平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

浜松城天守閣 ~盛夏の浜松へ5

2009-08-28 20:41:23 | 旅の記録
 浜松城は、元亀元年(1570)、徳川家康(1542~1616)によって築城された城です。家康は、天正14年(1586)に本拠を駿府城に移すまでの17年間を浜松城で過ごしました。その後、主に家康の譜代大名たちが城主を務め、明治維新まで続きました。現在の天守閣は、昭和33年(1958)に再建されたものだそうです。

 そんな家康の「出世城」と呼ばれた浜松城天守閣に、今から私も登ってみます。

 なお、私が浜松城天守閣に登るのは今回が初めてではなく、浜松で学生時代を送っていた25年くらい前に一度登ったことがあります。その時の記憶で、浜松城は二階建てだとずっと思っていたのですが…、3階に登る階段があってびっくりしてしまいました。そうです。浜松城は3階建てだったのでした。

 そんなこんなで3階まで登った私たちです。やっぱり暑い。

では、浜松城の最上階の内部の様子をご覧下さい。


   


 晴れていたせいか、お城の中は明るかったです。

 最上階にはベランダがあり、外に出られるようになっていました。外に出ると風が吹いてきて、お城の中よりは涼しく感じます。では、最上階から見た外の様子をどうぞ。


   


 あ、それから天守閣の中にはこんなものも展示されていました。


 


 鎧です。家康公も使ったのでしょうか。

 最上階で小休止をしたあと、私たちは階段を下りて1階に戻ってきました。1階には自動販売機があったので、ベンチに腰掛けて飲み物を飲みながら休憩することに。何しろのどがからからでしたので。私は氷がたくさん入ったレモンティーを飲みました。冷たくておいしかったです。

 ところで、ベンチの前にはビデオが置いてあり、ボタンを押すと浜松城の歴史についてのビデオが見られるようになっていました。せっかくなのでビデオ鑑賞をすることにしました。

 ビデオは3本立てでした。まず1本目は、家康が浜松城を築いた経緯や、家康が城主だった17年間の歴史について簡単に述べられていました。

 家康が三河から東進し、今川家の領地の制圧を始めたのは永禄十一年(1568)のことでした。そしてその頃、同じように今川領に攻め込んできた武田信玄の進行に備え、遠州一帯を見渡せる三方原に着目した家康は、元亀元年(1570)に浜松城を築き、それまでの本拠であった岡崎城を長男の信康に譲って移りました。

 家康は天正十四年(1586)に駿府に本拠を移すまでの17年間を浜松城で過ごしたわけなのですが、この間に姉川の合戦を始め、三方原の合戦、長篠合戦、小牧・長久手の合戦など、数々の大きな合戦に出陣しました。しかし、天正七年(1579)には、信長の命令で妻の築山殿と長男の信康を謀反の罪で死に追いやるなど、不運なこともありました。それでも、家康が浜松城の城主だった時代には領土は遠江から駿河、甲斐へと拡大し、家臣団も強固にし、天下人となる基礎を着々と築いていったと言えそうです。

 2本目は、三方原の合戦が講談口調で紹介されていました。

 元亀三年(1572)、武田信玄は上洛するために甲府を出発、遠江に侵入しました。この年の十二月、家康は三方原にて武田軍を迎え撃とうとしますが、大敗してしまいます。これが三方原の合戦です。
 家康は浜松城に逃げ帰る途中で茶屋に入って餅を食べ、料金を払わずに逃げていった…という話も伝わっています。そして、家康が餅を食べた場所には「小豆餅」、店の主人が家康を追いかけていってやっと追いつき、家康から金を受け取った土地には「銭取」という地名が浜松市内に今でも残っています。

 また、家康は浜松城に逃げ帰ったあと、この時の自分のみじめな姿を絵師に描かせ、その後、折に触れてはこの絵を眺め、いましめにしていたと言われています。

3本目は、家康が去ったあとの浜松城について紹介していました。

 天正十八年(1590)、家康が関東に移ったあとに浜松城の城主となったのは秀吉の家臣であった堀尾吉晴です。そうです、2006年の大河ドラマ「功名が辻」でも、主人公山内一豊の仲の良い友人として登場していましたよね。
 関ヶ原合戦後、堀尾家が出雲松江に移ると、徳川家の譜代大名が代々城主を務め、明治維新まで続きました。天保の改革を成し遂げた水野忠邦もその一人です。
 明治維新のあとは廃城となり、この記事の最初の方でも書いたように、現在の天守閣は昭和三十三年(1958)に再建されたものです。

