平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

先週の出来事

2007-09-24 10:54:11 | えりかの平安な日々 04~09
 先週の土曜日は真夏のような暑さでしたが、昨日と今日はだいぶ涼しいような気がします。でも、例年のこの時期に比べるとまだまだ暑いですけれどね。明日は中秋の名月のようですが、何だか信じられない~。

 では、またまた私の近況を…。

1.髪の毛を切りました

 9月17日、行きつけの静岡の駅ビル内にある美容室で髪の毛を25センチ切りました。あまりにも長くなってしまったので少し痛んでいましたし、何か重たくて首と肩が痛かったので、思い切って切ることにしたのでした。京都で十二単を着る機会があったらちょっと困りますけれど、ウィックという手もありますものね。

 それで、現在の長さは肩のあたり、ちょうど、4年前の5月に初めて十二単を着たときと同じくらいの長さだと思います。考えてみると、あのとき十二単に似合う長い髪の毛にあこがれ、あれ以来ずっと伸ばしてきたのですよね…。なので、4年ぶりに短くなった髪の毛はすごく軽く感じます。

 この先、再び伸ばすかどうかは未定です。平安時代の絵巻物やイラストに描かれた髪の長い姫君を見ると「ああ、切ってしまったのはもったいなかったかな?」と思い、再び伸ばしてみたいという気持ちになるし、今の髪の毛の軽さを思うと「このままでいいわ」と思ったり…。さてさてどうなりますか…。


2.病院診察の日

 真夏のように暑かった9月22日は、2週間ぶりの病院診察の日でした。先月の終わりに受診した時、「これからは1ヶ月に1回でいい」と言われたのですが、先々週に臨時で診察を受けたとき(こちらの記事を参照して下さいね)血圧が高かったため、再び2週間に1回になりました。

 でも、今回は先生から嬉しいことを二つ言われました。一つは、「表情がすごく明るくなりましたね」ということ。確かに私、最近は気持ちが前向きで明るいです。
 それともう一つは、「少しやせたのでは?」と言われたこと。それで、その場で体重を量ってみたところ、1キロ減っていました。髪の毛を25センチ切ったこともあるのでしょうけれど、少しでも減っているのは嬉しかったです。

 ただ、血圧は相変わらず高かったです。この前と違って薬をしっかり飲んできたのに…。それで、私の脈を診た先生に、
「ストレスを感じやすい性格だったよね?」
と聞かれました。それで私は
「そうですね、その傾向はすごくあります。」
と返事をしました。何しろ、ここを初めて受診したときに診断された病名は「ストレス性胃炎」だったのですから…。

 それで、「血圧が高いのはストレス性のものかもしれない」ということで、交感神経の働きを抑える薬を処方されました。早く言えば一種の精神安定剤です。これを毎朝、2週間限定で飲むことになりました。薬は減るどころか、一つ増えてしまったのでした。

 確かに現在の私は明るくて元気ですが、その反動が来たときがすごく怖いです。突然気分が落ち込んだらどうなるのか…。それを抑える意味でも、この薬を飲んでおくことはいいことなのかもしれませんね。

 それで、新しい薬を飲み始めて今日が二日目ですが、すごく調子がいいです。以前は、血圧が高いと感じることも多く、わけもなく胸がどきどきしたりもしていたのですが、そういうことがほとんどなくなりました。ということは、血圧が高いのもストレス性だったのかしら?
 2週間後にまた病院に行き、今後の治療方針を決めるとのこと、そしてこの日には3回目の血液検査をすることになっています。まだまだ病院のお世話になることになりそうです。

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源 俊房 ~浮き沈みの激しかったその生涯

2007-09-17 09:27:51 | 小説風歴史人物伝
 「平安時代史事典」で源俊房について調べたとき、「何て浮き沈みの激しい、ドラマティックな人生を送った人なのだろう!」ととても興味を持ち、いつか人物伝で取り上げてみたいとずっと思っていました。

 そこで、どのように書いたらいいのかすごく迷いました。その結果、「こういう人生を送った人はその人自身に語って頂くというスタイルで書くのが面白そう~」と思ったのです。そうです、「班子女王」のように…。

