平安夢柔話

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大河ドラマ「義経」第38回&今回の重衡を巡るエピソードについて

2005-09-29 21:38:09 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第38回の感想です。

 今回は久しぶりに重衡が出てきました。重衡ファンの私にとってはとても嬉しかったです。
 でも今回のように、彼が伊豆で頼盛と会っていたり、道中で宗盛と偶然会うということは、絶対にあり得ないことなのですよね。このことに関してはのちに述べることとして、まず感想を書きますね。

 景時が頼朝宛に送った書状の内容を詳しく知っているおとくばあさん。
 「あなたはいったい何者なの?」と言いたくなってしまいます。おとくばあさんは京都ばかりか、鎌倉にも情報網を持っているのでしょうか?それとも神通力でもあるのでしょうか?
 景時の書状の内容を義経に知らせに来たおとくばあさんは、それだけ義経のことを心配していたのでしょうけれど、このような絶対にあり得ないエピソードを入れられるとかえってしらけてしまいそうです。

 義経に絶縁宣言をする景季くん。
 景季の存在意義とはいったい何だったのか考えてしまいます。宇治川の先陣争いや重衡生け捕りといった見せ場をカットされ、ひたすら義経に心酔しきっていたのに、今回は「鎌倉からおふれが出ているから」と、義経に絶縁宣言ですか?!…。と言うことは、今度は敵方として義経を尋問するために、上洛してくるのかもしれませんね。
でも、あれほど義経に心酔しきっていた彼に、果たして尋問なんてできるのか、やはり不安です。

 そして義経は相変わらず、自分の立場が全然わかっていないようです。
 「京を離れる時に法皇さまに官位をお返しする。」と言っていたのに、宗盛親子を護送するために京を発つ時に、官位を返した様子もなかったですよね。
 また頼朝からは「勝手に任官した者は墨俣川を超えてはならぬ。」と言われていたのに、「あの書状には私の名前はなかったから関係ない。」と考えているあたり、かなり脳天気です。と言うか、義経には「私は鎌倉殿の弟だ。他の御家人とは違う。」「自分は特別だ。」という、思い上がった気持ちがあったように感じられてならないのです。
 そして腰越にて、時政から「九郎殿は腰越で待たれよ。鎌倉に入ることはならぬ。」と言われた時、「宗盛親子を護送してきたのに鎌倉に入れぬとは、法皇さまをないがしろにする行為である!」と騒ぎ立てる弁慶をはじめとする義経の郎党達…。「こんな所で法皇さまの名前を出すことは、義経は法皇さまの家来であると公言していると一緒なのに…。この郎党達、まるで物事がわかってない!」と思いました。忠義心は強いかもしれないけれど、こんな風に物事がわかっていない郎党にしか恵まれなかったことが、義経にとって大きな不幸だった……と、強く思わずにはいられません。勿論このドラマにはかなりのフィクションがあちらこちらに散りばめられているので、このドラマを観ただけで義経主従のことを判断することは出来ないと思っています。それはわかっているのですが、どうしても怒りやあきらめ感が湧き起こってしまうのですよね。

 さて、最初の方で書いた重衡登場の話をさせていただきますね。

 とにかく、「重衡はかっこいい!」の一言に尽きます。自ら南都に赴き、死に臨もうとするいさぎよさ、裏切り者の頼盛に対しても、捕虜になってしまった宗盛にも心づかいを忘れないところを観ていてほれぼれしました。
 しかし、最初にも書いたように、頼盛や宗盛との対面は完全にドラマのフィクションなのです。では、そのあたりをお話しさせていただきますね。

 話は前後しますが、まず宗盛との対面の話から書かせていただきます。

 「南都の僧に引き渡されるために奈良に向かう重衡は、鎌倉に向かう義経一行と道中で出会い、宗盛と涙の再会をした……」ということに、ドラマではなっていました。「平家が滅んだのはわしのせいだ。」と言う宗盛を重衡が慰めていましたよね。
 しかし、私はこの場面を観てかなり不自然に感じました。囚人同士がこのように会話などできるわけがないということもそうですが、「鎌倉に護送された宗盛が再び京に向けて出発した日と、重衡が南都に向かうために鎌倉を発った日は同日だったのではないだろうか?」と思ったからです。色々調べてみたところ、やっぱり同日のようでした(六月九日)。つまり、重衡が南都に送られたのはこの時期よりもう少し後のことになります。

 そして重衡と頼盛の対面ですが、こちらもドラマの話自体はかなり感動的でした。「わしは平家を裏切った。すまぬ、すまぬ。」と言っておきながら、暗に南都行きを重衡にすすめているという、何を考えているかよくわからない頼盛に対して、「私は南都へ行きましょう。」ときっぱり言う重衡。人間の大きさが違うなと感じました。
重衡にとっては南都へ行くということは死を意味します。彼の心中を思うと私も切なさでいっぱいになりました。
 しかし……、元暦二年五月のこの時期、頼盛が東国にいるということは絶対にあり得ないのです。
 ではここで、頼盛の生涯を簡単に紹介しますね。

平 頼盛(1132?~1186年)
 父・平忠盛 母・藤原宗子(池禅尼)、 つまり、清盛の異母弟です。

 久安二年(1146)に皇后宮権少進に任じられ、以後右兵衛佐・大皇太后宮亮・大宰大弐、数カ国の受領などを歴任し、仁安元年(1166)に従三位に叙されました。
最終的には正二位権大納言に昇進しています。
 頼盛は忠盛の正妻の子でしたのでかなり優遇されていたと思われます。そのためか、早くから清盛と一線を画すような所もありました。
 また、彼の妻が平家と対立する八条院璋子内親王の女房であったところから、八条院の許にも出入りしていました。後白河法皇の側近のような立場であったことも考えられます。
 というのも、治承のクーデター(治承三年十一月)の時、清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉すると同時に、法皇側近の公卿や殿上人の官位を剥奪したり解官したりしていますが、その中に頼盛も入っていたからなのです。頼盛はその時権中納言兼右衛門督でしたが、そのうちの右衛門督を解官されました。つまり頼盛は、この時点では完全に法皇側近の公卿として行動していたということになります。

