平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

父の日 BY咲希さん

2009-06-24 10:58:02 | 美術館
 咲希さんより、5月14日にUPさせていただいた「華麗なる藤原一族 母の日」に続き、「父の日」の小説を頂きました。咲希さん、ありがとうございます。(^^)
 今回も藤原氏の人物が総登場する華やかで楽しい小説です。どうぞお楽しみ下さいませ。

 なお、この小説の著作権は咲希さんにありますので、無断転載、転用は絶対にしないで下さい。



父の日の小説です。

父の日  道長の娘・頼通の娘と養女・師実の養女・忠実の娘・忠通の娘がお祝いをしてくれました。師通の娘はいません。

母の日が終わり父の日がやってきました。

レポーター(女性)「母の日が終わり、父の日がやってきました。藤原家の姫様~父をお祝いを如何でしょうか?」
まず初めは道長さんのお嬢さんの話

彰子(道長の長女)「父上の?お祝いって何をするのかしら?」
妍子(道長の次女)「う~ん。どうしょうかな~」
威子(道長の四女)「父上に喜ぶもの・・・」
嬉子(道長の六女)「父上に好きっていいのかな?」 四人のお嬢さんは倫子さんの娘。
寛子(道長の三女)「私達の姉妹でお祝いでもいいでしょうか?」
尊子(道長の五女)「六人でお祝いをすると父上が喜ぶのでしょうか?  二人のお嬢さんは明子さんの娘。

レポーター(女性)「んなの喜ぶ決まってるでしょ。6人のお嬢さんに囲まれて幸せよ。道長さんは。」

六人のお嬢さん「父上~~~~父の日おめでとーございます。」
道長「えっ?おっお前達・・・(涙)こんな娘を持った私は幸せだぞ。ああ~おいで~」
幸せ満々な道長さん。

頼通さんのお嬢さんの話  寛子って道長の娘と同じ名だ。

女源子(げんの漢字が出てねー女+源)
「私は頼通父上の娘ではないですけど可愛がって下さいましたのでお祝いをしてもいいのかしら?」
寛子(頼通の長女)「当たり前ですよ。血はつながっていないけど私達は家族ですよ。ねっ義姉上。」

女源子「義父上、私を育てて下さってありがとうございます。私は義父上と義母上(隆姫)の事が好きです。」
寛子「父上。私は父上の為に頑張ってやったのに皇子を儲けなくて御免なさい。」
頼通「いいや!女源子は隆姫の姪だか私とっては実の娘ようなものだ。娘がいない私とっては嬉しかった。寛子が生まれたときは嬉しかったよ。皇子を儲けなかったのは残念だかお前は良く頑張っていたんだろう。二人共は感謝してるよ。」
二人のお嬢さんを感謝をしてる頼通。

師実さんのお嬢さんの話  師実の娘はいません。息子がたくさんいるのにね・・・。
養女がおります。

賢子「義父上、血を繋がっていませんか・・・御礼を言わせてもよろしいでしょうか?」
師実「君は私の養女になってくれたことは感謝してるよ。麗子の姪だし。若く死んでしまったことは悲しかった。」
賢子「ありがとうございます。私が亡くなると院が悲しんでくださったことは驚きましたか?。」
師実「そりゃもう。凄く悲しんでおられたよ。君が死ぬと院は君とそっくりな女性を手を出すし・・・何とか言うのは・・ハハハ‥」
賢子「そっそうですね(汗)う~~ん。」
白河院の素行の悪さを呆れたような二人でありましたとさ。

師通さんのお嬢さんの話…いや師通の娘さんはいませんー。
師通「私ーー娘が欲しかったーーーーー!」
レポーター(女性)「養女もいないな…。」
師通「娘が「父上~」と呼ばれたい…(シクシク)」
麗子「しょうがない子ね。なら私に甘えてもいいわよ。」
師通「何言ってるんですか!貴女は私の母でしょうか!」
全子「貴方が謝ってくれたら甘えてもいいわよ。」
師通「いらん事にすんな!君は忠実の母でしょうか!」
母と妻が余計なことに言うから…。

