平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

今日は、結婚記念日♪

2005-04-29 16:38:32 | えりかの平安な日々 04~09
掲示板を見てお気づきの方もいらっしゃると思いますが、今日は私とだんなさんの結婚記念日です。18年前の今日、私たちは式を挙げました。もう18年……、月日の経つのは早いものです。
 今、結婚式の写真を見ると、「二人とも若いなあ。」と思ってしまいます。特に私は、結婚が早かったので(と言っても二十代前半なのですが)、自分で言うのも何ですがお人形さんみたいです。

 それで、今日は私たちの結婚秘話を少しお話ししますね。

 私は高校卒業後、医療関係の専門学校に進学したのですが、だんなさんとはそこの同級生です。と言ってもだんなさんは大学を卒業後数年間社会人を経験していたので、年齢はひと回り上なのですよね。
 そのようなわけでいつの間にかつきあい始めた私たちですが、私の両親は私たちの年齢差などを理由に大反対。でも私はどうしても結婚したかったので、専門学校の卒業式の直前、学校の寮から荷物を彼の家に運び込んでしまったのでした。それで両親もやっと折れ、「それならちゃんと式を挙げなさい。」と言ってくれたのでした。
 学校を卒業して1年後に式を挙げたわけなのですが、その間の1年間はお互いの親公認の同棲という形を取っていました。もちろん時々実家に帰ってはいましたが、実際は夫婦同然だったわけで、それを考えると私たちって19年一緒に住んでいるのですよね。何か信じられないです。
 これからも、時々喧嘩はするかもしれないけれど、二人で仲良く頑張っていきたいと思います。

それで、1日遅れのお祝いになってしまいますが明日の夜、近くの洋食屋さんにディナーを食べに行ってきます。楽しみです♪

 今日は、二人で静かに家で過ごします。夕食はなすのみそ炒めと冷や奴です。思いっきり手抜き料理ですが、こんな結婚記念日もいいですよね。
   

大河ドラマ「義経」第16回&ちょっとつっこんでみました

2005-04-27 11:10:05 | 2005年大河ドラマ「義経」
大河ドラマ「義経」第16回の感想です。

 今回の見どころはやはり、「馬を引け!」だと思いました。
 頼朝が、義経に馬を引かせようと決心させた裏には、時政と政子の進言があったのですね。特に政子の「殿は嫡流、九郎は庶流」という言葉は頼朝の身にしみたのではないでしょうか。
 そう言えば第10回の放送で、頼朝はそのことを政子に話していたのですよね。

 そして当日、「九郎義経、馬を引け!」と頼朝から言われたときの義経の何とも言えない表情と間が印象的でした。
 頼朝は義経に馬を引かせることによって、「そなたは鎌倉殿の弟とあつかうのではなく、御家人として扱う。」ということを義経に示したかったのでしょうね。そして、居並ぶ御家人たちにも、「鎌倉の主人はわし一人だ。たとえわしの弟であっても御家人だ。そなた達もそのことをくれぐれも忘れぬように。」という事を言いたかったのだと思います。つまり、御家人達の引き締めを計ったのかもしれませんね。

 ところで、この「馬を引け!」の事件は、ドラマでは治承四年(1180)12月の出来事として描かれていましたよね。しかし「吾妻鏡」には、翌養和元年7月の条に記述があるようです。
 確かに……、当時は旧暦、12月というと現在の1月~2月に当たります。つまり一番寒い時期です。「こんな寒い時期に、馬の献上なんてやるわけがない。」と、うちのだんなさんも言っていました。
 ドラマではできるだけ早く「馬を引け!」をやってしまいたかったのでしょうけれど、12月というのは無理があったような気がします。
なお、この事件についての「吾妻鏡」の記述については、当ブログのブックマークにある、ぼんやり夫人さんのブログ「平家物語」↓

http://heike.cocolog-nifty.com/

の「鶴岡八幡宮」の項に詳しいです。いつもながらとても勉強になりますので、関心のある皆様はぜひ御覧になってみて下さいませ。

さて、今回のもう一つの見どころは、やはり政子と亀の前の対決でしょう。
 そして政子さん、やってくれましたよね。家を壊しただけではなく、火まで放ってしまうとは……。燃え上がる火は、政子さんの嫉妬の火なのでしょうか。
 政子と亀の前の口げんかも(実際、史実でそういうことがあったかはわかりませんが)見てみたかったのですが、亀の前は意外におとなしく引き下がってしまいましたね。ちょっと残念でした。

 この事件も、ドラマでは治承四年の出来事として描かれていましたが、実際は翌養和元年以降のことだと思われます。
 頼朝と亀の前の浮気は、政子がのちの頼家を身ごもっていた間に起こりました。頼家は「養和二年」=「寿永元年」(1182)の誕生ですので、政子が彼を身ごもっていた時期というと、どう考えても養和元年~二年頃ということになります。
そのうえ、頼朝と亀の前のことが政子にわかってしまうのは、頼家誕生以降のことだと思われます。ドラマ同様、牧の方(時政の後妻で政子の継母)の告げ口によって政子に知れてしまったようです。
 怒った政子は、牧宗親(『日本人名事典』では牧の方の父となっていましたが、一説には兄とも言われています。)に命じて亀の前の家を壊してしまいます。(燃やしてはいないと思います。)このようなことから、「北条政子」=「嫉妬深くて怖い女性」というイメージが生まれてしまったのでしょうね。
それにしても、今回のドラマの政子さん、登場してきたばかりの頃は「おてんばでちょっと乱暴だけど、恋するかわいい女の子」というイメージだったのですけれど、だんだん怖い女性になっていきますね。何か、義経にとって最大の「悪役」になりそうな予感さえします。けれども私は、政子さんの今後にとても期待しています!!

