平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

11月29日という日

2005-11-29 12:19:53 | 歴史雑記帳
 歴史上の人物で好きな人はたくさんいますが、「管理人からのご挨拶」の私の自己紹介の中では、その中でも特に好きな6人、藤原道長、紫式部、在原業平、徽子女王(齋宮女御)、平教経、黒田如水を挙げさせていただいています。
そして今日は、その中の一人の誕生日であることに今朝気がつきました。

 その人物とは……、私が挙げさせていただいた6人の中で唯一の戦国時代の武将、つまり黒田如水です。

 黒田如水は天文十五年(1546)十一月二十九日に今の兵庫県姫路市で生まれています。当時は旧暦ですから十一月と言えば真冬、如水が生まれたその日も雪が降っていたそうです。

 ついでに彼のことをちょっと紹介しておきますと、最初は播磨の小大名小寺氏に仕えていましたが、織田信長が播磨に進行するに当たって小寺氏が一時その配下となり、如水はその関係で信長の代官であった秀吉の軍師となりました。

 播磨平定の途中で如水は一時、荒木村重の伊丹城に幽閉されるといったハプニングはありましたが、播磨平定に当たっての彼の功績は大きかったと私は思います。

 さらに、秀吉の中国攻めの時には、備中高松城を水攻めすることを提案したり、毛利氏との交渉役にもなっています。ちょうどその頃は、信長が本能寺で殺されているのですが、そのあとの「中国大返し」を計画したのも彼です。言ってみればまさしく彼こそが、「秀吉に天下を取らせた男」なのです。

 このように書くと、如水という人は策謀家でつかみ所のない人に思えるかもしれませんが、実はかなり誠実で家臣からも領民からも慕われていた人物だったようです。のちに領主となった豊前中津では、時々領地を回り、領民たちに気を配っていたといいます。

 私が如水のことが好きな理由は、このような色々な面があることが興味深いと言うことと、波乱に富んだ生涯を彼なりに精一杯生きたところに共感できるからだと思います。とにかく、「黒田如水」のことを初めて私が知ることになった司馬遼太郎さんの小説「新史・太閤記」と、やはり司馬遼太郎さんの小説で、彼を主人公にした「播磨灘物語」に感謝です。

 彼については人物紹介の項でまた詳しく書いてみたいなと思っています。



最近のエリカ

2005-11-27 01:15:20 | 猫のお部屋
 ママ、どうして最近私の写真を載せてくれないの?
つまんないニャン。

 ……と、我が家の小さなエリカが言うので、今日は久しぶりにエリカの写真を載せてみました。

 考えてみると、「我が家の猫」の更新は3ヶ月ぶりなのですよね。エリカファンのみなさま、お待たせしました~。

 最近は寒くなったせいか、エリカは押し入れの布団の中にもぐり込んで昼寝をしていることが多いです。こんな所にもぐり込んで、息が苦しくないのかなとちょっと心配になってしまいますけれど、エリカにとっては暖かくて気持ちが良いのでしょうね。

 そして夜も、私の寝ている布団にもぐり込んできます。エリカが布団に入ってくると暖かくて幸せ♪

 写真は、私の服の上に両前足を乗せ、顔を上げているところです。目を半ばあけ、ぼーっとしていますよね。「ここは私の場所よ。」と言わんばかりで幸せそうです。やっぱりかわいい♪


大河ドラマ「義経」第46回&静御前

2005-11-24 11:02:47 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第46回の感想です。

 今週はやはり静御前の舞いとそれに対する政子の反応が印象的でした。ただ、ちょっと不満な点や疑問点もあるのですが……。それらはのちに述べるとして、最初に今週の大まかな感想を述べさせていただきます。


☆生きていた忠信さん

 吉野で谷底に落ちたと思っていた佐藤忠信、生きていたのですね!!
 しかも、静の輿が都を出発する日に現れ、その静を救い出そうとしたところを鎌倉方の武士に斬られてしまうとは…。忠信は、自分が護衛していたのにもかかわらず静が鎌倉方に捕らえられたことに自責の念を禁じ得なかったのですね、きっと。

 斬られた忠信を朱雀の翁がさっと連れだしたところは見事でした。そのおかげで忠信は、義経や郎党達と最期のお別れができたのですものね。
 でも、これは兄の継信の最期の場面でも思ったのですが、死ぬ前にあんなにたくさんしゃべれるものなのでしょうか?それに、義経や郎党達に取り囲まれて最期を迎えたと言うところも、継信の時と全く同じですよね。このあたりも何か安易で手抜きのような気がしてしまいました。


☆半年近くも近江をうろうろしている義経
 
 義経が都を出発したのは3月。でも、夏の終わり頃になってもまだ近江と越前の国境をうろうろしているってどういうこと?
 こんなにゆっくりしていたら、たちまち追っ手に捕まってしまうと思うのですけれど…。

 実際の義経はこの時期、比叡山の庇護を受けていたとも言われていますよね。でも、ドラマでは比叡山の影も形も感じられませんでした。
 半年近くも近江をうろうろするといった非現実的な描き方よりも、都を出てすぐに敵に襲われた義経一行が比叡山に逃げ込み、そこでしばらくかくまってもらっていた……といった描き方の方が現実味があると思います。


 さて、今回印象に残ったのは「静の舞いと政子の反応」と私は最初の方で書きました。プロローグでも触れられていましたが、2人は全くタイプの違う女性のように見えますが、愛する人に対して一途になれるという点ではとても似ていたと思います。

 では、今週は静にスポットを当ててみたいと思います。

 静の出自については、母親が磯禅師という白拍子であったという事の他はわからないようです。生い立ちについても不明です。
 いつの頃からか白拍子となって活躍していたのですが、やがて「日本一の白拍子」と呼ばれるようになりました。そのように有名になったきっかけにこんな話があります。

