平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

大河ドラマ「義経」第25回&巴御前のその後

2005-06-29 17:52:29 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第25回の感想です。

 義経がいよいよ公式に都入りしましたね。そして、後白河法皇ともご対面。
今後、義経の運命を大きく変えることとなる法皇さまですが、二人の対面はなかなかドラマチックに描かれていて良かったです。ただ、史実では義経が法皇さまを救い出すなんてことはあり得なかったと思うのですが…。義仲は都を逃げ出すのに精一杯で、法皇を閉じ込めるなんていう小細工をやっている暇はなかったと思います。まあこれも、ドラマを面白くさせる演出なのでしょうね。
 「都育ちだけあって、義経は義仲と違って品がある。」と法皇は言っていましたけれど、そう言っている裏できっと策略を巡らせているのでしょうね。ちょっと怖いですけれど、この法皇さま、なぜか憎めないのです。

 さて、宇治川の合戦ですけれど…。だんなさんも言っていたのですが、宇治川にしては川の幅も狭いし、流れもそれほど急でないような気がするし…。宇治川ではもちろんロケはできないのでしょうから仕方がないと言えば仕方がないのかもしれませんが、それならそれでNHKお得意のCGを使うとかできなかったのでしょうか?
 それから、宇治川の先陣争いが描かれなかったのはやっぱり残念でした。梶原景季と佐々木高綱の駆け引きはとても面白いのに…。もっともこの二人の先陣争いは、高綱が名馬「池月」を頼朝から拝領できた時点で、九割方勝負がついていたかもしれません。名馬を使えば、急流の川も素早く渡れますものね。それと、やはり二人の性格の違いも大きかったと思います。。高綱が策略家であるのに対し、景季はあまりにも一本気で正直すぎるように思えます。
 それはともかく、宇治川の先陣争いは義経と直接関係がないので百歩譲ってカットされても仕方がないかもしれませんが、「平家物語」にも記述がある、義経と畠山重忠が戦略について相談している部分はカットしてほしくなかったです。何しろこの合戦は義経のデビュー戦なのですから、もうちょっと細かく描いて欲しかったです。
 ところで、ドラマの中の重忠さん、かなり年配に見えますけれど、「平家物語」によると宇治川合戦当時の年齢は22歳だったそうです。製作スタッフの皆様はこのことをご存知なのでしょうか?もっとも、14・5歳の少女の政子を、中年の熟女のような雰囲気を醸し出して、財前直見さんに演技させているのですから、重忠の年齢の奇妙な点程度のことは言っても仕方ないのでしょうね?!

 さて、今回の見どころはやはり義仲だったと思います。前回の放送では、法住寺合戦に勝利して大得意になっている義仲が描かれていましたが、今回の放送の最初の方ではすでに追いつめられていましたよね。私にはあまりの展開の速さが、ちょっと唐突にも思えましたが。
 義仲は法住寺合戦に勝利したあと、平家との和睦を模索したり、後白河法皇を北陸に連れ出そうと計画していたりしていたようです。しかし、これらの計画が進まないうちに、鎌倉の大軍が上洛してきたのでした。
 しかも、行家が反旗をひるがえしたため、義仲はますます孤立状態になってしまったのです。義仲を見限って去っていった兵も少なくありません。
そのようなわけで、義仲対鎌倉軍の戦の勝敗は決まっていたようなものでした。

 さて、そんな義仲の最後のシーンですが、義仲が敵に討たれ、最後まで付き従っていた今井四郎兼平がその後を追って刀を銜えての壮絶な自刃をとげ、画面いっぱいが夕焼けになったという演出はなかなか良かったと思います。
 でも欲を言うと、今井四郎兼平をもう少し目立たせて欲しかったです。彼は義仲の乳母子であり、最も親しい友人でもありました。「鎧が重い。」という義仲をいさめたりもしています。義仲と兼平の友情をもう少ししっかり描いた方が、二人の壮絶な最後がもっと感動的になったと思うのですが…。
 それから兼平は自刃する直前に、「東国の者ども、日本一の剛の者が自刃する手本を見せてくれるわ!!」と叫ぶのですが、ドラマでは当然のように、このせりふがカットされていましたよね。やっぱり兼平のこのせりふがなかったら、あの場面の感動は半減してしまうような気がしますが…。兼平をしっかり描くことが、義仲を引き立てることだと思うのですよね。
今回の義仲はなかなか個性的でしかも格好良くて、私個人としてはかなり好きだっただけにその点がとても残念でした。

 さて、義仲とどんなときにでも行動を共にしていた巴御前ですが、「ソナタは落ち延びよ。」という義仲の言葉に従って泣く泣く戦場を離れていきました。今回の「義経」で描かれていた巴は、武将としての勇ましさと同時に、義高のことを心配する女性らしい部分も描かれていて良かったと思います。
 では今回は、巴御前の簡単な略歴と、義仲と別れてからのその後のことについてを書かせていただきたいと思います。

 巴御前 (生没年不詳。一説に1157~1247年という説もあるようですが、確証はありません)

 信濃の豪族中原兼遠の娘で、樋口次郎兼光や今井四郎兼平の妹に当たります。
 巴はいつ頃のことかはっきりしませんが、源義仲の妾になったようです。
なお、義仲の正妻は巴の姉または樋口次郎兼光の娘だったとも言われています。もし姉が義仲の妻だとしたら、巴は姉と一緒に義仲の妻になったとも考えられますし、樋口次郎兼光の娘が妻だとしたら、彼女はその娘が成人するまでの身代わりのような存在だったのかもしれませんね。いずれにしてもはっきりしたことはわからないようです。今回のドラマでは、樋口次郎兼光の娘という説を採用していたようですが…。

 さて、義仲が平家討伐の兵を挙げると、巴も義仲に従って戦場に出て数々の武功を挙げたと考えられます。寿永二年に義仲と共に入京。「平家物語」によると巴は「色白く髪長く、容顔まことに優れたり。」と記述されています。美しさと強さを兼ね備えた女性だったのでしょうね。

 では、義仲と粟津で別れた巴はその後どうなったのでしょうか?

 これがどうやら色々な説があるようなのです。
泣く泣く戦場を落ち延びて故郷の信濃に帰ったという説、越後国の友松という所で尼になったという説……。今回の放送のエンディングで紹介されていた琵琶湖畔に尼となって住み、義仲の菩提を弔っていたという説もその一つです。

 ちょっと代わった説は、「源平盛衰記」に記述されている「巴は鎌倉の御家人、和田義盛の妻になり、彼との間に朝比奈義秀を産んだ。」という説でしょうか。

 巴が鎌倉にやってきたのはこんな経緯があるようなのです。
 これは次回の放送で取り上げられると思いますが、頼朝の許に人質として送られてきていた義高(義仲の子)は、義仲の死と共に頼朝の命令で殺害されてしまいます。頼朝は、「義高を生かしておいたら長じたときに自分に仇を成す。」と考えたのでしょう。
 しかし、義高を恋い慕っていた頼朝の娘、大姫にとっては、義高が殺されたことは大きなショックだったのでしょう。大姫は飲食を絶ち、ついに寝込んでしまいます。
また何にも興味を示さなくなり、誰とも口を利かず、気鬱のようになっていったようです。これには頼朝夫妻も驚き、何とか大姫の機嫌を直そうとあらゆる手段を使います。義高を殺害した男を斬ってしまったのもその一例ですが、どのようにしても大姫の機嫌を直すことはできなかったようです。
 そのようなこともあり、頼朝夫妻は義仲の一族には必要以上に気を使わざるを得なくなったわけなのです。美濃国に住んでいた義仲の妹の宮菊を鎌倉に召し出し、政子が猶子にして大切にあつかったのもその一例です。
 そして信濃で隠棲していた巴もまた、鎌倉に召し出されたようなのです。しかし「巴は宮菊のようにおとなしく政子の猶子になる……。」というわけには行かなかったようです。
 そんな巴を見て、「このような強い女性なら、きっと立派な子供を産んでくれるに違いない。」と思って彼女を妻にしたのが、御家人の和田義盛でした。やがて巴は義盛との間に朝比奈義秀を産むことになります。
 建暦三年=建保元年(1213)、義盛は北条氏に反旗をひるがえして兵を挙げました。いわゆる「和田合戦」です。その結果義盛も義秀も戦死してしまいます。巴は越中に逃れ、そこで尼になって91歳まで生きていたと言われています。
最後にはかなり零落していたようです。