 では、平家の方に目を移してみますね。
 すっかりおなじみになってしまった平家の家族会議、いつものメンバーに加えて珍しく頼盛の姿があったのは嬉しかったです。でも、相変わらず清盛の他の弟たち、教盛や経盛、そしてその子供達の姿が全く見えません。彼らは最後の最後まで無視されてしまうのでしょうか……。特に、私が平家の公達の中で最も好きな教経さん(教盛の子)が果たして登場してくるのか、すごく気になります。
それはともかく、この家族会議によって福原から京都への帰還が決まりましたね。でも、福原から京都に帰ることになった最大の理由は、高倉上皇の病気だったと思うのですが…。
高倉上皇は福原に遷都した頃から病気で、その後は病状が悪化する一方だったのですよね。ですから、「福原は地の利が悪いのではないか。」ということは、福原にいる誰もがみな考えていたことだと思うのです。
 でもドラマでの平家の家族会議では、高倉上皇のお名前はついに出なかったと思います。(私の聞き落としかもしれませんが)
 それにしても、高倉上皇はドラマにほとんど登場していませんよね。確か、徳子入内のときにちらっと画面に映っただけだと思うのですが…。これでは無視されているのと一緒です。最初から高倉上皇と平家の関係をきちんと描いておけば、こんな事にならずにすんだのに……、と、とても残念に思えます。

結局京都に戻っても高倉上皇の病状はいっこうに良くならず、翌治承五年正月十四日に崩御されました。考えてみると、寒空の中を福原から京都に移したことによって、より病状が悪化したと言えるかもしれません。
 高倉上皇の享年は21歳、あまりにも若すぎる崩御だったと言えます。彼は詩歌や学問に優れ、性格も穏和で誰からも愛されていたと言われています。さらに、笛を藤原実国に学び、名手と言われたと日本人名事典に記述されています。
母建春門院滋子が亡くなったあと、父後白河院と舅清盛の仲が悪くなったことに心を痛めていたとも言います。その後白河院と清盛の陰に隠れて目立たないですが、なかなか優れた人物だったのではないかと思います。もう少し長く生きていて欲しかった方です。
そんな高倉上皇の側近の一人として、上皇に心を込めて仕えていたのが、のちに関白藤原兼実を失脚させ、権謀の限りを尽くす源通親だというのも興味深いです。

 さて次回は、義経に結婚話が持ち上がるようですね。となると、静はどうなるのでしょうか?来週も楽しみです。

平家物語

つれづれなるままに その3

2005-04-24 01:00:16 | えりかの平安な日々 04~09
1.gooのシステムメンテナンスのお知らせ

 gooのサーバーのシステムメンテナンスのため、下記の時間はgooのブログは閲覧、コメント、トラックバックができなくなります。ご了承下さいませ。

 4月25日(月) 午前1時~午前9時

 私も、朝のホームページ巡りの時間と重なるので気をつけなくては…。
gooのブログも200,000に迫る勢いになるということ…、今回のシステムメンテナンスによって、より快適になるように祈るばかりです。
 なお、当ブログの掲示板「えりかの談話室」に関しては、gooとは全く別のサーバーを利用していますので、閲覧と投稿はこの時間帯でも可能です。よろしければ皆さんのお気に入りに入れて、アクセスしてみて下さいね。

2.サンドイッチを作りました♪

 昨日、久しぶりに自分でサンドイッチを作ってみました。
私はサンドイッチが大好物で、喫茶店でもよく食べますし、テイクアウトすることも多いです。
 でも、最近の喫茶店で売っているサンドイッチにしても、テイクアウト用に売られているサンドイッチにしても、とてもおいしいのですが、何か凝りすぎているという感じがするのですよね。具にも色々な材料が入っているし、パンに塗られているのもバターとマヨネーズとマスタードが混ざっていて、すごくくどい味になっていることもありますし…。
 そこで、たまにはシンプルなサンドイッチを食べてみたいと思い、自分で作ることにしました。サンドイッチ用の食パンに辛しバターを塗り、ハムとキュウリを乗せ、やはり辛しバターを塗ったもう一枚の食パンで挟みます。食パン12枚分、つまり6組のハムサンドができあがりました。味もシンプルでとてもおいしかったです(実は凝ったサンドイッチを作るのは苦手?だったりして…)。
また作ってみたいです。

3.「平家物語」を読み始めました♪

 遅ればせながら、やっと私も読み始めました。但し、私は古文が苦手なので現代語訳なのですが…。
 私が読んでいるのは、河出書房新社から発行されている日本古典文庫の中に入っている、中山義秀訳の「平家物語」です。(現在では「現代語訳 平家物語」というタイトルで河出文庫より全3冊で出版されているそうです。)
夜寝る前に少しずつ読んでいるのですが、現在巻一の「祇王と仏御前の話」を読み終えたところです。
 それにしても、祇王のお母さんって……。
祇王は清盛のお気に入りの白拍子でしたが、ある時清盛は仏御前という若い白拍子に心を移してしまい、祇王は清盛の邸から追い出されてしまいます。
 何年か経って祇王は清盛から「仏御前の相手をしろ」と突然召し出されます。もちろん祇王は清盛の所に行くのは嫌に決まっています。しかし祇王のお母さん、「清盛の命令に背けば私は生きていけないから行っておくれ。」と言うのです。何か、娘のことより自分のことを第一に考えているようなイメージを受けてしまいました。
 嫌々ながら清盛の許に行った祇王は、清盛からひどい仕打ちを受けて帰ってきます。「身投げしてしまいたい。」という祇王に対して妹の祇女も、私もおともします。」と言います。
ところが耳を疑うのはお母さんの、「私も一緒に身投げします。でも、まだ寿命の残っている親に対して身投げを迫るのは親不孝なのではないか。」と言う一言。
 ちょっとちょっと……、寿命が残っているのは祇女だって同じじゃないの!?…
どうもこのお母さん、先にも書いたように自分のことしか考えていないようです。
 結局この親子3人は一緒に出家し、やがて祇王を見てこの世の無常を悟った仏御前もこの仲間に加わり、4人とも極楽往生をとげたのだそうです。

 このように、「平家物語」の描く女人像は抽象的です。魅力的な男はたくさん出てきますが、魅力的な女は少ないですね、残念ながら…。やはり「平家物語」は男の物語なのかもしれません。でも、魅力的な男達に出会えるのは、結構楽しみだったりします。これからも楽しみに読み進めていきたいです。

4.追記

 カテゴリーのそれぞれの項目をクリックすると、関連記事を一括表示します。
 例えば、「歴史ドラマ」をクリックすると、第1回から第15回までの大河ドラマ「義経」の感想と、今年の正月に放映された「大化の改新」の感想を一括表示します。
 また、「歴史」をクリックすると「紫式部」、「藤原道長」、「平惟仲と藤原在国ー平安時代のライバルー」、「平清盛の子孫」、「源氏の里と平家の里」、「今川義元の祖先」を一括表示します。
 この「歴史」というカテゴリーでは、平安時代中期をおもに取り上げようと思ったのですが、最近はすっかりさぼっています。準備している記事はあるのですが手を加えたいところがたくさんあるので、どうか気長にお待ちいただけますと嬉しいです。