忠実さんのお嬢さんの話  泰子さんは男嫌いらしい…パパが好きなんだろうね。
泰子「父上~私は父上の事が好きですよ。」
忠実「おお。私もお前の事が好きだよ。お前は苦労かけてしまってすまないな。」鳥羽院の所へ行ったのは39歳だった。
泰子「いいえ。仕方がありませんわ。色々なことがあったんですもの。父上は私の為に何回も入内を考えていたんでしょう。」
忠実「うん…白河院が存在頃はなかなか許してくれなかったよな。」
苦労された泰子さん。忠実もそうですね。

忠通さんのお嬢さんの話
聖子「父上、色々なことをやっていてお疲れ様です。」
忠通「ありがとう。聖子。君も苦労かけたな。」
聖子「だって父上はお祖父様とは不和になってるから…戦が起こるのよ。」
忠通「突っ込まれる言葉だな。確かに戦になったことは仕方がない。」
聖子「叔父上(頼長)は悲しく死んでしまって…気の毒に言えないわ。」
忠通「…やむ得ないだろう。頼長は最期までに仲良くなれなかったな。」
聖子「生まれ変わったら仲良くしてくださいよ。兄弟ですから。」
忠通「フッ…そうだな…。」
二人は落ち着いて会話をしていた。

レポーター(女性)「うんうん。良い会話だわ。でも…師通さんは可哀想ね。忠実さん~忠通さん~」
忠実「何か?」
忠通「何の話ですか?」
レポーター(女性)「あのね…師通さんが可哀想なので泰子さんと聖子さんに慰めて欲しいな~と思ってるの。師通さん見れば孫と曾孫でしょう。「おじいさま~ひいおじいさま~」って慰めて師通さんに喜ぶじゃないかな?」
忠実「確かに父上は娘がいないんだよな。かまわないよ。」
忠通「なるほど。お祖父様に喜ぶならいいじゃないか。」

泰子「お祖父様~」
聖子「曾お祖父様~」
師通「ん?君は…?」
泰子「忠実の娘でーす。」
聖子「忠通の娘でーす。」
師通「と言うことは…私の孫と曾孫?」
泰子・聖子「はーい。そうです。」
師通「(ウルウル)これだよ…娘を持つ気持ち…ああ~いい。」

忠実「なんかに父上が悲しく見えた…。」
忠通「同感です…。お祖父様は若く死んでしまったことは無念と言えましょう。もし寿命が縮めなかったら娘を持つ事が出来たのでしょうか?」
忠実「そうかもしれんな。だって妹が出来たらいいなぁ…と思ったりしてさ…。ヘヘヘ。」
忠通「そっそうですか…。」
麗子「仕方がない子ねー。全子殿とは離縁するわー寺と喧嘩をするわーこういう問題が起こるからよ。若く死んだせいで子供は3人息子だから仕方がないわよね。全子殿と離縁しなかったら忠実の妹が出来るのにねー。」
全子「仕方がないですわ。私はあの頃は若かったですもの。若かった私の心は苛立ちしてしまったもの。ホホホ。」
麗子「アレ(摂関の後継者、教通は頼通→教通→信長したかったらしい。頼通は自分の子孫を摂関の地位を保持する為に頼通→教通→師実→師通→忠実。頼通系と教通系と仲良くするようにした為)がこうなければね…。あちらに結婚を申し込まなかったら師通と全子殿はずーと夫婦いられたのにー。」
忠実「おっお祖母様。本当の事ですし…。母上ーがいないと寂しいーえーん。」
忠通「貴方は子供ですか!まーつうかー。曾お祖母様の言うとおりだと思いますね。今はお祖父様の夢を叶いましょう。娘を持つ気持ちを持つ夢を。」