 しかしこの話は年齢的に無理があるのだそうです。
朝比奈義秀は戦死したとき38歳だったのだそうです。そうなると彼の生年は安元二年(1176)ということになります。安元二年というと、巴はまだ信濃で義仲や中原一族の人たちと暮らしていた時期ですから、これは計算が合いません。おそらく義仲の通称である旭将軍の「旭(あさひ)」と、朝比奈義秀の「朝比(あさひ)」をかけた後世の人たちの創作なのではないかと思われます。また、若い頃才能を発揮したり名声を上げた女性たちが最後には零落するという話も、よくあるパターンの伝説のような気がします。巴を巡るこのような伝説も、おそらく後世の人たちの創作でしょうね。

 巴が鎌倉に召し出されたのは事実なのかもしれませんが、私には和田義盛の妻になったかどうかはちょっと疑問に思えます。おそらく巴は建久年間(1190年代)には出家し、義仲や中原一族の人たちの菩提を弔いつつ生涯を終わったのではないかと思います。その方が、巴らしい生き方のような気がするのですが…。念のため、これはあくまでも私の考えなので確証はありません。巴の後半生は謎に包まれており、はっきりしたことは全くわからないというのが事実だと思います。

 さて来週は、上記にも書いたように義高の悲劇が描かれるようですね。義高も大姫もかわいすぎるだけに、涙なしでは観られないかもしれません。
 そして静が再登場のようですね。さらに一ノ谷合戦を前にした義経がどう描かれるか楽しみです。いつまでも清盛を慕ったり、「人類皆兄弟」と思われるような甘い言動はやめて、源氏の武将として、そろそろ平家を討つ覚悟を決めて欲しいものです。


最近の出来事

2005-06-25 18:53:11 | えりかの平安な日々 04~09
 ブログ開設半年へのご祝辞をたくさん頂きまして、ありがとうございました。
これからも自分のペースを守りながら(本当はさぼり?だったりして(笑)……?)
頑張って参りますので、よろしくお願いします。

 さて、今週は用事の一つはキャンセルになったものの、出かけることが多く、なかなか忙しかったです。「義経」第24回の感想を早めに書いておいて良かったです。

 水曜日には、友人と二人で久しぶりにカラオケボックスに行って来ました。カラオケは3月の友人(今回カラオケに行った友人とは別人)の結婚パーティーの時以来なので、とても楽しかったです。もっともその時はパーティーと2次会と合わせて6曲しか歌うことができませんでしたので、今回のように20曲近く歌うというのは昨年の12月以来でした。

 ちなみに歌った曲目は、「シンデレラエクスプレス」「真夏の夜の夢」「ホリデー イン アカプルコ」「中央フリーウェイ」(以上松任谷由実) 「冷蔵庫の明かりで」「野性の風」「ポールポジション」「ひとりになってみよう」(以上今井美樹) 「サマーキャンドルズ」「スノーブレイクの街角」(以上杏里) 「なごり雪」(イルカ)「虹がきらい」(平松愛理)「眠れぬ夜は君のせい」(misia) 「宝物」(岡本真夜) ……。まだまだ歌いましたが忘れてしまいました(汗)。
何しろ今は、テレビの歌番組をほとんど観ず、ラジオも聞かないので最近の曲を全く知らないため、歌った曲のほとんどは80~90年代にリリースされた曲です。あの頃は、よくCDやカセットテープやラジオを聞きながら、本を読んだりしていたものでした。なので自然にJ-POPの曲を覚えてしまったのでしょうね。
 一緒に行った友人は、結構新しい曲を歌っていたので、今度は彼女から教えてもらわなきゃ。

 木曜日は病院(眼科)に行くことになっていました。ところが、取ったはずの予約が手違いで取れていなかったため、病院行きはキャンセルになりました。別に目が痛いとか眼圧が上がったというわけではないので、どうしてもすぐに行かなければならないというわけではなかったので、予定がなくなってゆっくりできるのはありがたかったです。でも、なぜかこの日は一日何もやる気が起きず、ぼーっと過ごしてしまいました。とにかく気分が乗らないときは何もしないというのが私の主義なので…。

 そして昨日金曜日は静岡に行って来ました。久しぶりに静岡駅の駅ビルの中にある、お気に入りのイタリアンレストランでランチを食べてきました。とてもおいしくて満足でした。前日の「何もやる気が起こらない。」という気分もすっかり抜け、楽しい週末が送れそう……と思ったのですけれど、とにかく今日は一日暑くて暑くて…。エアコンをしても扇風機をしてもちっとも涼しくなりません。こういう日は何もする気が起こらないですね。

 ところで話は全然変わりますけれど、私が今使用しているデスクトップパソコンの調子があまり良くないです。
 先週の土曜日、ネットサーフィンをしている途中に突然画面が真っ暗になってしまいました。キーボードを押しても全く動かないので、強制リセットをして再起動させてみたところ、正常に動いたのでひとまずほっとしました。
 ところが2時間ほど経った頃、メールソフトを立ち上げようとしたところ再び画面が真っ暗になりました。そこでだんなさんに泣きついたわけです。だんなさんが簡単な操作をしてくれたおかげですぐに直ったのですが、またおかしくなったら大変なので急遽データのバックアップをCDに取りました。
 そのあとはおかげさまで画面が真っ暗になることはないのですが、急に動かなくなったり終了できなかったりすることがたびたびあります。何度も言うようですけれど、もう少し簡単に使えるようになるといいのですけれどね…。
 何しろ今の私にとって、パソコンは一番大切な生活必需品です。パソコンがなければ文章も書けませんし本も読めません。勿論インターネットも出来ません。
 ちなみに私が使っているのはかなり旧式のだんなさんの自作パソコンです(家にあるパソコンは4台ともだんなさんの自作機です)。一番古い私のパソコンはそろそろ新しい物に換えた方がいいのかもしれませんね。
 だんなさんは寝室にノートパソコンとスキャナーをセットし、「これでやれば良い」と言ってくれましたので、今度からは少しずつ使おうと思っています。私にはよくわかりませんが、このパソコンは4㎏と重いですが、15インチのディスプレーとペンティアム4のCPUだから速いそうです。また詳しいことはこれを使ったときに書きますね。

大河ドラマ「義経」第24回&無視されてしまった猫間中納言

2005-06-22 00:00:00 | 2005年大河ドラマ「義経」
大河ドラマ「義経」第24回の感想です。

今回は後白河法皇が光っていましたね。義仲を平家討伐に出陣させ、その留守中に行家と結び、裏では頼朝に書状を送り…。また、西国に落ち延びた平家には「三種の神器を返せ!」と書状を送っているようです。
さすが、政治というものをよく心得ています。信西入道、藤原信頼、平家の公達、義仲、行家、義経らを陰であやつり、それらの人々に勝利したという点で、彼がある意味ではこの時代の主役だったのかもしれません。
ちなみに後白河法皇は、鳥羽天皇の第四皇子として生まれた人なので、本来なら皇位が回ってくる可能性は非常に低かったと思われます。本人も政治には興味がなく、今様などの趣味の世界を楽しんでいたような所がありました。それが、異母弟近衛天皇の若死にと当時の政治状況によって思いがけず皇位に就くことになり、政治というものに夢中になってしまったようです。特に院政を行うようになってからは、臣下をあやつるのが楽しくてたまらなかったのかもしれませんよね。今回のドラマ中で、丹後局と二人で謀略を巡らしているところなどは本当に怖いですね。

さて、義経と頼盛の対面……。近江に陣をしいている義経と、鎌倉に下る頼盛が会うという設定にしたのですね。
でもやっぱり、頼盛の登場は唐突すぎるような気がしました。今まで頼盛と平家一門の微妙な関係や、都落ちからの脱落にさえ触れていなかったからでしょうね。そして、もっと唐突だったのが手古奈の登場です。いつの間にか頼盛の侍女になっていたとは…。なぜ時子が手古奈に暇を出したのか気になります。頼盛や手古奈の説明を聞いていると、どうやら頼盛は初めから平家の都落ちに参加しなかった……という設定のようですね(実際は参加したように見せかけて途中で引き返しています。)。