エリカの一日

2005-04-23 16:03:46 | 猫のお部屋
今日は、我が家の小さなエリカの登場です。

 エリカの1日は、私たちと一緒に起床することから始まります。そしてご飯を食べ、しばらく私たちに甘えたり部屋中を飛び回ったりしているのですが、いつの間にか押し入れに入ってしまいます。そして、布団の中にもぐって寝てしまうようです。時々目を覚まし、思い出したように押し入れから出てきて水を飲んだり、おトイレをしたりしますが、だいたい昼間は寝ています。

 エリカが元気になるのは夕方からです。再び起きて私たちに甘えます。そして夜になるとさらに元気になり、鳴きながら部屋を飛び回っています。夜の11時過ぎになると部屋のドアを自分で開け、だんなさんの両親の住む母家(私たちの部屋とは棟続きです。)に遊びに行きます。おかげで母屋の方も虫や鼠が出なくなったと、結構喜ばれています。エリカはクモやゴキブリを捕まえることは結構得意なのですが、鼠を捕まえているかはかなり疑問なのですが…。
 エリカは一応、12時過ぎくらいに私たちと一緒に就寝するのですが、夜中に時々起きて母屋に遊びに行っているようです。完全に夜型の猫です。

 エリカの一日をざっと書いてみましたが、おわかりかと思いますが完全室内飼いです。子猫の時からずっとそうなので、エリカは家の外に出るのをとても怖がります。でも、時々怖いもの見たさで外に飛び出すことはありますが、すぐに帰ってきます。
 そして先日、ちょっと大変なことが起こりました。上で、エリカが母屋に遊びに行くのは夜の11時過ぎと書きましたが、ここ2週間くらい、夕方にも部屋を飛び出して遊びに行くことが多くなっていたのです。そして先日の夕方、エリカは部屋を飛び出して母屋の2回に遊びに行ってしまい、開いていた窓から屋根に飛び降りてしまったのでした。さあ大変……!ということで家中で大騒ぎになったのですが、エリカは屋根を伝わって私たちの部屋のベランダに無事に戻ることができたようで、ベランダの入り口にいるエリカを見つけたときは本当にほっとしました。でも、よく屋根から落ちなかったと思うのですが…。そして戻ってきたあとのエリカはそのまま私の机の下にもぐってしまい、体を小さくして震えていました。そんなに怖いなら、最初から窓から屋根になんて飛び降りなきゃいいのに。本当に後先のことを何も考えないんだから…。
 でもそんなことがあったあと、エリカは、「母屋に遊びに行くのは夜の11時過ぎ」と決めたようです。なので、こちらもほっとしているのですが…。いつまで続くことやら。

 写真は、本日撮影したエリカです。なかなか顔をカメラに向けてくれなくて、撮るのに苦労しました。

大河ドラマ「義経」第15回&やっぱり無視されていた阿野全成

2005-04-20 17:30:40 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第15回の感想です。

 源氏を討伐するために東国に派遣されてきた平家軍、あまりにものんきすぎるなと感じました。敵の近くで酒宴を開いたり、白拍子を連れてきたりなどして、まるで物見遊山ですよね。
 でも、平家を含めた都の人たちにとって源氏の挙兵は、「東国でちょっとした反乱が起こったらしい。」くらいの意識しかなかったのかもしれません。平安中期の平将門の乱や、その約90年後に起こった平忠常の乱のように、「すぐに鎮圧できる。」と思っていたのでしょうね。
 でも、富士川で水鳥の飛び立つ音を「源氏の夜襲だ!」と思いこんで逃げ帰った維盛さんに対して、清盛が「鬼界島に流罪」させようとしたという話ははじめて聞きました。おそらく、鹿ヶ谷事件で捕らえられた藤原成経、平康頼、俊寛僧都が鬼界島に流されたので、維盛も鬼界島へ……というこのドラマ独自の設定なのでしょうけれど…。
確かに、維盛の失態は清盛にしてみれば怒っても怒りきれなかったのだと思います。「流罪にしたっていい。」と実際に思っていたかもしれませんね。

 それと、なぜこの時期に静を再登場させたのか、ちょっとわからなかったのですが……。なるほど、静を義経一行と一緒に鎌倉に同行させ、そのまま二人が恋愛関係になるという設定にしたかったのですね。と言うわけで、今後義経と静がどう描かれるのか楽しみです。

 さて、今回の見どころはやっぱり頼朝と義経の兄弟対面と、その後の二人のやりとりだと思いました。かなり見応えがあったと思います。
 まず頼朝は「九郎義経と名乗る者が来た。」と言われて疑っていましたよね。これは当然でしょう。何しろ一度も会ったことのない弟なのですから…。それに、DNA鑑定のない当時、偽物ということだって考えられます。
 そして義経の、「父義朝最期の土地で元服しました。」という話を聞いて、「これは間違いない。」と思ったのですね。「九郎か。」という頼朝の一言、何となく感動してしまいました。
 そのあとも、富士川の合戦前の義経と家来達の働きぶりなども、わりに興味深く描写されていました。心から頼朝を信じて疑わない義経と、それを何となくどのように受け入れたら良いのかと戸惑っているような様子の頼朝の心の描写なども、はっきり描かれているような気がしました。
今回はかなり面白かったです。

 でも……、予想はしていたものの、やっぱり無視されていた人物がいました。義経の同母兄で、初回の放送に「今若」という名前でちらっと登場した、あの御方を無視するなんて……。やはりがっかりしてしまいました。

 そこで、今回はその今若についてお話しすることにします。

 「今若」=「阿野全成」(1153?~1203)
 彼は、源義朝と九条院雑仕女常磐との間に生まれた子です。まごうことなく義経の同母兄です。

 平治の乱で義朝が敗死したときすでに物心ついていた今若は、清盛の命令によって醍醐寺に入れられ出家をしました。法名は全成と言いました。
 全成は剛毅な性格で力も強く、醍醐寺にいた頃から「悪禅師」と呼ばれていたようです。
 治承四年(1180)、全成は兄頼朝の挙兵を聞くと密かに醍醐寺を抜け出し、兄の下にはせ参じました。はせ参じたのは義経よりも先だったと言われています。
やがて全成は頼朝の信頼を得て、彼の妻北条政子の妹(後の鎌倉三代将軍源実朝の乳母阿波局)と結婚します。阿野という所に所領をもらったため、「阿野」の姓を称しました。
範頼、義経が頼朝の不興を買い次々と殺害されていったのに反し、全成は頼朝在世中は一応彼の側近として、平穏に生活していたものと思われます。

