平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

代明親王の子孫たち

2006-08-30 09:56:23 | 系譜あれこれ
 醍醐天皇の皇子に、中務卿代明親王(904~937)という方がいらっしゃいます。ちなみに親王の母は醍醐天皇更衣藤原鮮子(藤原氏魚名流)です。

 生没年をご覧頂いておわかりのように、彼は三十代でこの世を去ってしまいます。目立った活躍もしていません。
 しかし彼の子孫からは、歴史の表舞台で活躍した有名な方々がたくさん出ているのです。今回はそんな代明親王の子孫たちを紹介したいと思います。
 さらに、彼の家計は、実はある有名な方の家計ともつながっているのです。そのことについてはこの記事の最後に書きますね。

代明親王は、妻・藤原定方女との間に、重光、保光、延光(以上の3人の男児は、臣籍に下って源姓を賜りました)、荘子女王、厳子女王、恵子女王の6人の子女をもうけています。
 では、その6人の子女を紹介し、それぞれの子孫たちについてまとめてみます。


☆源 重光(923?~998) 権大納言
 息子・源明理 娘・藤原伊周室

 まず、藤原伊周室についてみてみますね。
 彼女は、藤原伊周との間に道雅をもうけます。
 この道雅は、三条天皇皇女で斎宮であった当子内親王との悲恋で知られる貴公子です。道雅は、内親王との恋に破れたあとは「荒三位」と呼ばれていた時期もありましたが、晩年には性格も行動も落ち着き、立派な人物になったようです。

 一方、源明理の方ですが、最初は出世コースを順調に歩んでいたようですが、長徳二年(996)四月、長徳の変によって中関白家の伊周・隆家が失脚すると、左少将であった彼も伊周の妻の兄弟ということで連座し、殿上の簡を削られてしまいます。その後は出世コースから外れ、左京大夫となり、最終的には受領になったようです。名前も「長経」と解明しました。


☆源 保光 (924~995) 中納言
 娘・藤原義孝室

 保光は桃園に邸宅があったので「桃園中納言」と呼ばれていました。

 彼の娘の許には藤原義孝という貴公子が通ってくるようになります。そして、この二人との間に生まれたのが能書家として有名な藤原行成です。行成は祖父補光から桃園の邸宅を相続し、邸宅内に寺(世尊寺)を建立しました。
 また、行成は、上で紹介した明理と大変親しかったと伝えられています。


☆源 延光 (927~976) 権大納言
娘・藤原済時室

 延光にも娘がおり、彼女は小一条流藤原氏の藤原済時と結婚します。そして、藤原相任、藤原通任、藤原(女成)子などの子女をもうけます。
 そのうち藤原(女成)子は、三条天皇の皇后となり、敦明親王(小一条院)、当子内親王などをもうけます。
 そうなのです、恋人同士であった道雅と当子内親王は母方の親戚だったのですよね。このことは、今回代明親王の子孫たちを調べていて初めて気がつきました。

*延光に関しては、母不詳と書いた史料もあります。


☆荘子女王 (930~1008)
息子・具平親王 娘・楽子内親王

 荘子女王は村上天皇に入内し、「麗景殿女御」と呼ばれました。

 彼女は村上天皇との間に具平親王と楽子内親王をもうけます。

 具平親王は詩歌や学問に優れ、人柄も大変立派な人物であったと伝えられています。彼の子女としては、藤原頼通の養子となり、村上源氏の祖ともなった源師房、紫式部のいとこ藤原伊祐の養子となった藤原頼成、藤原頼通の正室隆姫女王、一条天皇の皇子敦康親王の室となった女性、後一条天皇御代の斎宮で、のちに藤原教通室となった(女専)子女王が知られています。

*(女専)子女王に関しましては、当ブログの2006年7月6日の記事「(女専)子女王 ~神がかりした斎宮」をご覧下さい。この記事の一番下にリンクを貼っておきます。

 一方、楽子内親王は、村上天皇御代の斎宮として伊勢に下向しています。


☆厳子女王 (生没年不詳)
息子・藤原公任 娘・藤原遵子

 厳子女王は関白藤原頼忠(小野宮流藤原氏)の妻となり、藤原公任(歌人として有名)と藤原遵子(円融天皇皇后)をもうけます。

*公任さんは何と言っても父親が関白。正真正銘の高貴な生まれだったわけですが、母親も皇族の血を引く女性だったのですね。もし、姉の遵子さんが円融天皇との間に皇子をもうけていたら、その皇子が天皇となり、公任さんが関白になっていたかもしれません。妄想がふくらみます。


☆恵子女王 (?~992)
息子・藤原親賢 藤原惟賢 藤原挙兼 藤原義孝 藤原義懐 娘・藤原懐子

 恵子女王に関しては定方女の書生ではないという説もありますが、私は色々な状況から考えて彼女も定方女の書生ではないかと思っています。あくまでも推測ですが…。

 彼女は藤原師輔の長子で、摂政太政大臣となった藤原伊尹と結婚します。そして、伊尹との間に親賢、惟賢、挙賢、義孝、義懐、懐子らの子女をもうけました。

 しかし、これらの子供たちはいずれも若死にあるいは出家をしてしまいます。
 親賢と惟賢に関しては記録がないため、かなり早く亡くなっていることが推察できます。挙賢と義孝は、「前少将」「後少将」と呼ばれた宮廷の人気者でしたが、同じ日に流行病で世を去ってしまいました。冷泉天皇に入内した懐子も、天皇との間に師貞親王(後の花山天皇)をもうけますが、やはり若くして世を去っています。

