平安夢柔話

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藤原実方 ~悲運の人?、それとも…

2014-10-13 08:59:26 | 歴史人物伝
 「百人一首」51番目の歌

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな もゆる思ひを

の作者藤原実方について、出世コースの左近衛中将にまで昇進しながら突然陸奥守に任じられて任地に下ったこと、様々な逸話など、以前から興味を持っていて、「いつか人物伝に書いてみたい」とずっと思っていました。そこで今回、久しぶりの人物伝で取り上げることにしました。

 では彼のプロフィールと系譜から

藤原実方(ふじわらのさねかた) ?~998
 父は小一条流の藤原定時。母は源雅信女
 祖父は藤原師尹、父方の叔父に済時、いとこに三条天皇皇后(女成)子。母方の叔母に藤原道長室の源倫子などがいます。

 実方は早く父母と死別したため、叔父済時の養子となり、また、済時室の母である源延光室(藤原敦忠女)にも養育されたようです。

 天延元年(973)叙爵。右兵衛権佐、左近少将、右馬頭、左近中将等の武官を歴任。このように名門小一条流の子息らしく、出世コースを歩んでいました。

 その間に歌人としても頭角を現し、寛和二年(986)六月、内裏歌合に出詠、藤原道信・為任・公任・道長、源経房・宣方らと親交を持ちました。『道信集』三二)、家集一巻を遺し、『拾遺』(一二四・六七〇ほか)以下の勅撰集に六七首入集しています。。

 また、大変な色好みで、関係を持った女性は小大君・源満仲女・東三条院藤原詮子の女房小侍従・清少納言など二十人以上にも及んだと伝えられています。歌がうまくて美男子で、宮中の女房たちの人気の的だったのでしょうね。

 このように宮中の人気者、出世コースを歩き、公卿の仲間入りも間違いなしと思われていたのですが、突然彼の運命が一変します。

 左近衛中将を務めていた長徳元年(995)正月、突然陸奥守に任じられたのでした。
 陸奥守というと受領、左近衛中将を勤めていた者が任じられる官職ではありません。普通に考えると左遷です。

 実方がどうして陸奥守に「左遷」されたのかについてはいくつかの逸話が伝わっています。

 ある時、殿上人たちが東山でお花見をしていると、突然雨が降ってきました。
 さあ、大変…、とみんな騒ぎ出したのに、実方だけは桜の下で雨にぬれたまま、「桜がり 雨は降りきぬ 同じくは 濡るとも花の かげにかくれん」と風流に歌を詠んでいました。当然、装束はびしょ濡れです。

 人々はこれを面白く思い、藤原斉信がこのことを一条天皇に奏上しました。その席にいたのが能書家としても知られる藤原行成です。

 で、行成はこう言いました。
「歌は面白いけれど、実方ってやつ、馬鹿じゃないの?」

 確かに…。やっていることが普通の人とちょっと違いますよね。

しかしそれを聞いた実方は激怒します。

 それから間もなく、実方は行成と宮中で口争いすることがあり、怒った実方は行成の冠をつかんで落とし、庭に投げ捨ててしまいました。

 当時の貴族にとって、冠を取られるというのはひどい侮辱でした。
 しかし行成は落ち着いて、宮中の雑益をする役人を呼んで冠を拾わせ、頭にかぶると実方に向かい、このように言ったとか。

「これはこれは、ご乱暴な。どうしてこのようなお仕打ちを受けますのか、向学のために聞かせていただきたいものです。」

 実方はしらけて逃げてしまったそうです。

 これを物陰から見ていた一条天皇は、行成の冷静沈着な態度に感銘し蔵人頭に任じ、実方の軽率さを不快に思われて陸奥守に左遷したということです。でもそこは王朝の雅さで、「陸奥の歌枕を見て参れ」と言って送り出したとか。

 しかしこれはあくまでも逸話であって、事実ではなさそうです。

 実方は陸奥守赴任に当たって官位が一段階上がっていること、朝廷で赴任の儀式が行われていること、花山院を初め多くの貴族たちから別れの歌が送られていること、そのためその頃、陸奥で不穏な動きがあり、有能な武官であった実方に何らかの使命を与えて陸奥に派遣したという、非左遷説が有力なようです。

 でも、説話の中には史実も隠されているのでは?と考えてしまう私、このような説話が誕生したということは、実方と行成って、仲が悪いことで有名だったのでは?
 実際、行成は真面目で冷静な人物、ただ、『大鏡』にも記述されていますが歌は苦手だったようです。気が短く感情をすぐに表に出し、歌が得意な実方とは性格的にも合わなかったのではないかと思います。

 それで、都から遠く離れた陸奥に赴任した実方はどうなったのでしょうか?

 赴任から4年目の長徳四年(998)、実方は陸奥で亡くなりました。道祖神の前を馬で通ったとき、下馬しなかったことで祟りに遭い、落馬して亡くなったと伝えられています。生年不詳なので正確な享年はわかりませんが、だいたい40歳くらいだったようです。「道祖神なんか関係ねえ」と思ったところがいかにも彼らしいというか。
 彼が「悲劇の人」と言われるのは都に帰ることなく遠い陸奥で亡くなったことが原因のようです。

 ちなみに『百人一首』に採られている歌は、「こんなにあなたのことを愛していて、この思いは伊吹山のもぐさのようにくすぶっているのに、あなたは気がついては下さらないのでしょうね。」という意味です。

 誰に贈られた歌なのかは不明ですが、田辺聖子さんの『田辺聖子の小倉百人一首』によると、もしかしたら贈られたのは清少納言かもしれない、とのことです。

 しかし、実方が陸奥で亡くなったあと、彼の亡霊が上賀茂神社の御手洗川に映ると聞いた清少納言は、「嫌だ、気味悪いわ」と言ったとか。田辺さんによるとどうも清少納言の方は、実方を本当に愛してはいなかったのではないかとのことでした。

 それにしても実方は陸奥でどのような生活を送っていたのでしょう?

 調停から命じられた陸奥の不穏な動きへの探索は真面目にやっていたと思いますが、気の短い性格ゆえ、時折 、現地の豪族といざこざを起こしていたのではと心配になってしまいます。

 その一方、源重之などの歌人たちとの交流もあったようですし、美しい女性を近づけて歌も思い切り詠んでいたのでは。

 都から遠く離れた土地で亡くなったという意味で悲運な生涯だったかもしれませんが、我が道を行くという実方さんは案外、都から遠く離れた陸奥でも毎日を楽しく生きていたのでは?そんな気がします。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞 監修 角川学芸出版
 『百人一首 100人の歌人』 歴史読本特別増刊 新人物往来社
 『田辺聖子の小倉百人一首』 田辺聖子 角川文庫

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