 でも、男性に一人語りをさせるというのはどうもうまく行かないのですよね~。そんなとき思い出したのは、「2005年大河ドラマ「義経」「参考文献」で挙げさせて頂いた「源氏の花 平家の花 歴史に咲いた女たち(石丸晶子著)」でした。他に姉妹編として「平安の花」もあるのですが、著者自身が歴史上の人物たちにタイムスリップインタビューをするという形で書かれていて、とても面白かったです。「そうだ、これだ!」と思いました。

 それで、保安元年(1120)、俊房さんの邸宅を訪ね、86歳の俊房さんとお会いし、その人生についてインタビューをする…という形で書くことにしたのです。。

 なお、この項の俊房さんの性格や心の動きに関しては、学術的な根拠は全くなく、すべて私の妄想です。その点をおくみ頂、お読み頂けますと幸いです。


「さて、まろに何を聞きたいのじゃな?うーん、まろのこれまでのことじゃと?では、何でも聞いて下され」

 86歳の俊房三は人の良さそうな笑顔を私に向けました。

「俊房さんってとっても高貴なお生まれなのですよね?」


「そうなのじゃよ。まろの父方の曾祖父君は村上の帝…。祖父は秀才の誉れの高かった具平親王じゃ。そして、母方の祖父君は摂関政治の栄華を極めた藤原道長公。まろはその道長公のれっきとした孫なのじゃよ。」


「俊房さんのお父様は、もしかすると関白になったかもしれないのですよね?」


「その通り。父上の源師房は、道長公の嫡男、頼通公の養子になっていたのじゃよ。頼通公の奥方は、まろの父方の伯母に当たる隆姫女王じゃからのう。もし、頼通公に男子が誕生しなかったら、父上は間違いなく関白になっていた。そうなったら、まろの人生も別のものになったのじゃろうな。特に、曾々祖父君の師輔公の例もあることだから、姫宮のことで謹慎処分を受けることもなかったろうに。」


「姫宮さまのことは後ほどお伺いすることとして、俊房さんは高貴な生まれなので将来を期待され、とんとん拍子に出世していったのですよね?」


「そうなのじゃよ。母上は道長公の娘の尊子だったこともあり、その点でも、まろの家は摂関家と深く結びついていたのじゃよ。

 12歳で元服したまろは、従五位上に叙され、侍従、近江権介、左近衛権中将等を経て、16歳で従三位となり、天喜五年(1057)二月、23歳で参議に任ぜられたのじゃよ。」


「まるで摂関家のお坊ちゃん並みの出世の早さですね。でも、娟子内親王さまが現れたことで、運命が一変するのですよね。」


「美しい人じゃったのう、姫宮は…」

 俊房さんは少し遠くを見るような目をして、話し始めました。

「姫宮と初めてお会いしたのは、まろがまだ元服する前じゃった。その頃姫宮は、賀茂神社の神に仕える斎王じゃった。ある年の葵祭の日、すだれの蔭からそのお姿をちらっと拝見し、「何と美しく可憐な方なのだろう!」と子供心にもすっかり夢中になってしまった。」


「それで、姫宮さまが賀茂の斎王を退下して数年後、お二人は結ばれたのですよね。」


「そうじゃよ。姫宮と初めて結ばれた夜、彼女も「ずっとお慕い申しておりました。」とおっしゃって下さった。初めて姫宮を拝見した葵祭の日、姫宮もまろの姿を見たのだそうじゃよ。二人は恋に夢中になった。伊勢の斎王であった雅子内親王さまを妻とされた曾々祖父君、師輔公の例もある。前斎王の姫宮を妻とすることに罪悪感など全くなかったのじゃよ。


「それなのに、せっかく参議になった年に謹慎処分を食らってしまったのですよね?」


「姫宮の弟君、尊仁親王さまの怒りに触れてしまったのじゃよ。それでもまろは出世よりも姫宮の方が大切だった。だから謹慎処分も歯を食いしばって絶えたのじゃよ。」


「それに、お母様の尊子さんが強い味方になって下さったのですよね?」


「母上が味方になって下さったことは心強かった。母上は、姫宮のお世話もして下さった。そして、「人が人を好きになることはごく自然なこと。あなた達の恋を応援しています。」といつもおっしゃって下さったのじゃよ。」