 ある年、都では日照りが続いていました。そこで神泉苑に百人の高僧が集められ、雨乞いの祈祷をさせたのですがいっこうに雨が降りません。そこで同じ神泉苑に百人の白拍子を集め、一人一人舞いを舞わせることにしました。九十九人の白拍子が舞っても雨が降らなかったのに、百人目の静が舞いを舞うと空が暗くなって雷鳴がとどろき、雨が降り始めたのです。雨は三日間降り続きました。そこで静は後白河法皇から「日本一の白拍子」という宣旨を受けたのでした。
 「義経記」によると、その時義経が静を見そめ、自分の堀川の館に連れ帰ったようです。
 しかし、この話は伝説の域を出ていないような気がします。義経と静が初めて出会ったのは、義経の羽振りが良かった元暦元年(1184)頃、義経の館で何かの宴があり、そこに静が招かれたときだったのではないかと思います。でも、「義経と静の出会いは神泉苑だった。」という話もなかなかロマンチックですよね。

 そのようなわけで静は義経の館で暮らし始めたようです。
 文治元年(1185)十月、土佐房昌俊が義経の館を襲撃したときには、静の機転により義経はその襲撃に気づき、早急に対処できたと言われています。

 同十一月三日、義経の西国行きに同行、しかし船が転覆して吉野に逃れることとなります。
 静は最後まで義経との同行を望んだのですが、「このままだと足手まといになるし、あなたにも辛い思いをさせることになるから。」という義経の説得に応じて泣く泣く義経と別れて都に戻る決心をします。一説では、自ら都に帰ることを申し出たとも言われていますが…。
 義経は静に供の者を一人つけ、その供の者に金銀財宝を渡して「静を無事に都まで送り届けるように。」と命じました。しかし、供の者は金銀財宝を持ったまま途中で静を置き去りにして逃げてしまいます。途方に暮れた静でしたが、十一月十七日に鎌倉方に捕らえられてしまったのでした。

 捕らえられた静は義経の愛人ということで、当然彼の行方を詰問されます。しかし静は「知りません。」を繰り返すばかりだったようです。そこで鎌倉方は静を鎌倉に送ることにしたのでした。

 文治二年三月六日、静は鎌倉に召し出され、再び義経の行方について詰問されることとなります。しかし静は相変わらず「知りません。」ときっぱり答えるばかりでした。
 実際鎌倉幕府は、この頃義経の行方については何も把握できなかったようです。と言うのは、静が鎌倉に捕らえられていた文治二年六月、義経の母常磐御前とその娘が都の河崎観音で捕らえられ、義経の行方についてを尋問されているからなのです。鎌倉幕府はとにかく、義経ゆかりの者を片っ端から召し出し、彼の行方について尋問していたと考えられます。
 ちなみに静の母の磯禅師、ドラマでは都に残っていたという設定でしたが、実は彼女も静と一緒に鎌倉に召し出されていたようです。

 そんな中、静は四月八日に鶴岡八幡宮にて舞いを奉納することとなります。この時に舞いながら歌ったのが、「吉野山 峯の白雪 踏みわけて いりにし人の あとぞ恋しき」と「しづやしづ しづのをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」の二首の有名な歌です。
 閏七月二十九日、義経の男児を出産しますが、その男児は間もなく鎌倉方によって殺されています。傷心の静は九月十六日に帰洛しています。

 ドラマを観た方はお気づきだと思いますが、史実での静は実は出産前に舞いを奉納しているのです。

 では、なぜドラマではそれを逆にしたのか…。やはり、静の舞いと政子の反応を視聴者に印象づけるためだと思いました。私も、そんなNHKの戦略にすっかり乗せられてしまった視聴者の一人なのですから…。静の舞いを一番最後に持っていった今回の描き方は、ドラマとして見る分にはとても良かったと思います。
 とにかく、愛する人の敵の前で、その愛する人を恋い慕う歌を歌いながら舞う静を見て感動しました。そんな静に「見事じゃ!敵の前で愛する人を慕う歌を詠むとはあっぱれじゃ。」と言った政子の度量の大きさにも一瞬感動してしまいました。

 しかし……、一瞬感動はしたものの、そのあと政子に対して疑問と違和感がわいてきました。
 政子はドラマの中では、静の生んだ男児を殺してしまった張本人なのですよね。静が「私の子はどこ?」と尋ねたとき、ものすごーく怖い顔をしていましたもの。その時私は、政子のことを鬼女だと思いました。
 その政子が、静の舞いに感心するという設定はちょっと無理があるのではないかなと思ったのです。かえって頼朝が「見事じゃ!」と言った方が素直に受け入れられたかもしれません。

 それに、「吾妻鏡」などの史料によると政子は、静の舞いを見て「けしからん!」と怒った頼朝に対して、自分が山木兼隆の館を抜け出して頼朝の許に走った夜のこと、石橋山で頼朝が敗戦し、行方不明になったと聞いたときの心境が今の静の心境に似ていることなどを切々と説いています。ただ、「あっぱれじゃ」だけでなく、そういった政子の心の内面もしっかり描いて欲しかったなと思います。
 しかし考えてみると、このドラマでは、政子が山木の館を抜け出して頼朝の許に走った場面も、石橋山の敗戦を聞いて心配する政子の心の内も、カットされていたのですよね…。なので静の舞いの場面で突然政子がこの話をしてもピント来ない視聴者もいるかもしれません。なので政子に「山木の館を抜け出した話」や「石橋山合戦のあとの話」はさせられなかったのでしょう。
 そこで、単純に「政子は同じ女性として静に共感した。」というように描きたかったのでしょうけれど、今までの政子の描き方を考えるとやはり違和感が残りました。
 そして、政子に関わる有名で大切な場面をしっかり放映しなかったため、この場面で矛盾が出てきてしまったような気がしました。静の舞いも政子の一言もなかなか感動的だっただけに残念に思えてなりません。

