平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

日帰り京都旅行2005年夏4 ~では、もう1枚

2005-08-29 22:53:22 | 旅の記録
 立ったり座ったり、展示を観たり、双六の盤の前に座って駒を動かしてみたりと色々楽しんでいた私ですが、さすがに肩と背中が少し痛くなってきました。2年前に十二単を着たときは腰がものすごく痛くなってしまい、最後に参加者全員(100名)で記念写真を撮っているときは、もうどうしようもない状態でした。それに比べると今回はかなり楽でした。やはり2回目となると慣れもあるのでしょうね。もしかすると平安の姫様たちも女房たちも、こうして重い衣装に慣れてしまっていて、日常生活や主君の姫様の世話もかなり楽にこなしていたのかもしれませんね。

 それにしてもいつも思うのですが、このように平安時代の姫様気分を思いっきり味わう機会を作って下さる風俗博物館の井筒館長さんや従業員の皆様には、感謝しても感謝しきれないくらいです。本当にありがとうございます。
 というわけで、名残惜しいので十二単姿の写真をもう1枚載せてみました。今回は後ろ姿です。う~ん、やっぱりこの装束には長い髪が似合います。

 こうして楽しかった時間が終わり、平安の姫様から現代の女性に戻った私です。ブラウスとスカートは軽くて動きやすいと改めて思いました。

 部屋を出て再び受付に行き、そこで売られていた今回の展示の図録「年中行事と宮廷文化のかたち」を購入しました。これで、今回の素晴らしい展示を家でも楽しむことができます。

 エレベーターで本館の1階に降り、次は別館に向かいます。いよいよ、もう一つの楽しみ、「六条院へ出かけよう!」の展示を観に行きます。

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日帰り京都旅行2005年夏3 ~十二単姿で展示を観る

2005-08-28 11:55:12 | 旅の記録
 十二単を着て歩き回ったり、御帳台に座ったり、色々ポーズをとったりすることは、平安時代の姫様に近づけるような気がしてわくわくしました。
 でも、裳を引きずって歩くのはやっぱり歩きにくいです。始めて十二単を着た2年前に比べるとスムーズに歩くことができたとは思うのですが…。
 氷室冴子さんの小説「なんて素敵にジャパネスク」に、ヒロインの瑠璃姫が十二単を着て走る場面が出てきます。こんな重い衣装で、しかも長い裳を引きずって走ることができた瑠璃姫ってすご~い!と改めて思いました。

 さて、部屋の入り口から向かって左側では「京の家づと」と題して、風俗博物館所蔵の調度品が展示されていました。十二単姿でこれらの調度品を見て回るのも、平安時代の雰囲気が味わえて楽しかったです。

 まず目に入ったのは蹴鞠の鞠です。蹴鞠は、平安貴族たちの代表的なスポーツだったのですよね。「源氏物語」にも、光源氏の息子夕霧と、頭中将の息子柏木が蹴鞠を楽しんでいる場面が出てきます。蹴鞠の鞠の模型は、以前風俗博物館で見たことがありましたが、実物を見るのは今回が初めてです。思ったより大きかったです。
 面白いことに、蹴鞠の鞠ってふわふわしているのですよね。あれなら蹴り上げても足が痛くならないでしょうね。

 この蹴鞠の鞠を出発点に、様々な豪華な調度品に圧倒されてしまいました。桜町天皇や東山天皇といった江戸時代の天皇ゆかりの品もありました。それら一つ一つの品が時代の証人のような気がしてとても神秘的な気分になりました。

 一番感動したのは曲水の宴の屏風、とにかく美しかったです。曲水の宴というのは、上流から流れてくる杯が自分の前を通りすぎるまでに和歌を詠むという、平安貴族の優雅な遊びです。この屏風は、そんな優雅な遊びに花を添える調度品だったのでしょうね。

 写真は、そんな曲水の宴の屏風です。
 

日帰り京都旅行2005年夏2 ~十二単体験

2005-08-27 15:39:25 | 旅の記録
 さて、今回京都を訪れた一番の目的は、京都文化博物館で開かれている風俗博物館の出張展示を観に行くことでした。

 風俗博物館については、2005年2月5日の記事「光源氏」でも書きましたが、「源氏物語」に出てくる六条院春の御殿を4分の1の大きさで再現しており、「源氏物語」の色々なシーンが精密な人形や調度品の模型で展示してあります。また、実物大展示室では袿や狩衣も着ることができ、平安時代の好きな人なら何時間でも遊べる素敵な所です。

 その風俗博物館が、8月16日から9月10日まで、高倉三条の京都文化博物館において出張展示を行っているのです。
 展示内容ですが、博物館の別館では「六条院へ出かけよう」と題して、「源氏物語」の「藤裏葉」の巻より、朱雀院と冷泉帝の六条院行幸の場面が展示されています。
 また、本館6階においては、「京の家づと」と題して、風俗博物館所蔵の様々な調度品や屏風などが展示されています。
また、こちらでは十二単、狩衣、白拍子の衣装といった平安時代のさまざまな装束の着用が体験できます。ただ、装束体験は「要予約」となっていましたので、平安好きな私は8月16日に早速「十二単を着せて欲しい。」と予約のメールを出し、今日23日朝10時の予約が取れたのでした。
 