師通「わーい。」
麗子「もういいでしょう。子供のようなことをしたら藤原家の氏長者の威厳がなくなりますよ。忠実と家政(師通の次男)と家隆(師通の三男)を甘えなさい。忠実、家政と家隆を連れて甘えなさいねー。」
師通「えーーはっ母上ー耳を掴まないでー痛いですーいったー」
忠実「はっはい!分かりました。父上ー待ってくださいー」
忠通「…曾お祖母様は最強だなぁ。姉上、聖子、お疲れ様。」
泰子「フフフ。お祖父様って可愛いの。子供みたいわ。」
聖子「知らなかったわ。曾お祖父様がああそういう性格なんで…。」
忠通「本当は娘を持ちたがっただろうね。そうでしょう?お祖母様。」
全子「フン。しょうがないわよ。本当は一緒に居たがったわ。でもやむ得ないわね…。」
忠通「でも長生きしちゃったんですね。父上は摂関になったのでお祖母様は摂関の母になったのですよ。それで十分でしょう。」
全子「そうねぇ。まあ、満足してるわ。ありがとう。忠通殿。」
忠通「いいえ。お礼はいいですよ。」

師通「母上を叱れるなんで嫌だぁータスケテー」

レポーター(女性)「何の声?まあいいか…。父の日の計画はうまくいったようね。」

道長「うん。嬉しかったよ。」
頼通「ありがとう。」
師実「お陰様で。」
忠通「いいや。こちらにも楽しかったですよ。」
師実「あれ?師通と忠実は?」
忠通「曾お祖母様に連れて行かれました。今は叱ってる中でしょうねぇ。父上は曾お祖母様の命令で父上と一緒に居ますよ。」
師実「へっ?麗子が?何があったんだ…?」
忠通「知らない方がいいですよ。曾お祖父様は賢子様と楽しく話せましたか?」

レポーター(女性)「今日は如何でしょうか?」
彰子・妍子・威子・嬉子・寛子・尊子「父上を喜ばせてよかったわ。来年も父の日をお祝いをしましょうね。」
女源子「義父上、嬉しそうな顔でよかったわ。」
寛子「はい。来年もしましょうね。」
賢子「来年も師実父上だけではなく顕房父上もお祝いをしようかしら。」
泰子「父上の嬉しそうな顔で見れて嬉しかったわ。来年もすっごくお祝いをするわ。」
聖子「はい。来年はどんなお祝いをしようかしら。お酒を飲んで…いいかしら?」
レポーター(女性)「それは良かったですね。」

あちらに大きな声で言ってる師通。「タスケテーーーー」

父の日を祝えて嬉しい道長・頼通・師実・忠実・忠通でありました。師通は娘がいな
いので落胆しております…。お気の毒ですね。

                  ー 終わり ー


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清少納言と気持ちが通じ合えた瞬間

2009-06-16 18:14:58 | えりかの平安な日々 04~09
 昨日は用事があってお昼からお出かけ、電車に乗って静岡に行って来ました。最近、こうしてお出かけすることが多いです。これからの1週間の間も2回、静岡に出かける予定が入っています。

 そう言えば2年前の今頃は本当に体調不良で、出かけるのがおっくうでした。でも最近は、出かけるのが楽しみです。以前よりも疲れなくなりましたし。体調が良いというのはありがたいことですね。

 ところが昨日はちょっと疲れてしまって、でも、夜になってもやることがあって、11時半にやっと就寝。眠いのですぐに寝つけると思ったら、耳元でいや~な音が…。変に高くて耳障りで、おまけに人の血を吸う蚊が、私の顔の周りを飛んでいたのです。しかもさされたようで、かゆくてたまらなくなりました。
 確か蚊取り線香の火をつけておいたはずなのに…と思い、だんなさんに見てもらったところ、しっかり消えていました。それでもう1回火を入れ直し、気を取り直して目をつぶったのですが、なかなか眠れません。多分、寝つくまで1時間くらいかかったと思います。本当に憎らしい蚊!