 ところで、都に帰った静はその後どうなったのでしょうか。
 残念ながら、静のその後の消息は不明なようです。間もなく病にかかって亡くなったとも、出家をしたとも言われていますが確証はありません。
 また、エンディングにも紹介されていたように、義経の後を追って平泉に向かう途中に病にかかって越後で亡くなったなど、多くの伝説が各地に残されているようです。
 どちらにしても、義経と吉野で別れたあとの静の生涯は、敵の前で義経を恋い慕う歌を詠むといった行為に代表されるように、義経を思い、慕い続けた日々だったと思います。そして、鎌倉幕府からの詰問に対して「知りません。」と言い続けた裏には、「何とかこの間に義経様に少しでも遠くに逃げ延びて欲しい。」という必死な願いが込められていたように思えます。


 さて来週はいよいよ勧進帳のようですね。やはり弁慶が楽しみです。
 ついついこのドラマに対して批判的になってしまう私ですが、やっぱり楽しみなのですよね。

大河ドラマ「義経」第45回&平維盛の妻

2005-11-18 00:15:58 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第45回の感想です。

今週は行家の最期と時政に尋問される静が印象的でした。では、そのあたりから感想を書きますね。

 船が難破したために義経とはぐれてしまった行家叔父さん、あっさりと捕らえられてしまいましたね。でも、「源氏は頼朝だけのものではない!」と今後に及んでもまだ悪あがきを言っているあたりは、ある意味ではさすがです。でも、悪く言えば覚悟がないとも言えますよね。
 頼朝から、「最期だけは源氏の武将らしくするように」と言われた時はさすがにショックだったと思います。彼は、熊野に隠れていた方が幸せだったのかもしれませんね。考えてみると哀れな生涯と言えそうです。

 それに比べると時政に尋問されている静は見事だったと思います。義経の行方を詰問されても「知りません!」「私に教えていただきたいくらいです!」ときっぱり答えるあたりは立派です。吉野では義経一行の足手まといになっているような感じがしましたけれど、今回のこの立派な態度で私は彼女を見直しました。
 それにしても時政さん、自分より官位の高い公卿に対して、果たしてあんなに高圧的な態度がとれるものなのでしょうか?特に、法皇に直接口を利いているところは違和感さえも感じてしまいます。このあたり、絶対に史実とは異なっていると思います。
 それに時政が上洛してきた目的は義経の探索や朝廷への圧迫だけでなく、他にも大きな目的があったはずなのですが、それについては後ほど書かせていただきますね。その前にもう少し、今回の感想を述べさせていただきます。

 法皇さま、相変わらずふらふらしていますね。
 北条時政が都に入ってきて、後白河法皇側近の公卿たちを次々と解官していったため、「頼れるのは九郎殿だけじゃ。九郎殿をかくまうようにと、寺社におふれを出そう。」と言ってみたり…。
 でも、いざ当の義経から書状をもらうと、今度は頼朝に遠慮をして返書を出さなかったりしています。ここまで来ると、帝王の威厳も何も無いように思いますよね。

 さて、その義経ですけれど、吉野をさまよったあげく近江まで逃げ、ついに都に入ってしまいましたね。吉野ではあれだけ追っ手に襲われたのに……。簡単に都に入ることができたなんてとても不思議です。
 それから、忠信はあのまま谷底に落ちて死んでしまったのでしょうか?
確か忠信って、吉野で襲われた義経をかばって敵と戦い、亡くなってしまったと思うのですが、今回のドラマでは鎌倉方の追っ手に捕らえられた静を捜し回っているうちに谷底に落ちたということになってしまったようですね。勇猛な武将としては何か余りにもあっけない最期ですね。

 さて、上で書いた時政上洛のもう一つの目的なのですが、それは言うまでもなく平家の残党狩りでした。
 この「平家の残党狩り」は義経もやっていたようですが、義経の残党狩りは相変わらずかなり緩いものだったようです。それに対して時政の「平家残党狩り」はかなり厳しく、残酷なものでした。平家のゆかりの者は家臣だろうが幼子だろうが次々と捕らえられて斬首されています。
 そして、ドラマではしっかりカットされていますが、時政の探索に引っかかったのが平維盛の遺児の六代御前でした。六代は母や妹と共に嵯峨に隠れていたのですが、見つけだされて時政の許に連れて行かれてしまいました。
 当然、六代の母は嘆き悲しみます。「平家ゆかりの者は幼子も斬首されていると聞く。六代もきっと……」という嘆きを見た女房の一人は、高尾の文覚上人が頼朝と親しいということを思い出し、文覚の許に六代の命乞いに行ったのでした。
 文覚は自ら頼朝の許に六代の助命嘆願に行き、その結果六代はその時には処刑を逃れることができたのでした。母親も胸をなで下ろしたことでしょうね…。

 では、この六代の母……つまり維盛の妻とはどのような人だったのでしょうか。
今回は彼女について少し調べてみました。

 彼女の父は後白河院側近であり、鹿ヶ谷事件で捕らえられ、配所で殺された藤原成親です。つまり、同じく鹿ヶ谷事件で捕らえられて鬼界島に流され、後に赦免されて官界に復帰し、参議にまで昇進した藤原成経は彼女の兄弟になります。

 平重盛の子維盛と成親女とは、維盛15歳、成親女13歳の承安二年(1172)頃に結婚したと推定されます。維盛は重盛の正妻の子ではありませんが、重盛の正妻は成親の姉妹という関係から、2人は幼い頃から顔見知りだったのかもしれません。
そして、年頃になってからお互いを意識するようになり、自然に結ばれたとも考えられます。とにかく2人は大変仲睦まじい夫婦だったようです。鹿ヶ谷事件で維盛の妻の父と兄弟が捕らえられたときも、維盛は妻の大きな支えになっていたのかもしれません。