 寿永二年七月、平家一門は都落ちをして西国に向かうこととなるのですが、頼盛は途中まで一門と一緒に行動するように見せかけておいて、そのまま都に引き返してしまいました。そしてその年の十月、頼朝を頼って鎌倉に下向しました。
 頼朝にとって頼盛の母池禅尼は命の恩人でした。平治の乱のあと平家方に捕らえられた頼朝の命乞いをしたのが池禅尼だったからです。そのことが、頼盛を平家一門から孤立させる原因にもなったのですが……。頼朝にとっては命の恩人の子息ですから、鎌倉に下向した頼盛は、客人として大切に遇されていたと考えられます。
 翌元暦元年四月、頼朝から没官領(もっかんりょう)を返還され、六月に帰洛しています。元暦二年五月二十九日、病のため東大寺にて出家、翌文治二年六月二日に薨じました。

 頼盛は平家滅亡後、次第に気鬱の病のようになっていったと言われています。彼が出家した原因は、一門を裏切ったことへの自責の念だったのでしょうね。きっと…

 そのようなわけで、ドラマで描かれていた元暦二年五月初め当時の頼盛は、次第に気鬱の病が重くなり、出家を考えていた時期だったのです。何よりも頼盛はその前年六月には帰洛しているのですから、そもそも鎌倉や伊豆にいるわけがありません。
でも、安徳天皇と守貞親王のすり替えといった歴史の大捏造を観たあとでは、このような時間の矛盾が何か可愛く思えてしまいます。

 さて、義経が腰越状をしたためるのはどうやら次回のようですね。腰越状の宛名は大江広元(その頃は中原家の養子だったので正確には中原広元と名乗っていたのですが…)なのですけれど、そのあたりを正確に描いてくれるかがとても心配です。
 そしてもっと心配なのが重衡処刑の場面です。予告の画面には、感情むき出しの輔子が映っていましたが…。何かとんでもないことになりそうな予感がします。
 とにかく次回もしっかり観ようと思っています。
   

日帰り京都旅行2005年夏10 ~昼食

2005-09-27 15:30:10 | 旅の記録
 さて、展示を一通り見終わったあとは、博物館の中にある和食の店にて昼食をとりました。この店は「創業天明八年という、水だき 懐石の鳥彌」さんの文化博物館店で、『あざみ』と言う名の入り口がちょっと高そうな感じで、入るに考えてしまう代わったツクリの店でした。
 案内されたのは地下1階の畳の部屋。小さな庭があり、何となくお茶室を思わせるような上品な感じの部屋でした。テーブルは4卓有り、初め、客は私たちだけだったのでとても静かだったのですが、そのうち3グループほどのお客さんが入ってきて、たちまち満員になってしまいました。

 十二単を着たり、あちらこちらを歩き回っておなかがすいていたので、私は天ぷら定食を注文しました。えびや魚、なす、ピーマンといった何種類もの天ぷらがお皿にのっていました。揚げたての天ぷらはとてもおいしかったです。みそ汁や煮物も味が薄くて私好み(私は薄味が好きなので)でした。だんなさんは鶏の照り焼き定食を注文しました。今思うとお料理の写真を撮っておけば良かったと思ったりします。

 話が前後しますが、注文した食事が来るのを待っている時間を利用して、「私の掲示板をチェックしなきゃ。」と思って携帯電話を取り出しました。約1ヶ月前に買い換えたばかりのfomaの携帯電話です。そしてこの新しい携帯電話、携帯対応にはなっていない私の掲示板も見ることができるのです。「どなたか書き込みに来て下さっているのでは……」と思い、わくわくしながらアクセスしてみたのですが、なぜかつながりませんでした。そう言えばさっきも電話がつながらなかったのですよね。京都文化博物館全体が圏外なのだと思い、「まあ、仕方がないか…」と思って携帯電話をバッグにしまいました。

 おいしい物を食べて満足した私たち、次は後白河法皇ゆかりの法住寺・三十三間堂方面に向かうためにタクシーを呼ぶことにしました。何しろ日帰り旅行ですから時間がないため、タクシーでの移動の方がずっと時間を短縮できるからです。
 博物館の中は圏外だとわかったため、外に出てタクシー会社に電話をかけました。だんなさんの携帯電話は水にぬれてしまったため、もちろん私の携帯電話を使おうとしたのですが……、何回かけてもつながりませんでした。仕方がないので博物館の中にある公衆電話から電話をかけることにしました。
 その時思い出したのは、『fomaの携帯電話は色々な機能がついていますが、電波の状態が弱くて、圏外の所がまだまだ多いですよ。』というNTTドコモの担当者の言葉でした。
まだ圏外になってしまう場所が京都でもたくさんあるんだ。この辺はビルも多く、圏外になってしまうのだろうな。それに京都文化博物館のあるあたりはJRの線路から少し離れているし…と思って、勝手に納得していました。

 そんなことを考えているうちにタクシーが来ました。タクシーに乗り込み、次は後白河法皇ゆかりの法住寺に向かいます。

近況&最近思うこと

2005-09-26 22:14:58 | えりかの平安な日々 04~09
 タイトルの通り、私の近況と最近思うことを書いてみますね。

1.パソコン絶不調

 23日(土)、私のパソコンが一日中ご機嫌斜めでした。

 午前中は使用中に突然電源が切れてしまいました。内部で温度が上がったせいだったようで、すぐに直りましたけれど…。

 そして夜、私の掲示板「えりかの談話室」を見ていたら突然画面が消えてしまいました。キーボードを押しても何の反応もないので、仕方なく強制リセットをして立ち上げ直しました。すると、なぜかインターネットへの接続もメールの送受信もできなくなってしまっていたのです。こうなると私は対処できませんので、だんなさんに泣きつきました。
 そこでだんなさんがすべての電源を切った後、インターネットにつないである線を全部はずし、何やら点検をしてからつなぎ直してくれました。その結果無事につながったので一安心……。ところがインターネットの不具合は治ったものの、しばらく使用していたら、またまた朝と同じようにパソコンの内部の温度が上がって電源が切れてしまいました。

