浜松城は、元亀元年(1570)、徳川家康(1542~1616)によって築城された城です。家康は、天正14年(1586)に本拠を駿府城に移すまでの17年間を浜松城で過ごしました。その後、主に家康の譜代大名たちが城主を務め、明治維新まで続きました。現在の天守閣は、昭和33年(1958)に再建されたものだそうです。
そんな家康の「出世城」と呼ばれた浜松城天守閣に、今から私も登ってみます。
なお、私が浜松城天守閣に登るのは今回が初めてではなく、浜松で学生時代を送っていた25年くらい前に一度登ったことがあります。その時の記憶で、浜松城は二階建てだとずっと思っていたのですが…、3階に登る階段があってびっくりしてしまいました。そうです。浜松城は3階建てだったのでした。
そんなこんなで3階まで登った私たちです。やっぱり暑い。
では、浜松城の最上階の内部の様子をご覧下さい。

晴れていたせいか、お城の中は明るかったです。
最上階にはベランダがあり、外に出られるようになっていました。外に出ると風が吹いてきて、お城の中よりは涼しく感じます。では、最上階から見た外の様子をどうぞ。

あ、それから天守閣の中にはこんなものも展示されていました。

鎧です。家康公も使ったのでしょうか。
最上階で小休止をしたあと、私たちは階段を下りて1階に戻ってきました。1階には自動販売機があったので、ベンチに腰掛けて飲み物を飲みながら休憩することに。何しろのどがからからでしたので。私は氷がたくさん入ったレモンティーを飲みました。冷たくておいしかったです。
ところで、ベンチの前にはビデオが置いてあり、ボタンを押すと浜松城の歴史についてのビデオが見られるようになっていました。せっかくなのでビデオ鑑賞をすることにしました。
ビデオは3本立てでした。まず1本目は、家康が浜松城を築いた経緯や、家康が城主だった17年間の歴史について簡単に述べられていました。
家康が三河から東進し、今川家の領地の制圧を始めたのは永禄十一年(1568)のことでした。そしてその頃、同じように今川領に攻め込んできた武田信玄の進行に備え、遠州一帯を見渡せる三方原に着目した家康は、元亀元年(1570)に浜松城を築き、それまでの本拠であった岡崎城を長男の信康に譲って移りました。
家康は天正十四年(1586)に駿府に本拠を移すまでの17年間を浜松城で過ごしたわけなのですが、この間に姉川の合戦を始め、三方原の合戦、長篠合戦、小牧・長久手の合戦など、数々の大きな合戦に出陣しました。しかし、天正七年(1579)には、信長の命令で妻の築山殿と長男の信康を謀反の罪で死に追いやるなど、不運なこともありました。それでも、家康が浜松城の城主だった時代には領土は遠江から駿河、甲斐へと拡大し、家臣団も強固にし、天下人となる基礎を着々と築いていったと言えそうです。
2本目は、三方原の合戦が講談口調で紹介されていました。
元亀三年(1572)、武田信玄は上洛するために甲府を出発、遠江に侵入しました。この年の十二月、家康は三方原にて武田軍を迎え撃とうとしますが、大敗してしまいます。これが三方原の合戦です。
家康は浜松城に逃げ帰る途中で茶屋に入って餅を食べ、料金を払わずに逃げていった…という話も伝わっています。そして、家康が餅を食べた場所には「小豆餅」、店の主人が家康を追いかけていってやっと追いつき、家康から金を受け取った土地には「銭取」という地名が浜松市内に今でも残っています。
また、家康は浜松城に逃げ帰ったあと、この時の自分のみじめな姿を絵師に描かせ、その後、折に触れてはこの絵を眺め、いましめにしていたと言われています。
3本目は、家康が去ったあとの浜松城について紹介していました。
天正十八年(1590)、家康が関東に移ったあとに浜松城の城主となったのは秀吉の家臣であった堀尾吉晴です。そうです、2006年の大河ドラマ「功名が辻」でも、主人公山内一豊の仲の良い友人として登場していましたよね。
関ヶ原合戦後、堀尾家が出雲松江に移ると、徳川家の譜代大名が代々城主を務め、明治維新まで続きました。天保の改革を成し遂げた水野忠邦もその一人です。
明治維新のあとは廃城となり、この記事の最初の方でも書いたように、現在の天守閣は昭和三十三年(1958)に再建されたものです。
こうして浜松城の歴史をざっと見てみると、徳川家康を初め、たくさんの城主たちがこの城の歴史に関わってきたのだなと、何かずっしりとした重みを感じました。そして、彼らの息づかいも聞こえて来るような気がしました。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
☆トップページに戻る
そんな家康の「出世城」と呼ばれた浜松城天守閣に、今から私も登ってみます。
なお、私が浜松城天守閣に登るのは今回が初めてではなく、浜松で学生時代を送っていた25年くらい前に一度登ったことがあります。その時の記憶で、浜松城は二階建てだとずっと思っていたのですが…、3階に登る階段があってびっくりしてしまいました。そうです。浜松城は3階建てだったのでした。
そんなこんなで3階まで登った私たちです。やっぱり暑い。
では、浜松城の最上階の内部の様子をご覧下さい。