 しかし、幸せは長続きしませんでした。源頼朝が伊豆で挙兵すると、維盛は頼朝追討軍の総大将となるのですが、富士川で水鳥の音におびえて逃げ帰るというとんでもない失態をやってしまいます。
 そしてその2年後の寿永二年、平家はついに都落ちをすることとなります。この時、平家一門の主だった者は妻子同伴で都落ちをしたのですが、維盛は妻の同伴を許しませんでした。
「あなたを西国に連れて行っても、辛い目にあわせるのは目に見えている。」というのです。そして彼は、
「私が死んだと聞いても決して出家などしてはいけない。誰か他の人と再婚して幸せに暮らしなさい。」とも言いました。妻は嘆き悲しみ、
「死ぬも生きるも一緒と誓ったのに、連れて行って下さらないなんてひどい!」と言いました。
 「平家物語」の「維盛都落ち」に描かれたこの2人の別れの場面は何度読んでも哀しく、涙を誘います。もし自分が維盛の妻の立場だったら……と思うと切なくなってしまいます。
 
 維盛はなぜ、妻を都落ちに同伴しなかったのでしょうか?やはりその理由は、彼女が平家討伐に加担した藤原成親の娘だったからではないでしょうか。彼女は、成親の娘ということで他の平家一門の人から白眼視されることは目に見えていたと思われます。維盛は、妻をそんな辛い目にあわせたくなかったのでしょうね。

 さて、都と西国に別れ別れとなった維盛とその妻ですが、たびたび文のやりとりをしていたようです。しかし妻の心配は絶えなかったようですね。
 一ノ谷で三位中将が生け捕りにされたと聞くや、「もしや我が夫では?」と心配したり…。
 「いいえ、捕らえられたのは本三位中将、つまり重衡さまのようですよ。」と女房が慰めると、「では斬られてしまったのでは?」とさらに心配します。そして、都大路にさらされた首の中に維盛の首がないことを聞いて、ようやく安心したのでした。

 しかし、その後間もなく、維盛からの便りが途絶えることとなります。妻は心配のあまり、屋島に使いを出しました。そしてその使いがもたらした便りは、「維盛は屋島を抜け出し、熊野で入水した。」ということだったのです。「ああ、やっぱり……」と、きっと妻は思ったことでしょうね。彼女の嘆きが目に見えるようで切ないです。

 このように色々辛い目にあった妻ですが、六代が処刑を逃れたことは絶望の中にも一筋の光が差し込んだような心地だったと思われます。間もなく、彼女に手を差しのべてくれる一人の男性が現れました。彼女はやがてその男性と再婚することになります。
 その人の名は藤原経房……。紫式部の夫藤原宣孝の直系の子孫に当たる人です。彼は後白河法皇側近で朝廷の有力者でもありました。そのような頼りがいのある新しい夫に支えられ、彼女にもようやく平穏な日々が訪れたようです。

 彼女のその後の人生についてはよくわかりませんが、正治元年(1199)の六代処刑は大きな哀しみだったと思われます。一度処刑を逃れた六代はその後出家して文覚上人の弟子になっていました。しかし、清盛直系を根絶やしにしたいという鎌倉幕府の思惑や、後ろ盾の文覚上人の流罪なども重なり、結局六代は鎌倉幕府によって処刑されてしまいます。
 そして頼りになる夫の経房も翌正治二年に世を去っています。その後の彼女は経房の未亡人としての待遇を受けながら、娘(六代の妹)と共に静かに余生を送ったと思われます。

 こうしてみると彼女はどこにでもいるような普通の女性という感じがします。戦場にいる夫を心配し、その死に際して涙するという平凡な女性です。しかし、様々な不幸にあいながら少しずつ強くなっていったのではないでしょうか。最晩年の彼女の心境は、「私にはもう失うものはない。」という静かな思いだったのかもしれません。

 さて来週は、鎌倉に送られた静が鶴岡八幡宮で舞いを舞う……という名場面が描かれるようです。この舞いを見たあとの頼朝と政子の反応が楽しみです。
 一方、子供の頃に落書きをした屏風と再会した義経は、平泉に向かうことを決心しましたよね。そこで、いよいよ平泉に向かって出発をするようですね。さて、平泉への道中にはどのような出来事が待っているのか…。
ただ一つ気になるのは、「義経の希望する国の実現と、平泉に行くこととが果たして彼の中でどのようにつながっているのだろうか?」と言う点です。さらにもう一つ、義経は「平泉こそ私の理想の国」とドラマの中で言っていましたけれど、彼は自分の理想の国を造るために藤原一族から平泉を奪う気でいるのでしょうか?ちょっと理解に苦しむところです。
 相変わらずつっこみ所満載だと思いますが、来週もしっかり観ようと思っています。

「義経」38回・39回の感想の記述を一部訂正しました

2005-11-17 23:56:02 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」の第38回と第39回の感想の中に間違った記述がありました。お詫びをして訂正させていただきます。UPからかなり時間が経っていますので、どこを訂正したのかをこちらに書かせていただきます。

☆第38回 平頼盛の経歴について
 治承三年の平清盛のクーデターにおいて、頼盛は官位のすべてを剥奪されたような書き方をしてしまいましたが、これは正確ではありません。彼はその時権中納言兼右衛門督でしたが、解官されたのは右衛門督だけです。どちらにしても、解官されたということは清盛から後白河院側近と見られていたわけですが…。
それと、頼盛の最終的な官位を正三位権大納言と書いてしまいましたが、正しくは正二位権大納言です。

☆第39回 大江広元の経歴について
 広元は明経得業生から少外記に任じられたと書きましたが、正しくは明経得業生出身で縫殿允から権少外記に任じられ、のちに少外記に転じています。
 また、「広元は健保四年に大江姓への改姓が認可されるまで中原広元と名乗っていたと思われます。」というあいまいな書き方をしてしまいましたが、実際に「中原広元」と名乗っていたのです。