 実は私は、十二単を着るのは今回が2度目になります。2005年1月16日の記事「髪が長い」にも書きましたが、一昨年の5月に京都の仁和寺で行われた「日本文化フォーラム21」というイベントで着せていただきました。しかし、その時は髪の毛が短かったため、十二単がどうもはえなかったのです。そこで、「髪を伸ばしてもう一度十二単を着よう!!」と決心したのでした。

 それから2年余り……、私はせっせと髪の毛を伸ばしてきました。そして現在は約70センチ、腰の下あたりまで伸びてきました。「このくらいの長さなら、十二単もさぞ似合うだろうな……」と、胸をわくわくさせて今日を迎えたのでした。

 6回でエレベーターを降りてすぐ受け付けへ……。それから奥の着付けの部屋に向かいました。畳を敷き詰めた広い部屋が三部屋続きで、いかにも平安時代の雰囲気を感じます。

 十二単は10着ほど用意されていました。勿論それ以外にも数種類の装束が用意してありました。2年前は紫と白の十二単を着たのですが、今回は違う色目がよいと思い、竹色の唐衣とえんじ色の袴のものを選びました。特に理由はないのですが、何となく明るくて華やかで良いなと思ったものですから…。

 着付けてもらっている時からすでに、平安時代の姫様の気分を味わっていました。
姫様が十二単を着るときは、こうして女房が着付けてくれるはずですから。

 着付けが終わって扇を持ったときはとてもわくわくしました。でも、やっぱり重いです。まず、上げてあった髪の毛を下ろしてブラシでとかそうと思ったのですが、衣装が重くて腕がなかなか上がりません。髪の毛を下ろすことは何とかできたのですが、そのあとはだんなさんに髪の毛を解かしてもらいました。

 こうして用意が整ったあとは、あちらこちらに移動して写真を撮ってもらいました。今回の写真はそのうちの1枚です。撮影用にセットされた御帳台に座り、右手で扇を持っています。平安時代の姫様らしく?…扇で顔を隠しています。
う~ん、すっかり姫様気分ですね♪

 なお、私はずっと「姫様」と書いていますけれど、上流貴族の姫様が十二単を着るのは正式な行事などの時だけで、普段は裳袿などのラフな格好なのだそうです。そして、普段十二単を着ているのは姫様のお着きの女房たちなのです。
つまり、彰子中宮は裳袿、彼女のお着きの紫式部や和泉式部、大納言の君などは十二単を着ていたのですよね。そうなると私は姫様というより姫様のお着きの女房と言った方がいいのかもしれません。

 それにしても、この格好で姫様のお世話をするのは大変だっただろうなと思います。もちろん女房たちにも、世話をしてくれる女達がついていたとは思うのですけれど…。
そんなことを考えると、上流貴族の姫様に仕える女性たち……、おもに受領階級の女性でしょうけれど……、彼女たちは意外に体が丈夫でたくましかったのだろうなという気がします。

大河ドラマ「義経」第33回&弁慶と湛増

2005-08-25 10:02:45 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第33回の感想です。

 今回は弁慶のワンマンショーといった感じでしたね。弁慶と湛増についてはのちに述べるとして、まず平家側のことから書かせていただきます。

 「熊野水軍は必ず味方をしてくれる。」と信じている知盛さん、ちょっと脳天気な感じもしますけれど、それだけ湛増と平家の結びつきが強いという証拠のようにも思えます。しかし、あらかじめ湛増のもとに使者を送らなかったことが、平家の大きな誤算だったかもしれませんね。

 貝合わせをする安徳天皇と守貞親王がかわいらしかったです。しかし、時子の「母は違えどもよく似ている。」という言葉、壇ノ浦でのとんでも設定の伏線なのでしょうか。
 みなさま周知のように、壇ノ浦合戦において時子は「海の底にも都がございます。」と言って安徳天皇を抱いて入水するのですが、何とドラマでは守貞親王を抱いて入水するそうなのです。つまり、安徳天皇と守貞親王をすり替えてしまうようなのです。
 このことについては壇ノ浦が放映されたあとに詳しく書きたいと思いますが、もしこれが事実ならのちの後高倉院は実は安徳天皇であり、後堀河天皇は安徳天皇の皇子ということになるわけですよね。それより何より、自分の孫である皇子とそうでない皇子(守貞親王の母は藤原信隆の娘)をすり替えるという時子の行動に違和感を感じます。
このように、このドラマでの時子は、最後の最後まで愚かな女性に描かれてしまうということなのでしょうね。残念です。

さて、弁慶と湛増に話を移しますね。

 弁慶と湛増のやりとりは、役者さんの演技力のおかげでかなり見応えがありました。主君義経のためならたとえ火の中水の中でもという勢いの弁慶と、一筋縄では行かない頑固な湛増の性格が、とてもよく現れていたと思います。

 しかし、「弁慶は熊野出身で、熊野水軍とも関係があったのではないか。」という説を支持している私には、どうもこの場面は物足りなく思えてなりませんでした。
 しかも、「弁慶は湛増の息子だ。」という説もあるのです。まあ、こちらは多分伝説だと思うのですが…。