 幸い、昨日と今日はそのようなこともなく無事に動いていますが、このパソコン、そろそろ買い換えた方がいいかもしれません。それでだんなさんの言葉に従って、来月の末あたりに新しいパソコンを買うことになると思います。現在の私のパソコンは多分、いつ壊れても不思議ではない状態なのでしょうから…。そのため、突然更新と掲示板のレスづけが滞る可能性があります。どうかその時はご了承下さいますよう、よろしくお願いします。


2.本当にあきれます…

 9月12日の日記と同じく政治ネタです。決して自民党をけなしたり、野党をほめているわけではありませんので、「こんな考え方をする人もいるのね。」と思って簡単に読んで頂けますと幸いです。

 今回の衆議院選挙では、本当にたくさんの新人議員が当選しました。その中にはもちろん、苦労をした人、自分の信念をしっかり持っている人、政治というものをしっかり勉強してきた人もたくさんいると思います。
 しかし中には、「この人、議員バッジの重みと責任をどこまでわかっているのかしら?」と首を傾げてしまいたくなるような言動の人もいます。「料亭に行ける」「新幹線は乗り放題」「意外と忙しいのね」というような言動は問題外ですが、「郵政法案についてはこれから勉強します。」という言動もあきれてしまいました。「あなたは小泉さんの郵政民営化法案に賛成して、国会で成立させようとして選挙運動をしてきたのではないのですか?それなのにその法案について、これから勉強するというのですか?」と、思わずつっこみたくなってしまいました。
このような議員を国民の税金で養っていること、そしてこのような議員達が当選したおかげで、たくさんのもっと有能で今必要な議員が多数落選したことを考えると、本当にやり切れません。
 また、誰一人反対意見を言えなくなってしまったという状態がとても怖いなと感じます。いったいこれからこの国の政治はどうなることでしょうか…。難しいことはよくわからない私ですが、テレビで評論家など、色々な人の話を聞いていると、ますます心配になってきます。

 余談ですが、23日朝の報道番組に、塩川元財務大臣がコメンテーターで出演していました。新人議員達の発言集のVTRを見た塩川さんは、『カルチャーセンターか幼稚園と間違えてるとちゃうかな。心配やな。』と言っていました。「その通り」だと思い、思わず笑ってしまいました。

 とにかく新人議員の皆様には、、国家を背負っているのだという責任を自覚し、国民の幸せのために頑張っていただきたいものです。
 

大河ドラマ「義経」第37回&建礼門院

2005-09-22 20:18:24 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第37回の感想です。

 歴史的なことはもちろんですが、TVドラマとしての物語そのものもつじつまが合わず、つっこみ所満載で、どのように感想を書いていいかわからなくなってしまいました。取りあえず今回も思いついたことを少し書かせていただきますね。

まずドラマの最初の方で義経が、「宝剣を捜さなくては…」と言っていましたが、「おいおい義経くん、あなたは合戦が終わってから今まで、宝剣を捜そうとせずゆっくりしていたの?」と思わずつっこんでしまいました。そう言えば義経くん、おとくばあさんを相手に昔をなつかしんでいたり、能子と海岸で会っていたりといやにのんびりしていたような…。
 本来なら壇ノ浦合戦が終わったあとの義経は、きっと郎党達に命じて血眼になって宝剣を捜していたはずだと私は思います。

 「三種の神器があればこちらで新しい天皇を立てられたのに。」と言う時政さん。
 一瞬「その通りだよね。」と思いましたが、この時代の武士はまだまだそこまでの力はなかったのではないだろうか?と再び考えてしまいました。
 ただ義経は、「三種の神器のうち宝剣を除く二つを手に入れましたが、後白河法皇に返すべきでしょうか?それとも兄上の許に持っていった方がよいでしょうか?」と、頼朝におうかがいを立てるべきだったように思えます。

 「鎌倉殿は九郎殿の心中を疑っているということを父上が言っていました。」とわざわざ教えに来る景季くん。
 景季は確か、この時期から間もなく、頼朝に反抗している動きのある義経を尋問するために派遣されてくるはずなのですが、これでは壇ノ浦合戦が終わったこの時期でも義経に心酔しているように感じられます。これで尋問なんてできるのか心配になってきます。となると、景季が義経を尋問する場面はこのドラマではカットになるのでしょうか?
 それにしても、「兄上から疑われる理由がわからない。」という義経くん……。
義経が頼朝から疑われている一番の理由が、「総大将である兄頼朝の許可なく、自分の大将でもない後白河法皇から官位をもらってしまったという、義経の信じられない行動にあるのだろう。」というそのことが全くわかっていないようですね。「官位は京を離れる時に法皇様にお返しする。」って……。
義経くん、あなたは何を甘えたことを言っているの?「今すぐ返しなさいよね。そしていったん鎌倉に帰った方がいいよ。」とつっこんでいました。

 そして、相変わらず武士のことがちっともわかっていない義経の郎党達……。この義経主従を見ていると、頼朝から疑われたり追われてしまったりする理由がわかるような気がしてきます。だんなさんは、『本当にこのような行動を義経が執っていたとするならば、頼朝から追討されて当たり前だ。俺が頼朝であっても、同じ命令を発する。』と、これまでの義経の色々な言動に対して呆れていました。

 そして今回の極めつけのつっこみ所は、義経と建礼門院の対面のシーンでした。

 この義経と建礼門院の対面の場面の話を一言で言うと、安徳天皇と守貞親王のすり替えを疑っている義経から、建礼門院は我が子を必死になって守り抜いた。そして義経もこのことに関してはすべて自分の胸に納めた……ということでしょうね。
 確かに建礼門院の母親としての立派な態度には感動しました。しかし同時に、「安徳天皇と守貞親王のすり替えの話はこれで一件落着なの?そんな馬鹿な!」という気がしました。たったこれだけの話なら、どうして歴史の事実を変えてしまうようなすり替え劇をやってのけたのか?私にはどうしても納得できません。

建礼門院は、「親王は出家させて俗世から絶つ」と言っていましたが、守貞親王が出家をしたのはこの時点から約30年後の建暦二年(1212)です。しかも彼は承久の変後、息子の即位によって「後高倉院」と称され、院政を行うことになるのですから…。俗世を絶つどころか、後には【歴史の表舞台に登場してしまう】のです。