ところで、予想はしていたものの法住寺合戦は、おとくばあさんのナレーションだけであっさりすまされてしまいましたね。今度こそは、迫力のある合戦の映像を観てみたかったのですけれど…。楽しみは一ノ谷にとっておくように……ということなのでしょうか。
その法住寺合戦のあと、義仲は藤原基房の娘を強引に妻にしたとありましたけれど、義仲と基房の娘との結婚は、法住寺合戦より前だと思うのですが…。
それに第7回の感想にも書いたのですが、どちらかと言うと基房の方から義仲に接近したと思うのです。
治承のクーデターで失脚した基房は、密かに政界復帰をねらっていました。 そこで、平家に代わって都に入ってきた義仲に接近し、義仲との結びつきをより強固にするために娘を差し出したのではないかと私は思っています。
義仲は法住寺合戦のあと、摂政だった藤原基通(妻は清盛の娘)を辞めさせ、その代わりに基房の息子でわずか12歳の師家を摂政にしています。これによって基房はやっと政界復帰ができたのでした。
 しかしドラマでは、そんな義仲と基房の関係を無視していますよね。
まあ先週、「北陸宮を天皇に。」と言った義仲に対して、「田舎武士ごときが天皇家に口出しするなどけしからん!」というようなことを基房に言わせていますから、今さら義仲と基房が手を結んでいた……という設定にはできなかったのでしょうね。

さて今回、鼓判官こと平知康が義仲に愚弄されていましたよね。都の作法も知らない義仲に愚弄された知康の無念が伝わってくるようでした。
そしてその場面を観ているうちに私は、「平家物語」の中でやはり義仲に愚弄されていたある公卿のことを思い出しました。

その公卿の名は猫間中納言こと藤原光隆……。十数年前、年末やお正月に義経や源平をあつかったドラマが何本か放映されたことがあるのですが、その中のどのドラマか忘れてしまいましたけれど、彼が登場していたものもありました。なので今回もひょっとして登場するかも……と、期待していたのですがやっぱり無視されていました。
ところでこの藤原光隆という人、彼の人となりも興味深いですが、家系もなかなか面白いのです。そこで今回は、彼の家系と「平家物語」に描かれている義仲との関わりなどについて書かせていただきます。

まず初めに、藤原光隆の家系についてお話しさせていただきます。

彼は系譜上は藤原伊祐(紫式部のいとこ)の子孫ということになっています。しかし実際は村上天皇の皇子、具平親王の子孫なのです。
具平親王は正妻との間に源師房や隆姫女王(藤原頼通の妻)などの子供をもうけていますが、身分の低い家女房との間にも男の子を一人もうけました。その男の子は、双方の家の了解のもと藤原伊祐の養子となり、藤原頼成と名乗ることとなったのです。
ちなみに具平親王の母と、藤原為頼(伊祐の父)・藤原為時(紫式部の父)兄弟はいとこ同士でした。このような関係もあり、具平親王はこの一家と大変親しかったようです。そこで、養子縁組もスムーズに行ったのかもしれませんよね。
光隆は、この頼成の玄孫に当たります。

では、「平家物語」に猫間中納言として登場するこの藤原光隆とは、どのような人だったのでしょうか。

藤原光隆 1127年(28年とも)~1201年
 壬生に邸宅があったため「壬生中納言」と称していたともいわれています。真偽のほどはわかりませんが、壬生のことを別名「猫間」といったということから「猫間中納言」と呼ばれていた……ということを聞いたことがあります。

父は藤原清隆、母は藤原家政女家子です。
光隆の母方の祖父藤原家政は、関白藤原忠実の異母弟に当たります。つまり光隆は、摂関家とも一応つながっていたのですよね。
なお、父の清隆は鳥羽院近臣、母の家子は近衛天皇の乳母でした。
 近衛天皇の乳母子であったことも影響していたようで、光隆は長承二年(1133)わずか七歳で叙爵します。そして順調に出世していきました。
平治の乱で藤原信頼が誅殺されると、その時治部卿を勤めていた光隆は藤原成親と共に信頼の縁坐によって解官されました(平治元年十二月二十七日)。これが彼の人生でのただ一つの挫折といってもいいかもしれません。
 しかし、この不遇な時代はほんの一時のことでした。翌永暦元年(1160)四月、彼は治部卿に返り咲き、八月には従三位に叙されています。
 そして長寛二年(1164)に正三位に加階します。更に二年後の永万二年(1166)に参議に任じられます。。
仁安二年(1167)、任権中納言。翌三年従二位に叙されますが、なぜか光隆は従二位に叙された数日後に権中納言を辞してしまいました。その後は後白河院の近臣として、院の庁に出仕していたと思われます。こうして光隆は、後白河院の近臣としての道を歩み始めたのでした。なので、光隆が義仲に愚弄された寿永二年(1183)には、彼は中納言ではなく前権中納言だったということになります。
 なお、彼は実際は具平親王の子孫ですが、あくまでも藤原伊祐の子孫としてあつかわれていました。つまり、彼の家格は受領階級です。なので、彼が従二位権中納言にまで昇進したのは異例中の異例と言えるかもしれません。

では、「平家物語」の巻八、「猫間」の項に出ている光隆と義仲の話を要約させていただきます。ただしこの話は「平家物語」だけに載っている話なので、必ずしも史実とは言えないようですが…。

ある日、猫間中納言藤原光隆が、相談したいことがあるということで、義仲の館にやって来ました。
「猫間中納言のお出ましです。」という郎党の言葉に義仲は、「なに?猫が来たと?」と聞き返します。その言葉にあわてた郎党は「猫ではありません。ちゃんとした人間です。猫間中納言というれっきとした公卿です。」と言ったのでした。
しかし義仲は「猫どの」で通したようです。「猫どのに食事を差し上げよ。」と郎等に命令し、自分の分と一緒に食事を持ってこさせます。それは、田舎風の深いお皿に山盛りに盛った飯と菜が二品、それとひらたけの汁といった献立でした。
光隆は田舎風の皿が汚く思えて食べるのを躊躇し、少し箸をつけただけで下に置いてしまいます。それを見た義仲は笑いながら、「猫どのは少食じゃのう。猫というものは食い散らかしで有名だと言うのに。さあ、食べよ食べよ。」とはやし立てました。
猫呼ばわりされた光隆は興ざめしてしまい、義仲と相談することも忘れて帰っていってしまいました。

最初この話を読んだとき私は、「猫呼ばわりされてしまった光隆さん、お気の毒に…。」と単純に思っただけでした。
しかしこの話は、色々裏がありそうです。あくまでもこの話が史実だと仮定した場合ですが…。光隆は、「相談することがあって義仲の館を訪れた」ということになっていますが、案外後白河法皇から「義仲というのはどんな男なのか、観察してこい。」という密命を受けていたのかもしれません。そして、義仲の館から後白河法皇の許に直行し、「田舎者の取るに足らない男です。早々に見限った方が賢明だと存じます。」というくらいに言ったと私は思います。義仲に愚弄されているように見えながら、光隆は光隆なりに色々計算していたのでしょうね。
どうやら光隆という人は、まるで猫のように、世の中の動きをしっかり観察していたようなところがあったようです。そして、「最後に生き残るのは後白河院だ。」ということを察し、早々に官を辞してしまい、院の近臣に専念したのかもしれません。
鼓判官こと平知康は、最後には後白河法皇に見捨てられてしまいますが、光隆は最後まで院の近臣として後白河法皇に仕え、院の崩御後は平穏な余生を送ったものと思われます。後白河法皇に世の中の動きをこまごまと伝えていたのは、案外この光隆だったかもしれません。なので、やっぱり光隆はドラマに出演させて欲しかったです。

 余談ながら彼の息子には、百人一首98番目の歌、「風そよぐ ならの小川の 夕暮は みそぎぞ夏の しるしなりける」で知られる歌人の藤原家隆がいます。

さて来週は義仲の最期が描かれるようですね。今井四郎兼平と主従二騎となり、壮絶な最期をとげる場面をどう描くのか、楽しみでもあり不安でもあります。
 それから、どうやら常磐御前が再登場するようです。と言うことは、義経との親子の涙の再会が観られるかも?
来週もやっぱり楽しみです。

ブログ開設半年のご挨拶

2005-06-21 00:00:00 | お知らせ・ブログ更新情報
本日6月21日を持ちまして、当ブログ「えりかの平安な日々」は開設半年を迎えることができました。
これもいつも見に来て下さるみなさまや、応援して下さるみなさまのおかげです。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
『ありがとうございました。』

