☆生没年 830~887
☆在位期間 884~887
☆両親
父・仁明天皇 母・藤原沢子
☆略歴
名は時康。仁明天皇の第三皇子。
承和十二年(845)元服。嘉祥元年(848)、常陸太守となり、以後、中務卿、大宰帥を歴任、貞観十八年(876)式部卿に任じられ、元慶六年(882)一品となりました。
このように皇位とは縁のない一親王としての道を歩んでいたのですが、元慶八年(884)、陽成天皇が藤原基経の不興を買って退位させられると、公卿たちの会議によって天皇に選ばれ55歳で践祚しました。
時康親王が天皇に選ばれた理由については、権力者藤原基経にとっては母方のいとこであり親しかったこと、性格が穏和で政治には無関心であったこと、皇統も仁明天皇の皇子で申し分ないことなどが挙げられます。
天皇の在位は約3年間と短かったものの、服御の絹綿を省減して経費の節約を図り、赴任しない国守や貢調違期の国司等を戒飭して地方官の粛清を行ったことなどが挙げられます。
仁和三年(887)八月崩御。五十八歳。後田邑陵に葬られました。
私は、百人一首15番目の光孝天皇の歌、「君がため 春の野に出て 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」が大好きです。これは天皇がまだ若かった頃に詠んだ歌だそうですが、彼の他人を思いやる優しい気持ちと穏やかな性格がよく表現されていると思います。
☆父方の親族
祖父母
祖父・嵯峨天皇 祖母・橘嘉智子
主なおじ
源信 源融 源定 源常 源弘 源生
おもなおば
正子内親王(淳和天皇皇后) 有智子内親王(初代賀茂斎王)
仁子内親王(伊勢斎王) 源潔姫(藤原良房室) 源全姫
主ないとこ
源昇 源淡*以上、父は源融)
源唱*父は源定
恒世親王 恒貞親王*以上、母は正子内親王
☆母方の親族
祖父母
祖父・藤原総継(藤原魚名の孫) 母・藤原数子
主なおば
藤原乙春
主ないとこ
藤原基経 藤原高子(清和后 陽成母)*以上、母は藤原乙春
☆兄弟姉妹と甥・姪
兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
*道康親王(文徳天皇) ○宗康親王 ○人康親王 *本康親王
*常康親王 *源多 *源光
姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
○新子内親王 *久子内親王(伊勢斎王) *時子内親王(賀茂斎王)
主な甥と姪
惟仁親王(清和天皇) 惟喬親王 惟条親王
惟彦親王 源能有 恬子内親王(伊勢斎王) 掲子内親王(伊勢斎王)
晏子内親王(伊勢斎王)*以上、父は文徳天皇
操子女王(藤原基経室 時平・忠平らの母) 源興元 *以上、父は人康親王
元子女王(伊勢斎王 *父は本康親王)
☆主な后妃と皇子・皇女
班子女王(仲野親王女) → 是忠親王 是貞親王 源 定省=定省親王(宇多天皇) 忠子内親王 簡子内親王 綏子内親王(陽成天皇妃) 為子内親王(醍醐天皇妃)
藤原佳美子(藤原基経女)
平 好風邪女
藤原山蔭女
*以下、光孝天皇には多数の女御・更衣がおり、多くの皇子皇女をもうけています。しかしながら、皇子皇女たちそれぞれの生母についてははっきりわかっていません。
なお、班子女王所生以外の皇子皇女たちの中で私が注目しているのは、清和天皇女御の源済子、醍醐天皇女御の源和子、「↓の「末裔たち」の項で取り上げる源国紀などです。
☆末裔たち
・その後の皇位継承について
光孝天皇のあとは、班子女王との間にもうけた源定め省が親王に復し践祚しました。これが宇多天皇です。宇多天皇譲位後は皇子の醍醐天皇が継ぎ、皇位はこの系統が代々受け継いでいくことになります。
源国紀の子孫たち
源国紀は光孝天皇の皇子として生を受けましたが、母は不詳だそうです。後に臣籍降下して源姓を賜りました。特に目立った業績はないようですが、彼の子孫がとても興味深いので、紹介することにします。
源 公忠
国紀の子。三十六歌仙の一人。醍醐・朱雀両天皇の蔵人,近江守などを経て従四位下,右大弁に至る。宮廷歌人として活躍した。
源 信明
公忠の子。父と同じく三十六歌仙の一人。若狭・陸奥などの国守を歴任。従四位下に至る。
・ここでちょっと寄り道、源 信明の娘たち
信明は歌人中務(宇多天皇皇子敦慶親王と歌人伊勢の間の女)との間に井殿をもうけました。井殿も両親のDNAを受け継いだのか歌人として知られています。藤原伊尹との間に光昭をもうけました。
信明は他の妻との間にも娘がいたようです。
その一人が源明子。彼女は藤原説孝の妻となり、また宮中にも仕えて「源典侍」と呼ばれました。
ここで、ピンと来た方もいらっしゃると思います。彼女こそ「源氏物語」で光源氏と関係を持った色好みの老女として描かれている源典侍のモデルとなった女性です。
また明子の夫、藤原説孝は紫式部の夫、宣孝の兄に当たります。つまり紫式部は義兄の妻をモデルに、源典侍のお笑いキャラを書いたわけで、式部が明子にかなりのライバル意識を持っていたことが伺えます。実際、明子はやり手の女官だったようです。
