高くなってなかなか口にできないマグロのお刺身。もちろんおいしかったです。

 下段左から

☆天ぷら
 エビやシシトウの天ぷら。別皿の天つゆにつけていただきました。かりっとしていて何とも言えません。

☆前菜
 佃煮やサツマイモの煮付け、卵焼きなどが入っています。特にかものテリーヌがおいしかったです。私はかもが苦手なのですが、かぼちゃ同様、おいしかったのは不思議です。

☆山菜の酢の物
 さっぱりとしていてこちらも美味でした。山菜もそれほど好きではないのですが全部食べてしまいました。

 これにご飯、赤だしのみそ汁、茶碗蒸しがついていました。

 そしてデザート、まず、果物の盛り合わせが運ばれてきました。キューイフルーツと柿とオレンジが入っていましたが、うっかり写真に撮るのを忘れてしまいました。すみません…。

 そしてお待ちかねのケーキの登場です。


          


 イチゴショートケーキと紅茶です。生クリームもスポンジも最高!ほどよい甘さがたまりません。幸せ~。(^^)

 ちなみにこちらは、だんなさんが注文したレアチーズケーキです。


          


 少しもらってしまいましたが、こちらもおいしかったです。生クリームも入っていましたし、上にはパンのようなものも乗っていました。

 やっぱりケーキはいいですね~。今度はいつ食べられるかしら。

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忙しかった半月間が終わって

2008-11-21 10:16:22 | えりかの平安な日々 04~09
 皆様お久しぶりです。

 このところ、また更新が滞ってしまいましたが、ようやく、先月の京都旅行記の作成のめどが立ってきました。とりあえず、風俗博物館で撮影した写真の整理が終わりましたので、これから文章の下書きに取りかかろうと思っています。「今さら…」という感じの旅行記連載になってしまいますが、どうかおつきあいの程をよろしくお願いいたします。

 さて、タイトルの通り、この半月間はとても忙しかったです。その上、だんなさんが体調を崩し、そのあと私も体調を崩してしまいました。現在ではもう大丈夫ですが…。そんなこんなで、旅行記の写真の整理もできなかったのですよね…。

 そして、この半月の間に、何と5回も電車に乗って静岡に行って来ました。普段私は、静岡に出るのはせいぜい週に1回なのです。なので、半月で5回というのは特別なことなのです。

 では、どうしてこれほど出かけることになったのかを書いてみますね。

☆11月4日

 5年ほど前から出入りさせていただいている「是非に!及ばず!」の管理人さんのじんぱちさんが、旅行の途中に静岡に立ち寄って下さったので、だんなさんと一緒にお会いしてきました。じんぱちさんとは、先にも書いたように、知り合って5年以上になるのですが、実はオフでお会いするのは初めてです。でも、初めてという気がしませんでした。それで、静岡市内のホテルの喫茶室で3時間ほどお話しさせていただいたのですが、とても楽しい時間を過ごすことができました。どうもありがとうございました。(^^)

☆11月10日

 この日は、エリカのキャットフードを買いに、静岡駅からバスで15分くらいの所にある動物病院に行って来ました。キャットフードが200円も値上がりしていてびっくり。でも、スーパーで買った安いキャットフードをエリカに食べさせるのはすごく不安なので、こうして動物病院で買っているのでした…。かわいい猫ちゃんとワンちゃんの映った来年のカレンダーもゲット。

☆11月13日

 この前日、お互いに体調が悪かったこともあり、だんなさんと大げんかをしてしまいました。それで、この日の午前9時頃、出先よりだんなさんから電話がかかってきて、「外でランチをしよう」ということだったので、午後2時に静岡駅で待ち合わせて、パスタのお店でランチを食べてきました。おいしかったです。やっぱり外でランチを食べると心も体もリフレッシュできますね。

☆11月17日

 4週間に1回の病院診察の日。前回の診察の時、血液検査もしていたのでその結果も聞いてきました。相変わらず肝臓と中性脂肪の値が高いです。それに最近また、胸が苦しくなることや咳が出ることがあったので、血圧も心配でしたが、それほど高くなくて一安心でした。色々お話も聞いていただきました。こんな風に、相変わらず丁寧に診察してもらえて感謝です。インフルエンザの予防接種の2回目も受けてきました。この冬はこれで大丈夫かな?