 ところが、頼朝亡き後の全成は次第に新将軍頼家と対立するようになります。
頼家は、自分の妻の実家であり乳母の一族であった比企一族を重要視し、北条氏と対立するようになるのです。そこで怒った北条氏は、頼家から政治の実権を取り上げてしまいました。しかし、そこまでしても、北条氏にとっては比企一族、特に頼家の乳母の夫であった比企能員は大変煙たい人物であったと思われます。
 そして、その北条氏と固く結んでいたのが全成でした。何しろ全成の妻は政子の妹ですから。そして妻が頼家の弟、実朝の乳母であったことが、全成に密かに野心を抱かせることとなりました。頼家を将軍から引きずり降ろせば、次の将軍は実朝……。そうしたら乳母の夫として幕府内で実力が持てるかもしれないと考えたのかもしれません。
そして全成は、頼家追い落としの手始めとして、彼の側近比企能員を打倒しようと、北条氏と組んで密かに計画し始めたようです。
しかし、そのことが頼家の知ることとなり、全成は逮捕されてしまいます。そして、常陸国に配流され、その地で斬首されました。

 なぜ逮捕が北条氏にまで及ばなかったのか不思議ですが、永井路子さんの小説「炎環」では、北条氏が最後の最後に全成を裏切ったということになっていました。確かに北条氏というのは、時政にしても義時にしても政子にしても、どうも腹の中がわからない人物が多く見られます。全成を裏切ったという話はあり得るような気がします。
もちろん、北条氏は頼家の母の実家ですし、幕府内で絶大な力を持っていたので、彼らを逮捕することは難しかったということも考えられますが…。

 また、頼朝は範頼や義経は殺したのに、なぜ全成だけは殺さなかったのかということについて、「炎環」では全成が僧形だったことに加えて、彼がなるべく周りの人たちから目立たないようにうまく身を処していたということになっていました。そして全成は、義経とは正反対に、決して頼朝に心を許していなかったと描かれていました。
「これもあり得るかも……」と読みながら納得してしまいました。
 
なおこの「炎環」は、全成・梶原景時・阿波局・北条義時の4人を描いた連作小説です。先週、景時を紹介する前にこの本を読んでおけば良かったのですが、時間がありませんでした。すみません。と言うか、この小説は15年くらい前に一度読んだことがあるのですが、内容をほとんど覚えておらず、現在始めて読む小説のような感覚で読んでいます。前に読んだときと違った新しい発見があって面白いです。

 ところで、ついでですので義経のもう一人の同母兄、乙若、つまり義円についても少し触れておきますね。義円も清盛の命令により園城寺に入れられました。源氏の挙兵を聞き、彼は叔父の行家の下にはせ参じます。そして養和元年(1181)、行家軍は美濃国墨俣川の河畔で平重衡率いる平家軍と対戦、大敗してしまいます。そして義円も討ち死にしました。
 母の常磐御前は、文治二年(1186)までの生存が確認されていますので、義円が討ち死にしたときはまだ生存していました。我が子の討ち死にを聞いた常磐御前の心情はどんなだったのでしょうか…。

 さて、来週はあの有名な「馬を引け!」のエピソードが出てくるようですね。頼朝と義経の微妙な心のすれ違いが描かれることになるのでしょうか。また、政子と亀の前の対決も描かれるようです。来週も期待しつつ楽しみに観ます。


15年間ご苦労様☆

2005-04-17 23:03:58 | えりかの平安な日々 04~09
 本日、新しいドライヤーを買いました。

 実は、私が今まで使っていたドライヤーは、一昨年くらいからとても調子が悪かったのです。使っている途中に突然風が弱くなったり、HOTで使用していても突然風が冷たくなったり……。おまけにブラシのピンのあちらこちらが取れていて、髪をとかすのも一苦労でした。それでも何とか使えていたので、「いいか~」と思っていたのですが、最近は使用中に焦げたような匂いがすることがあり、「これは危ないかも」と思って、買い換えることにしたのでした。

 それにしても古いドライヤー、何と15年間にわたって私の髪の毛の手入れをしてくれました。そして、私は自分のドライヤーでないと満足できないので、泊まりがけの旅行に行くときも必ず持っていきました。北は青森県の弘前から、南は九州の福岡まで、このドライヤーは私と一緒に旅行したことになります。本当に15年間ご苦労様と言ってあげたい気分です。

 新しいドライヤーも大切に使いますね。
今度はこのドライヤーとどんなところへ旅することになるのでしょうか。そんなことを思っていると、何となくわくわくしてきます。
 

大河ドラマ「義経」第14回&梶原景時

2005-04-15 22:25:11 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第14回の感想です。

 橋合戦は、予想通り(?)あっさり簡単にすまされてしまいましたね。
頼政の討ち死にのシーンも、矢が一本刺さっで、「これまで」と一言叫んだだけで終わってしまいました。以仁王に至っては、矢が刺さったところは一応映像で流れましたが、ほぼナレーションだけで終わってしまいました。そして、その矢の刺さった場所は頼政とほぼ同じ所でした。
義経が主人公のドラマなので仕方がないとは思うものの、原作が軍記物の「平家物語」なのですから、合戦シーンくらいはちゃんとやって欲しいなと、ちょっとがっかりしました。

 さて、前回から登場している丹後局なのですが、髪型もしゃべり方も怖いですよね。これは、「丹後局=妖婦」ということを視聴者に印象づけるための演出なのでしょうか。この丹後局にすっかり骨抜きにされている後白河院、思いっきり格好悪いです。後白河院が、「平家ではだめだな。」と、平家を見限るような発言をしたのも、丹後局が平家についてのあれこれを後白河院にしゃべったためですものね。丹後局が実際、あのような気持ち悪い女性だったかは疑問ですが、後白河院を操っていたことはある程度史実だと思います。

 そして、そんな世の中の動きを知ってか知らずか、相変わらず菊を見ながら井戸端会議をやっている平家の女性たち……。ちょっとのんきすぎるなと思いました。
その中で、故重盛の妻経子の立場の微妙さが少し気になりました。
 彼女は、鹿ヶ谷事件で備前に流罪となり、配所で殺された藤原成親の姉妹に当たります。つまり、重盛亡きあとの平家方から見れば、敵の一族と言うこともできるわけで、宴に遅れてきた理由も、そのような自分の立場を卑下したものなのかなと、少し考えてしまいました。
 そして彼女が、「維盛や資盛の出世を楽しみにしています。」というようなことを言ったのは、「それでも平家の嫡流は故重盛の息子の維盛や資盛です。宗盛どのには決して渡しはしません。」という、経子の時子への無言の抵抗なのかなと思ったりしました。
 ちなみに、平維盛は公卿補任その他によると母不詳になっていますし、弟の平資盛の実母は下総守藤原親方の娘です。つまり、二人とも経子の実子ではない可能性があるのですよね。それなのに、ドラマでは経子の実子のように描かれています。好意的な見方をすれば、維盛も資盛も幼い頃から重盛の正室である経子の許で養育され、彼女にとっては実子同然になっていた……、という設定なのかもしれません。