 そして今日、「枕草子」を読んでいたら、面白い箇所を発見しました。
 「憎らしきもの」の段で清少納言も、「眠いと思って横になっているとき、蚊が細い声で鳴きながら顔のそばを飛んでいるのは憎らしい。」と書いていたのです。思わずにやりとしてしまいました。千年前の清少納言と気持ちが通じ合ったような気がして、何となく嬉しかったです。

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月宮の人

2009-06-13 20:50:00 | 図書室3
 平安時代の歴史小説を中心に紹介している「図書室3」ですが、私は古代から江戸時代中期頃までの歴史小説を好んで読んでいます。そこで今回は、戦国~江戸初期を舞台にしたこの小説を紹介します。

☆月宮の人 (上巻)
 著者=杉本苑子 発行=朝日新聞社

内容(「BOOK」データベースより)
 花は根に鳥は古巣へ帰るなり…。男の手から手へ、無常な戦国乱世を生きたお市御寮人、お江、淀殿。徳川の礎を固めるため後水尾天皇に嫁いだ将軍秀忠の末娘・和子。女系三代にわたる絢爛の歴史小説。

☆月宮の人 (下巻)
 著者=杉本苑子 発行=朝日新聞社
内容(BOOK データベースより)
 行く手を照らせ中空の月。愛のない結婚に徳川の女の命を託し、女帝明正天皇の母となった家光の妹・東福門院和子。春日局の怨念と宮中に渦まく憎悪。女の悲しみと喜びを描く流麗雄渾の叙事詩。

*この本は、昭和63年に朝日新聞社から単行本が出版され、その後、朝日文庫から文庫化されましたが、現在では絶版のようです。興味を持たれた方、図書館か古書店を当たってみて下さい。なお写真は、私が所持しているハードカバーの単行本の表紙です。


 「この小説が大河ドラマになったら面白いかも…」と、私は読みながら何度か思いました。

 何しろ舞台になっている時代は、永禄年間から寛文元年(1661)まで、約100年間、小説の舞台も近江から始まり、越前、尾張、山城の淀城、そして、江戸、京都…。とにかくスケールが大きいです。
 また、最近の大河ドラマは「これが戦国ものなの?」と思えるような生ぬるい展開のものが多いですが、この小説にはシビアな人間関係や、前半部分を中心にはらはらどきどきさせられる場面もかなり出てきます。お江の自害騒ぎなど、その最たるものでした。

 それに、戦国から江戸初期にわたる激動の時代を扱っているだけに、登場人物もとても豪華です。

 この小説は本の内容紹介でもわかりますように、信長の妹で浅井長政の妻となり、小谷城が落城して夫長政と死別、その後、柴田勝家と再婚し、結婚後半年で柴田の北ノ庄城を秀吉に攻められ、夫とともに自害をしたお市御寮人、天下人豊臣秀吉の側室となって秀頼を生み、大阪城落城とともに自害をした茶々(淀殿)と、2度の離別の末に徳川二代将軍秀忠の妻となったお江姉妹、秀忠とお江の娘で江戸から後水尾天皇の許に入内し、800年ぶりの女帝、明正天皇の母となった徳川和子(東福門院)を中心にした歴史を、3人の人物の語りによって物語るというスタイルで書かれています。上で書いた4人以外の主な登場人物を挙げてみると、浅井長政、柴田勝家、豊臣秀吉、茶々やお江の姉妹の初(京極高次の妻)、前田利家の正室のまつ、佐治与九郎(お江の最初の夫)、徳川秀忠、竹千代(後の家光)、国松(後の忠長)、お福(後の春日局)、そして後水尾天皇、中和門院(後水尾天皇の母)…。武家から皇室まで幅広いです。

 何よりも、3人の語り手がとても魅力的です。モデルはいるのかもしれませんが、多分、作者の創作したオリキャラだと思われるのですが、3人とも小説の中にすーっと溶け込んでいて違和感を感じません。