 ただ一人残った義懐は、花山天皇の外戚、側近として権中納言にまで出世をします。しかし花山天皇は、自分の孫の懐仁親王(のちの一条天皇)の即位を待ち望む藤原兼家の謀略によって退位、出家をさせられてしまいます。そして義懐も、花山天皇に殉じて出家をしてしまいました。
 こうして残された母の恵子女王の悲嘆を思うと、切ない気持ちになってきます。

 ところで、恵子女王の項を読んですでにお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、恵子女王の子の一人「義孝」…。そうです、恵子女王の兄弟の源 保光の娘の婿となった義孝その人です。つまり、義孝と保光女はいとこ同士で結婚したことになります。もしかするとこの二人は幼なじみだったのかもしれません。そして、二人の間に生まれたのが前述したように藤原行成です。

 こうして、代明親王の子孫たちを眺めてみると、錚々たるメンバーであることがおわかりいただけると思います。そして、それらの人々がみんな親戚であることも興味深いです。

 しかし、これで驚いてはいけません。代明親王ファミリーは、この記事の最初の方でも触れましたが、平安時代の超有名人の家と血縁関係があるのです。最後にこのことについてお話ししますね。


 代明親王の妻はこの記事の最初の方でも触れましたが藤原定方女です。彼女の母は藤原山蔭女で、定方は山蔭女との間に代明親王室のほか、藤原朝忠、藤原朝成、その他に数人の女子ももうけています。

 しかし、代明親王室は親王に先立って世を去ってしまいました。そこで親王は、子供たちを引き連れて妻の実家に身を寄せることとなります。そこで、亡き妻の同母妹に当たる女性に恋をしたのでした。
 親王はこの女性との結婚を望んだのですが、藤原師尹というライバルが出現してしまうのです。そしてこの女性は師尹の方に心引かれ、のちに彼と結婚することとなるのですが…。そして、彼女が師尹との間にもうけたのが、代明親王の息子の一人、延光の娘婿となる済時です。

 …と、ちょっと話が横道にそれてしまいましたが、失恋をした代明親王は子供たちを妻の実家に残して本邸に戻り、やがて世を去ってしまいます。
 両親を亡くした代明親王の子供たちは、そのまま母の実家である定方邸にて養育されたことが考えられます。そして、子供たちの養育には母の兄弟姉妹も当たっていたと考えられます。
 特に、母の同母妹たちの果たした役割は大きかったように思えます。そしてその中には、のちに藤原雅正という貴族と結婚する同母妹がいました。

 ここで、「あ、そうか!!」とお気づきになられる方も多いと思います。彼女が藤原雅正との間にもうけたのが為頼、為長、為時兄弟です。そして、為時の娘が紫式部ですよね。
 つまり、代明親王の子供たちと為頼、為長、為時はいとこ同士ということになります。このように、代明親王ファミリーは紫式部の家と血縁だったのです。

 ついでに、紫式部の曾祖父で「堤中納言」と呼ばれていた藤原兼輔、その兼輔の妻で雅正の母であった女性も定方の娘だったそうです。ただこちらの定方女の母は山蔭女ではないようです。多分、代明親王室や雅正室とは年の離れた異母姉だったと思いますが…。こうしてみると、代明親王室の実家の定方の家と紫式部の家は二重の縁で結ばれていたのですね。

 代明親王ファミリーのうち、特に、紫式部の家と深い関わりを持ったのが荘子女王と具平親王でした。具平親王と為頼、為時は主従関係を結んでおり、私的にも学問を通じて親しい交流があったと伝えられています。また、具平親王が身分の低い女性との間にもうけた男児を、為頼の息子の伊祐が養子にしていますが、これもこの二つの家族が親しい関係にあった証拠ではないでしょうか。

 代明親王の血は、具平親王の曾孫で堀河天皇の生母となった賢子(彼女は藤原師実の養女となり、白川天皇に入内しました)を通じて現在の天皇家にも受け継がれています。こうしてみると歴史は現代にしっかりつながっているのだなと、深い感慨を覚えずにはいられません。

(女専)子女王 ~神がかりした斎宮

冥王星のこと

2006-08-27 11:31:46 | えりかの徒然なるままに
 本日は天文ネタです。

 先日、プラハにて国際天文学会が開かれました。この学会では、現在9個の太陽系の惑星が12個に増える……という案が提出され、その案が通るかもしれないということで、天文に興味のある私はわくわくしていました。
 その中でも、冥王星の外にもう一つ惑星があるという話には特に興味を持っていました。この星、何と1000年かかって太陽の周りを回っているとか…。すごーい!!この星が太陽系の惑星として認められたら、太陽系がさらに広くなるということで、夢がありますものね。