 またドラマでは、元暦二年五月と思われるこの時期に、建礼門院はすでに大原入りをしていたように扱っています。しかも彼女のそばには大納言典侍(輔子)、廊の御方(能子)、治部卿局(明子)がいたようですが、これもおかしいと思いました。

 輔子は建礼門院の出家後に、以前と同じ様に建礼門院に仕えることになるのですが、元暦二年五月のこの時期は日野に住む姉の許に身を寄せていました。その後間もなく、処刑されるために南都へ送られる途中の夫重衡と、そこで対面することになるのです。輔子が建礼門院に再び仕えるのは、早くてもこの年の秋頃ではないでしょうか。
 能子に至っては、壇ノ浦から帰洛後は藤原兼雅室に仕えることになりますので、そもそも建礼門院のそばにいた事実がありません。

 そして今回もっとも大きなつっこみ所は、守貞親王が建礼門院と一緒にいた事実がないことです。守貞親王は都に還御されたすぐあと、母方の叔父に当たる藤原信清と対面しているようですし、おそらくその時に生母の藤原殖子とも対面していると思われます。その後は上西門院(後白河法皇の同母姉)の猶子となっていますので、ずっと洛中で過ごしていたはずです。
このドラマでは、守貞親王は実は安徳天皇としてしまったので、建礼門院のそばにいたことにしたのでしょうけれど…。従って守貞親王の乳母である明子も建礼門院のそばにいるはずがないのです。
 もっとつっこむと、建礼門院が出家して大原入りをしたのはもっと後だったはずです。今回ドラマであつかわれた時期にはまだ吉田にいたのではないでしょうか。

 このように、義経と建礼門院の対面の場面は歴史的なつっこみが満載でした。こうしてみるとこのドラマは、歴史ドラマとして観るより、フィクションとして観た方がいいのかなと、改めて強く思ってしまいました。

 なお平家物語によると、建礼門院は元暦二年五月に吉田のあたりにて出家し、九月に大原の寂光院に入っています。彼女はそこでその後は念仏三昧の日々を送り、建久二年(1191)に往生したということです。

 しかし、建礼門院の晩年や没年についてはさまざまな説があり、はっきりしたことはわからないようなのです。
 一説によると彼女は、建久年間に洛中に近い善勝寺に移り、藤原隆房夫妻の世話になっていたと言われています。隆房の妻は清盛の娘、つまり建礼門院の異母妹に当たりますので、あり得る話かもしれません。
 没年についても、「平家物語」の建久二年説のほか、建保元年(1213)説、貞応二年(1223)説など色々あり、はっきりしたことはわからないようです。
 そしてもっとわからないのが彼女の心中です。彼女の晩年について、史料には何も語られてはいないようです。

 平家一門は滅び去ったと言っても、藤原隆房室をはじめ、建礼門院の姉妹に当たる女性や、その姉妹たちを介してつながっている平家の血を引く人たちは、たくさん生存していました。彼女はそんな平家の血を引く人たちの世話を受けていたと思われますので、経済的、物質的にはそれほど苦労がなかったかもしれませんね。
 しかし、彼女の胸の中には我が子安徳天皇や母時子をはじめ、戦いに敗れて戦死したり入水したりしていった一門の人たちの姿が強く焼き付いていたと思うのです。それらの人たちの菩提を弔うことこそ自分の役割……と、強く思っていたのでしょうね。
 つっこみ所満載の今回のドラマですが、今回放送での建礼門院のせりふ、『出家することだけは自分の意志で決めた。』『世の中への執着はなくなった。今に生への執着もなくなるであろう。』は、案外彼女の真実の心を現しているように思えました。

 さて来週は、宗盛と重衡が再登場のようですね。そして義経は、頼朝宛に腰越状をしたためることになるようです。またまたつっこみ所満載なのでしょうけれど、しっかり観ようと思っています。

 

日帰り京都旅行2005年夏9 ~院政期の女房の装束 

2005-09-20 00:00:00 | 旅の記録
 今回の展示では、「源氏物語」の「藤裏葉」の巻から六条院行幸の場面が展示されていたのですが、その他にもたくさんの見どころの多い展示がされていました。

 平安時代の貴族たちの食事もその一つです。身分が高い人ほど高級で品数も多いようですね。当時は冷蔵庫がありませんので、干し魚や干し肉などのように保存の利く食品が中心でした。私は2年前に仁和寺で開催された「日本文化フォーラム21」というイベント(この時に始めて十二単を着たのですが)で、初めて王朝料理を頂いたのですが、なかなかおいしかったです。
 展示されている王朝料理の模型も、精密でとてもおいしそうに見えました。これを観ている時はもう12時半近くでした。そろそろおなかがすいてきたようです。

 さらに、各時代ごとの女房の装束も、実物大の人形で展示されていました。写真は、院政期の女房の装束です。平安中期の十二単よりもさらにパワーアップされていて、とても華やかで装飾品もたくさん飾られています。
 院政期というと、大河ドラマ「義経」の時代も含まれるわけですよね。建礼門院に仕えていた女房たち、大納言典侍や阿波内侍をはじめ、守貞親王乳母の治部卿局などもこのような装束を着ていたのでしょうか?
都で華やかに着飾っていた女房たちが壇ノ浦合戦に身を置き、次々と入水していった姿を思い浮かべると哀れです。

☆今回の展示は内容が多すぎて、私の力では全部を紹介することができませんでした。ここに紹介したものはほんの一部です。どうかご容赦下さいますよう、よろしくお願いいたします。

 なお、詳しい展示内容や時代背景をお知りになりたい方は、小池笑芭さんのサイト「源氏の部屋」

http://eva.genji.cc/

が超お薦めです。「源氏の部屋」内の「風俗博物館を10倍楽しむ!」

http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/costume.htm

にある、以下のコーナーをぜひご覧下さい。

展示速報(六條院行幸・京の家づと
・行幸の饗宴 ~平安時代のご馳走~
・時代ごとの衣裳・東聖観氏の作品)
明さんのレポート(六条院行幸)