 このドラマでは、弁慶は比叡山の荒法師だったという説を採用していましたが、彼の出自や出身地については今まで何も触れられていなかったですよね。
なので私は、「弁慶は、熊野に何らかのコネがあって諜略に行くのかしら?…」
つまり、「弁慶が熊野出身だという事実が証されるのかもしれない。」と密かに期待していたのでした。
 ところが、ふたを開けてみると弁慶は熊野に全くコネがなく、従って熊野出身だという設定ではなさそうなのですよね。
 そして、弁慶が湛増を味方にできた大きな理由は、かつて湛増の部下二人の命を助けた鎌倉の漁師の娘千鳥が弁慶の妻だった……という理由になっていました。しかも千鳥本人が登場したので、湛増も折れてしまったということなのでしょうか。
 でも、今まで深いつながりがあった平家を見捨てて、義経に味方する理由としては弱いように思えます。しかも、千鳥って架空の人物ですよね?つまり弁慶と千鳥が結婚していたということもフィクションですよね?湛増が平家から義経に乗り換えるという今後の戦いにおいて非常に重要な事項を、このようなフィクションによる理由ですませてしまうというのは、果たしてどうなのでしょうか。

 やはり湛増としては、落ち目の平家に味方するよりこれからの勢力になり得る源氏に味方する方が都合が良いという考えがあったと思うのです。でも、平家には長年の恩義もあるので、彼自身とても迷っていたようです。なのでしばしば占いもやっていたのでしょう。
 「平家物語」によると、どちらに味方するか迷った湛増は今熊野に参籠し、権現様におうかがいを立てたところ「源氏に味方すべし。」という託宣を受けます。しかしそれでもそのことを信用できず、権現様の前で平家に見立てた赤い鶏七羽と、源氏に見立てた白い鶏七羽を闘わせたところ、赤い鶏は一匹も勝てず、みんな逃げてしまいました。そこで湛増は源氏に味方することにした……ということになっています。

 そう言えば今回も闘鶏のシーンが出てきましたね。弁慶方は白い印、湛増方は赤い印をつけていました。私は、「平家物語」にあるように白い方が勝つのかなと思ったのですが、なぜか赤い方が勝ってしまいましたよね。でも湛増は結局源氏に味方をするという書状を弁慶に託すことになります。これは、「湛増が弁慶の人柄に感服した。」ということなのでしょうけれど、私は何か煮え切らない物を感じてしまいました。

 やはり「弁慶は熊野出身」という設定にして、彼と熊野との関係を描きながら湛増を諜略していったという描き方の方が、すっきりしていて面白かったように思えます。
そして、どちらに味方するかいよいよ迷ってしまった湛増が最後の手段として赤い鶏と白い鶏を闘わせ、「平家物語」にあるように白い鶏が勝ったために、最終的に源氏に味方をする決心をする……という描き方のほうが、もっとすんなりと受け入れることができ、より良かったのではないでしょうか。

日帰り京都旅行2005年夏1 ~出発から京都文化博物館到着まで

2005-08-24 18:45:55 | 旅の記録
 8月23日、午前6時起床…。うーん、やっぱり眠いです。京都に行く前日は嬉しくてわくわくしてしまい、どうも眠れない私です。昨年の10月にも京都に行ったのですが、その前夜はほとんど一睡もできませんでした。それに比べると今回は4時間くらい眠ることができたのでまあ良いとしましょう。

 着替えをしてエリカにご飯をあげて、化粧をして自分の掲示板をチェックして……と、順調に行っていたのですが、出かける直前になってストッキングが破れているのを発見!!あわてて新しいストッキングに履き替えました。これはかなりあせりました。

 7時15分頃家を出発。ところが……、2、3分歩いたところでデジカメを忘れたことに気がつき、あわてて家に引き返すことになってしまいました…。

 このように出発から波瀾含みだったのですが、予定の電車に乗ることができて一安心。島田~掛川までは東海道本線の普通電車に乗り、掛川で新幹線のこだまに乗り換え、さらに浜松でひかり号に乗り換えました。途中、掛川と浜松の売店でお茶とサンドイッチを買い、ひかり号の中で朝食をとりました。だんなさんは大好きなホットコーヒーを車内販売で頼んで、こちらもニコニコです。

 何しろ静岡県外に出るのは昨年の10月の京都旅行以来なので、何となくわくわくしました。新幹線は愛知県を通り抜け岐阜県へ。岐阜羽島を過ぎたくらいのとき外を見たら雨が降っていました。しかし、関ヶ原のトンネルを抜けると晴れていたのでほっとしました。ところが……、その時私は帽子を忘れてきたことに気がついたのでした。最近は日差しが強いので帽子が欠かせない私です。ああどうしよう…。
そんなわけでやっぱりこの旅行は波瀾含みなのかなと思いました。

 さらに波瀾は続きました。京都に着いたのは9時45分。目的地の京都文化博物館まではタクシーを利用しました。そして無事に博物館に到着したまでは良かったのですが、博物館の1階でふとしたことでだんなさんとはぐれてしまったのです。こんな時便利なのが携帯電話なのですが、圏外なのかいくらかけても通じません。
 そうこうしているうちにだんなさんの姿が見えたので一安心。しかし……、何とだんなさんは自分の携帯電話をおトイレの中に落として壊してしまったというのです…。
ああ、何ということ…。