 そこで、3人の語り手について紹介してみたいと思います。
*以下、ネタばれがかなりふくまれています。まだ読んだことのない方はご注意を…。

☆最初に語る女 井之口ノ尼

 弘治二年(1556)生まれ。北近江の豪族、井之口弾正が身分の低い女との間にもうけた息子と、名もない百姓娘との間に生まれた娘。浅井長政の母は井之口弾正の娘なので、彼女は浅井長政の母方のいとこに当たるが、母親の身分が低かったために豪族の姫として扱われず、両親も早死にしたため幼い頃に出家させられた。俗名は「ちょま」。

 9歳の頃、ふとしたことで北近江に住み着いた教養のある旅の尼と出会い、彼女から文字や古典文学を学んだ。そのようなわけで当時の女性としては高い教養を身につけた井之口ノ尼は、17歳の時、茶々やその妹の初の家庭教師として小谷城に召し出される。しかし、間もなく小谷城は落城、浅井の縁者である尼は、井之口家の使用人とともに身分をかくし、琵琶湖を渡って対岸の今津に逃れた。

 井之口ノ尼は間もなく還俗して結婚、夫とも仲睦まじく幸せな日々を送っていたが、本能寺の変の直前、夫が不慮の死を遂げた。そこで再び得度。間もなく、ふとしたことでお市親子に再会し越前北ノ庄へ。その後、お江の最初の結婚に付き添って尾張へ。お江の結婚相手は、織田信雄(信長の次男)の家臣、佐治与九郎だった。2人は仲睦まじく、尼も平穏な日を送る。

しかし、お江の幸せは5年あまりしか続かなかった。小田信雄の解役とともに家臣である佐治家も取りつぶされ、お江は与九郎と離縁させられる。お江は淀城の姉、茶々のもとを訪れていたが、もう一人の姉、初の手紙で突然そのことを知らされ、絶望して自害しようとして井之口ノ尼に止められる。その時、尼は足に大けがをし、淀城を去る。

 その後、お江は秀吉の甥、秀勝に嫁がされるが間もなく死別、続いて徳川家康の子、秀忠のもとに嫁いだ。井之口ノ尼は再びお江に召し出され、江戸に下った。

 なお、井之口ノ尼の語りは、「~じゃ。」という、おばあさんの昔語りのような口調で、彼女が淀城で大けがをする場面で終わっている。


☆つぎに語る男 曾谷宗祐

 天正十四年(1586)生まれ。井之口ノ尼の夫の兄の息子、つまり、尼の義理の甥に当たる。

 宗祐の父は近江の今津の町医者であった。ちなみに、井之口ノ尼の夫も腕の良い医師だった。宗祐も父のあとを継いで医師となり、今津で父を助けて働いていたが、「町医者で終わりたくない」と密かに思っていた。

 そんな折り、徳川家で子供医者(今で言う小児科の医師)を探しているので江戸に下ってこないかと、井之口ノ尼から誘いを受け承知、慶長十六年(1611)、江戸に下った。

 江戸では将軍家の子供医者として働くかたわら、秀忠から重要な密命を告げられる。つまり、秀忠の末娘、松姫は、将軍家と朝廷を結ぶため、後水尾天皇への入内が決まっていた。そこで宗祐は、松姫とともに京に上り、松姫の健康を守るかたわら、朝廷の情勢を江戸に報告するように告げられたのであった。
 紆余曲折はあったものの、松姫は「徳川和子」と名を換え、元和六年(1620)、後水尾天皇の後宮に入内する。

 なお、宗祐の語りは「~である」「-~だ」という感じで、宗祐の江戸下向から和子の入内直後までが語られている。また宗祐は、正義感が強く、曲がったことが大嫌いで、何でも筋を通さなければ気がすまない性格の持ち主である。