「素敵なお母様ですね。それで、お母様の努力もあって、3年後に謹慎が解けたのですよね。そして再び、出世街道を歩いていくことになるのですよね。」


「そうじゃよ。許された年の翌年には権中納言となり、11年後の永保二年(1082)右大臣、その翌年には左大臣となったのじゃよ。その時、右大臣になったのが弟の顕房じゃ。


「そうでしたよね。源氏の左右大臣というのも珍しいことだったのですよね。でも、三の宮輔仁親王の東宮擁立に失敗してしまうのですよね。」


「そうなのじゃ。」

 この時、俊房さんの語気が強くなったような気がしました。

「元々、後三条の帝(尊仁親王)の一の宮であられた白河の帝の東宮に立たれたのは、二の宮実仁親王だった。後三条の帝は、二の宮踐祚後は三の宮をと遺言したのじゃよ。後三条の帝とは姫宮のことで色々あったが、それはそれとしてまろに色々目をかけて下さった。後三条の帝の遺言を守ることは当然のことなのじゃよ。」


「それに、お父様の師房さんは、二の宮実仁親王の東宮傅だったのですものね。」


「そうなのじゃよ。だから、村上源氏は一致団結して二の宮と三の宮を守るべきだったのじゃよ。」


「そうですよね。でも、白河帝は実仁親王がお亡くなりになると、自分の皇子、善仁親王を東宮にしてしまったのですよね。しかも、その善仁親王は俊房さんの弟の顕房さんの娘さんが生んだ皇子だった…」


「元々、弟はまろに比べると要領の良いやつだった。娘の賢子を関白師実どのの養女にしたのも、摂関家との縁を強めるための策略だったのじゃろうな。

 その賢子が白河の帝の中宮となり善仁親王を生んだのじゃ。帝にとってはかわいい我が子、弟にとってもかわいい孫じゃからのう。帝位につけたい気持ちはわからなくもないが、それでは筋が通らぬ。」


「それで俊房さんとお子様たちは、三の宮輔仁親王の側近となり、何とか次の東宮に立てようと必死になっていたのですよね。」


「お気の毒なのは三の宮じゃ。希望をなくして仁和寺にこもってしまわれた。でも、善仁親王に皇子が生まれるまでは希望を捨ててはなりませぬと何度も申した。まろとまろの子供たちは、必死になって三の宮を支えていったのじゃ。宮廷で孤立しようとも…。それだけ三の宮は頭も良く才気もあり、魅力的なお方じゃった。」


「でも、堀河帝となった善仁親王に皇子が生まれ、その皇子が鳥羽帝となって即位したため、三の宮輔仁親王の東宮への望みは完全に絶たれてしまったのですよね。おまけに永久元年(1113)、鳥羽帝暗殺未遂事件が起き、その首謀者として俊房さんの息子さんで三の宮輔仁親王の護持僧であった仁覚さんが逮捕され、伊豆に流されてしまったのですよね。そして、俊房さんも一時連座して蟄居していたのですよね。」


「仁覚が鳥羽天皇暗殺を告知していると書かれた落書が鳥羽天皇准母の令子内親王第で発見されたのじゃよ。これは、まろの家と三の宮を失脚させるための陰謀じゃ。

 まろは許された後、朝廷にしばしば出仕して息子たちの官位昇進を画策したのじゃが……、我が家の敗北は決定的なものとなっており、もう無理じゃった。そして、三の宮も昨年亡くなられた。まろのやることももうなくなった。来年あたり、出家しようと思っているのじゃよ。」


「最後に一つ、お聞きしてもよろしいですか?」


「何なりと…」


「俊房さんは、ご自分のこれまでの人生を後悔されていますか?」


「後悔しておらんよ。姫宮を愛して謹慎になったことも、三の宮を東宮にしようとしたことも…。今考えると、浮き沈みの激しい、なかなか面白い人生じゃった。
 それに、まろの家系は没落してしまったが、弟の家系はこれからも繁栄していくのじゃろうな。このように、村上源氏が後世まで続くことは良いことじゃ。
 こうなったらまろは、1日も早く冥土に旅立ち、姫宮や三の宮にお会いしたいのう。」