 それぞれのコーナーをクリックして、存分に堪能してくださいね。

日帰り京都旅行2005年夏8 ~囲碁を楽しむ女房

2005-09-19 16:42:59 | 旅の記録
 引き続き、8月23日の日帰り京都旅行で訪れた風俗博物館さんの、京都文化博物館出張展示「六條院へ出かけよう」の展示内容を撮影した写真を載せたいと思います。

 本日の写真は、囲碁を楽しんでいる女房達です。当時の囲碁は普通、身分の高い方の人が白、身分の低い方の人が黒い石を持ちました。「源氏物語」の「空蝉」の巻に、伊予介の後妻空蝉と、その継娘軒端の荻が囲碁をする場面が出てきます。その時は多分、継母である空蝉が白い石を持っていたのでしょうね。

 それにしても何て長くて美しい髪なのでしょう!!しばし見とれておりました。

大河ドラマ「義経」第36回&清盛出生にまつわるエピソード

2005-09-15 16:52:10 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第36回の感想です。

 今週は、前半が回想シーン、後半が義経と助けられた平家の人たちとの対面の場面……。壇ノ浦が終わってしまったので一休みという感じの回でしたね。なのでこれと言った感想もないので、取りあえず思いついたことを述べてみたいと思います。

 まず前半は義経とおとくばあさんによる回想シーン。清盛や重盛、常磐御前といったなつかしい人たちがたくさん出てきて、ちょっと嬉しかったです。10日の35回の再放送でも、観てしまった知盛の入水シーンを三度観ることができたのも嬉しかったです。
 でも、この時期に総集編のようなことをするというのはちょっと疑問ですね。何かストーリーの流れがストップしてしまったような気がしました。

 そして後半の平家の人たちとの対面…。宗盛のすねたような態度は相変わらずですね。「総大将は我ではない。知盛じゃ。」と言ってしまう当たり、「どうせ私は総大将の器ではない!」ということを自ら認めているような気がして、ちょっとお気の毒にさえなってしまいました。
 そして、あまりにも悲惨な体験をしたせいか、ほとんど顔にも声にも表情のない建礼門院。通説では我が子を失ってしまっているので茫然自失ということなのでしょうけれど、このドラマでは我が子安徳天皇は生きているのですよね。そうしたこともあって、ドラマでの建礼門院がこの時いったい何を考えていたのか、私にはいまいちはっきりわかりませんでした。
 ところで、明子と輔子の表情から勧の鋭い義経は、なんとなく安徳天皇と守貞親王のすり替えに気づいてしまったようですね。そして義経はどうも、能子との対面でそのことをほぼ確信してしまったようですね。やはりこのすり替え劇は、今後の彼の人生に何らかの波紋を投げかけるのでしょうか。

 それにしても義経くん、何か暗いですね。この時が、彼の人生の絶頂期だというのに……。戦に勝った義経より、戦に負けた平家の女性達の方がずっとたくましく見えてしまいました。こんなところにも、滝沢さん演じる義経に感情移入できない要因があるような気がします。

 さて、初めの方でも書いたのですが、今回の前半は義経とおとくばあさんによる「これまでの回想」でした。

それで、おとくばあさんと清盛との関係が始めて証されましたね。
 おとくばあさんは、若き日の清盛のかぶとを作ったとのこと。でも私には、「え?それだけなの・…。」という感じがとても強かったです。

 第1回の放送でおとくばあさんは清盛に向かい、「常磐殿は清盛様の母上に似ていますぞ。」と言っていました。と言うことは、おとくばあさんは清盛の母を知っているということになりますよね。なので私は、おとくばあさんは昔、清盛の母に仕えていたのかなと思っていたのです。つまり、清盛の出生の秘密を知っているのかなと…。でも、そうではないようですね。ちょっと気が抜けてしまいました。

 そんなこともあり今回は、清盛の母とされる女性と彼の出生にまつわる話を紹介したいと思います。

 清盛の母は、正史によると不詳ということになっています。しかし、「平家物語」には彼の母とその出生にまつわる不思議な話が掲載されています。

 「平家物語」によると、清盛の母は祇園女御といい、白河法皇の寵愛を受けていた女性でした。「女御」という呼称はついていますが、正式な女御ではないようです。
白河法皇の寵愛が熱かったため、人々が「祇園女御」とあだ名していた……ということのようです。
 祇園女御の出自については、源仲宗の妻であったという説、藤原顕季の姻戚だったという説、名もない庶民の娘で、水くみ女であったという説など色々あるようで、はっきりしたことは全くわかりません。

その祇園女御がなぜ清盛の父、平忠盛と関わることになったのでしょうか……。

 白河法皇は、側近の公卿や北面の武士を連れて祇園女御の許に通っていたようです。
 五月二十日余りの五月雨の降りしきる夜、法皇はいつものように側近の公卿や武士若干名を連れて祇園女御の許に向かっていました。
 女御の家のそばには御堂があったのですが、一行が御堂の前を通りかかるとそこから怪物が出てきたのです。頭は銀色に輝き、片方の手で鎚のようなもの、もう片方の手で光るものを持っていました。
 それを見た法皇は、「この怪物を退治できるのは平忠盛しかいない。」と思い、一行の中にいた忠盛に怪物退治を命じました。
 忠盛は、こやつはそれほど強くない。」と判断し、生け捕りにしようと怪物に抱きつきました。すると怪物は、「これ、何をする。」と叫びます。そうです、怪物ではなく人間だったのです。
 怪物だと思った男に灯を当ててみると、それは60歳くらいの法師でした。
 法皇は、「討ち取らずに生け捕りにしようと思ったところはさすが忠盛じゃ。」と感心し、自分の寵愛する祇園女御をほうびとして忠盛に与えました。この時女御は法皇の子を身ごもっていたのですが、「女児なら朕の子とする。男児なら忠盛の子にして武士として育てよ。」と法皇は仰せられました。
 そして、生まれたのは男児でした。そこで忠盛はこの男児を自分の子にしたのです。言うまでもなく、この男児が清盛……。つまり、清盛は白河法皇の落としだねだというのです。以上が「平家物語」に記述されている話です。