 そんなこんなで始まった私たちの旅、いったいどうなることやら…。とにかく、私たちは「京の家づと」の展示が開かれている博物館の6階に行くため、エレベーターに乗り込んだのでした。(続く)

☆今回は写真はありませんが、次回からは写真つきでUPしますね。楽しみにしていて下さい。なお、旅行記の次回UPは週末になると思います。

エリカの枕

2005-08-20 17:07:04 | 猫のお部屋
 先週に引き続いてエリカの写真を載せてみました。

 エリカには、「自分は猫ではなく人間だ。」と思っているような所があります。
 食事は高級志向な所、私たちの寝ている布団の上で一緒に寝ることなどもそうです。そして寝るときは何と枕を使うのです。
 でも、猫用の枕を使うのではありません。私たちの脱いだ服やタオルを枕にするのです。おまけに私やだんなさんが使っている枕を使うこともあります。

 そして、今回はとんでもない物を枕にして寝ているエリカの写真が撮れましたので、こちらに載せますね。枕にしているのは私の小型ラジカセです。高さは10センチくらいでしょうか。モノラルですが小型で軽くて持ち運びも便利、そのうえテレビの音声も聞けるので重宝しているラジカセです。

 そのラジカセを「これは私の物よ!」と言わんばかりに枕にしているエリカ……。
何とも言えない満足な表情をしていますね。やっぱりかわいいです♪
 

大河ドラマ「義経」第32回&無視されている平教経

2005-08-17 09:32:06 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第32回の感想です。

 一言で感想を言うと、このドラマ、あまり「平家物語」を脚色しない方が面白いです。前回はほとんど「平家物語」そのままでしたが、今回は脚色しすぎという感じがしました。そして、脚色しすぎたばかりに、かえってわけがわからなくなったような気がしてなりません。

 まず気になったのは、「順番が逆じゃないの?」ということです。
那須与一が弓矢で扇を射抜くという出来事は、佐藤継信の戦死より後のことですよね。しかしこれは、継信の戦死をラストに持っていくことによって視聴者の涙を誘うという製作スタッフ側の思惑があるのだろうなと思いました。なのである程度仕方がないと思いますが…。

 それはともかくとして、まず番組の放映順序に従い那須与一の弓矢の話から書かせていただきますね。

 扇を持って船上に現れる女性について、「平家物語」ではただ18,9歳の女房とだけ記しており、その女性の素性については一切記述がありません。そこで今回のドラマではその女性を能子(廊の御方)としたのでしょうね。確かにこの設定は劇的かもしれませんが…。私が事前に聞いていた能子と義経の兄妹対面というのはこの場面のことだったのですね、きっと。
 しかし、能子は義経に気がついていてしきりに「兄上様」とテレパシーのようなものを送っていましたけれど、義経は果たしてそれに気がついていたかどうかはなはだ疑問です。
 何よりも、二人の対面がクローズアップされてしまったことにより、那須与一の影がすっかり薄くなってしまったのがとても残念でした。しかも彼は「平家物語」では積極的に弓矢を射ることを志願していますが、今回のドラマの中では描き方がかなり違っていて戸惑ってしまいました。那須与一にはもっと自信たっぷりに弓矢を射て欲しかったと思ったのは私だけでしょうか。

 さて、もう一つの見せ場であった佐藤継信の戦死についてですが、弓矢で射抜かれてからあんなにたくさんしゃべれるものなのかなと、疑問に思ってしまいました。それに継信が死んだ直後、伊勢三郎が歌を歌い出したのにはとても違和感を感じてしまったのですけれど…。みなさまはどうだったでしょうか?
  それにしても、佐藤継信の早すぎる退場は義経にとってはかなり大きな痛手だと思わざるを得ません。武士道のことをまるでわかっていないような義経の郎党達の中にあって、継信は比較的武士道に通じており、義経の良き相談相手になり得た人物でした。継信のいない義経の郎党達は、まるで無知で物事のわかっていない集団になってしまいそうです。もちろん、継信の弟の忠信は残っていますが、残念ながら継信に比べると線の細さを感じざるを得ないです。これからの義経主従の行く末が、私には心配でたまりません。

 さて、先週ちらっと書いた「継信を弓矢で射る平家の公達」についてですが……。
ドラマでは誰が弓を射かけていたのでしょうか?…私にははっきりわからなかったのでNHKのホームページで今回のあらすじをチェックしてみました。ホームページには、「継信は資盛の奇襲攻撃にあい、義経をかばって矢を射かけられた。」という風に書かれていました。
 そうなると継信に矢を射かけたのは資盛ということでしょうか?
 しかし、矢を射かけたのは資盛ではなかったような気がします。

 実は「平家物語」によると、「大将を討ち取ってやる!」と叫んで矢を射かけたのは資盛ではなく平教経(清盛の甥)なのです。ドラマでは一度名前だけ出てきたことはありますが、あとはすっかり無視されてしまっています。「強弓の名人」・「勇猛果敢な武将」と評されていて、「平家物語」でも大活躍をしているこの武将をなぜ無視するのか、私は理解に苦しんでいました。
しかも個人的なことですが、私は平家の武将の中では教経が一番好きなのです!