 こうして浜松城の歴史をざっと見てみると、徳川家康を初め、たくさんの城主たちがこの城の歴史に関わってきたのだなと、何かずっしりとした重みを感じました。そして、彼らの息づかいも聞こえて来るような気がしました。

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浜松城天守閣への道 ~盛夏の浜松へ4

2009-08-22 13:36:25 | 旅の記録
 浜松市美術館をあとにしてしばらく歩くと看板を発見。「浜松城はこの先200メートルを左」と書いてあります。そこで案内に沿ってまずまっすぐ歩いていくことにしました。

 ところが、この道がすごい。でこぼこしている上り坂なのです。そこで写真に撮ってみました。こんな感じです。


   


 道の両側に木がたくさん植えられていることもあり、まるで山に登っているような錯覚を受けました。でも、木陰が多いのでそれほど暑さを感じません。それだけが救いでした。

 ところが、200メートルも行かないだろうといううちに上り坂が終わり下り坂に。どこまで行っても左に曲がる道がありません。そこで、もう一度引き返すことに。引き返す道は当然、上り坂になるのでこれにはまいりました。そして、ちょうど上り坂が下り坂に変わろうとする地点で右に曲がる道を発見。先ほどはこの道には気がつきませんでした。ああ良かったと思い、道を曲がって今度こそ浜松城天守閣を目指します。

 ところが…、天守閣への道は上り坂のはずなのに、この道は逆に下っていく道だったのでびっくりしました。それでも「変だなあ」と想いながら道に沿って歩いていきました。 この道もやはりでこぼこした山道のような道です。登りも大変だけど下りも足腰に力がいるので大変でした。しかも、さっきの道と違って両側に木がないので暑いこと、暑いこと。やがて視界が開けましたが、天守閣はどこにも見当たりません。この時点で、私は天守閣に行くことを半分あきらめました。浜松は近いから、次の機会でもいいかなと…。確か、町中から浜松城に行くルートもあるはずですから。

 でも、ちょうどその時、地元の方らしい人が通りかかったので、浜松城天守閣へ行く道を尋ねてみることにしました。すると、この道を上っていくと右側に石段があるので、そこを登っていくとすぐに天守閣があるとのこと。つまり、今下ってきた道をもう一度上らなければ
ならないということです。 私もだんなさんもあまりの暑さに疲れ切っていましたが、せっかくここまで来たことだからと思い、もう一度天守閣を目指すことにしました。

 暑い中、上り坂を上っていくと、確かに右側に石段がありました。しかし…、その石段というのはまるで崖のような所に造られている石段なのです。一応、手すりはあったのですが、急な上に石段が下に傾いていて、登るのがかなり大変でした。しかも百段くらいあったでしょうか。
 このように同じ道を行ったり来たりしたあげく、崖のような石段を登ってようやく視界が開け、天守閣を目にしたときはほっとしました。では、浜松城天守閣をどうぞ。


   


 しかし、ここでまだ安心はできませんでした。天守閣の中に入るには、まだ30段くらいの急な石段を登らなければならなかったのです。ようやく天守閣の前にたどり着いたときは、暑さと疲れで息が切れ、ほとんどぐったりしていました。普段の運動不足を痛感しました。

 天守閣の受付の方の話によると、私たちが登ってきた崖のような道は、戦国時代のままの道なのだそうです。「あそこを昇ってきたなんて大変でしたね」とねぎらわれてしまいました。でも、戦国時代のままの道だということは、家康公も昇ったことのある道かも…なんて想ってしまいました。戦国武将の気持ちを味わうことができて貴重な体験だったかもしれませんね。