 ところが…、ふたを開けてみると、今度新しく太陽系に入る予定だった3個の星は小さすぎるということで却下。ついでに冥王星も、「小さすぎる」「軌道の一部が海王星の軌道の内に入り込んでいる」等の理由で惑星から矮惑星に格下げ…。太陽系の惑星は増えるどころか、一つ減ってしまいました。
 どうやら、太陽の周りを回っている小さな星は次々と発見されており、「これらを全部惑星にしてしまったらきりがない」ということのようですよね…。

 でも、冥王星が格下げになってしまったことはやはり寂しいです。

 そこで本日は、私と冥王星についてのあれこれをちょっと書いてみることにしました。

 私と冥王星との出会いは多分、小学校3、4年の頃だったと思います。
 私はなぜか、小さいときから星や宇宙に興味がありました。そこで、家にあった子供向けの百科事典のうち、「地球と宇宙」という巻を特に愛読していました。その本を初めて読んだのが小学校3年か4年の時だったと思います。「広い宇宙には、私の知らない世界がたくさん拡がっているのだ~」と、読みながらわくわくしたのを思い出します。

 その本には太陽系についても写真や図を使って解説されており、もちろん冥王星についても触れられていました。
 冥王星は、太陽から最も遠く離れたところにある惑星であること、251年かかって太陽の周りを1周すること、太陽から遠いので一面氷の世界であることなどが書かれていたと思います。
 さらに、「あまりにも遠いのでまだわかっていないことも多い。1988年頃に太陽に最も近づくので、その時になったら色々なことがわかるかもしれない」とも書かれていました。

 こうして天文に親しんでいた私が、冥王星についてさらに新しい情報を得たのが、中学校の理科の授業でのことでした。
 ある日の理科の授業中に、先生が、新聞記事を読んで下さったのです。「冥王星は、海王星よりも太陽に近い惑星となった。というのは、冥王星の軌道の一部が、海王星の軌道の内に入り込んでいるからだ。この状態は、今後20年間続く。」とのことでした。
 その時先生は、「これから20年間は、水金地火木土天冥海と書かないと×にするぞ」とおっしゃっていたのを思い出します。
 私はその日、帰宅すると例の百科事典を引っ張り出し、「太陽系の惑星の軌道」が描かれた図を見てみました。すると冥王星の軌道は、一部が海王星の軌道の内側に確かに入り込んでいました。「冥王星って不思議な星なんだ~」と、とても神秘的な気持ちになりました。

 考えてみると冥王星は、SFアニメにもよく登場していましたし、結構重要な星だったのかもしれませんね。

 その後長い間、私は冥王星のことを忘れていました。そして今から4年前、ちょっと気持ちが動いて天文の本を図書館から借りたことがあるのですが、そこには冥王星についての思いがけない記述があり、びっくりしました。

 私はそれまで、冥王星は地球の半分くらいの大きさだと思っていました。ところが、実際は冥王星の直径は月の3文の2、月の直径は地球の約4分の1なので、地球の約6分の1くらいの直径しかない、小さな惑星だということが書かれていたのです。さらに冥王星には、「カロン」という衛星があることも書かれていました。こういったことは、昔読んだ子供向きの百科事典には書かれていなかったので、最近になってわかってきたことなのでしょう。

 このように、観測や研究によって、今までわからなかった色々なことがわかっていくというのは素晴らしいことですよね。なので、冥王星の外にもう一つ惑星があるかもしれないという話はとてもわくわくしていたのですが…。

 でも、たとえ惑星から格下げになったといっても、冥王星は消えてしまったわけではないのですよね。それに、冥王星の外に1000年かかって太陽の周りを1周する小さな星があるということも事実の可能性が強いようですし…。太陽系の中には、私たちがまだ知らない色々な事実がたくさん隠されているのかもしれません。
 「今後も、たとえ小さくても新しい星が発見されたら、どんどん学会で発表していただきたいな…と思います。

 冥王星についても、まだまだ謎が多いとか…。
 海王星に「トリトン」という衛星があるのですが、このトリトンという星、冥王星と構成物質がよく似ているのだそうです。もしかするとこの二つの星は、遠い昔に何らかの関連があったのかもしれません。あるいは、トリトンも冥王星もよそからやってきた星で、太陽や海王星の引力に引きこまれ、太陽系の一員になったのかもしれません。そんなことを考えると興味が尽きないです。

☆今回の、冥王星の処遇についてのニュースを観て久しぶりに天文熱が再発した私は、ここ数日、天文系のサイトをネットサーフィンしていました。太陽系については↓のサイト様がとても詳しく、わかりやすかったです。写真も多数掲載されています。

ザ・ナインプラネッツ 日本語版

     

私が留守中のエリカ

2006-08-24 12:17:42 | 猫のお部屋
 先週末、19日(土)の夕方から翌20日(日)の午前中まで、専門学校時代の同窓会に出席してきました。久しぶりに学生時代の友人たちと会えて楽しかったです。19日の夕方からの宴会の食事もおいしかったし、そのあとのカラオケも楽しかったです。何しろ私はカラオケが大好きですから。カラオケを終えたあとは宿泊所のホテルに戻り、午前2時過ぎまでみんなと飲んでいました。