☆11月18日

 だんなさんと、だんなさんの教員時代の教え子の方3人と一緒にランチを食べてきました。グルメレポートは後ほど、別の記事にしてUPします。

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かぐや姫の結婚

2008-11-14 10:08:17 | 図書室1
 今回は、平安時代の姫君たちにスポットを当てたこの本を紹介します。

☆かぐや姫の結婚 日記が語る平安姫君の縁談事情
 著者=繁田信一 発行=PHP研究所 価格=1470円

☆本の内容紹介
 平安朝をうつす日記『小右記』を綴った藤原実資。かの藤原道長のライバルと言われた実資には、“千歳まで生きてほしい”との願いをこめて、千古と名づけた娘がいた。王朝貴族として幾多の縁談に翻弄される姫君、藤原千古の運命とは…。

 では、もくじとそれぞれの章の簡単な内容を紹介します。なお、☆以降はえりかによる感想です。

序章 ふられ続けるかぐや姫

 藤原実資が55歳の時にもうけた娘、千古の結婚に至るまでの事情をかいつまんで説明してあります。

☆千古は、三度目に持ち上がった縁談がようやく実ることになるのですが、どうして二度も破談になったのか、興味をそそられました。先が読みたくなります。

第1章 名門貴族家の姫君

 後に右大臣にまで昇進することになる藤原実資(957~1046)の娘、千古は、寛弘八年(1011)に誕生しました。55歳で父親になった実資はよほど嬉しかったらしく、日記「小右記」にしばしば千古のことを書いています。この本はその「小右記」の内容を中心に話が進められていきます。

 この章では、千古の生い立ちが語られています。実資は、千古が病気になったと言っては九州から薬を取り寄せたり、行列見物に行きたいとせがまれれば自分が病気で宮中への出仕を休んでいる日であろうと千古を連れて出かけたりなど、とにかく甘い父親です。

☆ついには、「自分の財産はすべて千古に譲る」と決心する実資さん。実資さんには、僧籍に入った実子をはじめ、養子も何人かいたのですが、そんな兄たちを押さえて千古は、実資の莫大な財産の相続人となったわけです。まさに「猫かわいがり」ですね。その理由が知りたくて、次の章を読んでみました。

第2章 かぐや姫の姉君たち

 実資は17歳の頃、文徳源氏の源惟正の女を妻に迎えています。その女性は寛和元年(985)に娘を産みました。実資は娘が欲しかったらしく、清水寺に願掛けをしていたので、娘の誕生に大喜びしたことは言うまでもありません。しかしその娘は数え6歳で世を去ってしまいます。それと前後して実資の妻はもう一人娘を産むのですが、妻は間もなく亡くなり、娘も早逝してしまいます。
 また実資は、実姉の女房との間にも娘をもうけたようですが、その娘も創逝してしまいます。その後、実資は婉子女王(為平親王女)と結婚。二人は大変仲睦まじかったようですが、なぜか子供には恵まれませんでした。婉子女王も若くして世を去り、その十数年後、女王の女房だった女性との間にもうけたのが千古だったのです。

☆実資さん、千古ちゃんのパパになる前、娘を何人も亡くしていたのですね…。それに女運も良くなかったようで気の毒です。そのため、「もうあんな悲しい思いはしたくない。この子だけはどうしても無事に成長させなくては」と思って大切にしていたのですね。

第3章 妃になれない姫君

 千古に最初に縁談話が起こったのは治安三年(1023)のことでした。相手は源師房。村上天皇の皇子、具平親王の嫡男で、子だからに恵まれない関白藤原頼通の養子になっていた人物です。もし、このまま頼通に子が生まれなかったら、関白の跡継ぎになるかもしれないという、申し分のない貴公子です。しかし師房は、藤原道長の女、尊子との縁談がまとまり、この話は破談になってしまいました。どうやらその頃、千古の身には、入内前の朧月夜のような事が起こっていたようなのです。