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石山寺の美展 ~盛夏の浜松へ3

2009-08-15 10:42:26 | 旅の記録
 おいしいランチを食べて満足した私たち、ホテルからタクシーで浜松市美術館に向かいました。一応、歩いても行ける距離のようですが、ものすごい暑さだったので体力を温存したかったのです。

 そのようなわけで美術館にたどり着いた私たち、美術館はこんな感じの建物です。


   


 何回も書いていますが、2009年7月18日から8月23日まで、こちらでは「石山寺の美展 ~観音・紫式部・源氏物語~」という展覧会が行われています。
 それで、こちらのページによると、この展覧会は、「石山寺の本尊厨子前に安置されている御前立尊如意輪観音坐像や、仏画、経典・聖典など貴重な石山寺の寺宝とともに、千年の時を越え今なお燦然と輝き続ける『源氏物語』を題材にした石山寺所蔵の屏風や掛軸、工芸品をご紹介いたします。」とのこと、特に源氏物語を題材にした屏風や掛け軸が楽しみです。

 石山寺についても少し説明させていただきますね。

 石山寺は、奈良時代、天平十九年(747)、聖武天皇の勅命により良弁(ろうべん)僧正によって、現在の滋賀県大津市に開創されました。如意輪観音を本尊とし、古来より観音の寺として広く信仰を集め、その縁起は重要文化財「石山寺縁起絵巻」に見ることができます。

 それでは、いよいよ石山寺と源氏物語の世界に浸ってみます。音声ガイドがあったのでお借りして鑑賞しました。なお、写真撮影は禁止でしたので、私の文章のみでの説明となります。私は仏像や絵画のことはあまりよくわからないので勘違いなことも書いているかもしれません。すみません。

 まず目に入ってきたのは、良弁の肖像画です。少し黄ばんでいますが、ガラスケースと絵の距離が割りと近めだったので、私の視力でも輪郭を見ることができて嬉しかったです。高僧だけあって良弁はやはり、立派な顔をしていました。
 そのあと、「石山寺縁起絵巻」や数々の観音様を鑑賞。御前立尊如意輪観音坐像はやはり立派で圧倒されます。鋭い表情をした観音様、かわいらしい感じの観音様、観音様にも色々あるのですね。

 石山寺の三代目座主を務めた菅原道真のお孫さんの書いた経典のようなものも展示されていました。何か象形文字のような不思議な文字でした。

 観音様のあとはいよいよ紫式部とご対面です。

 まず目に入ったのは、江戸時代に描かれた、十二単姿の紫式部が硯にもたれている絵でした。紫式部が美しく描かれていて感激です。そしてこの絵は、音声ガイドによると、紫式部が石山寺にて「源氏物語」を書き始めたという伝説に基づいて書かれたものだそうです。

 この伝説は、江戸時代の源氏物語の注釈書『湖月抄』に載っているのだそうです。
 ある時、斎院選子内親王から、「何か面白い物語はないかねえ」と頼まれた中宮彰子のお声掛かりにより、彰子の女房であった紫式部は石山寺に参籠します。そこで湖水に映った月を見てにわかに着想を得て、「源氏物語」の「須磨」と「明石」の巻を書き始めたということです。

 しかし、この話はあくまでも伝説に過ぎません。紫式部が「源氏物語」を書き始めたのは、彰子の許に宮仕えに出る前のことだと思われますし、初めから長編小説にするつもりはなく、若い頃から書きためておいたいくつかの短編を再構築して「源氏物語」を作り上げたという説もあります。でも、こういった伝説が生まれたということは、「源氏物語」が世の中の人たちに親しまれていた証拠のように思えますし、月を見て「源氏物語」を書き始めたという話はロマンチックで夢がありますよね。

 この伝説に基づいて描かれた絵はたくさんあるようで、他にも何枚か展示されていました。どの絵も、紫式部が美しく描かれています。
 絵を見ていたら、田辺聖子さんのエッセー、「石山寺の月」を読み返してみたくなりました。このエッセーは、田辺さんの著書「小町盛衰抄」と「古典の文箱」という本にそれぞれ収められています。この翌日、早速読んでみました。田辺さんが、石山寺に参籠し同僚女房のあれこれをつらつらと書きつづっている紫式部を想像し、彼女のこれまでの人生や心情を細やかにつづった20ページほどのエッセーで、なかなか面白かったです。