 更に、白河法皇がほうびとして忠盛に与えたのは祇園女御ではなく、その妹だという説もあります。祇園女御の妹も姉同様法皇の寵愛を受けており、その時法皇の子を宿していました。つまり、清盛の母は祇園女御の妹というわけです。
 しかし祇園女御の妹は清盛が3歳の時に世を去り、祇園女御が清盛の母代わりとなったようです。私個人としては、白河法皇は最も寵愛していた祇園女御をそう易々と手放すはずがないと思いますので、『清盛の母』=『祇園女御の妹』という説の方が、しっくり来るような気がします。

 しかし、清盛の実父が本当に白河法皇だったかどうかは確証がありません。この話は「平家物語」のように後世作られた物語に載っている話であって、当時の貴族の日記や正史には記載がないからです。

 実際に、清盛の父が誰だったかは判断しかねるのでここでは断言はしませんが、一つ言えることは、祇園女御が真相を知っていたのではないかということです。そして彼女がそのことを誰にも言わずに世を去ってしまったことと、清盛の昇進スピードが高望流桓武平氏の家格としては速すぎたことなどがあった為に、人々の憶測が憶測を呼んで後世こういった話が作られたのではないでしょうか。

 さて来週は、後白河法皇や頼朝が久しぶりに登場するようです。
いよいよ頼朝と義経の兄弟争いが本格化しそうです。
 そして、安徳天皇と守貞親王のすり替えに気がついてしまった義経が、どのような行動を取るかも気になります。
 ますますつっこみ所が多くなりそうですけれど、楽しみにしていようと思います。
 

今回の衆議院選挙について

2005-09-12 12:33:10 | えりかの平安な日々 04~09
 最新の更新履歴を見たら、「義経」と「京都旅行」一色に!!
「これではいけない。」と思ったので、本日は日記を書くことにしました。
日記は、8月14日の高校野球の話題以来なのですよね。これでは「月記」ですね(笑)。
 ただ、今から私が書くことに対しては反対意見をお持ちの方もいらっしゃると思います。と言うより、今回の選挙結果から推察すると、この私の考えに反対意見をお持ちの人の方が多いかも?なので、書こうかどうしようか迷ったのですが、やっぱり書いてしまいますね。不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、このように感じた者もいるんだなと言うくらいに受け取って、どうかご容赦下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

 さて、昨日の衆議院議員選挙、私も午前中にすませてきました。私の住んでいる地区は二人の方が立候補していたのですが、私の考えで、「この人がふさわしい。」と思った方に一票を投じてきました。
 びっくりしたのは、投票所がとても混んでいたことです。関心が高いのはいいことですが、逆に世論に流される人が多くなるのではないかと心配になりました。

 結果は与党の圧勝でしたね。これだけ与党が多くなると、良い法案も悪い法案も与党だけの賛成で、すんなりと通ってしまうことになります。そして、その法案が十分審議されないうちに通過してしまうのではないかという懸念もあります。そのようなことを考えると、与党が圧勝してしまったことに関してはとても不安を感じます。

 今回の選挙は、「郵政民営法案」に対して賛成か反対かという国民投票だと小泉総理が言っていましたよね。「郵政民営法案が可決されれば改革が進む。国民の生活も良くなる。」というようなことを小泉総理は言っていました。ほんとうにこの後4年間の日本の政治を任せる選挙で、これだけで良いのでしょうか?…。アジア諸国との摩擦が増え、国内にも多くの問題を抱えていると思われるこの選挙の主題が、果たしてそれだけで良いのでしょうか?何となく不安なのですよね。

私の考えでは、郵政民営化より大切なことがたくさんあると思うのです。年金問題を初め、社会保障の問題、外交問題、自衛隊の派遣問題。更に日本にとって最も大切だと思う憲法改正問題。特に私にとっては、障害者の医療費自己負担増は死活問題です。
 「管理人からのご挨拶」を読んでご存知の方も多いと思いますが、私には視力に障害があります。そのため、多くの同じ障害を持っている私の友人達もそうですが、就職先がありません。たとえあったとしても、給料は一般の方の半分くらいです。今回この「障害者の医療費自己負担増」は衆議院が解散したため廃案になりましたが、この選挙で与党が圧勝したことで再び提出され、おそらく通ってしまうでしょう……。

 このように、今の小泉内閣のやっていることは生活弱者に対して特に負担を強いているような気がしてならないのです。広島六区に立候補した堀江さんが立候補に当たって郵政民営化には賛成だし、小泉政治を支持していますと言うように話していました。
極論かも知れませんが、小泉政権下では大企業優遇と思われるような大型金融融資が行われ、逆に弱い人に対しては更に税を取ろうとするようなサラリーマン増税。こんな事では堀江さんのように強い人たちには、確かにとても良い政治だったように感じます。

 私は、実は今回一票を投じさせていただいた候補者の街頭演説を聴きに行きました。その候補者が言っていたのですが、「改革、改革と言うけれど、変えてはいけないものもたくさんあるのではないか。」とのことでした。本当にその通りだと思います。

 私が障害を持っているからかもしれませんが、これからの小泉総理の独裁的な暴走と日本の将来がとても不安です。

 前にも書きましたが、今回の私の意見に対しては反対意見をお持ちの方がたくさんおられると思います。でも、どうしても言いたかったので書いてしまいました。

 とにかくこのような結果を国民が選択したのですから、選ばれた方は私たちの生活が少しでも良くなるよう、頑張って欲しいものです。そして小泉総理には、弱い人々にも優しい政治をお願いしたいと心から思います。


日帰り京都旅行2005年夏7 ~光源氏と朱雀院・冷泉帝

2005-09-11 17:25:55 | 旅の記録
 本日の写真は今回の主役、光源氏と朱雀院・冷泉帝が並んでいるところです。

 光源氏は、桐壺帝の第二皇子として生まれたのですが、母の身分が更衣であったことと、「この子が帝王になったら国が乱れる。」という予言などにより臣籍に降下し、「源」の姓を与えられたのでした。そして三十代半ばで太政大臣に昇り、人臣の位を極めたのでした。