☆最後に語る女 近江ノ局

 天正十二年(1584)生まれ。駿河国出身。本名は「卯女)。

 一度結婚して娘をもうけたが夫と離別。娘を実家に預け、松姫の乳母となった。新しく子供医者として江戸城に赴任してきた曾谷医師に思われ、結婚を申し込まれるが、自分が一度結婚していること、曾谷医師より年上であること、松姫のそばに終生仕えていたいことなどを理由に断る。後に、近江ノ局と曾谷医師は和子(松姫)を守る同士のようになっていったようである。

 元和六年(1620)、和子や曾谷医師とともに上京。和子の忠実な乳母として、またよき相談役として終生、宮中に仕えたようである。

 なお、近江ノ局の語りは「~でございます。」という、女房の昔語りのような口調で、和子が入内して3年後、和子懐妊の兆しがあらわれてくる頃から寛文元年(1661)の小説のラストまでが語られている。


 さて、この小説を読んだ感想ですが、心に残ったのはやはり、「女の強さ」です。

 あくまでも実家の織田家のために生きたお市御寮人、権力者の妻となり、その子供を産むことで、織田・浅井両家の天下取りを目指した淀殿とお江、将軍家と朝廷の対立により、後水尾天皇から憎まれながら、次第に朝廷と同化し、後水尾天皇の心を少しずつ和らげていった和子、生き方は違いますがいずれも、女としての強さ、たくましさを感じてすがすがしかったです。

 ただこの小説、どちらかというと前半の方が面白いです。語り手も、井之口ノ尼や曾谷宗祐の個性の強さに比べると、近江ノ局はちょっとおとなしいように思えますし、和子も母や祖母に比べると多少影が薄いような気がしました。それと、私は江戸時代の朝廷や公家にも興味があるので、後水尾天皇の後宮の様子や宮廷行事などの描写を面白く読めたのですが、波乱に富んだ戦国ものを期待されている方にはこれら宮廷生活の描写はやや退屈に思われるかもしれません。

 あと、浅井三姉妹の次女で、京極高次の妻となった初にも、もう少しスポットを当てて欲しかったです。没落した京極家を再興した 初も、淀殿やお江と同じくらい、たくましい女性のような気がするのですが…。

 と、とりとめもなく、長々と書いてしまいましたが、全体的には登場人物が生き生きしていてとても面白い小説でした。最初にも書きましたが、登場人物が膨大で製作費用がたくさんかかりそうですし、天皇家のことが色々出てきて問題はあるでしょうけれど、この小説を原作にした大河ドラマを見てみたいような気がします。ラストシーンの、和子と後水尾法皇(その頃はすでに退位、出家していますので)の仲睦まじい姿を見て、「宮中も人の心が通じる場所だった」と近江ノ局が述懐し、背景に修学院離宮の池が月に照らされて輝いている場面は感動的で、いつまでも心に残りました。

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日曜日のお出かけ

2009-06-07 19:00:34 | えりかの平安な日々 04~09
 サッカー日本代表がワールドカップ出場を決めましたね。開催国の南アフリカを除けばワールドカップ出場決定一番乗りとか。
 そう言えば前回の大会の時も、出場決定一番乗りだったと思います。4年前、思わずこちらの掲示板に書いてしまったことを覚えていますので…。ただ、その時はまだ旧掲示板の時代だったので、私のパソコンの中には文章が残っているのですが、過去ログは残っていません。すみません…。
 いずれにしても、日本代表にはワールドカップ本番でも頑張って欲しいです!