 さて、紫式部の絵で1階の展示は終わり、エレベーターで2階に昇ってみました。

 まず最初に目に入ったのは、紫式部、清少納言、伊勢大輔の石山寺参籠を描いた絵でした。

 平安時代の女房たちの間では、石山寺信仰が流行っており、彼女たちはしばしば石山寺に参籠したのだそうです。「蜻蛉日記」の作者、道綱母や、「更級日記」の作者、孝標女も、石山寺に参籠したことを日記に書いています。
 なのでこの絵に描かれた3人の女性も当然、石山寺に参籠したのではないでしょうか。3人の女性が一枚の紙に描かれた大きな絵、とても華やかでした。

 ところで、だんなさんが、「伊勢大輔ってどんな人だったのか思い出せない」と言ったので、私は、「百人一首の歌で、上の句は思い出せないんだけど、けふ九重ににほひぬるかなって詠んだ人だよ」と言いました。でも、上の句も思い出したいと頭をひねり、ようやく、「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」と全部言えた時はほっとしました。
 この歌は、一条天皇の御代、奈良の僧から見事な八重桜が帝に献上された時、伊勢大輔が詠んだ歌なのだそうです。彼女もなかなか興味深い人物なので、いつかじっくり調べてみたいと思いました。

 さて、2階では主に「源氏物語」の色々な場面が描いてある屏風や掛け軸、工芸品が展示されていました。大半が江戸時代に描かれた絵のようですが、どれも美しく見事でした。

 特に、右側に「紅葉賀」の巻より、青海波を舞う光源氏が描かれ、左側に「少女」の巻より、五節の舞姫を描いた屏風が気に入ってしまいました。それと、とびらを閉じているときは「初音」のおめでたい正月の場面が、とびらを開くと「浮舟」の宇治川が出てくるという、ユニークな掛け軸もありました。どちらもミニチュア版を欲しいわ~…なんて思ってしまいました。

 このように、見どころ十分の素敵な展示でした。こんな素敵な物をたくさん所蔵されている石山寺ってすごい。いつか訪れてみたいと思いました。
 もちろん、展覧会の図録(2000円)もゲット。

 なお、この「石山寺の美展 ~観音・紫式部・源氏物語」は、浜松市美術館のあとは北九州市立美術館・本館(北九州市戸畑区)にて開催されます。(9月12日~10月18日まで)お近くの方はぜひ行かれてみてはいかがでしょう?

 さて、あちらこちら歩き回って疲れてしまったので、休憩所にて飲み物でも飲もうかということになりましたが…、残念ながら私の好きな飲み物が置いてない…。そこで、すぐ近くなので簡単に行けるだろうということで、浜松城に直行することにしました。では、25年ぶりの浜松城天守閣に向かいます。

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ホテルでランチ ~盛夏の浜松へ2

2009-08-10 18:09:22 | 旅の記録
 浜松の名鉄ホテルのフランス料理のお店、「ゼフィール」には、「プロローグ」でも書きましたが、だんなさんがこちらのクリニックに勤めていた時、土曜日のお昼によく食事に来ていました。
 土曜日はだんなさんの仕事が午前中で終わりだったので、お昼過ぎに浜松駅で待ち合わせ、こちらに来てランチをするのがとても楽しみでした。確か、前菜とスープ、魚料理、肉料理、デザートと飲み物で3500円くらいだったと思います。品数は多いですが、一品一品の料理の量が少なめで、全部食べてもほどよい満腹感という感じでした。何よりもすごくおいしかったのを思い出します。

 今回のメニューは、前菜、スープ、デザートと飲み物は当時と同じですが、魚料理か肉料理はどちらかを選ぶようになっていました。だから2200円という値段になっているのね。
 それと、この日はなぜか女性同士のグループがとても目立ちました。なぜ女性客が多かったのかは、この記事を最後まで読めばわかるようになっています。

 では、頂いたランチのレポートをさせていただきますね。

☆前菜


  