 今回継信に矢を射かけたのが資盛ではないとすると、あれは教経だったのかな?……とも思えます。しかし教経を出すなら、「源氏の大将はこの手で討ち取る。」というせりふは資盛にではなく教経に言わせて欲しかったです。あのせりふを教経に言わせないということは、彼は事実上、無視されたと一緒だと思います。しかも、そのあとの菊王丸のエピソードもカットされているのですから…。
 それに私は放映以前に、「教経は完全無視され、屋島・壇ノ浦での彼の活躍はそれぞれ代役(屋島は資盛、壇ノ浦は知盛)ですまされる。」という情報を「徒然独白~手鞠のつぶやき」の手鞠さんから教えていただいていました。なのでこの時期になって突然教経を登場させたというのは考えにくいです。ですから多分、継信を矢で射たのは資盛の郎党という設定なのだと思います。

 では今回は、無視されてしまったらしい平教経についてお話しさせていただきますね。私の大好きな、愛すべきこの人物に敬意を表しつつ、書かせていただきたいと思います。

平 教経 (1160?~1185)
 平清盛の異母弟教盛の次男。兄は平通盛。
 元服したときの名は「国盛」といいました。

 国盛は仁安元年(1166)十月、憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子に際し伯耆守に任じられました。この時、若年ながらすでに元服し、従五位下に叙されていたことが考えられます。
 仁安四年(1169)正月、任民部権大輔 止伯耆守。
 治承三年(1178)十一月、清盛のクーデターによる人事移動により、兄通盛が能登守から越前守に転じたことによって、そのあとをついで能登守に任じられています。教経の通称「能登殿」は、彼の官職であるこの「能登守」に由来しています。なお、民部権大輔に任じられた仁安四年から能登守に任じられた治承三年の間に、「国盛」から「教経」と改名したと思われます。
 養和元年(1181)九月、加賀国で敗れた兄通盛の支援のため北陸道へ出陣しています。

 寿永二年(1183)七月、平家一門と共に都落ち、同八月六日、能登守を解任されます。なお同日には、都落ちをした平家の貴族たちは平時忠を除いてすべて解任されています。(なお、平時忠も八月十六日に権大納言を解任されています。)
  その後彼は水島の合戦に従軍して大活躍をし、平家が再び力を盛り返すのに貢献しています。ただし一ノ谷では義経の奇襲を真っ先に受けて敗戦し、そのまま船で屋島に逃れています。

 教経は前にも書いたように勇猛果敢な武将であり、合戦ではたびたび武功を挙げています。ほとんど平家の負けが決まってしまったような戦においても、教経は最後まで全力で戦っていました。私は彼の魅力はこんな所にあるのだと感じます。
  
 教経のプロフィールはこのくらいにして、再び屋島の合戦に話を戻しますね。

 「平家物語」巻十一「継信最期」に描かれている教経の活躍についてを、簡単に書かせていただきますね。
 「源氏の総大将はこの手で討つ!」と決心した教経は、義経に向かって弓矢を射かけました。しかし義経の前には伊勢三郎や佐藤兄弟がおり、なかなか命中しません。
けれども、この教経の放った矢の一本が佐藤継信を貫いたのでした。
 それを見ていた教経の童の菊王丸が、継信の首を取ろうとして走り寄ります。菊王丸は元々通盛の童だったのですが、通盛が一ノ谷で戦死した後に、教経が兄の形見だと考えて引き取ったのでした。
 駆け寄った菊王丸は、逆に継信の弟忠信の放った矢に射抜かれて倒れてしまいました。そこで教経は、左手で弓矢を持ち、右手で倒れた菊王丸を抱え込んで船に逃げ込んだのでした。菊王丸はやがて息絶えたといいます。兄の形見だと思って可愛がっていた童の死に気落ちした教経は、戦うことをやめてしまいました。

 このエピソードを読むと、教経という人はただ勇ましい武士と言うだけではなく、童の死に涙して戦いを辞めてしまうといった、情にもろくて人間味のある若者という感じがします。なのできっと郎党達からも慕われていたのではないでしょうか。このような愛すべき武将をドラマでは無視してしまうなんて、どうしても納得がいかないです…。

 ところが……、実は教経に関しては「一ノ谷で戦死した」という記録があるのです。「吾妻鏡」によると、教経は甲斐源氏の安田義定(源義家の弟義光の曾孫)に討ち取られたと記載されているのです。
なので今回のドラマを好意的に見ると、「教経は一ノ谷で戦死した。」という説を採用して、この後の屋島や壇ノ浦には一切登場させない……というようにしたということなのでしょうか。

 これに関しては、「教経には双子の弟がいた。」。「屋島や壇ノ浦で活躍したのは教経とは別人だが、勇猛な教経の名前を出すことによって源氏側に圧力をかけた。」など様々な説があるようです。しかし最近では、「吾妻鏡」に記載されている教経戦死は誤報であり、彼は壇ノ浦合戦の日まで生きていた。」という説の方が有力になっているようです。

 と言うのは、藤原兼実の日記「玉葉」二月十九日条に、屋島での平家の動向が記述されているのですが、その文中に「教経者一定現存」という一文があることです。
「現存」という言葉は通常、生きているという意味なのですよね。
  また「醍醐寺雑事記」でも、壇ノ浦で自害した者の中に教経の名前があることから、彼が壇ノ浦合戦の日まで生きていたということは、ほぼ間違いないようです。