 ところで、以前こちらにも書きましたが、私は今年、この同窓会の幹事に当たっていました。そして、これも以前書いたのですが、私とだんなさんは専門学校の同級生です。といっても、年齢はだんなさんの方が一回りちょっと上なのですが…。そこで、だんなさんもはがきの文章を打ってくれたり、宿泊所や宴会場を探したりと、私と一緒に幹事の仕事をしてくれました。助かりました。

 それで、実は宴会場も宿泊所のホテルも、私の家から直線距離で100mくらいの所を取ったのです。なので、だんなさんももちろん同窓会に参加したのですが、ホテルには泊まらず、家に帰りました。やはり、夏の暑い時期にエリカを一晩、部屋に残しておくのは心配でしたので…。

 今日は、だんなさんから聞いた、「私の留守中のエリカの様子」のお話です。

 だんなさんが帰宅したのは夜の11時頃でしたが、部屋に入っていくと、エリカが怒ったような声を出したそうです。「こんなに遅くまで私を一人残して、どこに行っていたのよ!」とでも言いたかったのでしょうか。
 そのあと、私がいないことにすぐに気がついたようで、私を捜して部屋中を歩き回ったそうです。(こういう話を聞くとやはり嬉しくなってしまいますね。)私がどこにもいないことがわかると、あきらめたらしくころっと横になったとのことです。

 ところが……、しばらくするとエリカは、部屋の入り口のドアの所まで歩いていき、そのままそこに座ってしまったのだそうです。まるで私の帰りを待っているように…。
 実は、猫は嗅覚がとても優れていて、飼い主が1㎞くらい離れたところにいても、その臭いをかぎ分けられるのだそうです。上でも書きましたように、その時私が泊まっていたホテルは自宅から直線距離で約100mくらいでしたので、エリカは私の臭いを十分かぎ分けていたと思います。なのでエリカにしてみると「ママの臭いがしているのにどうしていないの?」と不思議でたまらなかったと思うのですよね。そして、「ママはすぐに帰ってくる」と思ってドアの所で待っていたのかもしれません。というのは、普段私がお風呂などに行くために母屋に行ってしまうと、エリカはいつもこうしてドアの所で待っているようなのですよね。

 案の定、翌日私が帰宅するとエリカはすぐに出迎えてくれました。そして、しばらくは私のそばを離れませんでした。こうなるとやはりかわいいものです。同窓会は楽しかったけれど、エリカのつやつやした暖かい背中をなでていると、「家に帰ってきたのだなあ」と嬉しくなりました。エリカちゃん、これからもこうして私をいやしてね。

 ドアの前で座っているエリカの写真があると良かったのですが、残念ながら撮り忘れてしまったとのこと、そこで最近撮ったエリカの写真を載せてみました。これは、私たちが外出先から帰ってきたときに、喜んで甘えている写真です。ころっと仰向けに横になり、顔をカメラの方に向けています。目がぱっちりとしてかわいいです。それにしても、しっかりカメラ目線ですよね。

更級日記 ー古典の旅5

2006-08-20 19:30:48 | 図書室2
 2006年7月15日に紹介した「百人一首」に続いて、本日も「古典の旅」シリーズからの紹介です。このシリーズの中で私が最も気に入っている第5巻の「更級日記(杉本苑子著)」を紹介いたします。

*文庫本は「更級日記を旅しよう」というタイトルになっています。

 では、最初に目次を紹介しますね。


はじめに

道をたどる
 父菅原孝標のこと
 上総の国を出立
 武蔵国竹芝へ
 相模の国と足柄山越え
 駿河の国から遠江へ
 三河から尾張、美濃
 近江から京へ

心をたどる
 孝標女の周辺
 「源氏物語」へのあこがれ
 父の帰京と兄のこと
 結婚
 参籠 
 夫の任官と突然の死

 おわりに
  
解説 物語への憧憬


 「更級日記」は、菅原孝標女(1008~?)が表した回想記です。物語にあこがれていた夢見がちな少女が、13歳の時に父の任国であった上総国から京に上り、色々なことを体験しつつ大人の女性となり、宮仕え、結婚、子育て、小旅行、そして夫の死と、40年にわたる自分の人生を振り返って書いた日記文学です。夢と現実のギャップに悩む一人の平凡な女性の姿は、現代の女性とも通じるものが十分あるような気がします。

 この本はその「更級日記」を二つに分け、「道をたどる」では孝標女が上総介の任期を終えた父や家族とともに上総から京へ上っていく紀行文の部分を、「心をたどる」でその後の回想記を扱っています。そして、この本には読んで得するところがたくさんあるのです。

 まず、この本を読んでいると知らず知らずのうちに「更級日記」の詳しい内容がわかるようになっています。所々に原文も引用されていますので、古典の勉強にもなると思います。

 しかし、この本はそれだけではありません。「古典の旅」シリーズの目的に沿い、著者の杉本苑子さんが「更級日記」に出てくる土地を訪ね、史跡や寺社などを紹介しています。時には「更級日記」の内容から離れ、その土地にまつわる伝承や伝説、歴史など(東海道の島田宿や新居の関所について)にも触れられていてとても読み応えがあります。