 以上、すでに記事を訂正してありますがお知らせしておきますね。

 歴史についての記述を書くときは、間違いがないよう最善の注意をしています。しかし、これからもこのような間違いを書いてしまうかもしれませんので、お気づきのことがございましたら遠慮なくおっしゃっていただけますと助かります。

 なお、管理人は歴史好きの普通の主婦にすぎません。学校の宿題やちょっとした情報を求めて検索等でこちらにたどり着いたみなさま、参考にしていただくのは嬉しく思います。けれど私は専門の学者ではありませんので、他のサイト様や書籍などでも調べてみて下さい。

☆もう一つお知らせ☆
 gooのサーバーのメンテナンスのため、下記の時間、gooのブログは閲覧が出来なくなります。ご了承下さい。

 11月21日(月)午前1時~御前7時

 今回は機能追加のためのメンテナンスだそうです。gooのスタッフのみなさま、頑張って下さいね。


日帰り京都旅行2005年夏 もくじ

2005-11-13 23:59:59 | 旅の記録
 このページは、2005年8月23日の「日帰り京都旅行」の旅行記をまとめて読むことができるページです。各項目をクリックするとその記事のページに直接ジャンプできます。
 「旅行記の第1回の記事を読む」→「ブラウザの「もどる」でこのページにもどる」→「第2回の記事を読む」というように、旅行記を順番に読むことができますのでぜひご利用になってみて下さい。

日帰り京都旅行2005年夏1 ~出発から京都文化博物館到着まで
日帰り京都旅行2005年夏2 十二単体験
日帰り京都旅行2005年夏3 ~十二単姿で展示を見る
日帰り京都旅行2005年夏4 ~では、もう1枚
日帰り京都旅行2005年夏5 ~牛車
日帰り京都旅行2005年夏6 ~六条院へ出かけよう
日帰り京都旅行2005年夏7 ~光源氏と朱雀院・冷泉帝
日帰り京都旅行2005年夏8 ~囲碁を楽しむ女房
日帰り京都旅行2005年夏9 ~院政期の女房の装束
日帰り京都旅行2005年夏10 ~昼食
日帰り京都旅行2005年夏11 ~法住寺
日帰り京都旅行2005年夏12 ~三十三間堂
日帰り京都旅行2005年夏13 ~帰り&追記

日帰り京都旅行2005年夏13 ~帰り&追記

2005-11-13 12:53:44 | 旅の記録
 さて、バスに乗り込んだ私たちですが、混んでいて席がありませんでした。いつも思うのですが、京都のバスっていつも混んでいます。やっぱり観光地だからでしょうか。

 駅に着いたのは新幹線の出発時刻の1時間半前。そこであちらこちらを回って買い物をすることにしました。
 まず向かったのはタワーホテルの3階にある本屋さんです。ここの本屋さん、静岡では見かけないような本が結構置いてあるのですよね。それに古本コーナーもあり、時間をつぶすのにはもってこいの場所です。
 でも、古本コーナーは置いてある本は1年前に来たときとあまり変わっていないような気がしました。それでも歴史のコーナーと古本のコーナーを見たあと、雑誌のコーナーに行き「月刊京都」の9月号を購入しました。平安京と京都の歴史の特集が組まれていると聞いていましたので欲しいと思っていたのですが、静岡では見つからなかったのです。……と言うわけで欲しい本を購入できて満足でした。

 そのあと地下街に向かい、大好きなキティちゃんの店へ…。京都限定の面白いキティちゃんのぬいぐるみがないか捜してみたのですが、めぼしい物は見つかりませんでした。でもぬいぐるみの横の棚で「源氏物語キティちゃん」のハンディタオルを発見!!この「源氏物語キティちゃん」のタオルは、「晴れのち平安」のなぎさんから教えていただき、以前から欲しいと思っていたので即購入することにしました。
 そこで、本日の写真はその「源氏物語キティちゃん」のタオルです。ここに描かれているのは光源氏くんと紫の上ちゃん?それとも夕霧くんと雲居雁ちゃんかしら?と、想像してみるのも楽しいです。それにしてもかわいい♪
 最後に新幹線の改札内の店で京漬け物2種類と今夜の夕飯に食べるためのお弁当を購入。これがなかなかおいしいのですよね。17時38分のこだま号に乗ります。いよいよ京都ともお別れ。今度はいったいいつ来られるのかしら。

 新幹線が名古屋に着いたとき、「名古屋は東海圏。いくら何でもここなら携帯電話がつながるはず。」と思ってバッグから携帯電話を取りだし、私の掲示板にアクセスしてみました。ところが、ここでもつながりません。
 するとそれを隣で見ていただんなさんが、「ところで、今月分の携帯電話の料金、払ってあったかな?」と言ったのです。「あ、もしかして……」と私もはっとしました。
 そして、新幹線と在来線の乗換駅である掛川駅のホームで再び私の掲示板にアクセスしてみてもつながらなかったため、「これは料金を払っていなかったために電話を止められたのだろう」という事を確信するようになりました。掛川は私が住んでいる島田から約20㎞しか離れていませんので、普通ならいくら何でもつながるはずですから…。

 帰宅したときはすでに夜8時半になっていました。おなかもすいていましたので、京都駅で買ってきたお弁当を食べることにしました。だんなさんのお弁当は京風のお弁当、煮物や天ぷらが中心です。私のお弁当は和風と洋風のミックスでした。高野豆腐の煮物や焼き魚の他、ハンバーグやコロッケも入っていました。おいしかったです。
 このようにして、ちょっとあわただしかった、そしてハプニングもあった私たちの日帰り京都旅行は終わったのでした。