 一方、桐壺帝と藤壺の宮の間に生まれた皇子ということになっている冷泉帝は、母親が中宮という身分のため皇位に就くことができたのですが、ふとしたことから自分の出生の秘密、自分は実は光源氏の子だということを知ってしまいます。
 つまり、冷泉帝は父親を飛び越えて皇位に就いたということになるわけですね。そのためにこのことで深く悩み、先例を調べたりしていたのですが、ついに「自分は退位しよう。そして、光源氏に皇位を譲ろう。」と決心したのでした。
 しかし光源氏は「自分はそのような器ではない。」と、皇位につくことを断ってしまいます。
 そこで冷泉帝が考えたのは、光源氏を准太上天皇にして上皇待遇にすることでした。

 「源氏物語」の「藤裏葉」に描かれた朱雀院・冷泉帝の行幸は、光源氏が准太上天皇になったのを記念して行われたものだったのでしょう。

 写真を見ておわかりかと思いますが、光源氏は、朱雀院・冷泉帝と同じ高さの御座に座っています。皇位についたことのない光源氏が、帝や上皇と同じ高さの御座に座ることは異例中の異例です。「源氏物語」本文によると、光源氏は最初は遠慮をしてお二人よりも一段低い御座に座っていたのですが、「高さを同じにするように。」という帝の宣旨によって、帝や上皇と同じ高さの御座に座ることになった……とのことです。

 冷泉帝は、実の父である光源氏を准太上天皇という上皇待遇にすることができたことで、ほっと胸をなで下ろしていたと思います。

 しかし、朱雀院の心情は複雑だったのではないでしょうか。

 この行幸のあと間もなく、朱雀院は出家をしてしまうのです。そして、自分の最愛の娘である女三の宮を光源氏に降下させることになります。
 光源氏にはその頃、紫の上という最愛の妻がいました。なので光源氏は最初は断ったのですが、最後にはどうしても断り切れなくなってしまい、女三の宮の降嫁を承諾するのです。
 女三の宮の降嫁は、光源氏の生涯に波瀾を巻き起こします。紫の上は心労が重なって倒れ、光源氏はその看病に気を取られている間に、柏木(光源氏の親友太政大臣の長男)に女三の宮と密通をされてしまうのです。女三の宮は柏木の子を妊娠し、光源氏は二人の間に生まれた子を自分の子として抱くことになるのでした。
 
 六条院に行幸した朱雀院は、光源氏の立派さや六条院の華やかさを見て、「この人に娘を託そう。」と、この時点で密かに決心していたのかもしれませんね。
しかし朱雀院のこの判断は、結果的には女三の宮を不幸にしてしまったのですが…。

 そんなことを考えるとこの六条院行幸の場面は、これからおこる光源氏一家の不幸へのプロローグだったのかもしれません。そして、光源氏も朱雀院も、そのことに全く気がついていないのですよね。

 それはともかくとして、今回のこの場面の展示は大変華やかで見どころが多く、観ていて時間を忘れてしまいました。献上品の魚を捧げ持った左近衛少将と、鳥を捧げ持った右近衛少将など、物語の細かい部分までが再現されています。庭に敷いてある白砂もとてもリアルに感じられて、ここでもまた感動してしまいました。

大河ドラマ「義経」第35回&能登殿最期

2005-09-08 09:35:00 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第35回の感想です。

 今回はいよいよ壇ノ浦合戦ということで、期待半分、心配半分という気分で観ていました。確かに感動的な部分もありましたけれど、つっこみ所も多かったです。
そして、終わってみると、私の頭の中に一番強く焼き付いていた場面は阿部寛さん演じる知盛の入水シーンでした。「あれこそ武士の鏡!」という感じでしたね。それに対して、主役であるはずの義経の印象はなぜか薄かったです。これはいったいどういうわけなのでしょうか…。

 では、今回は義経と知盛を中心に感想を述べてみたいと思います。

 まず、今回の最初の方で義経と梶原景時が口争いをしていましたね。「ぜひ、それがしに先陣を。今回の遠征においてはほとんど活躍の無かったそれがしに働く場を」と訴える景時に対して、「先陣は三浦義澄に決めてある(からだめだ)。」という義経。
この場面を観て私は、役者さんの演技力のせいかもしれませんが、景時の方が筋が通っているように思えてしまいました。そして、義経はやっぱり大将の器ではないなと思ってしまったのですけれど…。だんなさんもこの場面で、「義経には武士としての面目や、心意気というものが、全くわかっていない。こんな義経は不自然だ!」と言って、呆れていました。

 実は「平家物語」ではこの場面、義経と景時が先陣争いをしたことになっています。「大将は先人などするものではない。」と言う景時に対して、「大将は鎌倉にいる兄頼朝だ。九郎も雑兵にすぎない。」と言ってのける義経。それを聞いた景時は「九郎殿は所詮大将軍の器ではないわ。」とつぶやきます。景時のこの言葉を聞いた義経は怒って刀に手をかけました。そのうち二人はお互いの一族や郎党を巻き込んで今にも同士討ちをしそうになったため、三浦義澄と土肥実平が仲介に入り、やっと騒ぎがおさまったと言うように記しています。
 ドラマで、「平家物語」にあるような「義経と景時の先陣争い」にしなかった理由は、今までの優等生義経のイメージが崩れるからなのでしょうね。きっと…

 でも実際、このドラマでの義経は壇ノ浦での自分の役割がわかっていたのでしょうか?
史実での義経の心情は多分、「頼朝兄さんに認めてもらうために、何が何でも平家を倒す!そして、三種の神器を取り返す。」と言う事なのでしょうけれど、今回のドラマでの義経は、能子のことで頭がいっぱいだったように思えてなりません。
ウーン、やっぱりこの描き方は違和感があります。
 そして知盛に追われて、ただぴょんぴょん跳びはねているだけなんて…。
「え?あれが八艘飛びなの?!何か変~。」と思ったのは私だけだったでしょうか。