 前菜は三種類、細長いお皿に載っていました。

 一つはポーク料理。豚のひき肉をミートソースのようにした料理です。

 真ん中のガラスの器に載っているのはたこ料理。たこをドレッシングであえたようなものでした。さっぱりとしておいしかったです。

 もう一つはモツァレラチーズとトマトの盛り合わせ。個人的にはこれが一番おいしかったです。モツァレラチーズには、塩で軽く味つけられているように思えました。もっとたくさん食べたかったです。


☆さつまいもの冷製スープ


  


 さつまいもをポタージュにした冷製スープ。

 さつまいもの甘い味と、バターや牛乳のこってりした味がよくマッチしていておいしかったです。しかも、真夏なのでよく冷えたスープは特においしいです。幸せ。

 ところで、このコース料理には、主食はパンかライスを選ぶことができるようになっていました。だんなさんはライスを注文しましたが、私はパンにしました。ホテルのパンっておいしいのですよね。
 それで、パンはスープのすぐあとに運ばれてきました。バターロールとフランスパン、それからアーモンドのようなものが入ったパンがかごに入っていました。バターをつけてゆっくりと頂きました。


☆魚料理 マダカのポワレ 夏野菜添え


  


 マダカというのはスズキの1歩手前の出世魚だそうです。また、ポワレはフランス料理の一つで、油を敷いたフライパンで魚の両面をこんがりと焼いた料理とのことです。

 今回出された「マダカのポワレ」はこんがりと焼き色がついて香ばしかったです。しかも味つけもしっかりとされています。それでいてさっぱりしているので、おなかにどんどん入っていきます。
 付け合わせの野菜はグリーンアスパラ、トウモロコシのミニチュアのような野菜(名前がわかりません)、オクラなどが入っていました。私はオクラは苦手なのですが、調理方法や味つけが良かったのか、食べてしまいました。


☆デザート バニラとマカロンのムース


  


 白っぽく見えているのがバニラ、茶色っぽく見えているのがマカロンです。

 バニラは歯ごたえが柔らかく、味もほんのりと甘くてソフトでした。おいしかったです。
 マカロンというのはアーモンドや砂糖を入れた焼き菓子で、真ん中にクリームが入っていました。何となくチョコレートのようなほろ苦い味でした。でも、こちらもおいしかったです。
 そして、周りにはパイナップルなどのフルーツが小さく切って散らしてありました。見た目もきれいです。

 食後の飲み物にはコーヒーか紅茶かハーブティーを選ぶことができるようになっていました。
 だんなさんはコーヒー、私は紅茶を注文しました。コーヒーがおいしかったらしく、だんなさんは、「久しぶりに本物のコーヒーを飲めた。」と喜んでいました。もちろん、紅茶もまろやかでとてもおいしかったです。

 こうしておいしいランチを食べて満足した私たち、2人で4400円は決して高くなかったです。

 そして、レジにて思いがけないことが…。「本日はレディースデイとなっていますので、女性のお客様は15%引きとなります。」と言われてびっくりしました。そのため、支払った金額は4000円をちょっと超えたくらいでした。何だか得した気分♪同時に、女性のお客様が多かった理由もわかりました。

 さて、次はいよいよ、「石山寺の美展 ~観音・紫式部・源氏物語~」が開かれている浜松市美術館に向かいます。

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プロローグ ~盛夏の浜松へ1

2009-08-07 21:32:29 | 旅の記録
 7月の終わり頃、食事の支度をしながら聞こえてくるテレビの音に何となく耳を傾けていました。そうしたら、「浜松市美術館にて石山寺展が開催中」と聞こえてきたのでびっくり。石山寺と言えば、紫式部が「源氏物語」を書き始めたという伝説が残っている寺で、「源氏の間」には紫式部の人形が展示されているのだそうです。ただ、交通がちょっと不便なので、私はまだ行ったことがないのですが…。