晴れていたせいか、お城の中は明るかったです。
最上階にはベランダがあり、外に出られるようになっていました。外に出ると風が吹いてきて、お城の中よりは涼しく感じます。では、最上階から見た外の様子をどうぞ。

あ、それから天守閣の中にはこんなものも展示されていました。

鎧です。家康公も使ったのでしょうか。
最上階で小休止をしたあと、私たちは階段を下りて1階に戻ってきました。1階には自動販売機があったので、ベンチに腰掛けて飲み物を飲みながら休憩することに。何しろのどがからからでしたので。私は氷がたくさん入ったレモンティーを飲みました。冷たくておいしかったです。
ところで、ベンチの前にはビデオが置いてあり、ボタンを押すと浜松城の歴史についてのビデオが見られるようになっていました。せっかくなのでビデオ鑑賞をすることにしました。
ビデオは3本立てでした。まず1本目は、家康が浜松城を築いた経緯や、家康が城主だった17年間の歴史について簡単に述べられていました。
家康が三河から東進し、今川家の領地の制圧を始めたのは永禄十一年(1568)のことでした。そしてその頃、同じように今川領に攻め込んできた武田信玄の進行に備え、遠州一帯を見渡せる三方原に着目した家康は、元亀元年(1570)に浜松城を築き、それまでの本拠であった岡崎城を長男の信康に譲って移りました。
家康は天正十四年(1586)に駿府に本拠を移すまでの17年間を浜松城で過ごしたわけなのですが、この間に姉川の合戦を始め、三方原の合戦、長篠合戦、小牧・長久手の合戦など、数々の大きな合戦に出陣しました。しかし、天正七年(1579)には、信長の命令で妻の築山殿と長男の信康を謀反の罪で死に追いやるなど、不運なこともありました。それでも、家康が浜松城の城主だった時代には領土は遠江から駿河、甲斐へと拡大し、家臣団も強固にし、天下人となる基礎を着々と築いていったと言えそうです。
2本目は、三方原の合戦が講談口調で紹介されていました。
元亀三年(1572)、武田信玄は上洛するために甲府を出発、遠江に侵入しました。この年の十二月、家康は三方原にて武田軍を迎え撃とうとしますが、大敗してしまいます。これが三方原の合戦です。
家康は浜松城に逃げ帰る途中で茶屋に入って餅を食べ、料金を払わずに逃げていった…という話も伝わっています。そして、家康が餅を食べた場所には「小豆餅」、店の主人が家康を追いかけていってやっと追いつき、家康から金を受け取った土地には「銭取」という地名が浜松市内に今でも残っています。
また、家康は浜松城に逃げ帰ったあと、この時の自分のみじめな姿を絵師に描かせ、その後、折に触れてはこの絵を眺め、いましめにしていたと言われています。
3本目は、家康が去ったあとの浜松城について紹介していました。
天正十八年(1590)、家康が関東に移ったあとに浜松城の城主となったのは秀吉の家臣であった堀尾吉晴です。そうです、2006年の大河ドラマ「功名が辻」でも、主人公山内一豊の仲の良い友人として登場していましたよね。
関ヶ原合戦後、堀尾家が出雲松江に移ると、徳川家の譜代大名が代々城主を務め、明治維新まで続きました。天保の改革を成し遂げた水野忠邦もその一人です。
明治維新のあとは廃城となり、この記事の最初の方でも書いたように、現在の天守閣は昭和三十三年(1958)に再建されたものです。
こうして浜松城の歴史をざっと見てみると、徳川家康を初め、たくさんの城主たちがこの城の歴史に関わってきたのだなと、何かずっしりとした重みを感じました。そして、彼らの息づかいも聞こえて来るような気がしました。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
☆トップページに戻る