☆千古の相手は、実資の兄、懐平の子である藤原経任だったようです。千古にはいとこに当たります。もしかしたら幼い頃から、兄のように慕っていた人物だったかもしれません。しかし当時の上流階級の姫君は、本人の意志よりも周りの思惑が優先されてしまう。千古ちゃんにとってははかない恋だったのでしょうね。

第4章 かぐや姫と貴族社会

 千古の着裳は、万寿元年(1024)十二月に執り行われました。この章では、その着裳に至るまでの出来事が述べられ、その後、千古が仏事や神事を受ける様子が語られます。どうやら着裳をすませた千古には、上流貴族たちから羨望のまなざしや、時によっては呪詛のようなものも向けられていたようなのです。

☆実資に着裳をすませた結婚適齢期の娘がいるということは、実資がこの娘を使って勢力拡大をはかるかもしれない…という恐れと羨望が、他の貴族たちにはあったようなのですよね。当時の貴族たちの勢力争いのすさまじさがかいま見えるような気がしました。「娘が呪詛されては大変…」という、実資パパの必死さも伝わってきます。

第5章 焦りはじめる竹取の翁

 千古に次の縁談話が起こったのは万寿二年(1025)のことでした。相手は藤原道長の子、長家です。
 ところが、思わぬ妨害が入ります。その頃、長家は二度目の妻を亡くしたばかり、そこで、前妻の父である藤原斉信が横やりを入れてきたのです。当の長家も優柔不断で、この縁談は前進せず、万寿四年を迎えます。そして結局、この話も破談になってしまいます。

☆実資と斉信は仲が悪かった…という話を聞いたことはあったのですが、こんなところにも因縁があったのですね。実は先にも触れた千古の恋の相手、経任は斉信の養子になっていたようなのです。と言うことは、斉信が千古の結婚を妨げる目的で、経任を千古に近づけたのかもしれない…、ということが、この章に書かれていました。それでは千古ちゃんがあまりにもお気の毒ですね。

第6章 姫君たちの零落

 この章の最初には、藤原道兼女の話が述べられています。道兼は「7日関白」と呼ばれた不運な人物ですが、この娘は道兼の死後に生まれました。彼女の母は藤原顕光と再婚しますが、顕光はこの娘に冷たく、ついに彼女は道長女の威子(後一条天皇中宮)の女房になってしまいます。
 その他、藤原彰子(一条天皇中宮)の女房になってしまった藤原伊周女、藤原道長の妾になってしまった藤原為光女、藤原寛子(後冷泉天皇皇后)の女房になってしまった敦明親王の皇女、藤原彰子の女房になってしまった花山天皇の皇女など…、零落した姫君のことが書かれていました。世が世なら、上流貴族や皇族の姫として、大切にかしずかれていたはずの姫君たちです。

☆皇族の皇女までが道長の娘や孫たちの女房になっていたとは、驚きました。父や夫を亡くした姫たちは、たとえ生まれが高貴でも、女房勤めをするしか道がなかったのですね。確かに、千古も一歩間違えばこんな風になっていたかもしれませんね。実資が亡くなってしまったら、たとえ財産はすべて譲られることになっていたとしても、兄たちに横取りされなかったとも限りませんし、身分に釣り合った結婚もできませんよね。確かに著者が述べられているように、千古ちゃんは運のいい姫君です。

第7章 かぐや姫の結婚

 長元二年(1029)、ついに、千古の縁談がまとまります。相手は藤原頼宗の子、藤原兼頼(道長の孫)。千古より若干年下ですが、身分的には充分釣り合う相手です。最初、あまり乗り気でなかった実資ですが、養子の資平や資頼の働きかけで承諾、正式な北の方ではなかったためこれまで縁談にほとんど口を出さなかった千古の母も協力したようで、19歳の千古はようやく花嫁となることができました。しかし、周りが一生懸命になったのはよいとして、当の千古の気持ちはどうだったのでしょうか。