 さらに、平安時代の官位制度などをはじめとする「更級日記」の時代背景、作者菅原孝標女の家族や周辺人物のことも詳しく書かれています。この本を読んで私は、孝標と一緒に上総国に下った女性(孝標女の継母)が高階氏の女性で、貞子中宮や伊周・隆家兄弟と血縁だったこと、孝標が蔵人を務めていた時の蔵人頭が藤原行成であったことなど、興味深い事実をたくさん知ることができました。こうした歴史事項に触れているあたりは「さすが歴史小説家の杉本苑子さん!」だと思います。

 以上のように、200ページちょっとの本ですが大変内容が濃く、それでいてわかりやすいです。この1冊を読めば「更級日記」により興味が増すと思います。自信を持ってお薦めしたい1冊です。
 
「百人一首 ー古典の旅8」はこちら

新しいパソコンから

2006-08-18 09:34:10 | えりかの平安な日々 04~09
 ようやく、新しいパソコンのセットアップができました。約半月ぶりに、自分のパソコンでインターネットができる幸せを味わっております。そして幸いなことに、前のパソコンに保存してあったデータは全部無事でした。そこで、データは全部、こちらの新しいパソコンに入れ直しました。

 さて、新しいパソコンを使っていて感じることはまず、「パソコン起動時の音が小さくて静かだ。」ということです。「パソコンが消えているのでは」という錯覚に陥ることがあるくらいです。
 そして、パソコンがコンパクトだということも感じます。机の上に収まってしまいましたので…。前のパソコンの本体は大きかったので、机の下に置いてありました。
 それより何より、スピードが速い。さすが新しいパソコンは違いますね。

 ところで前のパソコンなのですが……、だんなさんの話によると、どうやらマザーボードが壊れてしまったようです。「マザーボードを取り替えればもしかすると使えるかもしれないな」とのこと。ちょうどだんなさんの弟のパソコンも調子が悪いので、使えるようなら弟に譲るそうです。使えなければ、分解をして処分をするとか…。

 考えてみると、インターネットの歴史系サイトに書き込みをして、たくさんの方とお知り合いになることができたのは、前のパソコンを使ってあちらこちらに書き込みをしたおかげなのですよね。なので前のパソコンには色々な思い出があります。たとえ私が使わなくても、何とか使えるようになるといいなと思っています。
 そして、今回購入した新しいパソコンにも、前のパソコン同様色々な思い出ができるといいなと思っています。

 でも、パソコンの購入はかなり痛い出費でした。おまけに、今週末には同窓会があり、またまたお財布からお金が出ていくのですよね…。今後しばらくは、外食と本の購入は控えなければ…。辛いですけれど仕方がないです。

☆今後の更新予定
 現在、「図書室2」と「系譜あれこれ」の記事を準備中です。「図書室2」の方は下書きがほぼできあがりました。「系譜あれこれ」の方は、平安時代のある親王の子孫たちについてを書いてみようと思っているのですが、今のところはデータと資料集めの段階です。
 ただ、今週末は↑でも書きましたように、泊まりがけで同窓会に出席しますので、更新記事の準備ができません。そこで、次の更新は20日(日)の夜以降になりますのでよろしくお願いします。
 

舞え舞え蝸牛 新・落窪物語

2006-08-13 00:00:00 | 図書室3
 「落窪物語」という平安時代の古典は、「源氏物語」や「枕草子」より以前に成立していたと言われていますが、成立した正確な年代も作者もわかりません。「継子いじめ」をテーマにした物語ですが、物語のすじが大変わかりやすく、登場人物一人一人の性格や行動が生き生きと描かれていますので、古典への入門書としては最適なのではないかと思います。以下に簡単にあらすじを紹介しますね。

 幼い頃実母を亡くし、父中納言の本邸に引き取られた主人公の姫君は、継母の北の方にいじめ抜かれ、着るものも食べるものもなく、床が一段低くなった「落窪の間」という部屋に押し込められていました。そして、ひたすら家族達の縫い物をさせられていました。

 そんな姫君を哀れに思った忠実な侍女の阿漕(あこぎ)は、いつか姫君を心優しい公達に盗ませ、幸せにしてあげたい…と思っていました。そんな時阿漕は、北の方の実子の姫三の君の婿、蔵人の少将の従者として邸に出入りするようになった帯刀という若者とねんごろになり、姫君のことを彼に打ち明けたのでした。
 帯刀は、その話を自分の乳兄弟である右近衛少将に話しました。この少将は、まだ定まった妻がいませんでした。そこで少将は姫君に興味を引かれ、「ぜひ手引きしてくれ」と帯刀に頼んだのでした。

 ちょうどその頃、中納言一家は邸を上げて石山寺詣でに出かけ、邸は人少なになっていました。こういった物詣でにも連れて行ってもらえない姫君を哀れに思った阿漕は、何とか理由をつけて邸に残ります。そしてその機会を利用して、少将は帯刀と供に中納言の邸に忍び込んだのです。
 突然忍び込んできた少将に姫君はびっくりし、最初は少将を拒みます。しかし少将は、姫君の気高さと美しさ、優しさにすっかり心を奪われてしまいます。そして姫君も、次第に少将の優しさと男らしさに引かれて行き、密かに彼を通わすこととなったのでした。