源 国盛
話を国紀の男系に一端戻します。
信明は男子も多かったようですが、そのうちの一人が源国盛です。国盛は道長の家人をつとめました。「今昔物語」には、道長の乳母子だったと記述されています。彼にも、紫式部とちょっと関係のあるエピソードがあるので、紹介したいと思います。
十世紀末、若狭国に宋の商人が漂着し、しきりに貿易を求めてくるという事件が起こります。時の権力者、藤原道長は、若狭は窓口ではないという理由で、宋人たちを隣国の越前に移します。
しかし困ったことに、彼らと言葉が通じない。そこで淡路守に内定していた藤原為時を急遽越前守に変更します。為時は学者で、宋の言葉にも通じていたというのが理由です。そしてこの為時こそ、紫式部の父ですよね。
ところで、この時に最初に越前守に内定していたのが、誰であろう、この源国盛だったのです。越前は大国、淡路は下国でしたので、越前守に任じられた為時は嬉しかったと思いますが、逆に下国の淡路の国司になってしまった国盛の心中はどうだったのでしょうか…。
*このあとは、国盛女の系統のお話しをします。これがまた、思いがけないところとつながっているのです。
源 国盛女
歌人として知られる。他にも、琴・琵琶にも優れていたそうです。宇多源氏の源道方の妻となり、経信を生みました。
この経信こそ、「百人一首」71番目の歌の作者です。(宇多天皇の系譜のページ参照)
色々寄り道をしてしまったのでちょっとわかりにくいと思います。源国紀から源経信までの流れを図にしてみますね。
国紀→公忠→信明→国盛→国盛女(源道方の妻)→経信
系図って本当に面白いです。
是忠親王の子孫
ところで、光孝天皇が班子女王との間にもうけた是忠親王の子孫にも、百人一首の歌人がいます。
是忠親王の子の一人には、「百人一首」28番の歌の作者で三十六歌仙の一人でもある源宗于がいます。
また、親王の子孫には「百人一首」40番の歌の作者、平兼盛もいます(宗于の子孫ではない)。
そして、兼盛の妻は子供を身ごもったまま兼盛と離別し、赤染時用と再婚したとも言われていますよね。そして生まれた子が59番の歌の作者、赤染衛門と言われています。もしこれが事実なら、赤染衛門も是忠親王の子孫ということになります。
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☆在位期間 884~887
☆両親
父・仁明天皇 母・藤原沢子
☆略歴
名は時康。仁明天皇の第三皇子。
承和十二年(845)元服。嘉祥元年(848)、常陸太守となり、以後、中務卿、大宰帥を歴任、貞観十八年(876)式部卿に任じられ、元慶六年(882)一品となりました。
このように皇位とは縁のない一親王としての道を歩んでいたのですが、元慶八年(884)、陽成天皇が藤原基経の不興を買って退位させられると、公卿たちの会議によって天皇に選ばれ55歳で践祚しました。
時康親王が天皇に選ばれた理由については、権力者藤原基経にとっては母方のいとこであり親しかったこと、性格が穏和で政治には無関心であったこと、皇統も仁明天皇の皇子で申し分ないことなどが挙げられます。
天皇の在位は約3年間と短かったものの、服御の絹綿を省減して経費の節約を図り、赴任しない国守や貢調違期の国司等を戒飭して地方官の粛清を行ったことなどが挙げられます。
仁和三年(887)八月崩御。五十八歳。後田邑陵に葬られました。
私は、百人一首15番目の光孝天皇の歌、「君がため 春の野に出て 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」が大好きです。これは天皇がまだ若かった頃に詠んだ歌だそうですが、彼の他人を思いやる優しい気持ちと穏やかな性格がよく表現されていると思います。
☆父方の親族
祖父母
祖父・嵯峨天皇 祖母・橘嘉智子
主なおじ
源信 源融 源定 源常 源弘 源生
おもなおば
正子内親王(淳和天皇皇后) 有智子内親王(初代賀茂斎王)
仁子内親王(伊勢斎王) 源潔姫(藤原良房室) 源全姫
主ないとこ
源昇 源淡*以上、父は源融)
源唱*父は源定
恒世親王 恒貞親王*以上、母は正子内親王
☆母方の親族
祖父母
祖父・藤原総継(藤原魚名の孫) 母・藤原数子
主なおば
藤原乙春
主ないとこ
藤原基経 藤原高子(清和后 陽成母)*以上、母は藤原乙春
☆兄弟姉妹と甥・姪
兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
*道康親王(文徳天皇) ○宗康親王 ○人康親王 *本康親王
*常康親王 *源多 *源光
姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
○新子内親王 *久子内親王(伊勢斎王) *時子内親王(賀茂斎王)
主な甥と姪