 この壇ノ浦合戦の時、教経は再び「源氏の総大将はこの手で討ち取る。」という闘志を燃やし、義経を追いかけ回したと言われています。そして義経を見失ったあと、敵の武将二人を引き連れて海中に飛び込んで自害しています。
 私は、先にも書いたようにドラマの壇ノ浦合戦で義経を追いかけ回すのは知盛と聞いていますが、そのあとの自害の場面を誰が演じるかは聞いていません。まさかこれも知盛にやらせるとは思えませんしね。知盛には「平家物語」で描かれているように、戦いが終わったあと、「見るべきものは見た。」と言って静かに入水してもらいたいと思っています。
 そうなると敵の武将を引き連れて自害するのは資盛なのでしょうか?
それともこの場面は完全にカットされるのかもしれませんよね。いずれにしても教経は最後まで無視されることはほぼ間違いないようです。

 これらのことについてはまた、壇ノ浦合戦が放映された後に色々書いてみたいと思っています。

さて来週は、どうやら弁慶が熊野に諜略に行くようですね。熊野は弁慶の故郷ではないかとも言われている土地です。最近はすっかりお笑いキャラになっている弁慶の大変身に期待……と言ったところでしょうか。

やっぱり地元を応援してしまいますね…

2005-08-14 15:42:18 | えりかの平安な日々 04~09
 現在、甲子園球場では高校野球の全国大会が行われていますよね。一生懸命プレイをしている高校生たちの姿にはいつも感動してしまいます。

 私は高校野球が好きなので、この時期は特に楽しみです。地元の代表の高校を応援するのはもちろんですが、他の地域にも好きな高校はたくさんあるので、テレビやラジオの中継に夢中になってしまうことも少なくないです。

 さて、今夏の静岡県代表の相川学園静清工業高校、春夏通じて甲子園は初出場です。なので他の地域の皆様にはほとんどなじみがないと思いますが、実はずっと長い間県内の強豪チームでした。優勝候補に挙がったことも何回もありますし、決勝戦にまで進出したことも3回ほどあります。勿論ベスト8の常連校です。そして今年、ようやく県大会で初優勝をしました。二人のタイプの違うピッチャーを中心に、堅い守りと手堅いバント。そしてここぞという時の集中打で、勝ち取った勝利でした。
 しかも、静清工業は私の住んでいる町の隣町に学校があります。卒業生の中には友人もいるので、思い入れもかなりありました。

 その静清工業ですが、8月9日に島根県の江の川高校と対戦し8-4で勝ちました。とても嬉しかったです♪そして、「2回戦はどこと対戦するのかしら。」と思ってトーナメント表をチェックして、ちょっと複雑な気持ちになりました。相手が山口県の宇部商業高校だったからです。

 前の方でも書きましたが、私は他の地域にも応援している高校がいくつかあるのですよね。そして宇部商業もその一つなのです。

 宇部商業で印象深いのは、20年前の決勝戦……、桑田・清原のいた強豪PL学園との一戦です。圧倒的な強さで勝ち上がってきたPL学園に対して、逆転につぐ逆転でかなり苦労して勝ち上がってきた宇部商業がどのような戦いをするか注目していました。結果はPL学園が優勝したのですが、そのPL学園に対して宇部商業が先行したこともあり、「もしかして宇部商業が優勝してしまうかも…。」と一瞬思ったほどでした。とにかくいい試合で感動しました。
 その後も宇部商業はたびたび甲子園に出場し、何度も逆転勝ちやサヨナラ勝ちをして「ミラクル宇部商業」と呼ばれたこともありました。私も、「宇部商業は何かやってくれる。」と期待し、出てくるたびに応援していました。

 しかし最近は目だった活躍がなく、ちょっと残念に思っていたのです。
確か、横浜高校の松坂投手が話題になった7年前の大会に一回戦を突破したのが、甲子園で勝った最後だと思います。
 なので、今年久しぶりに一回戦を突破したときは嬉しくて、NHKのホームページから応援メッセージを送ろうかとも思ったくらいでした。しかし、2回戦で地元と当たってしまうとは……。

 でも、やっぱりこうなった場合には地元を応援してしまう私は、やはり郷土への思い入れが強いのでしょうね。本日行われた第2試合の宇部商業対静清工業の試合は、だんなさんと一緒にずっと静清工業を応援してしまいました。
 結果は0-4で完敗でした。相手の先頭バッターを出してしまうことが多かったこと、逆にこちらは先頭バッターがなかなか出られなかったこと、いい当たりがみんな正面をついてしまったことなどが敗因でしょうか。だんなさんは、「先発ピッチャーを引っ張りすぎだよな。阿野投球では7回の最初から換えるべきなのに、代える時期が少し遅すぎたな…。」と言っていましたが…。

 でも、点差のわりにはとても引きしまったいい試合だったと思います。静清工業のみなさん、胸を張って静岡に帰ってきて下さいね。今まで感動をありがとう!