☆源 俊房プロフィール

 1035~1121

 平安時代後期の公卿。村上源氏の源師房一男。母は藤原道長女の尊子。

 23歳で参議となるが、娟子内親王(後朱雀天皇皇女・母は禎子内親王)との密通が発覚し、その後3年間、後冷泉天皇の詔によって謹慎していた。許された後は順調に昇進し、永保三年(1083)、左大臣となった。しかし、輔仁親王(後三条天皇第三皇子)を東宮に擁立しようとして藤原公実らと対立し宮廷で孤立、最後には権力を失ってしまう。

 保安二年(1121)五月、比叡山において出家(法名寂俊)。同年十一月に至り薨去。堀河左大臣と称された。

 日記『水左記』は、後期摂関時代の政治社会を知る上での貴重な史料。『後拾遺』以下の勅撰集に数首入集し、漢詩の才もあり、故実にも通じた。また能書家としても知られる。


☆追記
 葉つき みかんさんより掲示板にて、俊房さんと娟子内親王の愛を深めるきっかけとなったエピソードを教えていただきました。「今鏡」に書かれているエピソードだそうです。葉つき みかんさん、ありがとうございました。以下は葉つき みかんさんの投稿のコピーです。

俊房は禎子内親王とケン子さんが住んでいた屋敷に気軽に出入りできていたみたいで、その折に、扇に一文字ずつ文字を書いて歌を作る遊びをしていたそうです。

例えば、内親王の扇に一文字を俊房が書く。
それに内親王が書き加える。
俊房が一文字加える。
それを続けて和歌を作る。

それを続けているうちに気持ちがたかぶってきたそうです。

本当に・・・・二人の恋は物語のように優雅でみやびですね~。


参考文献・サイト

 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『人物叢書 源 通親」 橋本義彦 吉川構文館

 葉つき みかんさんのブログ『月桜通信』内のこちらのページ(参考にすることを許可して下さいました葉つき みかんさん、どうもありがとうございました)


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近況報告

2007-09-14 15:04:25 | えりかの平安な日々 04~09
 一昨日の阿倍首相の突然の辞任には驚きました。疲れとストレスで体調を崩したのが原因のようですが、国会で諸政方針演説をしてすぐ辞めるというのはちょっと無責任ではないかなと思いました。一国の総理がこれでいいのかと不安になります。だんなさんに至っては、「職場放棄だ!民間でこれをやったら許されない。」と吐き捨てていました。

 ともかく、次の総理が誰になるのか、解散総選挙はいつになるか…など、私もしっかり情勢を見ていようと思っています。

 では、私の近況を少し…。

1.まだ本調子ではないのね…

 このところ体調が良かったため、先週末は予定をぎっしりと入れていました。

 まず金曜日の午後は、静岡の動物病院に行き、エリカのキャットフードを買ってきました。こちらの動物病院は静岡駅からバスで15分ほどの距離で、行くのがなかなか大変なので、今回は1、5キロ入りの物を2袋買ってきました。荷物が多くなってしまったのでだんなさんと一緒に帰ろうと思い、タクシーでだんなさんの学校へ。この日は試験だったのでいつもより早くだんなさんのお仕事が終わることになっていたため、私は学校で待たせて頂くことにしました。帰りに静岡市内で食事をして、帰宅したのは夜10時過ぎでした。

 以前なら、ぐったりと疲れてしまい、それが翌日まで響くのですが…、体調がわりと良いため翌日も元気いっぱい。この日は、だんなさんのお仕事のお供で再び静岡までついて行くことにしていました。だんなさんの用事が終わったあと、静岡市内の大型スーパーで買い物をしたかったからです。