 ところが、「落窪の姫に通ってくる男がいるらしい」ということを知った継母の北の方は激怒します。「あの子は裁縫女として一生飼い殺しにしようと思っていたのに、男ができて出ていったら困る」と考えた北の方は、姫君を物置に閉じ込めてしまいます。そして、自分のおじに当たる典薬助という好色の老人に姫を襲わせます。

 姫君は阿漕の知恵を借り、何とか典薬助の魔の手から逃れます。そして幸いなことに、中納言一家が祭見物に出かけて邸が留守同然になったときに、少将が物置から姫を助け出したのでした。こうして姫は少将の許に迎えられ、幸せな日々を送ることができるようになったのでした。

 さて、少将はこのあと、中納言一家に対して復讐をすることとなります。
 まず少将がやったこと……、それは、自分が婿入りする約束になっていた中納言の四の君(北の方の実子の姫)の許に、身代わりとして親戚筋に当たる兵部少輔という、宮中で馬鹿にされている若者を送ることでした。案の定、このことで北の方は大恥をかくこととなります。
 その他、清水寺詣でで中納言一家とはち合わせると、牛車に向かって石を投げさせたり、宿坊を横取りしたり……。北の方が自慢に思っていた三の君の婿君、蔵人の少将を自分の妹の婿にしたりと、さんざん中納言一家を痛めつけます。

 しかし、一通り復讐がすむと、少将は姫君と中納言一家を再会させ、彼らにありあまるほどの贈り物をしたり、中納言のために法華八講を催したり、兵部少輔のことで不幸になってしまった四の君に新しい婿を世話したりと、妻の実家をそれはそれは大事にするようになります。
 少将は、右大臣家からの婿の話も断り、姫君をただ一人の妻として大切にしたということです。


 この、「落窪物語」の筋を膨らませ、一部の登場人物を少し味つけを変えて小説化したものが、田辺聖子さんの「舞え舞え蝸牛 新・落窪物語」です。

*この小説は、「図書室2」に入れるか「図書室3」に入れるか迷ったのですが、時代小説という色が濃いように思えましたので、「図書室3」に入れさせていただきました。
 なお、これ以降はこの小説のネタばれがかなり含まれています。まだお読みでない方はくれぐれもご注意を…。

 この小説は、犬丸という典薬助の従者が、典薬助が姫君に想いを寄せているので何とかしてくれと、阿漕に頼むところから始まります。もちろん阿漕はぴしっと断ります。つまり、「典薬助は姫君が物置に閉じ込められるずっと以前から、姫君に想いを寄せていた」という設定になっているのです。ついでに犬丸も、阿漕に想いを寄せているのですが、阿漕は犬丸が大嫌いでした。と言うか、ちょうどその頃、阿漕は帯刀を通わせ始めていたのです。

 そのあと、姫君の生い立ちが回想され、継母の北の方がどんなに姫君をいじめているか、それをじっと耐える姫君の姿が50ページくらいにわたって書かれています。(古典「落窪物語」では、物語が始まって間もなく、中納言一家は石山寺に出かけ、少将が登場してくるのですが)

 さて、この部分で私がなるほどと思ったことは、北の方の身分へのコンプレックスについて触れられていたことです。
 姫君の母の身分については古典「落窪物語」でも触れられていますが宮家の出身です。つまり大変高貴な身分なのです。
 北の方の身分については触れられていませんが、彼女の行動や言葉づかい、典薬助という六位相当の官職のおじを持っていることなどから、それほど高い身分ではないということが推察できます。良くても諸大夫相当の家格の出身ではないでしょうか。
 田辺さんもこの小説の中で、「北の方の身分は低い」と書いています。そして、「北の方は宮家出身の母を持つ姫君に大きなコンプレックスを感じていた。そしてその姫君を落窪の姫とみんなに呼ばせることで、いい気持ちになっていた」というのです。この推察はなかなか当を得ているのではないかと思います。

 その後は、古典「落窪物語」とだいたい同じストーリーです。ただ、犬丸と帯刀の阿漕をめぐっての決闘の場面、姫君が閉じ込められている物置の番をしているのがその犬丸で、阿漕が悔しい思いをしながらも姫君のことを思って頭を下げる場面など、古典「落窪物語」にはないシーンもあって退屈さを感じません。そして、姫君が少将によって物置から救い出される場面を読むとほっとします。やはりこの場面は、「落窪」の名シーンの一つでしょうね。

 しかしこの小説には、古典「落窪物語」とは全く違う描き方をされている人物が二人登場します。私はこの場面を読んだとき、「原作をねじ曲げた」という怒りは全くなく、逆にとても胸がわくわくしました。

 その二人とは……、兵部少輔と四の君です。

 小説での兵部少輔の初登場の場面は、少将が姫君の許に通い始めて5、6日経った頃です。
 普段人づきあいをあまりしない兵部少輔が、突然少将を訪ねてきます。そして、中納言家の四の君に恋をしてしまったことを打ち明けるのです。「文を送ったが断られた」とも言います。