 さて、橋合戦が簡単にすまされてしまったことは最初の方にも書きましたが、頼朝と山木兼隆との戦いも、石橋山合戦も、橋合戦同様簡単にすまされていました。このことも残念でしたがただ一つ、頼朝と梶原景時の出会いは、なかなか見応えがあって良かったと思いました。「ああ、こういう事があって景時は頼朝に終生忠義を尽くすのか。そして、命を救ってもらったことから頼朝も、景時を頼りにするのね。」ということがよくわかりました。

 そこで、今回は梶原景時について少し調べてみました。

 梶原景時(?~1200)
 彼の前半生は生年も含めてほとんど不明です。石橋山合戦では平家方である大庭氏に属し、頼朝軍を打ち破りました。 その時、洞窟に隠れていた頼朝を密かに見逃したのが、景時であったと言われています。
 やがて景時は頼朝方に属し、範頼・義経の平家討伐軍では戦目付役として従軍しました。しかし、義経とことごとく意見が対立し、そのことを頼朝に讒言したことが、頼朝と義経の兄弟仲を悪くする原因になったとも言われています。
 景時は、その後も頼朝の参謀として彼の絶大な信頼を得て、鎌倉幕府の実力者となっていったのではないかと思われます。
 しかし建久十年=正治元年(1199)正月、頼朝が急死すると景時の人生に暗雲が立ちこめるようになります。
 その年の十月景時は、結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と言っていたということを頼家に讒言しようとします。結城朝光の母は頼朝の乳母でしたので、朝光は頼朝の側近中の側近でした。その朝光が「忠臣は二君に仕えず」と言っていたということは、明らかに新将軍頼家への謀反と取られかねません。景時にしてみれば頼家への忠義心のつもりで讒言しようとしたのでしょうが、逆に御家人達から嫌われることとなったようです。そして、景時は御家人達に糾弾されて失脚してしまいます。
景時は頼朝の参謀として謀略にも優れており、そのために失脚した者も多く、御家人の中にも彼を憎む者がたくさんいたのかもしれません。この事件は御家人達による景時追い落としとも考えられると思います。
 その後景時は甲斐源氏の武田有義を将軍にしようと画策し、上洛の途につきます。
しかしそれは幕府の知るところとなり、景時は上洛途中の駿河国狐ヶ崎(今の静岡市清水区)で幕府軍と遭遇し、合戦の末討ち死にしました。

とかく悪役にされがちの景時ですが、彼には彼なりの立場があったのだと思います。そして、景時が政治的に有能な人物だったことは間違いないと感じました。しかしその有能ゆえに敵を作りやすい人だったのかもしれませんね。少し石田三成に似ているところがあるような気もします。
 梶原景時はかなり知名度のある人物だと思いますが、実は私は、彼についてあまり知りませんでした。なので、今回調べてみてなかなか興味深い人物だと感じました。
 そのようなわけで、今回の大河ドラマでは、義経と景時の対立をどのように描くのかが楽しみになってきました。
 あのおとなしくていい人という感じの義経が、景時と大げんかをするとはとうてい思えません。多分景時が無理難題を義経に押しつける……、つまり景時が完全に悪役になるという設定なのでしょうね。視聴者が「義経くん、かわいそうに。」と同情するように描くのだと思いますが……。どうなることでしょうか。

 さて来週は、いよいよ義経と頼朝の対面が描かれるようですね。頼朝はどのような反応をするのでしょうか。源氏の一員としてのこれからの義経の活躍も楽しみです。

「平安時代好きに50の質問」に答えてみました

2005-04-11 10:15:51 | 歴史雑記帳
 この「平安時代好きに50の質問」は、葵 絵未子さんのサイト「朱陽蒼月」様
http://homepage3.nifty.com/-cell-/
からお借りしたものです。私の平安時代への思いをわかっていただきたいと思い、この質問に答えてみました。


■平安時代好きに50の質問■
Q1 まずは、あなたのお名前(HN)を教えてください。
 えりかです。

Q2 では、50問スタートします。あなたの出身国(平安時)は?
 駿河国。

Q3 平安時代に興味をもったきっかけはなんですか?
 永井路子さんの「この世をば」を読んだことです。

Q4 平安時代好き歴はいかほど?
 18年。

Q5 京都・奈良へ行ったことはありますか?
 もちろんです!特に京都には15回以上行きました。

Q6 平安時代以外に好きな時代はありますか?
 飛鳥時代~奈良時代と、戦国時代です。あと、最近は大河ドラマ「義経」の影響で鎌倉時代前期にも興味が出てきました。

Q7 好きな平安の人物は?
 う~ん……たくさんいますけれど、紫式部と答えておきます。

Q8 なぜゆえに?
 自分に似ているところがたくさんあるような気がするからです。
それと、大好きな「源氏物語」を書いて下さったから。

Q9 好きな古典作品は?
 たくさんありますが、ベスト3は「源氏物語」「落窪物語」「伊勢物語」です。

Q10 ・・・もしや、原文で読めたりしますか?
 読めません。古典は好きでも古文は苦手です(汗)。

Q11 好きな和歌は?
 君待つと 我が恋をれば 我が宿の すだれ動かし 秋の風吹く by額田王

Q12 というか、和歌は詠めますか?もしくは詠んじゃった経験などを・・・
 詠めないです…

Q13 好きな色(もしくは襲)の名は?
 桃色と緑色

Q14 好きな花(もしくは植物)の名は?
 日本人の心のふるさとである桜と梅。それとクローバー、壁紙に長く使っています。

Q15 自分が、平安好きであることを痛感するのはどんなときですか?
 本屋さんに行くと平安時代関係の本を無意識に探してしまいます。それから、碁盤の目を見ると平安京条坊図を連想してしまいます(笑)。

Q16 もしかして、「大臣」を素で「おとど」と読んでしまったりしたことはありますか?
 あります(笑)。

Q17 また、「天皇」を「すめらみこと」と読んでしまったことは?
 天皇は「みかど」が多いです。

Q18 「女房」ときいて、「女官」や「侍女」という意味が浮かんでくるのは常識ですよね?
 そうですね。

Q19 あなたがもし平安時代へ旅行できるとたら、どの帝の御世へ行きたいでしょう?
 一条天皇の御代。

Q20 そこでやってみたいことは何ですか?
 平安京の中を歩いて土御門殿、小野宮殿、東三条殿などの有名な邸宅をこの目で見てみたい。それから、「源氏物語」をリアルタイムで読んでみたいです。