 朝早く家を出たため、朝食は静岡駅構内の喫茶店で食べました。朝食後、私は血圧を下げる薬を飲むのですが…、昨日の夜にかばんに入れておいたはずなのに、ないのです。いくら探しても見あたらないので、だんなさんに「これを飲め」と別の薬を渡されました。だんなさんも持病の関係で血圧が上がることがあり、病院から2種類の薬を処方されています。そのうち、効き目が弱い方の薬を渡され、飲むことにしました。

 朝食後は、用事でだんなさんの学校の講師の先生の接骨院へ。そのあと学校に立ち寄り、私がいつもかかっている病院にも顔を出しました。それで、今日は予約を入れていなかったのですが、急遽診察を受けることに…。今の状態が良いこともお話ししたかったからです。「すごく元気で、2~3歳若返ったようです。」と言ったら、先生はとても喜んで下さいました。

 「これで血圧が高かったら話になりませんよね~」と言いながら、血圧計に腕を入れる私。血圧を測る時ってすごく緊張するのですが、今日はそんな緊張もあまりなく、大丈夫…と思ったら、先生の「高いね」の一言。最高血圧が167もあり、最低血圧も90ありました。そうか、私はまだ本調子ではないのね…ということを思い知らされた瞬間でした。

 それで急遽予定変更。島田に戻り、駅からタクシーで5分くらいの所にある中型スーパーで買い物をすることになりました。この日は暑かった上、次の日の予定を考えると無理はできないと思ったのです。

 そして翌日の日曜日、友人と会うことになっていたのでまたまた電車に乗って静岡へ。友人は小さな子供連れなので、ファミリーレストランの上にある保育園のような所に行きました。子供さんの相手は楽しかったのですが、うーん、やっぱり疲れてしまったのでしょうか。次の月曜日は体調絶不調。それが3日程続き、昨日あたりからようやく調子が戻ってきました。

 このように、調子が良くなったり悪くなったりです。それでも以前に比べると気持ちも前向きになっているし、出かけるときに気合いを入れなくても良くなってきたし、それほど疲れなくもなっています。そう、だんだん良くなっていると思うのですよね。とにかく、焦りと無理は禁物なのかも。ぼちぼちとやっていこうと思っています。


2.「紫式部殺人事件」

 図書館から借りた「紫式部殺人事件(山村美沙著 角川書店)」という推理小説を最近読みました。推理小説全般に言えることですが、とにかく先が気になります。それで、読書のスピードが遅い私が3日で読み終えてしまいました。

 この小説は、京都で紫式部の研究をしている女子大生が主人公です。私から見るととってもうらやましい環境です。その女主人公が連続殺人事件に巻き込まれ、兄やその友人と一緒に事件を解決していく…という、ごくありふれたストーリーなのですが、殺人事件の裏には紫式部に関わる古文書や絵巻が関わっていたりして、紫式部ファンの私にとってはたまらない内容でした。「紫式部日記」が引用されていたり、百人一首の歌が事件を解く鍵になっていたりして興味深かったです。京都御所の近くや、四条通など、京都のあちらこちらの地名も出てきました。

 それから、大学のゼミで教授や学生たちが、紫式部の出生年や没年について討論をするシーンもあり読んでいてわくわくしました。やはり私は、紫式部や平安文学が好きなのだなと再認識させられた1冊でした。


3.新しい人物伝

 昨日から、新しい人物伝「源俊房」の執筆を始めました。

 源俊房については、「こちらの記事」で少し触れたことがあるのですが、とてもドラマティックな人生を送った人です。それで、従来の人物伝とはちょっと変わった感じの人物伝にしようと思い、妄想いっぱいで書いています。書いていてすごく楽しくて、下書きが半分くらいできあがりました。今週末に下書きを仕上げてしまえるかもしれません。そのあとは参考文献と照らし合わせたりして手直しをしますので、もうしばらくお待ち頂けますと嬉しいです。

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第64代 円融天皇

2007-09-07 09:57:34 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  959~991
☆在位期間 969~984

☆両親
 父・村上天皇 母・藤原安子(藤原師輔女)