 そんなあこがれの石山寺の展覧会が浜松に?でも、詳しいことはよくわかりませんでした。

 そこで翌日、yahooなどで検索をかけたり、なぎさんのサイト、「花橘亭 ~源氏物語を楽しむ~」の「源氏物語・紫式部関連イベントカレンダー」で調べてようやく詳細を知ることができました。
 この展覧会は、石山寺所蔵の仏像や「源氏物語」関連の絵や屏風が展示されているとのことでした。そして現在、全国を巡回中とのこと、浜松市美術館では7月18日から8月23日まで開催されていることもわかりました。浜松と言えば、最寄りの駅から電車で約45分です。こんなに近くで「源氏物語」関連の展覧会が行われているとは…!これは行くしかない、そうだ、絶対に行こうと決心しました。

 更に嬉しいことに、だんなさんに浜松市美術館の詳しい位置を調べてもらったところ、すぐそばに浜松城があることがわかりました。浜松城と言えば徳川家康の出世城です。こちらにも久しぶりに行ってみたいと思いました。

 それで、だんなさんの仕事がお休みの8月4日に行くことになりました。当日は快晴。その前日に梅雨明けしたせいかどうなのかわかりませんが、朝から暑い日でした。そのため、ふちのついた帽子をかぶり、日焼け対策をして出発です。

 ところで、浜松というと、高校と専門学校の6年間を過ごした町なので、私にとってはとてもなつかしい場所です。その後も、今から約20年近く前、だんなさんが一時、駅前のクリニックに鍼灸師として勤めていたことがあったのでちょくちょく訪れていたのですが、ここ10年くらいはすっかりご無沙汰していました。最後に浜松に来たのは2000年の7月だったと思います。なので駅前がすっかり様変わりしていてびっくりしました。

 さて、浜松に着いたのはお昼前でした。そこで、まず昼食を食べようということになり、お店を探すことに。でも、めぼしいお店がなかなか見つかりません。浜松と言えばウナギということで、駅前でウナギ屋さんを見つけたのですが、ウナギ定食3000円、うーん、ちょっと高い。

 そこで、だんなさんがこちらで勤めている時に時々利用していた名鉄ホテルのレストランに行ってみることにしました。そうそう、ホテルの2階にあるフランス料理のお店、「ゼフィール」、すごくおいしかったのよね。だんだんおなかも空いてきたし、久しぶりに行ってもいいかなという気にもなってきました。問題はお値段ですが…。約15年前、ランチのコース料理が3500円だったのよね。まあ、あまり高かったら1階の洋食レストランでもいいかなと思いました。

 と言うわけで、名鉄ホテルを目指して歩き始めた私たち、でも、町が様変わりしていてなかなか見つかりません。途中、道を尋ねたりしてようやく到着。早速2階のゼフィールに行ってみたところ、何と、コース料理が2000円台でした。これはラッキーということで早速お店に入ることにしました。

 では、次回はゼフィールでのランチをご紹介しますね。

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石山寺展と浜松城に行って来ました

2009-08-04 21:56:26 | えりかの平安な日々 04~09
 本日は暑い中、浜松に行って来ました。浜松市美術館で開かれている石山寺展を見るためと、すぐそばに浜松城があるので、ついでに写真を撮ってこようと思ったのです。

 浜松市美術館で、2009年7月18日から8月23日まで、「石山寺の美展」 ~観音・紫式部・源氏物語~が開かれているのを知ったのは先週のことでした。
 石山寺所蔵の観音様や仏像、「源氏物語」の絵が描かれた屏風などが展示されているとのこと、私の住む町から電車で1時間以内で行けるところなので、これは行くしかない…うん、絶対に行きたい!と、強く思いました。そこでだんなさんのお仕事がお休みの本日、暑い中、行ってきました。

 浜松に着いたのはお昼前だったので、まずランチを…ということで、明哲ホテルの2階のフランス料理のお店、「ゼフィール」でコース料理を食べてきました。前菜とサツマイモのスープ、魚料理、デザートで約2000円、すごくおいしかったです。幸せ♪

 そのあと、浜松市美術館に向かい、石山寺展を鑑賞。まず入り口近くに、石山寺を開創した良弁僧正の画像が展示されていました。もちろんガラスケースに入っていましたが、ケースと絵がわりとくっついているような感じだったので、私の視力でも充分見ることができてありがたかったです。そのあと、「石山寺縁起絵巻」や、石山寺所蔵の仏像を鑑賞。仏像は、かわいらしいものから恐ろしげなものまで色々ありました。