 さて、日曜日は家にいることが多い私ですが、今日は珍しくお出かけ。だんなさんが通院している病院の患者の会でバーベキュウに行くというので、だんなさんと一緒に参加してきました。患者の会主催と行っても、参加者の半分は患者さんの家族と病院のスタッフのようでしたし、患者さんもだんなさんも含めて症状の軽い人が多いようでした。

 それで、行った場所は静岡市内から車で30分ほど行った、志太郡岡部町というところの山の中。山の中の景色を写真に撮ったので、本記事の上の方に載せてみました。緑も多く、川も流れていてのどかです。携帯電話も圏外になっていました。

 そして、実はこの岡部町、だんなさんが生まれたところなのです。
 だんなさんのお父さんは元小学校教員なのですが、最初の赴任地が岡部町だったそうで、だんなさんはこの町で生まれて4歳までを過ごしたのだそうです。当時は近所に家もほとんどなく、洗濯物は川の水で洗い、バスは1日3回しか来ない、不便なところだったとか。
 現在はその頃に比べるとだいぶ便利になっているようですが、それでもまだ自然がたくさん残っています。私も久しぶりに森林浴が出来たようで満足、満足。
 焼き肉や焼き野菜もおいしくて、たくさん食べました。最後に焼きそばを食べたのですが、ちょっと食べ過ぎてしまって苦しくなってしまいました。ああ、また太ってしまうかな。

 そのあと、会場を移動してまずビンゴゲーム。私は33人中4番目にビンゴになったので、好きな景品を持っていっていいと言われました。でも、景品はビニールで包まれているのでさわっただけではよくわかりません。一つ、さわった感じが敷物のような物があったのでそれにしました。でも、開けてみたらゾウリでした。まあ、ゾウリも我が家のベランダで使えるからいいか~。

 そして、残りの40分間がカラオケとなりました。大人数なので歌えないかと思っていたのですが、1曲だけ歌うことが出来てこちらも満足です。こうして、充実した楽しいひとときを過ごすことが出来ました。ご一緒した皆様、ありがとうございました。

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第75代 崇徳天皇

2009-06-02 16:26:40 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1119~1164
☆在位期間 1123~1141

☆両親
 父・鳥羽天皇 母・藤原璋子(藤原公実女)
*崇徳天皇は白河天皇の皇子であるという説もありますが、ここでは通説通り鳥羽天皇の皇子として話を進めさせていただきます。

☆略歴

 名は顕仁。鳥羽天皇の第一皇子。

 元永二年(1119)五月二十八日、三条西殿において誕生。保安四年(1123)正月、5歳で皇太子に立てられ、翌月即位しました。顕仁親王は白河上皇に大変かわいがられ、5歳での即位にも上皇の意志が強く動いていたと言われます。

 しかし大治四年(1129)、白河上皇が崩御し、鳥羽上皇による院政が始まると、崇徳天皇の運命は一変します。鳥羽上皇は次第に崇徳天皇の母である待賢門院璋子を遠ざけ、藤原得子(のちの美福門院)を寵愛するようになります。得子は保延五年(1139)に躰仁親王を生みました。
 するとたちまち鳥羽上皇は躰仁を皇太子に立て、、その2年後に崇徳を退位させ、躰仁親王を即位させます(近衛天皇)。こうして崇徳は、権力のない上皇となってしまったのでした。実は崇徳は白河上皇の子であるという噂があり、鳥羽上皇も、「あれは叔父子だ。」(白河上皇は鳥羽上皇の祖父なので、祖父の子、つまり叔父だということでしょうか)と言っていたようです。つまり、鳥羽と崇徳の間には埋めることのできない確執があったようなのですよね。

 しかし、崇徳上皇は、我が子の重仁親王の即位を信じて待ち続けました。そして久寿二年(1155)、近衛天皇が17歳の若さで崩御したとき、「ついに願いがかなう」と期待を膨らませたに違いありません。しかし、即位したのは弟の雅仁親王(後白河天皇)でした。そしてその皇太子には雅仁の子、守仁が立てられます。こうして崇徳の望みは絶たれてしまったのでした。