「私も自分から情報を発進したい!。」と思っていたところに、ブログという名の、ホームページビルダー等のソフトを使わなくてもできるホームページのことを知り、「これなら私にもできるかもしれない。」と思ってブログ開設に踏み切ってから、半年が経ちました。私は熱しやすく冷めやすい所があるので、「いったいいつまで続くやら…」と思っていたのですけれど、半年も続いてしまったのですね。ちょっと信じられない気分です。
でも、こうして半年も続いた理由は、時々適当に休んでいたことと、本当に素敵な方々にいらっしゃって頂けたからだと思っています。私は幸せ者です。

ブログをやっていて楽しいこともありましたが大変なこともありました。文章を書くことの難しさも実感しました。特に歴史に関する事項をUPすることは、下調べから始まって史料や書籍での裏付け調査、そのあと下書きをして見直しをして、間違いがないかを確認する……といった大変な作業でした。でも、UPし終わったときの充実感がたまらないのですよね。なので、大変だけど辞められそうもないです。

これからの予定ですが、大河ドラマの感想は毎週更新していこうと思っています。と言うか、最近は感想というより源平時代の人物を、私の思うまま気の向くままに紹介しているという感じですが…。
 それから現在、平安中期のある女流文学者について調べていますので、来月上旬を目標にUPできるように頑張りたいと思っています。
また、平安~鎌倉時代初期をあつかった書籍を2冊、紹介しようと思っていますので、こちらも気長にお待ち頂けますと嬉しいです。
もちろん、エリカのかわいい写真や私の日常、つぶやきなどもUPしていきます。

これからも、あまり更新頻度の高いブログにはなれないと思いますが、時々休みながら長く続けていきたいと思っています。なので、気が向いたときにでものぞいて頂けますと嬉しく思います。

 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

やっぱり魚は魚屋で買わなきゃ♪

2005-06-18 13:34:48 | えりかの平安な日々 04~09
今日も食べ物ネタです(笑)。

みなさまは魚をどのようなお店で買うでしょうか?スーパーですか?それとも小売りの魚屋でしょうか?

 二年前まで静岡市清水区に住んでいたのですが、そのころ私は魚を買うときは近所の魚屋を多く利用していました。そこの魚屋はあじのひらきとまぐろのお刺身がものすごくおいしかったのです。
食べていると「新鮮だな!…」という感じがして幸せ気分でした。もちろん、そこで売っている他の魚やお総菜もとても新鮮でおいしかったです。ちなみにその魚屋さんは、俳優の柴田恭兵さんの実家です。

 けれど、こちらに引っ越してきてからは専らスーパーで魚を買うようになりました。というのは、スーパーと言ってもそこで売っている魚はなかなかおいしかったからです。お刺身もそこそこの味でしたし、焼き魚も油がのっていて美味でした。

ところが2ヶ月ほど前、そこのスーパーであじの粕漬けを買ってきていつものように焼いていたところ、「あれ?」と思ったのです。いつもなら焼いていると油がはねる音が聞こえるのに、その音が全くしないのです。そして食べてみたところ、ぱさぱさで固くて「何これ……」と思いました。勿論だんなさんも同じように感じたようでした。
たまたま変な魚を買ってきてしまったのかなと思い、1週間ほどしてからもう一度あじの粕漬けを買ってきて焼いてみたのですが、結果は同じでした。そこでスーパーの店員さんに聞いてみたところ、「魚の卸業者が替わった」のだそうです。そうか、それで物が悪くなったのか……と思いました。だんなさんは、そこのスーパーの魚コーナーに並んでいる魚を見て、「どれも物が悪そうだな。シラスもつやがないし、まぐろの刺身は色が悪くてとても食べる気がしない。」と言っていました。ちなみに静岡県は沿岸で捕れるシラスの産地で、とてもおいしいんです。私もぱさぱさのあじの粕漬けでうんざりしていましたので、そこのスーパーで魚を買うのをやめることにしました。

でも、私もだんなさんも魚が大好きなので「やっぱり食べたい……」と我慢が出来なくなって、「どうせなら魚屋で買おうよ。」ということになりました。
幸い、私の家から歩いて2、3分の所に小さな魚屋があります。あまりにも小さな店なので、「果たして物があるのか……」と心配だったのですが、行ってみると魚だけでなくサラダやおにぎりなどのお総菜も置いてありました。お刺身も焼き魚もとてもおいしかったです。お値段はスーパーに比べると2割くらい高いかなという感じですが、やっぱりおいしい物にはかえられません。

今日も魚屋でまぐろのお刺身やあじのたたき等をを買ってきました。夕食の時に食べようと思っています。楽しみです♪

やっぱり魚は魚屋で買わなきゃ……と、つくづく思う今日この頃です。

大河ドラマ「義経」第23回&丹後局

2005-06-15 16:13:41 | 2005年大河ドラマ「義経」
大河ドラマ「義経」第23回の感想です。

 今回も、頼朝・義経・義仲のそれぞれの性格や考え方の違いが、とてもうまく描かれていたように思いました。
 特に、上洛したことに有頂天になり、何も見えなくなっているような感じの義仲や、相変わらず女々しくて貴族的気持ちの抜けない義経に比べ、「上洛はしばらく待つ。法皇から頼まれて仕方なく上洛する……という形を取った方が、相手に恩を売ることにもなり、こちらが有利になるからな。」と冷静に計算している頼朝はさすがだと思いました。こういう人でないと、真の武家の棟梁には絶対になれませんよね。

 また、相も変わらぬドラマの創作だと思われる、義経と義仲の対面の場面も二人の性格の違いが現れていて見応えがありました。あくまでも理想を追い求めてしまう義経と、現実的な義仲といったところでしょうか。でも、義経の口から義高の名前が出たとたん、一瞬父親の顔になり「どうしておる?」と言った義仲がとても印象的でした。
私はこの場面を観る限り、義仲の方が義経よりもずっと魅力的に思えました。

 でも、上洛した義仲は貴族社会のことがちっともわかっていないようですね。後白河法皇との対面の時も、すでに八条院蔵人に補されたことのある行家の方が先に法皇に返事をするのは当然であって、無官の義仲は顔を上げることも許されないはずです。その当たりをわかっていない義仲を見て、「何とも粗野だな。」と後白河法皇は言っていましたが、そう思われてしまうのは当然でしょうね。

さて、今回いよいよ平家が都落ちをしました。でも、都落ちの描かれ方はとても不満でした。忠度と俊成の歌の話や、経正が琵琶の名器「青山」を仁和寺に返す話などは、義経や源氏の武将たちと直接関係ないので、百歩譲ってカットされても仕方がないかなという気はしますが(本当はカットして欲しくなかったですけれど…)、頼盛と維盛の話は絶対にカットして欲しくなかったです。

 頼盛は、途中まで都落ちする平家の一行と行動を共にしていたようですが、途中で都に引き返してしまいました。頼盛はこの時点で完全に平家と袂を分かつことになったわけですね。
 もっとも頼盛は、第20回の感想でも書きましたが、頼朝の命乞いをした池禅尼の息子であったことや、平家と対立していた八条院子内親王の許に出入りしていたことなどから、平家一門とは以前から孤立していたような所がありました。
 そこで、宗盛の息子清宗と頼盛の娘を結婚させることによって、頼盛をしっかり一門に取り込もうとしたわけです。しかしドラマでは、二人の結婚のことは取り上げて描いておきながら、なぜか肝心な頼盛の都落ちからの脱落については無視していました。
頼盛はこのあと、頼朝に招かれて鎌倉にも下っています。義経との接点はないかもしれませんが、頼朝とは大きく関わりを持つ重要な人物です。
 また、一ノ谷合戦のあと維盛も平家の戦線を脱落するのですが、維盛の頭の中には「頼盛殿も脱落したのだから…」という考えがあったと思います。つまり頼盛の脱落は維盛の脱落の複線になり得ると思うのです。そのようなことを考えると、今回ドラマの中で頼盛の都落ちからの脱落をカットしたことはかなり理解に苦しみます。
 その維盛に関してですが、彼と妻子との涙の別れの場面もぜひ取り上げて欲しかったです。維盛の脱落の一因には、都に残してきた妻子のことが忘れられなかったという理由もあるのですから。福原での維盛と知盛の会話も、そのあたりを描いておけばもっと心にしみるものになったのに……と、とても残念でした。