惟仁親王(清和天皇) 惟喬親王 惟条親王
惟彦親王 源能有 恬子内親王(伊勢斎王) 掲子内親王(伊勢斎王)
晏子内親王(伊勢斎王)*以上、父は文徳天皇
操子女王(藤原基経室 時平・忠平らの母) 源興元 *以上、父は人康親王
元子女王(伊勢斎王 *父は本康親王)
☆主な后妃と皇子・皇女
班子女王(仲野親王女) → 是忠親王 是貞親王 源 定省=定省親王(宇多天皇) 忠子内親王 簡子内親王 綏子内親王(陽成天皇妃) 為子内親王(醍醐天皇妃)
藤原佳美子(藤原基経女)
平 好風邪女
藤原山蔭女
*以下、光孝天皇には多数の女御・更衣がおり、多くの皇子皇女をもうけています。しかしながら、皇子皇女たちそれぞれの生母についてははっきりわかっていません。
なお、班子女王所生以外の皇子皇女たちの中で私が注目しているのは、清和天皇女御の源済子、醍醐天皇女御の源和子、「↓の「末裔たち」の項で取り上げる源国紀などです。
☆末裔たち
・その後の皇位継承について
光孝天皇のあとは、班子女王との間にもうけた源定め省が親王に復し践祚しました。これが宇多天皇です。宇多天皇譲位後は皇子の醍醐天皇が継ぎ、皇位はこの系統が代々受け継いでいくことになります。
源国紀の子孫たち
源国紀は光孝天皇の皇子として生を受けましたが、母は不詳だそうです。後に臣籍降下して源姓を賜りました。特に目立った業績はないようですが、彼の子孫がとても興味深いので、紹介することにします。
源 公忠
国紀の子。三十六歌仙の一人。醍醐・朱雀両天皇の蔵人,近江守などを経て従四位下,右大弁に至る。宮廷歌人として活躍した。
源 信明
公忠の子。父と同じく三十六歌仙の一人。若狭・陸奥などの国守を歴任。従四位下に至る。
・ここでちょっと寄り道、源 信明の娘たち
信明は歌人中務(宇多天皇皇子敦慶親王と歌人伊勢の間の女)との間に井殿をもうけました。井殿も両親のDNAを受け継いだのか歌人として知られています。藤原伊尹との間に光昭をもうけました。
信明は他の妻との間にも娘がいたようです。
その一人が源明子。彼女は藤原説孝の妻となり、また宮中にも仕えて「源典侍」と呼ばれました。
ここで、ピンと来た方もいらっしゃると思います。彼女こそ「源氏物語」で光源氏と関係を持った色好みの老女として描かれている源典侍のモデルとなった女性です。
また明子の夫、藤原説孝は紫式部の夫、宣孝の兄に当たります。つまり紫式部は義兄の妻をモデルに、源典侍のお笑いキャラを書いたわけで、式部が明子にかなりのライバル意識を持っていたことが伺えます。実際、明子はやり手の女官だったようです。
源 国盛
話を国紀の男系に一端戻します。
信明は男子も多かったようですが、そのうちの一人が源国盛です。国盛は道長の家人をつとめました。「今昔物語」には、道長の乳母子だったと記述されています。彼にも、紫式部とちょっと関係のあるエピソードがあるので、紹介したいと思います。
十世紀末、若狭国に宋の商人が漂着し、しきりに貿易を求めてくるという事件が起こります。時の権力者、藤原道長は、若狭は窓口ではないという理由で、宋人たちを隣国の越前に移します。
しかし困ったことに、彼らと言葉が通じない。そこで淡路守に内定していた藤原為時を急遽越前守に変更します。為時は学者で、宋の言葉にも通じていたというのが理由です。そしてこの為時こそ、紫式部の父ですよね。
ところで、この時に最初に越前守に内定していたのが、誰であろう、この源国盛だったのです。越前は大国、淡路は下国でしたので、越前守に任じられた為時は嬉しかったと思いますが、逆に下国の淡路の国司になってしまった国盛の心中はどうだったのでしょうか…。
*このあとは、国盛女の系統のお話しをします。これがまた、思いがけないところとつながっているのです。
源 国盛女
歌人として知られる。他にも、琴・琵琶にも優れていたそうです。宇多源氏の源道方の妻となり、経信を生みました。
この経信こそ、「百人一首」71番目の歌の作者です。(宇多天皇の系譜のページ参照)
色々寄り道をしてしまったのでちょっとわかりにくいと思います。源国紀から源経信までの流れを図にしてみますね。
国紀→公忠→信明→国盛→国盛女(源道方の妻)→経信
系図って本当に面白いです。
是忠親王の子孫
ところで、光孝天皇が班子女王との間にもうけた是忠親王の子孫にも、百人一首の歌人がいます。
是忠親王の子の一人には、「百人一首」28番の歌の作者で三十六歌仙の一人でもある源宗于がいます。
また、親王の子孫には「百人一首」40番の歌の作者、平兼盛もいます(宗于の子孫ではない)。
そして、兼盛の妻は子供を身ごもったまま兼盛と離別し、赤染時用と再婚したとも言われていますよね。そして生まれた子が59番の歌の作者、赤染衛門と言われています。もしこれが事実なら、赤染衛門も是忠親王の子孫ということになります。
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