☆略歴

 名は守平。村上天皇の第五皇子。

 天徳三年(959)十月、親王宣下。康保四年(967)、兄の為平親王を飛び越えて冷泉天皇の皇太弟となり、安和二年(969)に即位します。これは、源 高明の女を妃にしていた為平親王を警戒した藤原氏の外戚政策でした。三年後、十四歳で元服。おじ藤原兼通の女、(女皇)子が入内します。続いて頼忠女の殉子、兼家女の詮子も入内、これらはすべて、藤原氏の外戚政策のための入内でした。そのため天皇は周りに押し流されることが多かったようです。

 永観二年(984)、東宮師貞親王に譲位。その後、御願寺円融寺に入り出家します。正暦二年二月十二日崩御。円融寺北原に葬られました。

 人々の追慕深き人柄で和歌をたしなみ、御集や歌合わせも伝わっています。なお、「小右記」を表した藤原実資は、円融天皇の信任が厚かったそうです。


☆父方の親族

祖父・醍醐天皇 祖母・藤原穏子(藤原基経女)

おじ
 朱雀天皇・克明親王・保明親王・重明親王・代明親王・有明親王・盛明親王・兼明親王(源 兼明)・源 高明など

おば
 勤子内親王・雅子内親王・康子内親王・勧子内親王・英子内親王など

主ないとこ
 昌子内親王(父は朱雀天皇)
 源 博雅(父は克明親王)
 慶頼王・熙子女王(父は保明親王)
 徽子女王(父は重明親王)
 源 重光・源 保光・源 延光・荘子女王・厳子女王・敬子女王(父は代明親王)
 源 忠清・源 泰清・藤原公季室(父は有明親王)
 源 伊陟(父は兼明親王)
 源 俊賢・源 経房・為平親王室・源 明子(父は源 高明)
 藤原高光・藤原為光・尋禅・愛宮(母は雅子内親王)
 深覚・藤原公季(母は康子内親王)


☆母方の親族

祖父・藤原師輔 祖母・藤原盛子(藤原経邦女)

おじ
 藤原伊尹・藤原兼通・藤原兼家・藤原高光・藤原為光・尋禅・深覚・藤原公季・藤原遠度など

おば
 藤原登子・三の君(源 高明室)・愛宮など

主ないとこ
 藤原挙賢・藤原義孝・藤原義懐・藤原懐子(父は藤原伊尹)
 藤原顕光・藤原朝光・藤原正光・藤原(女皇)子(父は藤原兼通)
 藤原道隆・藤原道兼・藤原道長・藤原道綱・藤原超子・藤原詮子(父は藤原兼家)
 昭平親王室(父は藤原高光)
 藤原誠信・藤原斎信・藤原公信・藤原道信・藤原(女氏)子(父は藤原為光)
 藤原実成・藤原義子(父は藤原公季)
 源 俊賢・為平親王室(母は三の君)
 源 経房・源 明子(母は愛宮)


☆兄弟姉妹・おいとめい

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *広平親王 ○冷泉天皇 ○為平親王 *具平親王 *昭平親王など

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 *規子内親王 *楽子内親王○輔子内親王 *盛子内親王 ○選子内親王など

主なおい
 花山天皇三条天皇・為尊親王・敦道親王(以上 父は冷泉天皇)
 源師房(父は具平親王)
 源頼定(父は為平親王
 藤原重家(母は盛子内親王)

主なめい
 尊子内親王((父は冷泉天皇)
 隆姫女王・具平親王二女(敦康親王室)・(女専)子女王(以上 父は具平親王)
  恭子女王(父は源 頼定)
藤原元子(母は盛子内親王
 藤原公任室(父は昭平親王)


☆后妃と子供たち

 藤原詮子(藤原兼家女) → 懐仁親王(一条天皇

 藤原(女皇)子(藤原兼通女)

 藤原殉子(藤原頼忠女)

 尊子内親王(冷泉天皇皇女)


☆末裔たち

 円融天皇の子供は一条天皇ただ一人です。一条天皇の系統は、後一条天皇と後朱雀天皇が皇位につき、後朱雀天皇の子孫が天皇家を継承していきます。このように、円融天皇の血はしっかりと後世の天皇家に受け継がれていったのです。詳しくは、「一条天皇」のページの「末裔たち」の項をご覧下さいませ。


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