 そして宇部商業のみなさんには、静清工業の分まで頑張って、決勝まで行って欲しいです。桑田・清原のPL学園と対戦したときのような感動をもう一度見てみたいですね。これからは宇部商業を応援しようと思っている私です。
  

暑いニャン

2005-08-12 18:51:42 | 猫のお部屋
 「猫は寒さに弱く、暑さに強いのでは?……」と思われている方、意外に多いのではないでしょうか。
♪猫はこたつで丸くなる♪と、歌にも歌われていますものね。実は私もエリカと出会うまではそう思っていました。

 ところが、猫は暑さにものすごく弱いのです! というのは、猫には発汗機能がないので、暑さが体の中にこもってしまうのだそうです。おまけに体の表面が毛皮で覆われていますから、これはたまらないです。

 そのため、エリカの健康管理は冬よりも夏の方がずっと大変なのです。おまけに我が家のエリカは室内飼いですから、冬の場合は布団の中に入るなどして寒さを防ぐ方法はいくらでもありますが、夏は暑さを避けるところがありません。そのため朝から夜まで、ほとんど1日中エアコンをつけっぱなしです。そうしないと、エリカが熱中症になってしまいますので…。と言うより、人間の方が暑くてたまらないという話も(笑)。

  実は5年前の7月、エリカは夏ばてから胃腸炎にかかって動物病院に3日間入院してしまいました。そして、今考えるとその原因は、7月の中頃のものすごく暑い日にエアコンをしていない部屋にエリカを置き去りにして、朝から一日中出かけてしまったからではないかなと思っています。本当に可哀想なことをしてしまいました…。
その日のあとも、私はエアコンをしていない部屋にエリカを置き去りにして時々出かけていました。それからしばらくして、エリカは突然物を食べなくなってしまったのです。でも水は飲んでいましたし、わりに元気もあったので「そのうち食欲が戻るよね。」と軽く考えて安心していたのです。しかし、7月の終わり頃になるとすっかり元気がなくなり、ぐったりしてしまったのです。
 「あ、エリカちゃんが死んじゃう。どうしよう…。」と思い、急いでタクシーを呼んで動物病院に連れて行きました。
 病院では胃腸炎と診断されました。そのため3日間入院させて点滴などの治療をしてもらった結果、エリカはすっかり元気になりました。本当に大事に至らなくて良かったです。でも、入院させている間はエリカのことが心配で心配でたまらず、毎日2回ほど病院に電話をしてしまいましたが…。

 そんなことがあってからは、夏の朝からの外出の時は必ずエリカのためにエアコンをつけて出かけるようになりました。なので電気代は高くなりましたけれど、エリカの健康には換えられません。

 今夏のエリカは、多少食欲は落ちているものの、とても元気です。そして、エアコンの吹き出し口の近くでよく昼寝をしています。我が家で一番エアコンの恩恵を受けているのは間違いなくエリカです。

 写真は本日撮ったものです。右前足の上にあごをのせています。こんな暑さのためにクターッとなっているようなエリカの姿を見ると私は、可愛いエリカの健康のために、今年の夏はまだしばらくエアコンは欠かせないと強く思います。
 

大河ドラマ「義経」第31回&廊の御方

2005-08-11 16:13:56 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第31回の感想です。

 今回の見どころは、やはり義経と景時の対決だったと思います。

 できるだけ早く屋島に出発したいという義経と、水軍が来るまで出発は待った方が良いと思っている景時。二人の心情のすれ違いがよく描かれていたと思いました。

 結果的には義経の屋島への奇襲作戦が戦いに勝利する大きな要因となったのですけれど、嵐の中少人数で船をこぎ出すという義経の行為、私にはどう見てもスタンドプレイとしか思えませんでした。かえっつて義経をいさめた景時の方がよっぽど常識的に思えます。
 このドラマでは、「景時が総大将の義経に反対する。」→「景時が無理難題を言って義経をいじめる。」→「義経くん、かわいそうにと視聴者の同情を仰ぐ。」という展開にしたかったのかもしれませんが、意に反して結果的には逆効果になってしまったように思われます。私は、今回の義経にちっとも同情できませんでしたもの。
 でも考えてみると、このように言いだしたら聞かない自由奔放な義経こそ、本来の義経像なのかもしれませんよね。そう考えると、今回の義経の描き方は◎です。
 一方、景時に向かってため口で文句を言う弁慶には違和感を感じてしまいました。弁慶にしてみれば「御曹司に反対する者は許さない!」と思ったのでしょうけれど、景時に対してあのような失礼な態度を取ることが、かえって義経の不利になるということがわかっていなかったのでしょうか。実際の弁慶は、義経に不利になるような行為は絶対に慎んだと思うのですが…。

 ところで、景時の息子の景季はすっかり義経に心酔しきっていますよね。しかし景季は平家が滅んだあと、義経の動向を疑い始めた頼朝によって、彼を尋問するために派遣されるのです。その頃の義経は、頼朝と敵対していた行家と結ぼうとするなどの不審な行動を取っていたようです。
 尋問の結果、「義経には反旗の恐れあり。」と判断した景季は、義経の言動のすべてを頼朝に伝えたのでした。そこで頼朝は、義経討伐を最終的に決心したのでした。
こうしてみると頼朝と義経が決定的に対立する大きな原因を作ったのは景季とも言えそうですよね。
 今まで宇治川の先陣争いと重衡生け捕りといった見せ場をすべてカットされている景季ですので、義経を尋問する場面が果たしてこのドラマで描かれるかどうかは余り期待できませんが、注目してみていきたいです。そしてもしこの場面が描かれるとしたら、義経に心酔しきっているという設定の景季は、果たしてどのような態度を取るのでしょうか。心配でもあり楽しみでもあります。