 そして、私が一番楽しみにしていた、紫式部が石山寺で「源氏物語」を書き始めたという伝説にちなんだ絵も見ました。十二単の紫式部が美しかったです。江戸時代に描かれた「源氏物語」の絵も多数展示されていました。どれもすばらしかったです。

 美術館をあとにし、浜松城へ…。すぐ近くと聞いていたのですが、道順がよくわからず、同じ道を行ったり来たりしたあげく、急な石段を登ることになってしまいました。真夏の暑いさなかだったのでかなり疲れましたが、天守閣についてほっと一息。この記事の上の方に載せた写真は浜松城天守閣です。

 こうして、暑かったけれど楽しい1日を過ごしました。ランチとお城の写真をたくさん撮ってきましたし、展覧会の図録も買ったので、本日の小旅行を5~6回に分けて旅の記録で連載することにしました。では早速、旅行記の準備に取りかかろうと思います。

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うつほ物語(ビギナーズクラシックス 日本の古典)

2009-08-02 10:31:40 | 図書室2
 今回は、最近読んだ古典の本の紹介です。

☆うつほ物語 (ビギナーズクラシックス 日本の古典)
 編者=室城秀之 発行=角川学芸出版・角川ソフィア文庫 価格=860円

☆本の内容
 源氏物語に先行する壮大な長編物語。ある貴族の四代にわたる秘琴の伝授を主題とし、源氏・藤原氏両家の皇位継承をめぐる対立を絡めて語られる。異国の不思議な体験や琴の伝授にかかわる奇瑞などの浪漫的要素と、皇位継承や結婚に関する世俗的な話題を併せ持つ。絶世の美女への求婚譚、三奇人のエピソードも登場し、波瀾万丈の展開が楽しめる。膨大なため全体像がみえにくかった作品を初めてわかりやすく説いた古典入門書。

[目次]
俊蔭/藤原の君/嵯峨の院/春日詣/吹上・上/祭の使/吹上・下/菊の宴/あて宮/内侍のかみ/沖つ白波/蔵開・上/蔵開・中/蔵開・下/国譲・上/国譲・中/国譲・下/楼の上・上/楼の上・下


 「うつほ物語」という古典は、タイトルは聞いたことがあるものの、内容についてはほとんど知りませんでした。でも、面白いと聞いていたので、いつか読んでみたいと思っていました。なので、ビギナーズクラシックスのシリーズに「うつほ物語」が入っているのを知り、早速購入してみました。

 さて、この本の内容ですが、同じビギナーズクラシックスの「紫式部日記」の紹介でも書きましたが、この本も全文が載っているのではなく面白そうな所だけの抜粋です。

 本の構成は、各章段の初めに簡単な解説があり、次に現代語訳、続いて原文が掲げられ、最後に編者による詳しい解説がついています。そして、紹介されている原文・現代語訳以外の箇所は、この編者の解説で補われています。省略は多いですが、この1冊を読めば、「うつほ物語」のだいたいのあらすじがわかるようになっています。また、所々に、平安時代に関する基礎知識についてのコラムも差し挟まれていました。全体的にはわかりやすく、読みやすいという印象です。

 本を読んだ感想を一言で言うならば、「うつほ物語はなかなか面白い」です。以下、物語の簡単なあらすじと、私の感想を書かせていただきます。

 その前に、「うつほ物語」の概要を述べますと、この物語は10世紀に成立した日本最古の長編小説です。作者は不明ですが、源順(嵯峨源氏)説などがあります。伝奇的要素と世俗的要素を兼ね備え、これより前に書かれた「竹取物語」の影響を受け、後世の「源氏物語」に影響を与えたと言われています。

 では、ストーリーと私の感想に移りますね。

 遣唐使として派遣されることになった清原俊蔭は、渡唐の途中で嵐にあって船が難破し、ペルシャ国に流れ着いてしまいます。そして、その土地で不思議な天人と出会い、秘琴の術を伝授されます。このあたりは伝奇的で、「竹取物語」の影響を受けていると感じました。