ところで、後白河法皇を捜し回っていた宗盛が着ていた直衣は冬のものですよね。平家都落ち直前の出来事ですからこの時期は寿永二年七月です。七月というと当時の暦では初秋なので、彼らは夏の直衣を着ていなくてはいけないのに、これはいったいどういうわけなのでしょう……?
ちなみに当時は通常、夏と秋(四月~九月)は夏の装束を、冬と春(十月~三月)は冬の装束を着ていました。直衣は貴族の男性の平常服ですが、夏の直衣は二藍、三重襷で、冬の直衣は白、浮線綾です。今回宗盛が着ていた直衣は白、浮線綾でした。これは冬の直衣なので7月に着ることはありません。このようなこともドラマでもっと考慮して欲しいものです。

さて、平家によって都から連れ出される前に、後白河法皇はさっさと比叡山に登ってしまいましたね。そして、法皇のそばにはいつものように丹後局がいました。丹後局、相変わらずお化けのようで怖いですよね。
 ところで、後白河法皇は安徳天皇を廃位にして、新しい天皇を立てることとなるのですが、その際丹後局も何かと口出しをしています。そのあたりもまたドラマではカットでした。天皇を誰にするか決める際、丹後局が例によって毒のあるせりふを言うのではないかと密かに期待していたのですが…。(残念でした)

 それでは今回は、丹後局についてと後鳥羽天皇踐祚の事情についてを書かせていただきます。

 丹後局について述べる前に、彼女の高祖父(祖父の祖父)、高階成章について簡単に述べさせていただきたいと思います。

 高階成章は中級貴族の家格の人で、何カ国かの受領を歴任して最終的には大宰大弐になっています。受領歴任中にばく大な財宝をため込み、「欲の大弐」と呼ばれました。しかし、大宰大弐在任中に任地の大宰府で薨じています。天喜六年(1058)正月七日に、正三位に叙されていますが、その月か翌月に薨じたものと思われます。(享年六十九歳)。
 余談ですが成章の妻の一人は、紫式部の娘の藤原賢子(大弐三位)です。丹後局は成章の子孫ではありますが、成章と別の妻との間に生まれた子の系統なので、残念ながら紫式部との血のつながりはありません。でも、このように丹後局と紫式部が間接的につながっていたというのも興味深いです。

 では、丹後局とはどのような女性だったのでしょうか?

 丹後局(?~1216)、本名は高階栄子といい、比叡山の僧・法印澄雲(成章の曾孫)の娘です。そして、同じような家格の平業房という人の妻となり、何人かの子をもうけています。

しかし業房はあまりぱっとした官僚ではありませんでした。そこで栄子は祖先から受け継いだばく大な財産を賄賂に使って、夫のために必死に就職運動をしたようです。その結果、業房は中年になってようやく相模守に任じられ、後白河法皇の近臣になったようです。
 次に栄子がやったことは、彼女所有の浄土寺の山荘に後白河法皇を招くことでした。こうしたことにより業房は法皇の信頼がますます厚くなり、前途は明るく輝いていたのですが……。

 治承三年(1179)、法皇は密かに平家打倒計画を練り始めており、業房もそれに加担していたようです。しかしそれは平家の知るところとなり、業房は捕らえられて伊豆国に配流されました(一説には殺されたとも言われています)。
 栄子が後白河法皇の寵愛を受け始めるのは業房が捕らえられる前後のようですが、これもはっきりしたことはわかりません。ただ言えることは、治承三年十一月、清盛のクーデターによって法皇が鳥羽殿に幽閉されたとき、女房に姿を変えて密かに鳥羽殿に入り込んだのが栄子だったようです。と言うわけでこの後、栄子の「丹後局」としての第二の人生が始まったのでした。

 法皇の丹後局に対する愛情は並々ならぬものだったようです。やがて丹後局は絶大な権力を持つこととなります。後述する後鳥羽天皇踐祚の際の活躍もそうですが、のちには鎌倉幕府との交渉も行っています。また、法皇崩御後は、源通親と結んで関白藤原兼実を失脚させ、その娘で後鳥羽天皇の中宮となっていた任子を宮中から追放することに成功しました。

では、後鳥羽天皇踐祚の時の事情についてを書かせていただきます。

 安徳天皇が平家や三種の神器と共に西国に去った後、後白河法皇はまず天皇と神器を平家から取り戻すことを考えたようです。そこで、平時忠に使いを送り、その旨を申し渡しました。しかし時忠の返事は「都が平定されてからでないと、帝も神器も還御できない。」というものだったため、法皇は安徳天皇の廃位を決定したのでした。

 安徳天皇のすぐ下の弟である二の宮守貞親王は、安徳天皇の皇太子として平家が西国に連れ去っていました。そこで、残った三の宮と四の宮から後嗣を決定することとなったのですが、その時横やりを入れた人物がいました。このことはドラマでも取り上げられていましたよね。そうです、義仲が「以仁王の遺児の北陸宮を天皇に。」と言い出したのです。
 そこで陰陽師に占わせたところ、第一位が四の宮、第二位が三の宮、第三位が北陸宮ということになったようです。しかし、この結果は義仲にとっては面白くないものでした。
 このように後嗣問題でもめているとき、「ぜひ四の宮を!!… 私の夢にお告げがあったのですから…。」と言った女性がいました。言うまでもなく丹後局でした。
 丹後局の夢の中において、四の宮がまるで行幸をするように、松の枝を杖にして歩いていた……というのです。そこで法皇は四の宮を後嗣に決定したと言われています。
またこんな話もあります。法皇が三の宮と四の宮に対面したとき、三の宮は恥ずかしがってむずがっていたのに対し、四の宮はなつかしそうに法皇を見つめ「おじいさま」と言ったといいます。法皇は「なんてかわいい子じゃ。」と言い、そばで見ていた丹後局も大いに喜び、「この子は帝王の相がおありです。」と言ったというようです。
 以上に挙げた話は色々誇張はあるでしょうが、丹後局が後嗣決定に関与していたことは、ほぼ間違いないような気がします。
なお、念のために書いておきますが、この時即位した四の宮は、後年承久の乱を起こすこととなる後鳥羽天皇その人です。

 ドラマではかなりあくの強い、お化けのような女性に描かれている丹後局ですが、前半生は夫に尽くす妻であり、後半生は法皇のために権力をふるった女性なのです。
確かにあくの強い部分はあったと思いますが、ドラマのイメージとはちょっと違うような気がします。もっと賢い、政治家タイプの女性だったのではないでしょうか。

 さて来週は、義仲のクーデターが描かれるようですね。ここでは義仲と知康の対決が楽しみです。勿論、義仲がクーデターを起こすきっかけなどもしっかり描いてくれることを期待します。
 それと、やっと義経は義仲と戦う気を起こすようですね。女々しい義経からやっと脱皮をするのでしょうか。来週も楽しみに観ます。


和風懐石料理を食べてきました♪

2005-06-12 12:51:14 | えりかの平安な日々 04~09
昨日は雨雲の中、前からの予定通りだんなさんと静岡に行って来ました。
そして、だんなさんの教員時代の生徒さん十数人と食事をしてきました。家に遊びに来たことのある生徒さんも多いので、皆さんと久しぶりに会うことができて私もとてもなつかしかったです。

食事は和風懐石料理のコースでした。和風だけに魚料理が多かったです。お刺身も焼き魚も天ぷらもとてもおいしかったです。最後に出たみかんのシャーベットもさっぱりしていて、口の中がすっきりしました。おなかもいっぱいになり、とても満足でした。それに、みんなといっぱいお話もできて楽しかったです。

 写真は、「はもとにらの酢の物」と「お刺身の盛り合わせ」です。
 「はも」は京料理には欠かせないものだそうですが、実は私、はじめて食べました。京都に行くと、湯豆腐の店に入ることが多いので、今まで食べる機会がなかったのでした。なかなかおいしいですね。それから、六角形の透明なお皿が素敵でした。

☆昨日(11日)東海地方が梅雨入りしました。これからしばらく雨の多いじめじめした気候が続くと思うと、ちょっと憂鬱です。洗濯物は乾かないし、何よりも傘をさして買い物に行くのがとても大変なのですよね。
幸い今日は晴れているので、これから買い物に行って来ようと思っています。
   