 さて、今回の放送で気になったのは、梶原景時の名前の読み方です。放送では「かじわらのかげとき」と呼んでいましたけれど、「かじわらかげとき」と読むべきではないでしょうか。
 普通、姓と名前の間に「の」を入れるのは、「藤原」・「源」・「平」といった本姓だけだと思います。「梶原」や「三浦」、「足利」、「一条」、「九条」などの本姓から枝分かれした苗字の後には「の」はつけないのが普通です。
 例えば足利尊氏の場合、彼の本姓は「源」ですので、正式文書に署名するときには「源尊氏」ということになります。この場合読み方は「みなもとのたかうじ」になります。しかし、通常名乗るのは「足利尊氏」です。読み方は「あしかがたかうじ」であって、「あしかがのたかうじ」とは読まないと思います。
 なので平氏から枝分かれした梶原景時の場合も、これと同様だと思うのですが…。
 ちなみに手許にある「コンサイス日本人名事典」で調べてみても、梶原景時の読み方は「かじわらかげとき」になっていました。

 どうもこのドラマでは、歴史用語の読み方に疑問を感じる部分がちらほらあります。後白河法皇が幽閉された鳥羽殿のことを「とばでん」と読んでいましたが、「とばどの」が正式な読み方です。またその他にも、生け捕りにされた重衡が名を尋ねられたとき、「さんみちゅうじょう」と名乗っていましたよね。でもこの「三位中将」は「さんみのちゅうじょう」とするべきだと思います。
 製作スタッフの皆様には、こうした歴史上の人物、邸宅名、官職名の読み方をもっとしっかり勉強して欲しいものです。

 さて、今回は平家のみなさまの登場があってとても嬉しかったです。ただ、この時期には長門の彦島にいたはずの知盛が屋島にいたのには戸惑ってしまいましたが…。
それにしても、相変わらず平家の皆様はのどかですよね。戦いを前にしているこの時期の屋島は、もっと緊迫していたはずなのに、その緊迫感がさっぱり伝わってきません。
相変わらずの宗盛の直衣姿は、全く戦場には合いませんものね…

 その中で、清盛を父に常磐御前を母に生まれた廊の御方……。ドラマでは「能子」となっていますが……、彼女の立場の微妙さは胸に迫ってくるものがありました。彼女は「自分は平家の一員」と本心から思っていたでしょうけれど、屋島を攻めてくる源氏の総大将は母を同じくする兄です。彼女にとっては多少なりとも複雑な思いがあったはずです。
 ドラマで描かれていたように、「廊の御方は義経と連絡を取っているのでは……。」と疑いをかけられたことも実際にあったかもしれませんね。

 では今回は、この廊の御方について書かせていただきますね。

 廊の御方は永暦二年=応保元年(1161)頃、先にも書いたように清盛を父に、常磐御前を母に生まれています。ドラマでは長寛三年=永万元年(1165)頃の出生となっていましたが、史実では常磐と清盛との関係は平治の乱後1、2年くらいしか続いていませんので、このように判断させていただきました。なお「能子」という名前はドラマ独自につけられた名前だと思います。

 彼女がどこで育ったのかは不明のようです。私の調べではいつの頃からか、清盛の娘の一人が嫁いでいた藤原兼雅の家に女房として仕えるようになりました。兼雅室が彼女の境遇に同情して自分の許に引き取ったとも言われています。
 こうしてみると幼い頃の彼女の頭の中には、自分には源氏の血を引く兄がいるという意識は全くなかったように思えます。

 寿永二年(1183)、平家都落ちに同行し、2年後の3月の壇ノ浦の戦いにて建礼門院や大納言典侍などとともに源氏方の捕虜となり、都に戻ることとなります。
 その翌年六月、義経の行方を尋問されるために母の常磐御前とともに鎌倉方に捕らえられました。しかし、常磐とともに捕らえられた娘は廊の御方ではなく、常磐が藤原長成との間にもうけた娘だったという説もあるようです。
 その後廊の御方は、再び藤原兼雅夫妻の許に女房として仕えているようです。そしていつの頃からか兼雅と関係を持ち、女の子を一人もうけました。しかし、廊の御方がそのあとどのような生活を送り、いつ亡くなったかなどについては一切不明です。

 なお彼女は琴の名手であり、優れた能書家であったと伝えられています。
 おそらく常磐御前の血を受け、美しく気丈な女性だったのではないでしょうか。成長するにつれ、自分には源氏の血を引いた兄がいたことを知り、それとともに自分の立場の微妙さを意識するようになったとも考えられます。なので、「自分は平家の一員なのだ」ということを強調するために平家の都落ちにも自ら進んで同行した……とも考えられるのではないでしょうか。ドラマで描かれている能子(廊の御方)は、案外、かなり史実に近いのかもしれませんね。

 さて来週は屋島の戦いが描かれるようですね。佐藤継信が義経をかばって討ち死にする場面も描かれるようです。この佐藤継信を弓で打つ平家の公達については言いたいことがたくさんありますが、このことは来週の放送の後書かせていただきますね。
 とにかく屋島の戦いがどう描かれるか楽しみです。