 さて、二十数年後に日本に帰った俊蔭は結婚して娘をもうけ、その娘に秘琴を伝授することになります。やがて俊蔭は亡くなり、娘は長じて太政大臣の息子、藤原兼雅との間に仲忠をもうけます。
 しかし俊蔭の娘は、貧しさのため北山に隠れ、木の空洞の中(うつほ)で仲忠を育て、同時に秘琴の術を彼に伝授します。
 そうこうしているうちに2人は兼雅に見いだされ、仲忠は兼雅に引き取られることになります。

 ちょうどその頃、源正頼の娘、あて宮がたいへん美人だと評判になっていました。あて宮の求婚者は数知れず、その中には仲忠も混じっていました。仲忠はやがて、嵯峨院のご落胤で、同じように秘琴の伝授を受けている源涼とライバル関係になります。2人は宮中で見事な琴の演奏の対決を行うのですが、その際、天人が降りて来るという不思議な場面もあります。

 ところで、このあて宮の求婚者たちのエピソードは悲喜こもごもで大変面白かったです。

 あて宮の求婚者の中には上流貴族の貴公子だけではなく、うだつの上がらない学者や老人も混じっていました。
 その一人に、あて宮にしつこく求婚する上野の宮という宮もいて、あまりのしつこさに困った正頼は偽のあて宮を仕立て、上野の宮に奪わせます。宮は偽のあて宮をほんもののあて宮だと思いこみ、長く一緒に暮らす…というこっけいな話もありました。
 また、妻子がいるのにあて宮に執心する実忠という貴族も登場し、家庭をかえりみなくなった父実忠に心を痛め、それでも父を慕いつつ病気になって死んでしまう真砂子君という幼い少年の哀れな話も載せられています。このように、あて宮の求婚者たちのくだりでは、それだけででも短編小説になり得るような話が数多く語られていました。

 さて、色々な紆余曲折はあったものの、あて宮は結局東宮に入内します。そして、仲忠は朱雀帝の女一の宮と結婚しました。やがて朱雀帝は退位し、東宮が即位するのですが、次期東宮をあて宮(藤壷)の生んだ皇子にするのか、兼雅の娘、つまり仲忠の異母妹(梨壷)の生んだ皇子にするかで争いが起こります。この場面も、陰謀あり政略ありでなかなか面白いです。また、この場面は「源氏物語」の左大臣と右大臣の争いを連想させられます。

 このように、「うつほ物語」は、「源氏物語」に影響を与えたと思われる場面が所々あります。
 俊蔭の娘は、朱雀帝に見いだされて尚侍になるのですが、帝が蛍を放ち、その光で尚侍をかいま見る場面は、「源氏物語」の「蛍」の巻で光源氏が放った蛍の光で兵部卿の宮が玉鬘をかいま見る場面とよく似ています。
 また、東宮はあて宮が入内すると、彼女にすっかり心を奪われ、他の妃たちの嫉妬を招くことになるのですが、これは桐壷帝が桐壷更衣一人を寵愛する場面に影響を与えたとも言えそうです。

 話がちょっと横道にそれてしまいましたが…。東宮には結局、あて宮所生の皇子が立ちました。物語は、仲忠から秘琴の伝授を受けた女一の宮との間の娘、いぬ宮が、嵯峨院・朱雀院の前で琴の演奏をするところで終わります。この時、空が光り、地が揺れるといった現象が起こりますが、伝奇的要素と世俗的要素がよくマッチしていて見事だと感じました。
 また、物語のラストの方で、将来、いぬ宮が新東宮に入内することがほのめかされています。でも、編者の解説によると、これはスムーズには行かないのではないかということです。なぜなら、源涼を初め、娘を東宮に入内させたがっている貴族はたくさんいるとのこと。いぬ宮が将来どうなるかは読者のご想像にお任せしますということなのでしょうね。

 この本を読んで、私は「うつほ物語」をいつの日か全部読んでみたいと思いました。でも、「うつほ物語」は原文と現代語訳が対照になった値段の高い全集でしか出ていないのだそうです。安価な文庫本で出版されないかなあ。それか、現代の作家の方が現代語訳して、「小説・うつほ物語」みたいな形で出版されることも希望します。

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