☆実は、結婚しても千古は実資に行列見物をおねだりし、父と一緒に出かけていたようなのです。時には、病気の夫を家に置いて見物に出かけたこともあったとか…。千古が最もあこがれていたのは、自分をかぐや姫の如くかわいがってくれた実資パパだったのかもしれませんね。

終章 かぐや姫の去りし後

 こうして始まった二人の結婚生活ですが、実は、あまり長続きしなかったみたいなのです。

 どうやら千古は、長暦元年か2年頃(1037か38)、つまり27歳か28歳の頃に、娘を一人残して亡くなってしまったようなのです。著者は、娘を産んだあとの産褥死なのではないかと推定されていました。千古をかわいがっていた実資はその後、「尋常ではなかった」そうです。(実資養孫、藤原資房の日記『春記』による)。

☆実資さんは、亡くなるまで出家もせず、日記に日頃のぐちを書いてストレス発散していた人だったのかなと思っていたのですが、娘が亡くなったあとは魂が抜けたようになって、ひたすら冥福を祈る日を送っていたのでしょうね。そんなわけで、実資さんのイメージが大きく変わりました。

 それにしても、世に「かぐや姫」と呼ばれ、千年の命を持って欲しいとの願いを込めて「千古」と名づけられた姫が若くしてこの世を去ったことも哀しいですが、幼い娘を残して死んでいかなければならなかった千古さんがどんなに心残りだったかを考えると、もっと切なくなります。そしてその忘れ形見の娘は、何と百歳近くまで長生きしたそうです。90まで生きた実資おじいさんの血なのでしょうか?


 以上、述べてきましたように、「小右記」を中心に引用しながら、藤原実資の女、千古の生涯が綴られた本です。

 この本を読み終わっての感想ですが、若くして亡くなってしまったのはかわいそうですが、千古はやはり、平安時代の姫君の中では幸福な部類に入るのかな…、と思いました。父親から愛され、その父親が高齢だったのにもかかわらず長生きし、身分相応の夫を持つこともできたのですから。

 また、藤原実資の日常生活がかいま見られて興味深かったですし、何よりも、平安時代の上流貴族の姫君の実態がわかって、こちらも興味深かったです。引用してある「小右記」の原文も、現代文で訳されていますので読みやすく、わかりやすかったです。お薦めです。


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今昔物語 ~古典の旅6

2008-11-07 10:54:49 | 図書室2
 今回は古典エッセーの紹介です。

☆今昔物語 ~古典の旅6
 著者=安西篤子 発行=講談社

もくじ
 道成寺と蛇の話
 六角堂と隠形の男の話
 勧修寺と高藤の話
 護王神社と時平の話
 仁和寺と碁打ち寛蓮の話
 瀬田の橋と紀遠助の話
 伏見稲荷と重方の話
 羅城門と盗人の話
 内舎人と安積山の話
 大和国の箸墓と蛇の話
 解説・説話の宇宙 篠原昭二

*この本は、文庫版では「今昔物語を旅しよう」というタイトルになっていますが、現在では単行本・文庫本ともに絶版になっているようです。興味を持たれた方、古書店か図書館を当たってみて下さい。


 18年ほど前に講談社から刊行された、女性作家11人が古典の舞台を訪ねて綴るエッセー、「古典の旅」シリーズ(詳しくはこちらをご覧下さいませ)の1冊です。

 「今昔物語集」は、1120年頃に成立した説話集で、全31巻(そのうち3冊が欠巻)、千余りの話が収められています。この本ではその中から10編を選び、それぞれの話のストーリーと物語の舞台となった場所の紀行文が収められています。

 また、それぞれの物語の歴史背景や、著者による考察も書かれているので、大変面白いです。

 例えば、道成寺と蛇の話、これは安珍・清姫の伝説で有名な話ですが、伝説と「今昔物語」に収められた話では少し内容が違っています。伝説の清姫は未婚の若い娘ですが、「今昔物語」の女主人公は数年前に夫を亡くした未亡人となっています。著者の考察では、蛇となって情念の炎を吹き出すというのは、若い娘よりもすでに男を知り、長いこと愛に飢えていた未亡人の方がふさわしい」とのことでした。これにはなるほどと思いました。また、この話の背景となっているのは、平安時代から流行し始めた熊野詣とのことでした。