 更に兵部少輔は
「私がこんなに苦しんでいるのはあなたのせいです。あなたは、中納言の四の君の婿君になるというではありませんか。」
と言ったのです。少将にとっては寝耳に水の話でした。この時点での少将は知らなかったのですが、実はこの話は中納言の北の方のたっての希望で、四の君の乳母を通じて少将の乳母(帯刀の母親)にもたらされ、少将の知らない内に話がどんどん進んでいたのでした。
 兵部少輔の純粋な恋に同情した少将は、「何とかするから」と言い、彼を家に帰したのでした。

 それから間もなく少将は物置に閉じ込められた姫君を救い出し、一緒に暮らすようになります。なので少将は四の君の婿になることなど全く考えていませんでした。しかし彼は、「承知しました」と中納言家に返事をしたのです。
 そして結婚の当日、少将は自分の身代わりに兵部少輔を中納言家に送り込みます。

 一方四の君は、「親の決めた相手と結婚するなんてつまらない。在原業平のような貴公子が私を盗み出してくれたら良いのに…。そして私は、鬼に食べられてしまうの。」というようなロマンチックなことを夢見るような姫でした。なので、親が決めた右近衛少将との結婚には全く気が進みませんでした。

 さて結婚の当日…、兵部少輔は少将だと言って四の君の許に忍び込むのですが、どうしても嘘をつき通すことができませんでした。兵部少輔は自分の本名を証し、「ずっと以前からあなたに恋いこがれていました。」と四の君に打ち明けます。
 「親の決めた相手と結婚するなんてつまらない」と思っていた四の君は、そんな兵部少輔の不器用な優しさに引かれていきます。
「あなたは、少将さまよりもずっと私を大切にしてくれそうだわ。もし、私の両親があなたとの結婚を許してくれなかったら、私を盗んで逃げてくれる?」
「もちろんです!」
 二人はこんな会話を交わしたのでした。

 婿君が通い始めて三日目に、婿君と花嫁の親族が対面する儀式が行われます。そこで、四の君に通ってきていたのは少将ではなく、宮中でいつも笑いものになっている兵部少輔だということがわかり、中納言も北の方も大恥をかくこととなりました。二人は大いに怒り、四の君を部屋に閉じ込めてしまいます。

 そこにこっそり忍んできた兵部少輔は、約束通り四の君を盗みだし、背中に負ぶって逃げてしまいます。ここは、少将が姫君を救い出す場面に勝るとも劣らないくらい、感動的に描かれています。

 私は古典「落窪物語」を読んでいつも感じていたことは、「姫君をいじめ抜いた憎き北の方に復讐するのは良いとしても、何も関係ない四の君まで不幸にしなくても良いのに」ということでした。なのでこの場面を読んで何か胸がすーっとしました。これなら、北の方に恥をかかせても、四の君はしっかり幸福になっていますものね。

 古典「落窪物語」は少将が太政大臣となり、人臣の位を極めるまで話が続くのですが、この「舞え舞え蝸牛 新・落窪物語」は姫君と中納言一家が再会をするところで終わっています。この部分は一つの区切りのような気がしますので、これはこれで良いのではないかとも思いました。
 そして面白いのがエンディングのシーンです。
 「落窪の世話になるなんて絶対嫌!」と思った北の方は、再会の宴でにぎわっている部屋を飛び出してしまいます。そんな北の方を優しく慰めるのが姫君と四の君です。北の方は宴の席に戻りたい気持ちはあるのですが、素直になれなくてどうしても戻れないでいるのですよね。こんな風にどうしても素直になれない所って、すごく人間的だなと思いました。この小説の北の方は古典「落窪物語」の北の方よりもずっと憎らしく描かれていますが、私はこのエンディングの場面で初めて、北の方に親近感が持てたような気がしました。「もっと素直にならないと損をしますよ。」と声をかけてあげたくなりました。

 この小説の魅力は、個性的な登場人物がたくさん登場することだと思います。優しくて可憐な女主人公の姫君、男らしくて頼りがいのある少将、忠義者でしっかり者の阿漕、おっちょこちょいの帯刀、そして、意地悪だけどやり手の北の方、その北の方の尻にいつも敷かれている中納言…。四の君と兵部少輔のカップルも魅力的で大好きです。読み始めたらすっかりストーリーの中に引き込まれていき、夢中になってしまうと思います。お薦めです。

 ただ、大変残念なことに、この本はすでに絶版のようです。図書館か古本屋には置いてあると思いますので興味を持たれた方は捜してみて下さい。
 なお、同じ田辺聖子さんの著書で「おちくぼ姫(角川書店 441円)」という本も出版されています。こちらはこの「舞え舞え蝸牛 新・落窪物語」を少し短く、わかりやすく書き直したものだそうです。こちらはまだ入手可能のようです。

☆追記(2015年9月10日)
 情報が遅くなりましたが、この本は、「おちくぼ物語」というタイトルで、2015年4月に文春文庫より新装復刊さ
れました。

amazonでの紹介ページはこちら(携帯用ページのようです。)

 「やさしく書き直した「おちくぼ姫」でも、充分楽しめると思いますが、やはりもととなったこの本が復刊されたのは大変嬉しいことです。
上でも長々と書きましたが、読み応えのある面白い小説ですので興味を持たれた方、ぜひどうぞ。