追記
 翌日、携帯電話の請求書を改めてみていただんなさんは、
 「そうか、20日と30日を見間違えていたんだな。」
と言っていました。本当なら20日までに払わなければならなかったのに、30日までだと思って「旅行後で間に合うな」と、すっかり安心していたみたいです。20日までに支払わなければならなかった料金が支払われていないので、昨日23日についに止められてしまったのでしょう。と言うのは、22日の午後にはまだ使用できていたのですから。
 それにしても、旅行の日に止められてしまうとは……、参りました…。でも、今にして思えばいい思い出です。

 と言うわけで旅行の翌日、ドコモショップに行って料金を支払ってきました。するとすぐに使用できるようになりました。センターに問い合わせてメールを受信してみると、友人達から「京都旅行楽しんできてね。」というメールがいくつか入っていました。「すぐにお返事できなくてごめんね。」と、とても申し訳なく思いました。
 今の時代は携帯電話は必需品ですよね。そのことをひしひしと実感しました。

 ところで、水にぬれてしまっただんなさんの携帯電話(半月前に買い換えたばかりのSH700i)は結局買い換えになりました。でも、落としたと言うことと会員と言う事を考慮して、値段も思ったより高くなく、しかも一つ新しい機種(sh700is)になったので、本人は結構満足しているようでした。

        「日帰り京都旅行2005年夏」 終わり

大河ドラマ「義経」第44回&後白河法皇の心の内

2005-11-11 21:17:57 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第44回の感想です。

 萌さん、あっさり退場してしまいましたね…。以前、義経から「鎌倉に帰るように」とすすめられても、「私は帰りませぬ。」だったのに、今回は自分から「私は鎌倉に帰ります。」と言って引き下がってしまいました。
 そして、それを見送る義経の態度、切ないことですけれど萌さんへの愛情が感じられませんでした。少し意地悪な言い方をすると、萌さんをやっかい払いできてほっとしたのかもしれませんね。
 それにしても、史実では最後まで義経と行動を共にする正妻の退場にはやっぱり納得できません。今回の放送の最後に流れた、おとくばあさんのナレーションによると、今回の静との別れも2人の今生の別れになってしまったとか…。となると、義経の最期に立ち会うのはうつぼということなのでしょうね。ちょっと受け入れがたいかも…。

 さて、西国に向かうために船出をした義経一行ですが、途中で船が難破してちりぢりになってしまいましたね。史実では嵐にあったということらしいのですが、今回の放送では平知盛の亡霊が現れて船が沈められたということになっていました。
 これは謡曲「船弁慶」から題材を取ったもののようです。「船弁慶」でも、西国に向けて船出をした義経一行の前に知盛の怨霊が現れ、その怨霊を弁慶がお経を唱えて沈めたことになっています。
 でも、「見るべきほどのことは見つ」と言って覚悟の入水をした知盛が、亡霊や怨霊になるという設定はちょっと疑問を感じてしまいます。何か、これまでの知盛のイメージが悪くなってしまうようでがっかりしてしまいます。

 ともあれ、和泉の浜に打ち上げられた義経、静、弁慶の3人は熊野詣でを装い出発することとなります。しかし、ここでもまた義経の考えの甘いこと…。「都に戻る」って……、「そんなこと、できるわけないじゃないの!」とまたまたつっこんでいました。
 そして、私がつっこみを入れたときに現れたのが鬼一法眼!…。こんな所に出てくるなんてびっくりです。その鬼一法眼、よくお見通しですよね。義経に、「都に戻ってはならぬ。」と言い残し、お経を唱えてすーっと消えてしまいます。知盛の亡霊と言い、鬼一法眼と言い、今回は何か不思議な世界に引きずり込まれたという感じがしました。

 しかし、義経にはすでに追っ手がかかっていたようで、至る所で襲われることとなります。そのたびに活躍していたのが弁慶……。今回は、義経と静を守る頼りがいのある郎党に描かれていました。お笑いキャラだった弁慶、やっとりっぱな郎党になってきましたよね。そう言えば勧進帳でも、義経最後の場面でも、弁慶は大活躍をするのですよね。これからはマツケン弁慶の演技に大いに期待したいです。

 このように、今回をざっと振り返ってみると弁慶がとても光っていました。しかし、もう一人印象に残った人物がいました。後白河法皇です。たったひとこまでしたけれどインパクトが大きかったです。さすが、平幹二郎さんの演技はすごいです。

 都を離れる際、義経は後白河法皇の許に挨拶に行ったのですが、その時の法皇、何かしらじらしかったですよね。義経や行家の許に兵が集まらないことを聞き、「義経と行家に頼朝追討の院宣を出したのは早まった。」と後悔していた法皇です。義経にねぎらいの言葉をかけている裏で、頼朝と組むことを考えていたりして……と私は思ったのですが、義経によって西国に連れて行かれることを恐れていたのですね。なるほど…。
 確かに実際の法皇も、この時点では頼朝と組むことを本気で考えてはいなかったようなのです。では、今回はそのあたりを少し書かせていただきますね。

 多分後白河法皇には、義経に官位を与えることによって頼朝の嫉妬を仰ぎ、それによって源氏の力を分断してしまおうという考えはあったと思います。しかし、それとは別に義経は、法皇にとって頼りになる存在だったことも十分考えられると思います。
そんな理由から、法皇は義経が願い出た「頼朝追討の院宣」を出さざるを得なくなったのではないでしょうか。
 義経と行家に頼朝追討の院宣が出たことを知った頼朝は、早速大軍を率いて上洛する決心を固めます。頼朝はこの時、義経を追討すると同時に後白河法皇の勢力を圧迫することも考えていたようです。

 そしてその頃から都でも混乱が起こり始めます。混乱の原因の一つは、義経・行家につき従う兵が集まらなかったことです。前回の放送で法皇が、「頼朝追討の院宣を出すのは早まったか。」と嘆いていましたが、これは案外真実だったかもしれません。混乱の原因の二つ目は、鎌倉から大軍が攻めて来るという噂が立っていたことでした。