 さて、この本に収められた10編は、ほのぼのとしたユーモラスなもの、オカルト的なもの、悲劇的なものなどバラエティーに富んでいてどれも大変面白いのですが、私は勧修寺と高藤の話が一番好きです。

 閑院左大臣冬嗣の孫、藤原高藤は15、6の頃、山科に狩りに出かけて雨に降られ、1軒の家に一夜の宿を借ります。そこでその家の娘と契りを交わし、形見に刀を置いて立ち去ります。数年後、ようやくこの家を再び探し当てて訪ねたところ、高藤と娘の間には小さな女の子が生まれていました。高藤はこの母娘を京の自邸に引き取り、末永く幸せに暮らし、女の子は長じて帝の妃となり醍醐天皇をもうけます。何か、おとぎ話のように素敵な話だと思いませんか?
 つまり、高藤が宿を借りた家は山科の豪族、宮堂弥益の家で、高藤が契った娘は宮堂列子、二人の間に生まれた娘は宇多天皇の更衣となった胤子です。「今昔物語」の登場人物というと、下級貴族や武士、庶民が中心というイメージがあったのですが、高藤の話のような天皇のルーツに関わる話もあったのだと、とても新鮮に感じます。
 紀行文では宮堂弥益が住んでいた邸跡に建てられたという勧修寺が取り上げられていました。私も10年ほど前に訪れたことがあるのですが、庭園が美しかったです。「ああ、ここが高藤と列子のロマンスの舞台になった場所なのね」と想いをはせると、夢がわいてきてわくわくしました。

 このように、「今昔物語」の中の10編の話が丁寧に、興味深く紹介されている本です。この本を読むと物語の舞台を訪ねたくなります。「今昔物語」への入門書としても最適ではないでしょうか?こちらで以前に紹介した古典の旅シリーズ、「百人一首」「更級日記」「源氏物語」と共にお薦めです。

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菅原孝標 ~「更級日記」の作者の父

2008-11-01 09:48:01 | 歴史人物伝
 先日、久しぶりに「更級日記」の現代語訳を読み返してみたのですが、作者菅原孝標女の父、菅原孝標とはどんな人物だったのか、ちょっと興味を引かれました。娘は日記作者として有名なのに、その父親は名前だけは有名でも、どんな人物だったのかはすっかり忘れられてしまっていますよね。それではあまりにも孝標さんがお気の毒なので、こちらの人物伝で取り上げさせていただくことにしました。

 では、彼の生涯や人となりを紹介しましょう。なお、かなり私の妄想、推察も入っていますのでそのあたりはご了承下さいませ。

☆菅原孝標(973~? 1036以降か)

 菅原道真四世の孫。父は大学頭・文章博士の経歴もある右中弁菅原資忠、母は民部大輔源包女。藤原倫寧女との間に定義、「更級日記」の作者とその姉などをもうけました。また、高階成行女との間にも子供がいたようです。この女性は、「更級日記」中に「継母」として登場する人物です。

 菅原家は学問の家であり、代々、大学頭や文章博士を輩出していました。孝標も大学頭や文章博士を目指していたのでしょう。最初は大学寮に入り、大学の業を終えたあとに文章生となりました。

 しかし、なぜか彼は学問とは別の道を歩むことになるのです。
 正暦四年(993)正月、因幡掾として昇殿を許されました。長保二年(1000)正月蔵人、同三年叙爵。このころ頭弁として孝標の上司だったのが藤原行成(972~1027)です。

寛仁元年(1017)正月上総介、同四年十二月に帰京、長元五年(1032)二月常陸介。同九年秋上京後は官途を退いたようです。彼はついに、父の資忠や息子の定義のように、大学頭や文章博士になることはありませんでした。