 それでも、「鳥羽上皇が崩御すれば何とかなる」と崇徳上皇は思ったのでしょうか。翌保元元年(1156)七月、かねてから重病だった鳥羽上皇が崩御すると、摂関家内で不遇な立場にあった藤原頼長と手を結び挙兵しようとしますが、藤原忠通・後白河天皇方の兵の思わぬ奇襲攻撃にあって敗北します(保元の乱)。頼長は逃亡中に討ち死にし、崇徳は讃岐の白峯に配流されてしまいます。そして8年後の長寛二年(1164)八月二十六日、京に帰ることなく流刑地でその波瀾の生涯を閉じました。

 崇徳上皇の崩御後、世の中では悪天候や飢饉など凶事が続き、「これは上皇の怨霊である」と恐れられます。そこで、治承元年(1177)、朝廷は「讃岐院」の称号を改めて「崇徳院」の諡号を贈りました。更に粟田宮を建立し、その霊を慰めました。

 崇徳上皇は和歌にすぐれていたことでも知られます。『詞花』以下の勅撰集にも80首近く入集し、「瀬を早み 岩に堰かるゝ 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」は「百人一首」にも採られていて有名です。

       (参考)「平安時代史事典」


☆父方の親族

祖父・堀河天皇 祖母・藤原苡子(藤原実季女)

主なおじ
 寛暁 最雲法親王

主なおば
 宗子内親王(賀茂斎院 「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) 喜子内親王(伊勢斎宮) 


☆母方の親族

祖父・藤原公実 祖母・藤原光子(藤原隆方女)

おじ
 藤原実隆 藤原実行 藤原通季 藤原実能 藤原季成

おば
 女子(源有仁室) 女子(藤原経実室)

主ないとこ
 藤原公教(父は藤原実行)
 藤原公通(父は藤原通季)
 藤原公能・藤原幸子(藤原頼長室)・藤原育子(二条天皇中宮) (以上、父は藤原実能)
 藤原成子(高倉三位 以仁王・式子内親王などの母 父は藤原季成)
 藤原懿子(二条天皇母)・藤原経宗(以上、母は藤原経実室)


☆兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 ○雅仁親王(後白河天皇) ○通仁親王 ○君仁親王 ○本仁親王(覚性法親王) *近衛天皇

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 ○統子内親王(上西門院) ○禧子内親王 *子内親王(八条院) *(女朱)子内親王(高松院) *叡子内親王 *妍子内親王(伊勢斎宮) *頌子内親王(賀茂斎院)

主なおいとめい

 守仁親王(二条天皇) 憲仁親王(高倉天皇) 守覚法親王 以仁王 静恵法親王 亮子内親王(慇富門院) 式子内親王 観子内親王(宣陽門院) 以上 父は後白河天皇
 海恵(母は(女朱)子内親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原聖子(藤原忠通女 皇嘉門院)

 兵衛佐(法勝寺執行信縁女) → 重仁親王


☆末裔たち

 崇徳天皇のあとは、異母弟の近衛天皇、続いて同母弟の後白河天皇が即位し、結局皇位は後白河の子孫たちに受け継がれることとなりました。そのため、崇徳天皇の系統は皇位につくことはできませんでした。

 そこで、ここでは崇徳天皇が即位を熱望していた重仁親王について、簡単に述べたいと思います。

・重仁親王(1140~1162)
 崇徳天皇の第一皇子。母は法勝寺執行信縁女、兵衛佐。
 兵衛佐は中宮、藤原聖子の女房でしたが、天皇の寵愛を受けて重仁親王を生みました。重仁はその後、藤原得子(美福門院)に引き取られて成長します。
 永治元年(1141)に親王宣下され、久安六年(1150)に元服、三品に叙されます。
 久寿二年(1155)、近衛天皇が崩御すると、父の崇徳天皇に帝位を期待されますが、雅仁親王の即位(後白河天皇)によってその望みを絶たれます。

 翌年、保元の乱が起こると、女房車で仁和寺に逃れようとして捕らえられます。のち、仁和寺に入って出家、応保二年(1162)正月二十八日に薨去しました。何か、父崇徳の悲運を背負い込んでしまったような、短くて気の毒な生涯のように思えます。


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