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近況報告

2006-08-12 23:17:47 | えりかの平安な日々 04~09
 皆様、お久しぶりです。
 10日も更新をお休みしてしまいました。そのあたりの事情については掲示板でお話しさせて頂いていたのですが、掲示板を閲覧されていない方々もいらっしゃると思いますので、改めてこちらにも書くことにしました。

 私のパソコンは1年以上前からたびたび不具合があったのですが、そのたびにだんなさんに直してもらい、今まで何とか使ってきました。

 ところが、先月頃から調子が悪くなることが多くなり、直してもまた同じような不具合が出たりしていました。そして、エリカの写真をUPした8月2日頃から、パソコンを立ち上げるたびに変なメッセージが出たり、メールソフトやワープロのソフトが立ち上がらなくなるといった不具合まで出るようになりました。おまけにインターネットのページが異常に大きく表示されてしまうのです。「これは絶対おかしい」と思い、大学時代からパソコンを使っており、機会についても詳しいだんなさんに泣きついたというわけです。

 そこでだんなさんがパソコンを初期化してソフトを入れ直してくれたのですが、なぜか変なエラーメッセージが出てしまい、うまくいかないのです。おまけにインターネットにつながらなくなってしまいました。

 考えてみると私のパソコンは、もう8年以上も使っているので(私自身は4年くらいしか使っていないのですが、その前はだんなさんが仕事で使っていました)、もうそろそろ寿命なのかなと思っていたことも事実です。そして案の定、だんなさんの話によるとやはりあちらこちらが壊れている(だんなさんの自作パソコンなので、中身もいろいろ調べたようです)とのことでした。

 そこで、新しいパソコンを購入することにしました。ただ、私の住んでいる町は田舎なのでパソコンショップが1軒もありません。そのため隣の町まで行かなければなりませんので、購入は来週以降になると思います。それまでは、だんなさんのパソコンを借りることにしました。今も、だんなさんのパソコンでこれを書いています。

 インターネットにつなぐことができる自分のパソコンがないのは不便だなということを、今度のことで実感しました。so-netのメールアドレスでの送受信ができないこと、だんなさんのパソコンのキーボードが私の物とは全然違うので文章が書けないことが困りました。
 でも、この二つの問題はわりに簡単に解決。だんなさんのパソコンに、私のメールアドレスのホルダを作ることができたのでメールの送受信ができるようになりましたし、キーボードを換えたら文章を書けるようになりました。ほっとしています。
 ただ、やはりだんなさんのパソコンを借りている関係上、使用する時間が限られてしまいます。そこで、結局更新を長いことお休みしてしまいました。

 さて、今後の更新予定ですが……、幸いなことに更新記事の下書きが1本、フロッピーに保存してありました。間もなく、この記事を「図書室3」にUPする予定です。 そのあとの記事に関しましては未定です。暑い時期でもありますのでゆっくりやっていきます。
 上でも書きましたように、新しいパソコンを購入するまではネットをする時間が限られますのでまだ完全復活とはいきませんが、これからもよろしくお願いいたします。

  

最近のエリカ

2006-08-02 09:25:24 | 猫のお部屋
本日は約1ヶ月ぶりに我が家の小さなエリカの登場です。

 上の写真は1週間ほど前に撮影したものです。口を少し開けていますがこれが「ニャー」と鳴いた瞬間なのです。目がくりくりして可愛いです。そして何とも言えないのがしっぽです。曲がり具合が面白いですよね。
 この写真を見ると「やっぱりエリカはしっぽが長い」と感じます。そしてそのしっぽをしょっちゅう振っています。その姿を皆様にお目にかけられないのが残念です…。

 さて、最近のエリカですが、相変わらず我がままで甘えん坊です。特に甘えん坊になるのは夜、私たちが就寝しようとしているときです。横になっている私とだんなさんの間に入ってきて「ニャー、ニャー」と甘えた声でしきりに鳴くのですよね。その声が何とも言えず可愛らしいので、ついなでなでしてしまいます。するとエリカは満足し、布団の脇に行って横になります。でもしばらくするとまた「ニャー、ニャー」と鳴くのです。本当に甘えん坊なのです…。


 ところで、猫の鳴き声は日本語では「ニャー」ですが、英語では「ミュー」なのですよね。最近の教育は、国際的な人材を育てるという目的で英語教育を重視しているようです。そこで私たちも、エリカにも国際的な猫になってもらおうと思い、現在「ミュー」を仕込んでいます。
 でも、「エリカちゃん、ミュート鳴いてごらん、ミュー、ミュー」と私が言うと、「ワン」とか「ギャワーン」と鳴き、ちっとも「ミュー」と鳴いてくれません。気が向いたときに時々、「ミャー」とか「ウーン」というように鳴いて、何とか「ミュー」と鳴いてみようとしているような素振りを見せるときはありますが、未だに「ミュー」とは鳴きません。

 それでも、以前「ワン」を仕込んだときにしっかり覚えてくれたのだから、いつかきっと「ミュー」と鳴いてくれると信じ、今日もエリカに「ミュー」を仕込んでいる私とだんなさんなのでした。