Q21 また、あなたが平安時代の人物になれるとしたら、誰になってみたいですか?
 彰子さまの女房。

Q22 そこでやってみたいことは何ですか?
 道長さんと紫式部さんにお会いしたい。

Q23 平安時代の、ベストカップル(夫婦可)は?
 藤原道長&源倫子。完全に「この世をば」の影響です。

Q24 平安時代の、ベストコンビ(・・・)は?
 平惟仲と藤原在国(後に改名して有国)。
同じようなコースで昇進し、同じ藤原兼家の家司となり、兼家の別々の息子を摂政の跡継ぎに押してライバルとなり……。とにかく、終生相手を意識していた二人だと思う。日本史上にも、これほど面白いライバルはめったにいないのでは。

Q25 平安時代の、ベスト主従関係(爆)は?
 惟喬親王と在原業平。「伊勢物語」に描かれている二人の交流にはいつも感動してしまいます。

Q26 平安時代、「この人ほど不憫な人はいない」と思われるのは誰?
 たくさんいますけれど、一条天皇と定子さまの間に生まれた(女美)子内親王。
生まれた直後にお母様を亡くし、本人も9歳で亡くなってしまうなんておかわいそうです。

Q27 平安時代、「この人ほど恵まれた人はいない」と思われるのは誰?
 紫式部の娘の賢子さん。若い頃は様々な恋をしたり、キャリアウーマンとして活躍したりしたあと、中年になってから大金持ちの貴族と結婚するなんてかっこいいです。天皇の乳母として三位にまで昇り、80歳くらいまで長生きしたところもうらやましいです。

Q28 平安時代に関する、お勧めの寺社を教えてください。
 仁和寺と大覚寺。どちらも平安時代の雰囲気を肌で感じることができると思います。

Q29 平安時代に関する、お勧めの博物館を教えてください。
 風俗博物館。「源氏物語」の中の色々なシーンが人形や模型で展示されており、平安時代を立体的に感じることができます。実物大展示室では装束体験もでき、平安時代好きなら何時間でも遊べます。

Q30 雰囲気の良かった土地(街)はありますか?どこでしょうか?
 あります。嵯峨野と宇治。静かで落ち着いていて大好きです。

Q31 また、これから訪れてみたいと思う所を教えてください。
 伊勢の齋宮跡。

Q32 旅をする上で心がけていることはありますか?
 とにかく、しっかり観て感じることを心がけています。

Q33 旅先での失敗・成功談など、あればどうぞ
 大覚寺の庭に見とれてぼーっとしてしまい、転んで足をすりむいたことがあります。あの時は痛かった。でも、大けがをしなくて本当に良かったです。

Q34 さて、あなたが以下の四つの中で、最も心ときめく場所はどれでしょう?
ア:一条戻り橋 イ:吉野 ウ:京都御所 エ:錦市場(笑)
 ウの京都御所。一度はぜひ中に入ってみたいものです。

Q35 平安時代について勉強する上で、欠かせない書籍は何ですか?
 「平安時代史事典」と言いたいところですが、実は実物を見たことがありません(笑)。復刊されたら欲しいのですが…。なので、講談社から発行されている「日本の歴史06 道長と宮廷社会」としておきます。平安中期の宮廷社会について勉強するのに欠かせない本だと思います。

Q36 大和和紀の平安作品についてどうぞ(例:あさきゆめみしについてなど・・・)
 面白いと評判のようですが、読んだことがありません。

Q37 氷室冴子の平安作品についてどうぞ(例:ジャパネスクについてなど・・・)
 「なんて素敵にジャパネスク」の存在はネット上で3年ほど前に始めて知りました。この年齢になって少女小説を書店で買うのは恥ずかしかったのですが、「読みたい」という気持ちには勝てず、全10巻を買ってしまいました。そして、一気に読みました。とにかく瑠璃姫の明るさが良いですね。他の登場人物も個性的な人が多くて楽しかったです。また読み返してみたいです。

Q38 田辺聖子の平安作品についてどうぞ(例:舞え舞え蝸牛についてなど・・・)
「舞え舞え蝸牛」は、「落窪物語」が好きだったので読みました。面白のこまと四の君の描き方が面白かったです。
「むかし・あけぼの」の清少納言は明るくて前向きで大好きです。私はこの小説で清少納言と「枕草子」が好きになりました。
また、「新源氏物語」も、「不機嫌な恋人」も、読みやすくて面白かったです。

Q39 永井路子の平安作品についてどうぞ(例:この世をばについてなど・・・)
 永井さんの王朝三部作は私の愛読書です。冬嗣さん、道長さん最高!!能信さんもなかなか良かったです。平安時代の歴史上の人物をあれほど生き生きと、しかも史実に忠実に描いたという点で、永井さんの功績は大きいと思います。

Q40 夢枕獏もしくは岡野玲子版「陰陽師」についてどうぞ
 現在、平安小説で最もポピュラーなのは夢枕さんの「陰陽師」だと思うのですが、実は読んでいません。いつか読みたいと思っているのですが…。

Q41 夢枕「陰陽師」以外で陰陽師モノは読まれましたか?
 すみません、読んでいません。

Q42 その他に、お勧めの平安本(小説・漫画)があればを教えてください
 鳥越碧さんの「萌がさね」。道長さんのもう一人の妻、明子さんを主人公にした小説です。とにかく感動しました。
それと、杉本苑子さんの「散華 紫式部の生涯」。紫式部がとことん暗い正確に描かれているのが難点ですが、登場人物や時代背景の描き方がとても面白いです。

Q43 この作家さんに、平安モノを書(描)いていただきたい、という人は誰でしょう
 逝去されてしまいましたが、黒岩重吾さんに平安前期の男達の政争を書いて欲しかったです。なので、今はこれと言っていないですね。

Q44 映画「ひかる源氏物語 千年の恋」についてどうぞ
 俳優さん達の着ている装束はとても素敵でした。でも、内容が……。紫式部を越前まで迎えに行った宣孝さんが、海賊に襲われて亡くなってしまうところを観て、まず引いてしまいました。朱雀帝は十条帝になっているし、紫の上は明石の姫君の首を絞めようとしているし……。もう少し史実や原作に忠実に描いて欲しかったです。

Q45 映画・TV版「陰陽師」についてどうぞ
 映画はなかなか面白かったです。野村萬斎さんは晴明がはまり役ですよね。ただⅡの方は、平安ものという感じがしなくて残念でした。次回作の怨霊には、菅原道真か伴善男を出演させて欲しいです。TV版は観ていません。

Q46 「こんな作品が見てみたい!」という希望をどうぞ(例:大河ドラマで源氏物語、OAVで陰陽師など・・・)
 「この世をば」を原作に大河ドラマを作って欲しいですね。道長役には野村萬斎さんがいいです。ナレーションは実資さんか行成さんにやってもらえると嬉しいな♪

Q47 どうしてTVでは、平安時代をなかなか取り上げてくれないのでしょうか
 衣装や舞台のセットでお金がかかるからではないでしょうか。
それから、こんな事を言うのは悔しいですが、あまり人気のない時代だから視聴率が取れないからではないですか?