 では、どうして孝標は大学頭や文章博士になれなかったのでしょうか。実は、どうやら彼は学問の家である菅原家に生まれながら、あまり優秀ではなかったようなのです。

 「扶桑略記」、治安三年十月十九日の条にこんな記事が載っています。

 ある時、藤原道長は吉野の竜門寺に参詣しました。その時、菅原孝標もお供の行列に加わっていました。
 竜門寺の方丈の扉には、菅原道真の神筆が遺っていました。孝標は、その道真の神筆の横に仮名文字の添え書きをほどこした上、へたな詩文を脇に書いたりなどして、道長はじめ公卿・殿上人の失笑を買ったというのです。
 孝標は、ご先祖さまの神筆にお目にかかった嬉しさのあまり、「自分は道真の子孫である」ということをひけらかしたかったのでしょうけれど、かえって逆効果になってしまったようですよね。

 この他にも、聞き違いの情報を他人に伝えて迷惑をかけるなど、あまり芳しい記録が残っていないようです。

 確かに「更級日記」から伝わってくるイメージも、「凡庸な人物」です。

 しかし、それと同時に私は、「更級日記」の孝標からは家族思いの好人物という印象も受けるのです。

 例えば、孝標女は、藤原行成女の書いた文字を書道の手本にしていたということ、これは孝標が行成に頭を下げて手に入れたものではないかと思うのです。

 上でも書きましたが、孝標の蔵人時代の上司が行成でした。娘たちが、行成女の書にあこがれていることを知った孝標は、上総から帰京すると間もなく、様々な贈り物を持ってかつての上司、行成の許に挨拶に行ったのでは…と思うのです。実は孝標と行成はほぼ同年代、でも、当時は年齢より身分が優先されますから、孝標は緊張しています。何しろ寛仁四年(1020)当時の行成はすでに権大納言、前上総介の孝標からしてみれば雲の上の存在です。

 孝標からの様々な贈り物に行成も大喜び、そこで孝標は、「実は、うちの娘たちが大納言さまの姫さまの書にあこがれております。ぜひ所望したいのですが」と言ったのでは?もちろん、「大納言さまに似ておじょうさまの書も美しくて達筆でいらっしゃいますなあ。血は争えませんです。」などと、お世辞を言うことも忘れてはいません。

 自分と愛娘の書をほめられた行成も気をよくし、早速娘の書いた書を孝標に手渡したのではないかと思います。孝標はなかなか娘思いの良いお父様です。
 余談ながらこの行成女は当時、藤原道長と源明子との間の子、長家の妻となっていましたが、翌治安元年(1021)に病死してしまいます。孝標女も大変悲しがっていた記述が、「更級日記」にあります。

 …と、ここまで書いてきて、私はあることに気がつきました。もしかすると孝標は、行成に以前から接近していたのでは?上総のような大国の介になれたのも、ひょっとすると行成の推薦があったからなのではないかと…。

 ついでに孝標は、50年間も関白を務めた藤原頼通にも接近していたように思えます。というのは、孝標女は後年、宮仕えに出るのですが、出資先は後朱雀天皇の皇女、祐子内親王の宮廷です。祐子内親王の母君は藤原(女原)子です。この方の実父は一条天皇の皇子、敦康親王ですが、彼女は頼通の養女になっていました。当然、頼通の後ろだてで入内しています。つまり祐子内親王の外祖父は頼通なのです。孝標女がそんな祐子内親王に使えることができたのは、やはり孝標が頼通派だったからではないかと思うのです。

 あと、「更級日記」を読むと、孝標女はかなり豊かな生活をしているような気がします。あちらこちらに物詣でもしていますし、中級貴族にしては物語が手に入りやすい環境だったようですし。上総で等身大の観音様を造ってもらったりもしていますよね。これは、孝標がかなりやり手の国司だったからでは?平安時代史事典にこんな記述がありました。

ー引用開始ー

『更級日記』に描かれた孝標像は凡庸な好人物であるが、近時、能吏としての側面が指摘されるに至った。

        ー引用終了ー

 孝標がどのような人物だったかは推測するしかありませんが、家では優しいマイホームパパ、仕事ではかなりやり手、でも、時々ドジをして失笑を買う…といったなかなかユーモラスな好人物だったように思えます。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『更級日記 ー古典の旅5』 杉本苑子 講談社

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