 このような情勢の中で義経は、自分を九州の地頭職に、行家を四国の地頭職に補すようにと法皇に願い出ます。そして文治元年十一月三日に静かに都を去っていきました。この義経の行動は、情勢を見極めた上での冷静な態度とも言えますが、逆に頼朝を恐れての逃避行とも言えそうな気もします。

 そして義経が都を去った2日後、鎌倉軍(実は、この鎌倉軍は頼朝の先発隊だったようです。なお、当の頼朝は鎌倉を出発したものの、黄瀬川付近に逗留し、やがて鎌倉に引き返しています。)が入洛したのでした。
 義経がいなくなった今、法皇はこの鎌倉軍に都の警備を頼むほかはなかったと思われます。まず法皇は、摂政を藤原基通から頼朝と親しい藤原兼実に交代させました。そして十一月七日、法皇は義経の官位を剥奪します。(七日には、義経の乗った船が難破したことがすでに都に伝わっていたようです。)そして十二日、法皇は頼朝に「義経及び行家を追討すべし。」という院宣を出すことになります。
 こうしてみると、義経が都を去ってから、法皇が義経追討の院宣を出すまで、わずか10日間だったことになります。法皇の心中がどれだけ混乱していたかがわかるような気がします。

 法皇は最初、義経と頼朝を戦わす気はあまりなかったかもしれません。しかし結果的には、法皇の心中の混乱が頼朝と義経をさらに対立させ、その上義経を悲劇の道に追いやることとなったのだという気がします。
やっぱり法皇は罪な御方なのかもしれませんね。

 さて来週は、静が鎌倉方に捕らえられるようですね。そして予告を観た印象では、頼朝もようやく策略家ぶりを発揮するようです。
 来週も楽しみに観たいと思います。

「源氏物語と京都」「海渡る風と光」を購入してきました♪

2005-11-07 22:59:25 | 読書日記
 今日は立冬だそうですね。暦の上では冬……。
 でも、今日の静岡は春のように暖かかったです。いったいどうなっているのでしょう、この気候…。

 さて、今年の風邪はしつこくて、私は咳がなかなか止まりません。一応、病院でもらった薬を飲んでいるのですが、きいているのか……。とにかく胸のあたりがまだ苦しいです。そんな中、一昨日は使い勝手の悪かった私たちの部屋をだんなさんと一緒に模様替えをしたり掃除をしたりしました。なので少し疲れているのかもしれません。

 でも、今日はどうしても出かけたい用事があったので電車で静岡に行って来ました。10日ほど前に注文した「2冊の本が入ってきました」という電話があったので、静岡の書店に買いに行ったのです。何しろ私の住んでいる町は、書店が次々につぶれてしまったので、本は静岡に買いに行くかネット注文をするしかなくなってしまったのですよね。

 それで、今日買ってきた2冊の本ですが……。

☆「源氏物語と京都 六條院へ出かけよう(監修・五島邦治 編集・風俗博物館)」
 源氏物語や六條院について、平安時代の衣食住について、それに平安京のことなどがカラー写真と開設で説明されている、素晴らしい本です。少し読んでみたのですが、解説がとてもわかりやすくて興味深いです。それに写真もきれいで、見ているだけでも楽しめそうです。

☆「海渡る風と光 生きていた平家盛(橋本和子)」
 平家の謎の人物、平家盛に迫った小説です。こちらもとても面白そうです。
 家盛は1149年に突然亡くなっているのですが、その死の真相は謎に包まれているようです。この本はそのあたりに大胆に迫っているようです。そして、私の大好きな能登殿も登場するようなので、読むのが楽しみです。

 そして、先日紹介した「土佐房昌俊」収録の永井路子さんの短編集「寂光院残照」、記事をUPしたあと、「日本の古本屋」↓

http://www.kosho.or.jp/

という古書店協会のサイトであまり期待せずに検索をかけたところ、見つかったのです!!そこで早速注文しました。こちらも届くのが楽しみです。

 そのようなわけで、私も読書の秋を満喫できそうです。

大河ドラマ「義経」第43回&小説「土佐房昌俊」

2005-11-04 00:00:00 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第43回の感想です。

 今回は、歴史の史実としてではなく、単なるドラマとして観る分には結構迫力があって面白かったです。

 土佐房昌俊が最後に言い残した、「九郎殿を討ちに行こうと志願する者は誰一人いなかった。それだけ九郎殿は今でも恐れられているということじゃ。」・「私が志願した理由は所領が欲しかったからだ。母に残してやりたかったからだ。」というせりふは胸に迫るものがありました。
 また、土佐房の軍勢と戦っている義経の郎党達、みんな勇ましかったですよね。
 萌さんまで薙刀を持ってきたときはびっくりしました。萌さんは義経を慕っていて、「九郎殿のためなら私もお役に立ちたい!」と思ったのでしょうね。でも、相変わらず義経は静の方が好きみたいで、萌さんはあまりかまってもらえないようで可哀想です。

 ……というように今週はやっと好意的な感想を書くことができました。でもやっぱり私的に観ると、物足りない部分は多かったです。

 まず、土佐房昌俊と弁慶はいったいどこで知り合っていたのでしょうか?
 同じ僧と言っても、土佐房は興福寺の僧、弁慶は延暦寺の僧ですよね。この二人の接点はどこにあるのか、何よりも弁慶は土佐房にどのような感情を抱いていたのか、ドラマでは全く語られませんでした。そのあたりを説明してくれたら、もっと二人に感情移入できたと思うのですが…。

 鎌倉から刺客が来ていることに気づきながら、そのことを主君の義経に伝えない郎党達にもちょっと違和感を感じてしまいました。もっともうちのだんなさんに言わせると、「義経に知らせたらまた変な所に気を使って、また女々しい程気にして騒ぎ出す。そうなったら郎党達も気を使うだろうから、ハッキリするまで黙っていて正解だよ。」とのことでした。