Q48 ・・・しかし、その時代考証についてのこだわりをどうぞ
大いにこだわります。特に、歴史ものを作るときは史実を曲げて欲しくないです。くどいようですが、宣孝さんが越前で海賊に襲われて亡くなったり、紫式部が地引き網をしているようなひどい虚構などは絶対に嫌です!!

Q49 あなたにとって、平安時代とはどういう位置づけですか?
 現実逃避とファンタジーの世界。そして、研究すればするほど奥深くはまっていくもの、切っても切れないものです。

Q50 50問お疲れさまでした。小気味よく落としてください!(オチ)
 とっても楽しかったです!!そして、ついついはまってしまい、真剣に答えてしまった自分って何なんでしょうか?・・・(笑)
読んで下さってありがとう♪




朱陽蒼月

ワンと鳴く猫

2005-04-09 10:40:32 | 猫のお部屋
みなさま、お久しぶりだウワン!!
ママが、久しぶりに私の写真をブログに載せてくれるんだって。嬉しいワン!!

 ……て、エリカちゃん、ワンってどういうこと?あなたは猫じゃないの……?

 と言うわけで、いきなりワンと鳴いたエリカちゃんです(笑)。

 実は我が家のエリカ、猫のくせにめったに「ニャー」と鳴きません。だいたい「アー」か「ギャー」か「ワン」か「ワーン」です。
「ワン」に関しては、はっきり「ワン」と鳴くときと、最初の発生が詰まったように「ウワン」と鳴くときがあります。

 エリカは元々声の表情の豊かな猫でした。小さい頃から色々な声で鳴いたので、とても面白かったです。
 例えば、おなかがすいたときは「アー」とかすれた声で鳴くのですぐにわかりました。そして、ご飯を食べ終わると「ギャー!!」と大声で鳴きました。私が外出しようと思って、「エリカちゃん、行って来るからね。」と言うと「イヤーン」と鳴いたこともあり、びっくりしたこともあります。また、エリカの大好物のマグロのフレークをお皿に入れてあげると「ニャン!」と嬉しそうに鳴いて、とてもかわいらしかったです。

 このように、時と場合によって色々な声を出すところは、今でもほとんど変わっていません。

 でも、エリカはどうして「ワン」とか「ワーン」という犬語を覚えたのでしょう?

 多分私とだんなさんがふざけて、「エリカ、ワンって鳴いてごらん。」と言ったからだと思うのです。もちろんエリカは最初はそんなことは無視していました。
 ところがある朝、エリカは突然「ワン」と鳴いてころっと横になったのです。それがまたかわいくて、私もだんなさんも大笑いしてしまいました。
その日からエリカは「ワン」とか「ワーン」と鳴くようになってしまったのでした。
 そして今では、本来の猫語である「ニャー」とはめったに鳴かなくなってしまったのです。「これは大変だ」と思い、現在エリカに「ニャー」を仕込んでいます。
でも、なかなか「ニャー」と鳴いてくれません。

 水が好きだったり、私たちが脱いだ靴下が好きで顔をくっつけて顔や体に巻き付けてゴロゴロ転がったり、「ワン」と鳴いたり……。やっぱりエリカは変わった猫です。

 写真は、4年ほど前に撮影し、2002年の年賀状に使ったエリカの写真です。
 首輪に鈴がついていてよく似合います。顔つきは、現在とほとんど一緒で甘えた感じがしてかわいいです。

大河ドラマ「義経」第13回&以仁王と源頼政

2005-04-07 10:31:05 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第13回の感想です。

 今回は、源行家と、行家が持ってきた以仁王の令旨を受け取った頼朝、義仲、義経の反応の違いがとても面白かったです。
 つまり、行家を信用せず、あくまでも慎重な風に見せかけて、実は自分が源氏の嫡流として人々から忘れられていなかったことを知って、大喜びをしている頼朝さん。
 行家から、「義朝は我々の共通の敵。我々二人が旗頭になって平家を倒そうぞ。」と言われて大喜びをしている義仲さん。すっかり行家叔父さんを信用しているところは、頼朝と対照的です。
 そして、「源氏の一員として戦う。」と言ってはいるものの、まだ迷っている所のありそうな義経くん。
 三人の性格の違いが出ていてとても興味深く思えました。そして、行く先々で態度を変える行家叔父さんも面白かったです。
 でも、熊野の遊女に向かって「平家打倒のため挙兵」という秘密をしゃべってしまうとは……。熊野にも目が行き届いている。平家方にもれてしまうのは当たり前です。行家さん、そのことを全く考えなかったのですか?それとも行家は、いっそのこと頼政など負けてしまえばいい、今度は自分が主役になって平家を倒すのだという野心があったのかもしれませんね。なので、平家方に頼政挙兵がもれるよう、わざと遊女にしゃべってしまったということも充分考えられますよね。

ところで、いつの間にか結婚していましたね、頼朝さんと政子さん…。時政父さんも、頼朝を婿としてしっかり認めているし、頼りにさえしている様子です。これも、先週の義経と国衡・忠衡が急に仲良くなっていたり、突然盛子の死がナレーションされたのと同じく、ものすごく唐突に思えました。あくまでも義経中心のドラマなので仕方がないのかもしれませんが、政子さんが山木兼隆との結婚を嫌がり、雨の中を飛び出して頼朝の許に走ったエピソードも、できれば取り扱って欲しかったです。
それにしても政子さん、立派な女政治家ですね。


 今回の放送では、以仁王と源頼政の平家打倒の挙兵の場面が描かれていましたね。
頼政と以仁王が起つきっかけがどのように描かれるか楽しみだったのですが、だいたい「平家物語」のエピソードを中心に取り入れた描き方でした。つまり、頼政の嫡男仲綱の愛用していた名馬「木の下」を巡る平宗盛との軋轢により、頼政が事を起こそうと決心し、以仁王をそそのかして挙兵に及んだという描き方でしたよね。
 ところが、ドラマのこの場面を観ていたうちのだんなさんが、「この設定はおかしい。」と言ったのです。つまり、「以仁王は、平家の酒宴に加わるような頼政を、そう易々と信じるわけがない」と言うのですよね。
 確かに以仁王と頼政の挙兵について私は、「どちらかというと以仁王が首謀者だったのではないか。」と思っているのです。そこで今回はそのあたりのことを書かせていただきますね。
 まず最初に二人のプロフィールから。