しっぽを振る猫

2005-06-09 12:37:20 | 猫のお部屋
本日は我が家の小さなエリカの登場です。

 写真を見ておわかりだと思いますが、エリカはしっぽがとても長いです。
子猫の頃は、胴体よりもしっぽが長かったので、まるで長いしっぽの先っぽに
ちょこっと胴体がくっついているように見えました。そして、その長いしっぽを
しょっちゅう振っていました。「しっぽを振るなんて犬みたい……」と、よく思った
ものです。

 ところがその頃、猫の飼い方について書いてある本を読んでいたところ、こんな記述があったのです。「犬がしっぽを振るのは喜んでいるときですが、猫がしっぽを振るのは怒っているときです。」
 「え~!そんな馬鹿な!-…」という感じでした。だってエリカがしっぽを振るのは食事をしているとき、部屋の中を歩き回っているとき、好きな物で遊んでいるとき、「エリカ」と私やだんなさんに名前を呼ばれたとき、そして私たちに抱かれてなでなでしてもらっているときですもの。
怒っているどころか、喜んで振っているとしか思えませんでしたから。
なので、「多分うちのエリカは特別なのだろうな。」と勝手に解釈をしていたのです。旦那さんは、「猫がしっぽを振るのは感情表現だと思うよ。」「上下に激しく、またはゆっくり振るとき。横に静かに振るとき、あるいは波打つように振るときとか色々あるからな。」と、余り心配することはないから安心するようにと私に言いました。
また、「日本のミケ猫はしっぽが短いから気が付かないのじゃないかな。」とも言っていました。
でも、やっぱり気になったので、インターネットを始めたばかりの頃、講読していた猫をあつかっているメールマガジンに「猫がしっぽを振るときはどのような感情のときなのでしょうか?怒っているときに振ると聞いたことがあるのですが本当ですか?うちの猫がしっぽを振っているときは、どう見ても喜んでいるとしか思えないのですが…」と質問の投稿をしてみたのです。
 すると幸い、そのメールマガジンの読者の方から回答を頂くことができました。それによると、「しっぽは猫の感情を表すものです。喜んでいるときも振ることがあるそうですから安心して下さい。」とのことでした。また、「日本の猫はしっぽが短い猫が多かったため、しっぽに表れる感情の変化というものは今まで見過ごされていたのではないか。」とも言っておられました。旦那さんの言っていたようなことでしたが、インターネットでそのような回答を得られたことでとても安心しました。

 確かによく観察していると、エリカは時と場合によって色々なしっぽの振り方をしていました。
 食事をしているときや私たちに抱かれてなでなでしてもらっているときなどは、静かにそしてゆっくりと横に振っています。この時は多分喜んで(安心・満足)いるのだと思います。
 靴下や、電気コードを縛るエナメル線といった好きな物で遊んでいたのに、その好きな物を取り上げられたときは、縦に激しくぱたぱたとしっぽを振ります。こういうときは多分怒って(不機嫌)いるのでしょう。
 また動物病院に行ったときは、縦、横、斜めと振り回すようにしっぽを振ることもありました。動物病院というとエリカにとっては「怖いことをされるところ」という気持ちがありますから、この時は多分怖がっていたのだと思います。
エリカのような長いしっぽを持った猫は、このようにしっぽに感情が出るのかもしれませんね。そして、本当に色々な振り方をするので、見ていて飽きないです。
10歳になっても、エリカはしっぽを振り続けています。そこがまたかわいいのです~。……と、今回も親ばか日記になってしまいました。

大河ドラマ「義経」第22回&無視されている大夫房覚明

2005-06-07 22:16:56 | 2005年大河ドラマ「義経」
大河ドラマ「義経」第22回の感想です。

 今週は平家のみなさまの登場が多かったので、平家ファンの私としては嬉しい限りでした。

 そして、その平家のみなさまの中で特に光っていたのが知盛さんですよね♪
 宗盛をいさめているところを観ていると、「この人が平家の棟梁ならまた違った展開になっていたのに……」と、どうしても思ってしまいます。それから、奥様の治部卿局との会話が良かったです。知盛の言葉は、何か遺言みたいで哀しかったですけれど…。でも、それを落ち着いた態度で聞いている治部卿局も大したものです。
彼女はドラマの中では今までほとんど目立たない存在でしたけれど、これから注目かもしれませんね。
 その治部卿局ですが、本名ははっきりわからないようです。ドラマでは「明子」という名前になっていますが、これはドラマのために独自につけられた名前だと思います。それから、知盛の口から唐突に出た「守貞親王をお守りするように…」と言われた本人の守貞親王とは、安徳天皇の異母弟に当たる人ですよね。知盛の妻治部卿局はこの守貞親王の乳母でした。このように平家は、高倉天皇が徳子以外の女性に生ませた皇子も、しっかり自分たちの翼の下に抱え込んでいたのです。

 平家の棟梁宗盛さんについても少し書いておきますね。無視すると「なぜ私を無視するのだ?!」とひがまれてしまいそうですから(笑い)…。
 大敗して逃げ帰ってきた維盛と、戦わないで帰ってきた知盛の両者を湯気を出しているように怒っているのを観ていると、「この人、戦のことがわかってない!!」と考えざるを得ませんでした。それから、平家伝来の鎧を維盛から奪った上、息子の清宗と二人で喜んでいるところや、恨みの屏風を焼こうとして、突然起こった突風により思わず後ずさりをした後、屏風に当たり散らしているところを観ていると、平家の棟梁としての器が全く感じられません。でも一方では、こんな描かれ方をされてしまった宗盛が、ちょっとお気の毒にもなってしまいました。このドラマでは、清盛や頼朝を立派に描こうとして、宗盛をこのような無能な人物に描いたのでしょうけれど、実際の彼はどのような人物だったのか、気になるところです。私個人の考えとしては、もっと不器用な、人の良いお坊ちゃん気質の人だと思うのですが…。

 さて、主人公の義経に目を向けてみますね。
 「義仲どのとは戦いたくない。」とつぶやく……義経くん。それでは少し困るのではないですか?義仲が都に入った以上、戦わなければならない運命にあると思いますし、頼朝もそれを望んでいるはずです。
 あげくの果てに「知盛どのや重衡どのとは幼いときに一緒に過ごした。平家とは戦いたくない……」。ちょっとちょっと…、義経くん。あなたは平家との戦いを始めたお兄さんの頼朝と共に戦いたくて、「しばし待て」と言う秀衡の反対を押し切って、奥州からはせ参じたのではなかったですか?
「今さら何行ってるの!……」と思わず叫んでしまいました。
毎度のことながら相変わらず甘ちゃんで女々しい義経に、ほとほとあきれてしまいました。これで一ノ谷や屋島の奇襲戦ができるのかと心配です。もしかして、義仲と戦うことによって義経の考え方が変わるのかもしれませんけれど、そのような設定にするのもちょっと疑問に思えます。
実際の義経は、「義仲や平家と戦う!!」と意気揚々と、上洛していたのではないかと思います。

 さて、比叡山をいとも簡単に味方につけた義仲さん、都は目前というところまでやってきましたね。
 第12回の感想で書いたのですが、義仲がこのように早く上洛できた原因の一つは、主従の絆の固さということが挙げられると思います。今井四郎兼平、樋口次郎兼光などの木曽四天王については、オープニングの解説で紹介されていましたよね。
 でも本来、義仲のそばにはその解説でも無視され、ドラマでも当然無視されているとても重要な人物がいたのです。そして、その人の力が義仲の上洛に大きな役割を果たしていたのでした。
 その人の名は、『大夫房覚明……』。都出身で興福寺の僧となり、後に義仲の祐筆となって重要な活躍をした人物です。そして、この人自身の生涯もなかなかドラマチックなのです。そこで今回は、大夫房覚明について書かせていただきます。

 大夫房覚明 (生没年不詳)
 最初は蔵人道広と呼ばれ、藤原氏の学問所である勧学院に出仕していました。そして、近衛天皇の御代に出家し、興福寺の僧となります。名前も「最乗房信救」と改めました。