 さて、その知盛ですが……、義経に反して最初から最後まで格好良かったです!
 指揮官としての知盛も、一武将としての知盛も観ていてほれぼれしました。義経を追いかけ回しているときなど、「八艘飛びをやっているのは知盛じゃないの。」と思ったほどです。
 そして、敗色が濃くなったことを時子たちに伝えたときの知盛の態度は、とても胸に迫るものがありました。
圧巻だったのは最期の入水のシーンです。「見るべきものは全部見た。」と言って錨を抱いて海に飛び込むシーンは、今でも目に焼き付いていて離れません。
 頼朝と重衡の対面と並んで、知盛入水のこの場面は、間違いなくこのドラマのNo1シーンです。とにかく感動しました。
 このような知盛の格好良さが、主役の義経の影を薄くしてしまったような気がします。

 ところで、やっぱりやってしまいましたね、安徳天皇と守貞親王のすり替え…!。
安徳天皇が、「清盛のじいに早く会いたい。」と言ったとき、ひょっとしたら時子さん、考え直してくれるかも……と思いました。しかし時子の口から出たのは、「なりませぬ。帝はこの先、守貞親王として生きていただきます。」という言葉でした。
ああ、やっぱりすり替えは実行されるのだ……と、がっかりしました。
 時子のいさぎよい入水シーンも、道連れにしている相手は守貞親王なのだと思うと、やっぱり観ていて興ざめしてしまいました。この設定、絶対に納得できないです…。それとも、安徳天皇と守貞親王のすり替えが、義経の今後の人生に何らかの影響を与えるのでしょうか…。
 それにしても女性たちが次々と入水していくシーンはさすがに哀れでした。それに対して、平家の総大将であるにもかかわらず、宗盛の情けないこと…。海に突き落とされて泳いでいるところはこっけいにさえ思いました。でも、すぐに景季に救い出されてしまいましたよね。どうせならもっと泳ぎ回っていればいいのにと思ってしまいました。総大将としての重圧もあったでしょうから、宗盛は宗盛なりに悩み苦しんでいて可哀想な部分もありますけれど、壇ノ浦で捕虜になるシーンは、どうしても知盛のいさぎよさと比較してしまいます。そして、「やっぱり宗盛は情けなくて格好悪い。」と思ってしまうのですよね。

 さて、今回のドラマでお亡くなりになった平家の主要人物は時子と守貞親王、知盛の他は資盛だけなのですよね。しかし、ドラマには登場しなかった人物がたくさんお亡くなりになっていますよね。

 資盛はドラマでは矢に当たって自刃してしまったようですが、「平家物語」によると弟の有盛、いとこの行盛と仲良く手を取り合って入水しています。なお、資盛については第29回の感想で私は、「維盛と共に屋島から南海へ去ったという兼実の伝聞が残っているため、壇ノ浦で入水したかどうかは疑わしい。」と書きました。しかし、義経による壇ノ浦合戦の報告書(吾妻鏡に全文が記載されているようです)の中に、自殺者の名前が記されているようですが、資盛の名前もその中にあるため、どうやら「壇ノ浦で入水した。」という可能性が強いようです。

 清盛の弟の教盛と経盛も、錨を背負って入水しています。
 そして、忘れてはならない人物がもう一人います。言うまでもなく能登守平教経です。

 義経を追いかけ回している知盛を見て「かっこいい!」と思いながら、「これは本当は知盛ではなく教経なのに……。」と思っていた私です。そして、32回の感想に続いて今回も、教経特集を組みたくなってしまいました。

 では、「平家物語」巻十一、「能登殿最期」に描かれた、教経の活躍について書かせていただきたいと思います。

 これが最後だと思った教経は、弓矢で源氏の兵を傷つけ、射殺し、弓矢がなくなると太刀を持って敵陣に斬りかかっていきました。それを見た知盛は、「雑兵を相手にあまり罪作りなことをしないように。」と使者を通して教経に言ってきたのでした。
 それを聞いた教経は、「さては大将と組めということだな。」と思い込み(そのように思ってしまうところが教経らしくてほほえましくもありますが。)、敵陣の中を義経を捜し回ります。教経が自分を捜していることに気がついた義経も、組み敷かれてはたまらぬと思ったのか逃げ回っていました。
 そのうち教経は義経を見つけ、あわや一騎打ちということになったのですが、義経はさっと他の船に飛び移ったのでした。これが有名な「八艘飛び」です。

 義経を見失った教経はもはやこれまでと思ったのか、弓も太刀も海に投げ捨ててしまいました。そして、「我こそはと思う者は誰でもかかってこい。」と言います。
 すると、土佐の住人で安芸太郎という三十人力の者が、「我こそが…」と郎党一人を引き連れて教経に挑んできたのでした。そして太郎の弟の次郎も加わり、三人は一気に教経に襲いかかります。
 すると教経はまず、郎党を海に突き落としてしまいました。そして、太郎を左腕で、次郎を右腕で抱え込み、「我の死出の共をせよ!」と言って海に飛び込んだのでした。
 この教経最期の部分は、哀れさよりも勇猛な武将を感じさせて、何となくすがすがしい気持ちになります。この時教経は、26歳だったとも27歳だったとも言われています。彼の一生は短かったけれども、壮絶で激しく、それ以上に何かさわやかなものを私は感じてしまいます。

 こうして彼の最期の部分を書いていると、せっかく源平合戦をドラマ化したのに教経を出さないなんて、絶対に失敗だったと強く思ってしまいます。
 確かに、義経を追いかけ回している知盛は格好良かったです。でも、やはり知盛には指揮官に徹して欲しかったです。指揮官だけでも、知盛の格好良さは充分描くことができたのではないでしょうか。
 何よりも前にも書いてきた知盛の勇猛ぶりに加えて、義経を追いかけ回している知盛の格好良さを見せられると、今までは温情があり悲運の名将として多くの人が感じていた義経のイメージ。その義経が、能子を探し回り、知盛に追いかけられて逃げ回っているシーンを見せられると、彼のイメージはどんどん薄くなってしまうように思えてなりませんでした。
 
 さて来週は、壇ノ浦で助け出された平家の女性達についてが描かれるようですね。
壇ノ浦合戦が終わっても、平家は完全に滅んでしまったのではありません。捕虜になった宗盛・清宗親子、時忠を初め、まだまだ生き残っている一門の者もたくさんいます。頼朝の許に送られた重衡もまだ生きています。これらの方々の今後についても、しっかり描いてくれることを期待したいです。