 あと確か私の記憶では、土佐房って義経の六条堀川の邸への夜討ちの後、鞍馬寺に逃亡したのでは無かったかと…?でも、その場で捕まって斬首されていましたよね。鞍馬寺の僧が再登場して彼を義経の前に突き出すという設定にしても面白かったと私は思います。

 それにしても義経の思い描く「新しい国」って現実離れしていますよね。鎌倉幕府から義絶されて所領も取り上げられ、郎党数名しかいない義経に、この日本のどこにそのような国を作る場所があるのでしょうか?あるわけがないですよね。相変わらず義経は夢ばかりを追う甘ちゃん大将ですね。
 でも義経は、土佐房が刺客として送られたあと、やっと本気で頼朝と戦う決心をしたようですね。今回の最後の方で「頼朝」と呼び捨てにしていましたから…。
 そして同じように、義経への「情」を捨てきれずうじうじ悩んでいた頼朝も、義経・行家に頼朝追討の院宣が出たと聞いた時点で、「もはやこれまで…」と言っていました。頼朝もやっと、本気で義経を討つ決心をしたようです。そして義経はこれから平泉まで、悲劇への道を突き進んでいくわけですよね…。

 さて、今回の土佐房昌俊と堀川夜討ちの場面を観ていて、私はある小説のことを思い出しました。そこで今回はその小説を紹介させていただきたいと思います。

 私の好きな作家さんの一人、永井路子さんの著書に、『右京局小夜がたり』という短編集があります。昭和53年発行ですので、現在は当然絶版です。この単行本は数年後に集英社文庫から「寂光院残照」というタイトルで文庫化されましたが、こちらも10年ほど前に絶版になってしまいました。
 私は15年ほど前、単行本の方を図書館から借りて読みました。この本には平安末期~鎌倉初期をあつかった短編が6編収められていました。後白河法皇の大原御幸の話や、藤原忠通と藤原頼長の兄弟争いを下級女房の視点で描いた話など、読み応えのある小説が多かったです。手許に置きたいと思い、古書店で探しているのですがなかなか見つかりません。
 そしてこの本には「土佐房昌俊」(土佐坊と書いてあったかもしれません。原本が手許にないものですからご容赦下さい。)という、短編が収められていました。ではこの「土佐房昌俊」のあらすじをざっと紹介しますね。ただ、先にも書いたように15年前に読んだ本でもあり、しかも手許にないためあやふやな部分や勘違いをしている部分もあるかもしれません。間違った部分がありましたらどうかお許し下さい…。


本によると、義経を追討しようと決心をした頼朝は、「所領を褒美に取らせるので、誰か志願する者はないか。」と、御家人達に尋ねました。しかし、誰一人志願する者がありません。半分あきらめかけた頼朝でしたが、「私が参りましょう。」と下席から名乗り出た者がいました。それが土佐房昌俊でした。「少し頼りないかな?」とは思ったものの、せっかく志願をした土佐房に、頼朝は義経追討を命じたのでした。

 土佐房は家に帰ると喜び勇んで妻にそのことを告げます。しかし妻の反応は冷ややかでした。「あんたは馬鹿だ。あの九郎義経を追討するなんて正気の沙汰とは思えない。」というのです。あげくの果てに、「誰も引き受け手のない仕事を引き受けてしまうなんて、あんたは人が良いにも程がある!」と言う始末。でも、「褒美がもらえるから良いではないか。」と、のこほんとしている土佐房なのでした。そんなこんなで土佐房は80騎程の軍勢を率いて上洛したのでした。

 しかし、土佐房が軍勢を率いて上洛したことはたちまち義経の耳に入ってしまいます。義経は土佐房を召し出し、「まさか私を討伐しに来たのではないだろうな!」と詰問します。
 しかし土佐房は、「私は熊野詣でのために上洛したのです。」としらを切るばかり。そして「九郎殿には何も敵意がない。」ということを起請文に書き、それを飲み込んでしまったのでした。「そこまでするなら…」ということで、義経はようやく土佐房を宿所に帰したのでした。

 しかし土佐房は義経との約束を破り、その日の夜に義経の六条堀川の邸に夜襲を駆けることになります。結果は土佐房の軍勢の惨敗に終わりました。軍勢はちりぢりとなり、土佐房も逃亡してしまいます。
 そして土佐房の逃げ込んだ先は鞍馬寺……。鞍馬寺と言えば義経が幼い頃を過ごした寺であり、その頃も当然義経派の寺でした。そのため土佐房はたちまち鞍馬寺の僧達に捕らえられ、義経の前に引き出されたのでした。

 その時、土佐房は覚悟を決めていたのか、大変落ち着いた静かな態度だったのでした。それを見た義経は、「起請文を破ったことは大罪であるが、命だけは助けてやろう。」と土佐房に告げたのです。
 しかし、土佐房は「私の命は鎌倉を出たときに、すでに鎌倉殿にお預けしてあります。」と言い、自ら死罪になることを選んだのでした。
 小説の最後は、「彼が与えられることになっていた所領は、彼の老母と幼子に与えられた。」というような文章で結ばれていたと思います。

 土佐房は自分の命と引き替えに、家族を守ったということでしょうね。こういった生き方も鎌倉武士としての一つの生き方だったかもしれませんね。
 それにしても、鞍馬寺に逃げてしまうとは……。土佐房という人はかなりおっちょこちょいで人間的な人だったのかもしれません。何となく憎めないキャラクターだと思います。
 とにかく彼は、この堀川夜討ちで歴史に名を残すことになったのです。歴史に関わった大多数の人物と同じく、彼も歴史の闇に消えてしまう運命だったのでしょうけれど、義経を襲撃したということで名が残った……、このようなところは歴史の面白いところですよね。

 さて来週はいよいよ、義経と行家が船出をして嵐にあうようですね。そして静や萌ともお別れ……なのでしょうか?
 義経に感情移入できるかは心配なのですが、来週もしっかり観ようと思っています。