 治承四年(1180)、以仁王と源頼政が平家に反旗をひるがえします。しかし、挙兵は平家の知るところとなり、以仁王は園城寺に逃げ込みました。園城寺は、延暦寺と興福寺に味方になるように書状を送るのですが、興福寺に送られた書状の返書を書いたのがこの信救です。
 しかしその返書の中には「清盛は平氏のかす。武家のちり。」と書かれており、やがてそれは清盛の知るところとなります。清盛は激怒し、「信救を処刑してしまえ。」と言ったといいます。
 そこで信救は顔に漆を塗り、変装をして興福寺を逃げ出したのでした。逃亡の途中で偶然行家と行き会い、彼に伴われて義仲の許に転がり込んだというわけです。その時に名前も「大夫房覚明」と改めました。

木曽の田舎育ちの武将ばかりだった義仲の陣営にあって、都の事情に通じ学才もある覚明は貴重な存在でした。彼はたちまち義仲に重要視され、義仲の軍師兼祐筆になったと思われます。

さてドラマの中では、倶利伽羅峠で平家に大勝した義仲が、いよいよ上洛の夢が現実になろうとしていたところまで来ている時、行家に「延暦寺を味方につけてはどうか。」と言われていましたよね。しかし史実では「延暦寺を味方につける」という戦略を考え出したのは、行家ではなく覚明なのです。そしてその時覚明が「源氏に味方をするように。」と延暦寺に書き送ったのが「木曾山門牒状」です。
ドラマの中では、延暦寺はいとも簡単に義仲に味方したように描かれていたのですが、源氏に味方をするか平家に味方をするかで、かなりの議論が重ねられたようです。何よりも延暦寺は、以前から平家よりの寺でした。なので平家は、延暦寺を自分たちの氏寺にしようと画策したこともあったようです。つまり平家からも「味方になって欲しい。」とその頃働きかけがあったと考えられます。
しかし延暦寺は結局「命運が尽き果てた平家は見捨てて、これから運が開けるであろう源氏に味方すべきだ。」という結論に達したようです。
こうなった背景には、覚明によって延暦寺の僧徒たちへの諜略が行われていたということがあったのではないかとも言われています。

比叡山延暦寺を味方につけたということは、義仲にとっては大きいことでした。
これによって義仲は、簡単に都に入ることができたのですから…。また後白河法皇も平家によって西国に連れ出される前に、比叡山に登ってしまいました。つまり源氏方にかくまってもらうという形を取ったわけです。その頃政治の最高実権を持っていたのは、何と言っても後白河法皇でしたから、法皇を抱え込むことによって義仲は賊軍になるのをかろうじて逃れることができたと言ってもいいわけです。平家は、三種の神器と安徳天皇を西国に連れ出すことには成功しましたが、後白河法皇を西国に連れ出すことには失敗したことで運が尽き果ててしまったのかもしれませんね。
こう考えると、延暦寺を味方につけることに人力を尽くした覚明の功績は、非常に大きいのではないかと思います。

しかし覚明は、いつの間にか義仲の許から姿を消すこととなります。義仲が上洛してからわずか3ヶ月後に起こった法住寺合戦の時には、覚明はすでに義仲のそばにいなかったと言われています。(『平家物語』では法住寺合戦時、覚明は義仲のそばにいたことになっていますが、種々の貴族の日記には、覚明の名前が全く出てこないのだそうです。)都の事情に通じ、義仲の参謀役であった覚明がいなくなったことで、義仲はその後一直線に衰運に向かっていった……と言っても過言ではないような気がします。

 では、覚明はなぜ義仲の許から姿を消したのでしょうか?
 やはり、都の貴族たちから評判が悪くなる一方の義仲に失望したということもあったと思います。しかしそれよりも、覚明の目的は平家を都から追い出すことにあったのではなかったでしょうか?平家と敵対する興福寺の僧であり、しかも清盛から追われる形で出奔せざるを得なかった覚明は、平家に対する恨みの気持ちでいっぱいだったと考えられます。なので義仲に協力して平家を都から追い出すことに成功した今、覚明の目的は充分達成されていたわけです。なので覚明は、これ以上義仲のそばにいる必要はなかったのではないかと私は考えています。

 では、義仲の許からいなくなった覚明はその後どうなったのでしょうか?
建久元年(1190)、藤原能保室(頼朝の姉妹)が亡くなり、その追善供養の導師をつとめていたのが、名前を以前の「信救」に戻した覚明でした。その後彼は箱根山に住み、頼朝や他の武士のための願文を書いたりしていたようです。つまり信救は前歴を隠し、頼朝に近づいていたわけです。
ところが建久六年(1195)彼は前歴がばれてしまいます。ふすまに手をかけたとたん、「覚明」と昔の名前を呼ばれ、思わず「ははあ!」と返事をしてしまいました。そして「ついに正体を現したな、覚明。」と言われる……、まるで時代劇「大岡越前」の世界のようですね。まあ、そのような会話は実際にはなかったと思いますが、義仲のそばにいた覚明であることがばれてしまった信救は、箱根山から外に出ることを禁止されてしまいました。多くの文献では、その後の彼の消息は不明だそうです。
 なお、吉川英治さんの小説「親鸞」では、覚明はその後親鸞の弟子になった……ということになっていますが、これはおそらく吉川さんの創作ではないかと思います。

 こうして覚明の生涯を追ってみると、彼は彼なりに乱世を精一杯生きたのだなという気がします。特に、義仲に接近することによって自分の才能を思いっきり発揮できたということには、満足していたのではないでしょうか。

 さて来週は、どうやら義経は頼朝の許可なく都に入り、義仲と対面するようですね。確か頼朝から「絶対に都に入ってはならない。」と言う厳命を鎌倉で受けていたはずなのに、「そんなことをやって大丈夫なのかな?」という気がしますが…。
また、平家の都落ちは今週ではなく来週だったようですね。
来週もつっこみながら楽しみに観ます。

藤原元子 ー天皇の女御から情熱的な恋愛へー

2005-06-05 00:32:59 | 歴史人物伝
 平安時代、ドラマチックな人生を送った女性は数多くいます。何人かの男性と恋をし、数多くの優れた歌を残した和泉式部もそのうちの一人だと思います。
 そして、彼女とほとんど同時代を生きた一条天皇女御の藤原元子も負けないくらいのドラマチックな人生を生きています。
今回は、この藤原元子についてお話ししますね。

 彼女の生没年はよくわかりません。天元二年(979)頃の生まれではないかと推定されていますが、没年はほとんどわかりません。ここでは、先に書いたように979年生まれとして話を進めさせていただきます。

 彼女の父は藤原顕光(藤原兼家の兄兼通の長男)といって、最終的には左大臣にまで昇進した人です。そして、母は村上天皇の皇女・盛子内親王です。ついでに言うと元子の父方の祖母、つまり顕光の母は陽成天皇の孫でした。
 つまり、元子は父方、母方ともに皇族の血を受けているわけです。そのような理由からかはよくわかりませんが、元子も同母兄の重家もかなりの美形だったようです。

 さて、美しく成長した元子は18歳の時人生の転機を迎えます。「おたくの姫様を時の帝、一条天皇の妃に…」という話が舞い込んだのでした。
 話を持ってきたのは当時一上の左大臣であった藤原道長でした。実は当時の道長は、少し微妙な立場でした。一条天皇の寵愛を一身に受けている中宮定子が懐妊していたのです。定子の父道隆はすでに薨じており、兄弟たちも失脚して流罪になっているとはいえ、定子に皇子が産まれたらたちまち勢力を盛り返してしまうかもしれません。道長の娘はまだ幼くて入内できない今、それだけは避けたい……。そこで思いついたのが他の女性を天皇に入内させることでした。そこで当時の右大臣顕光と、内大臣公季に娘の入内の話を持ち込んだのでした。

 道長のそんな心の中を知ってか知らずか、顕光は大喜びで元子の入内の準備を始めました。一条天皇の許に入内した元子は承香殿をあてがわれ、「承香殿の女御」と呼ばれることになります。そして、幸い天皇に気に入られ、間もなく懐妊の兆しが現れたのです。顕光が腰をぬかさんばかりに喜んだのは言うまでもありません。「もし元子に皇子が産まれたら、わしは将来帝の外祖父だ!!」
 実はこの顕光という方、人はいいのですがかなりおっちょこちょいなところがありました。これは後の話ですが、儀式の時、順番を間違えて顰蹙を買ったこともあります。
また、道長の「この世をば…」の歌を日記に書き残した実資は、顕光のことを「無能の大臣」と痛烈に批判しています。そのように、他の公卿たちから馬鹿にされているような所がありました。なので、「顕光が帝の外祖父になる?これは世の中がひっくり返る……。」と当時の公卿たちは思っていたかもしれませんね。