☆以仁王(1151~1180)
 後白河天皇の第三皇子。母は藤原季成の娘成子。同母の兄弟姉妹には、仁和寺門跡の守覚法親王、多くの情熱的な恋の歌を詠んだことで知られる歌人・式子内親王などがいます。
 以仁王は、幼い頃出家して園城寺に入りました。しかし、僧になることを嫌ったのか、世の中に反抗したかったのか、理由はよくわかりませんが、ある日園城寺を飛び出してしまいます。かなり剛胆な性格だったと思われます。その後に還俗し、15歳の時元服しました。そして、八条院子内親王の猶子になっています。
 学問や詩歌・笛などの才能に優れていたようです。

☆源頼政(1104~1180)
 彼は、先日紹介した源行綱と同じく、源頼光の子孫で、本業はもちろん武士です。。保元の乱では後白河天皇側として行動し、平治の乱では平清盛に味方しました。その後は、どちらかというと平家派の人物として行動します。そして治承二年(1178)十二月、彼は武門源氏始まって以来の異例の従三位に叙されますが、これは清盛の推薦だったと言われています。
 頼政は鵺退治の伝説でも知られるように、武勇に優れた人物でした。その反面和歌を作ることが得意で、当代随一の歌人、藤原俊成とも親交があったと伝えられています。

 では次に、以仁王がなぜ親王宣下をされなかったかを考察してみました。

 ドラマでは、「母の身分が低かったため」となっていましたが、外祖父の藤原季成は閑院流藤原氏の血を引く人で、大納言にまで昇進しています。しかも季成は、後白河天皇の母待賢門院璋子とは異母兄弟です。なので、母の身分が低かったために親王宣下をされなかったというのは理由にならないと思います。
 では、以仁王はなぜ親王宣下をされなかったのか?
 彼のプロフィールにも書いたように、一度出家をして還俗したという目まぐるしい幼少期を送ったため、親王宣下のチャンスを逃してしまったということも充分考えられると思います。
しかし、もっと大きな理由は平家による圧迫だと思われます。
 つまり、以仁王は建春門院の生んだ憲仁親王(後の高倉天皇)のライバルと見なされていたのです。さらに、憲仁親王が即位したあとも、清盛の娘徳子所生の皇子を待ちわびる平家にとっては、以仁王は邪魔者以外の何でもなかったのでした。
 「以仁王に親王宣下でもしてみろ。徳子が皇子を生む前に、皇位はあちらの系統に行ってしまう。それだけは避けなくては…」
と言うのが、清盛や時忠、時子の思わくだったのではないでしょうか。
 自ら寺を抜け出すような性格の以仁王ですから、そんな平家方の思わくにはしっかり気がついていたと思います。そのようなことから、以仁王は平家に対して恨みを抱いていたのではないでしょうか。
 実は、平家打倒の挙兵の少し前、以仁王の所領は平家に没収されています。こうしたことも引き金になり、以仁王は密かに平家打倒の計画を練り始めていたのではないでしょうか。

 一方の頼政は、清盛の推薦によって従三位まで昇進し、歌人としての名声も高まってそれなりに充実した生活を送っていたと考えられます。平家に対しては、恨みどころか感謝の気持ちを持っていたかもしれません。木の下を巡る仲綱と宗盛との事件が史実かどうかはわかりませんが、仮に史実であったとしても、ただそれだけで頼政が平家討伐に挙兵するとは思えません。

 では、頼政はなぜ以仁王の平家討伐計画に巻き込まれてしまったのでしょうか?
 これには、二人の接点となる第三の人物がいたはずだと思い、色々調べてみたところ、やっとそれらしい人物が見つかりました。
その人物は、以仁王を猶子にしていた八条院子内親王です。
 八条院子内親王は、鳥羽天皇とその寵姫である美福門院藤原得子(藤原氏魚名流)との間に生まれた皇女で、近衛天皇の同母姉妹です。近衛天皇の崩御後は、女帝として即位させようという声も挙がった実力者です。
 さらに、彼女は鳥羽天皇と美福門院から広大な所領を相続しており、今で言う「女大富豪」と言えるような存在でした。
 そして、その美福門院から八条院と母子二代にわたって使えていたのが、他ならぬ源頼政だったのです。
 八条院の猶子だった以仁王と、彼女に使えていた源頼政が女院御所で顔を合わせるということは、充分考えられると思います。文武両道に優れた頼政と、学問や、詩歌・笛などの才能に優れ、それでいて剛胆な性格の以仁王は、わりと気が合ったのではないでしょうか?二人とも和歌に優れていましたので、その方面での交流もあったはずです。
 以仁王から、平家討伐の挙兵を打ち明けられた頼政は、最初はもちろん躊躇したと思います。しかし、「この皇子のためなら、思い切って賭に出るか。」という気持ちにだんだんなっていったのかもしれません。
これは私の勝手な解釈ですが、以仁王には「この方のためなら」と思わせる何かが、何とも言えない不思議な魅力があったのだと思います。
それから、「もしかすると八条院がバックで糸を引いていたのでは…」という詮索もしたくなってきます。ここまで来ると私の妄想になってしまいそうですが…。
 八条院にしてみれば、「平家なんて成り上がり者。」という考えがあったと思うのです。なので、以仁王の親王宣下を邪魔する平家一門には、あまり快く思っていなかったと思います。彼女は以仁王の母代わりとして、「何とかこの皇子に親王宣下を」と色々運動していたはずですから。
 八条院が挙兵計画に関わっていたかどうかはともかくとして、治承四年に起こったこの平家討伐計画の首謀者は、以上長々と述べてきた理由から以仁王だと考えた方が自然だと私は思っています。

 ところで、以仁王は挙兵後、一時園城寺にかくまわれていますが、これは、幼い頃の以仁王が出家をして園城寺で過ごしていたという関係もあったのですね。このあたり、全く知りませんでしたので、今回調べてみてとても勉強になりました。

 さて、来週は橋合戦が描かれるのでしょうか?楽しみです。
 また、予告に清盛と常磐との間の娘、能子が出てきていましたね。彼女は、正真正銘の義経の妹なので、これからのドラマのストーリーに大きな役割を果たすのかもしれませんね。そのあたりも楽しみです。