 さて、懐妊した元子は意気揚々と承香殿を退出しました。同じ頃入内した公季の娘義子(こちらは弘徽殿の女御と呼ばれていました。)はさっぱり懐妊の兆しがなかったので、悔しくてなりません。そこで、「承香殿の退出を見物してやろう。」ということで、みんな御簾に張り付いてしまったので、外から見ると御簾がふくらんでいるように見えたといいます。そこで、元子の女童が「あら、こちらはすだれだけがはらんでいるわ!」と言ったとか…。

 出産のために内裏を退出して実家の堀河殿に里下りした元子でしたが、産み月になってもさっぱり出産の兆しがありませんでした。顕光は心配になり、父娘共々広隆寺に参詣することにしたのでした。その甲斐があったのか、元子は広隆寺で産気づいてしまいます。顕光はびっくりするやら嬉しいやらでおろおろ。しかし、元子の体内から出てきたのは赤ちゃんではなく、大量の水でした。……
 これは、「栄花物語」に載っている話ですが、史実は多分、死産だったのではなかったかと思います。どちらにしても、顕光・元子親子にとっては恥ずかしさとやり切れなさのあまり、どうしていいかわからないという状態だったと思います。なぜならば、出産の場所がお寺だっただけに、都中に噂が広まってしまいましたから…。
 しかも、意気揚々と内裏を退出した上、女童の不用意な発言ゆえ、元子は恥ずかしくて内裏に戻ることもできませんでした。その上、母の盛子内親王がその頃世を去り、元子自身もショックから体調を崩していたようです。
 心身ともに傷つき内裏に戻れないでいた元子に対して、一条天皇は「早く内裏に戻っておいで。」と何度も文を下さいました。一条天皇は本当に優しい方だったようです。そこで元子はようやく内裏に戻る決心をしたのでした。

 ちょうどこの頃に、一条天皇の周りでは大きな変化が起こっていました。長保元年(999)、12歳になった道長の娘彰子が入内します。彰子は翌年女御から中宮となり、中宮定子は皇后と称することになりました。そしてその年の暮れ、定子は3人目の子供を産んで間もなく崩御されました。一条天皇が悲しまれたことは言うまでもありません。
 元子が内裏に戻ったのは、そのように一条天皇の周りがあわただしく変化しているときでした。そして定子亡き後の一条天皇の寵愛を、一番強く受けたのは他ならぬ元子だったのです。

 一条天皇の元子に対する愛情の現れにこんな話があります。
 一条天皇は、藤原顕光の家司であった平維衡を伊勢守に推薦したのでした。ちなみに平維衡は、平忠盛・清盛の直系の祖先に当たる人物です。
 しかし維衡は色々問題のある人物でした。伊勢国において平致頼と合戦をした前歴があるのもその一例ですが、何よりもその伊勢に自分の本拠地を持っていたのが問題でした。その頃は、○○国に本拠地を持っている者は、同じ○○国の受領には任じないというのが決まりになっており、一種の常識でもありました。つまり、「維衡を伊勢守に」と言う一条天皇の推薦は、とんでもない常識はずれなことだったのです。そこまでして維衡を伊勢守にしようとしたのは、維衡が顕光の家司だったからでしょうね。つまり、一条天皇は元子の父である顕光に手をさしのべたかったのだと思います。しかし、維衡は寛弘三年正月二十八日の除目で伊勢守に任じられたものの、同年三月十九日に解任されます。道長が一条天皇を圧迫し、維衡の伊勢守を解任させたと思われます。

 そこまでして元子を寵愛した一条天皇でしたが、道長の権力が絶大なものになってくると、彰子を放っておくわけにはいかなかったようです。何よりも、彰子は性格が素直で優しく、定子の忘れ形見の敦康親王を自分の子のように可愛がっていたといいます。そんな彰子に対して一条天皇も徐々に愛情を感じ始めたのかもしれません。やがて二人の間には二人の皇子が産まれました。そして、それと反比例するように元子の影は薄くなっていったのではないでしょうか。

 寛弘八年(1011)六月、一条天皇は32歳で崩御されました。そして、皇太子だった一条天皇のいとこの三条天皇が即位しました。それと共に、元子は堀河殿に下がることとなります。

 しかし、元子の人生はこれで終わったのではありません。やがて元子の許に一人の男性が現れます。
 その人の名は源頼定……。村上天皇の孫に当たる人でした。
 しかし、元子の許に頼定が通ってきていることを知った顕光は激怒しました。
 頼定は有名なプレーボーイで、これまで関わった女性は数知れずいたようです。
その一人に、三条天皇がまだ皇太子で居貞親王と呼ばれていたときの尚侍の藤原綏子がいます。綏子は藤原兼家の娘で、道長の異母妹に当たります。尚侍と言っても、綏子は女御とほとんど変わらない立場でした。しかし綏子と頼定は三条天皇の目を盗んで密通を重ね、ついに綏子は懐妊してしまったとも言われています。
三条天皇はこのことに大いに怒り、自分の在位中は頼定の参内を許しませんでした。
 実は、元子の妹の延子はこの三条天皇の第一皇子である敦明親王の女御であり、二人の間には皇子も産まれていました。一条天皇の崩御と共に元子は内裏を下がり、息子の重家もすでに出家して官界から去った今、顕光にとっては延子は希望の星だったのです。なので、三条天皇は絶対に怒らせてはならない存在でした。
 それなのに姉の元子が三条天皇から不興を買っている男と通じているとなると、顕光の立場がありません。顕光は元子の黒髪を無理やり切ってしまいました。「尼になって出ていけ!!」と言ったともいわれています。
しかし元子も負けてはいませんでした。「それならお父様、さようなら~。」と言ってさっさと堀河殿を出ていってしまいます。そして、頼定と二人で家司の家で暮らし始めてしまいました。

 それから数年後、元子と頼定はやっと顕光に許され、堀河殿で暮らすことができるようになったのですが、父と娘の仲はどうにもしっくり行かなかったようです。しかも、幸せはあまり長続きせず、頼定は寛仁四年(1020)六月に世を去りました。
 やがて妹の延子と顕光も相次いで世を去ります。延子の夫の敦明親王が道長の婿になったことで、道長を恨みながら死んでいったと言われています。
 しかし、残された元子は寂しいながらもかなり満ち足りた余生を送ったのではないでしょうか。元子の気持ちを察することは想像するしかありませんが、頼定との恋は本物だったと私は思うのです。「心から愛する人ができ、相手も自分のことを愛してくれた……」、それだけで充分だったのではないでしょうか。

 なお「尊卑分脈」には、元子と頼定との間には子供はいなかったことになっていますが、角田文衞先生の著書「承香殿の女御」によると、二人の間には娘が二人産まれていたとなっています。
 のちの話になりますが、道長の長男頼通の養女となった藤原(女原)子(実父は一条天皇と定子との間に産まれた敦康親王)が、後朱雀天皇の許に入内する際、元子と頼定との間に産まれた娘の一人が、「御匣殿」という女房名で女房として出仕しているようです。これが事実とすると、元子はしっかり頼通にも接近して娘を売り込んでいたということになります。彼女の政治力のすごさを感じる思いです。
なお最初の方でも書きましたが、元子の没年は記録がなく、不明だそうです。

秋晴れの午後、久しぶりに京都を訪れた私は、二条城を堀河通りを挟んだ向かい側に立ち、元子のことを偲びました。このあたりは現在、ホテルが建ち並んでいますが、平安時代には堀河殿が建っていたのだそうです。元子が生涯の大半を過ごした場所です。彼女はここで、どのような気持ちで毎日を送っていたのでしょうか。

 名門の貴族の娘として産まれ、親に言われるままに入内し、水を産んでしまうという不運にみまわれた元子ですが、後半生には心から愛することができる人と巡り会えて幸せだったのではないか……。そう思いたいような気がしました。また、1000年前にも、親の反対を押し切ってまでも自分の恋を貫き通した女性がいたということに、勇気をもらえるような気がしました。勿論彼女には会ったことがありません。しかし彼女はきっと素敵な女性だったのだろうなと思います。