平安夢柔話

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大河ドラマ「義経」第20回&源行家

2005-05-26 20:47:42 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第20回の感想です。

 最後の方に出てきた大姫ちゃんと義高くんがかわいかったですよね♪
2人の子供らしさと無邪気さが、うまく描かれていてほほえましかったです。それだけに、これから二人を襲う悲劇のことを考えると切なくなってしまいました…。

 そして、二人の相手をしているときの義経、何かすごく生き生きしているように思えたのですが…。鬼一法眼から教わったと思われる天狗のまねをしているときなどにそれを感じました。大姫と義高が喜んで、「叔父上は天狗のようじゃ!」と言ったのも当然ですよね。
 でもつっこませていただきますけれど、当時の風潮で考えると、子守と言う役は頼朝の下っ端の郎党や政子の侍女が勤めるのが一般的だと思います。どうして大切な弟に命じるのでしょうか?…。頼朝は、「自分の弟であろうと九郎は御家人としてあつかう。」という考えだったでしょうけれど、それにも常識というものがあると思います。いくら何でもこんな役目をさせるのはいきすぎですし、「史実としてこんなことは無かったのでは?」と、私は思うのですが……。本当のところはどうなのでしょうか。
それに、義経と義高の間に妙な信頼関係ができたら、かえって危険なのではないでしょうか。なので実際は頼朝は、義経と義高を接触させないようにしていたのではないかと思います。

 さて平家に目を向けると、相変わらずひがみっぽい宗盛さん、何とかならないのかなと思います。棟梁というのはもっとでんと構えていなければならないのに、すぐ大きな声を出して怒ったり、自分の考えを押しつけたりしていますよね。清盛なら絶対こんな事はしないのに……とつい思ってしまいます。平家の行く末がとても心配です…。
 ところで、今回出てきた「頼盛殿への融和対策」についてですが、確かにその頃頼盛には、平家一門とは一線を画すような所があったようです。
 頼盛はドラマでも触れられていましたが、平治の乱の時に頼朝の命乞いをした池禅尼の息子に当たります。そのような理由から、「池禅尼が差し出がましい口出しをしなければ頼朝は殺されていたはずだ。つまり頼朝が東国で謀反を起こすこともなかったのだ。」という考えは、宗盛をはじめとする平家一門の誰もが持っていたと思うのです。それで頼盛も、「自分は一門からつまはじきにされている。」と感じる部分もあったとは思います。事実、頼盛は以仁王と源頼政の挙兵に関わったと思われる八条院子内親王の所に、出入りしていた形跡があるのです。
 そのようなわけで、頼盛の娘と宗盛の息子の清宗を結婚させ、頼盛を一門にしっかり取り込まなくては……という融和対策は必要だったと思います。しかし頼盛はこの後、平家一門と全く別行動をすることになるのです。つまり都落ちをしなかったばかりか、頼朝に客人として鎌倉に招かれ、一時東国に下ったりしています。
 でもドラマを観ていると、頼盛が一門から浮き上がっていたことに今まで全く触れられていないため、宗盛・知盛そして時子とのやりとりに緊迫感が感じられませんでした。頼盛と平家一門の微妙な関係が、何かとても唐突なことのように感じられてしまったのは私だけでしょうか。
 例えば後白河院と頼盛が密談している場面なんかが出てきていたら、もっと面白いドラマになっていたと思うのです。後白河院が「そなたには私がついている。頼朝には私が取りなしをしてやる。そなたの母は頼朝の命を助けた池禅尼だから、頼朝はそなたに目をかけてくれるはずだ。」と、頼盛にささやきます。そのため、頼盛も平家一門とは別行動しようとその時決心する…。そのようなシーンをドラマで入れてくれたならば、もっとわかりやすくなったのではないだろうかと思います。もちろん、後白河院と頼盛の密談が実際あったかどうかはわかりませんけれど…。でも同じ虚構でも、弁慶の恋物語やうつぼや五足についてあれほどの時間を割くなら、こちらの方がよほど重要事項だと思うのです。

 さて、今回なぜか私が一番印象に残った人物は行家叔父さんでした。頼朝に相手にされなかった彼は義仲の所に転がり込んだのですね。
 しかも、「都に上ればそなたは源氏の棟梁だ。」と義仲をそそのかしていましたね。元々、平家を倒して都に上ることしか考えていない義仲には、行家叔父さんの言葉は火に油を注ぐようなものだったと思います。
 そして、行家叔父さんは「わしは都の貴族に顔が利く。」という大きなことを言っていましたよね。でも、「本当に顔が利いていたならば、義仲と後白河院・貴族たちの間に入って、義仲の立場が有利になるようにもっとうまくやっていたのではないですか?行家さん。」と、つっこみたくなってしまいました。

 と言うわけで、今回はその行家叔父さんについて少し書いてみます。

 源行家(?~1186)
 源為義の十男。母は熊野別当長快の娘。
 彼の生年は不明ですが為義の八男為朝が1139年頃の出生であること、保元の乱には若年のために出陣していないことから考えて、1144年前後くらいの出生ではないかと私は思っています。つまり、1147年生まれの頼朝とはあまり年齢差がないのです。なお、行家は後に改名した名前で、元服したとき名乗ったのは「義盛」という名前でした。

 さて、義盛は平治の乱に兄の義朝軍の一員として参加しますが、義朝軍は惨敗してしまいます。義朝は息子の朝長・頼朝を連れて東国に敗送しますが、義盛は戦いが終わるか終わらないかのうちに密かに戦場から逃げだし、母の里である熊野に落ち延びます。そして、二十年間熊野に隠れていたと言われています。と言うより、熊野でかくまってもらっていたと言った方がいいかもしれません。
 
 治承四年(1180)4月、義盛は突然源頼政に召し出され、「全国の源氏は平家追討のために立ち上がるように。」という、以仁王の令旨を各地の源氏に伝える重要な役目を仰せつかうこととなりました。その時に八条院蔵人に補されると同時に、名前も「行家」と改名しています。

 翌年自ら尾張、三河の兵を率いて美濃墨俣河畔で平知盛・重衡らの軍と戦って大敗します。その後頼朝を頼りましたが処遇に不満を抱いて離反し、義仲を頼って身を寄せました。

 寿永二年(1183)七月、義仲と共に入京した行家は院の昇殿を許され、従五位下に叙されて備前守に任じられました。しかし、入京してしばらくすると行家は義仲と不和になります。おそらく、都の貴族たちに評判の悪く、後白河院とも不和になっていく義仲を見て、「義仲と組んでいるのは不利だ。」と判断したのだろうと思います。
彼は反義仲の兵を河内・和泉で挙げることとなるのですが、結局それは義仲追討のために上洛してきた義経・範頼軍、つまり頼朝を助けることとなったのでした。
 またそれ以前に、播磨で平重衡と戦って大敗もしています。どうも行家は戦に関しては全く才覚がなかったようです。

 そして平家滅亡後は、頼朝と不和になった義経と結ぶこととなります。兄に義絶され、ほとんど孤立状態になってしまった義経にとっては、行家と結ぶことでしか生きる道がなかったのだと思います。しかし行家にとって大きかったのは、後白河院から義経に出された頼朝追討の院宣だったと思われます。「義経と組めば院が後押ししてくれる。」とでも思っていたのかもしれませんね。
 しかし、頼朝討伐のために船出をした義経と行家でしたが、嵐にあって船が難破してしまいます。そして行家は義経とはぐれ、和泉国に逃れ、そこで潜伏することとなります。しかし文治二年、頼朝方に見つけだされ斬首されました。最後は和泉国の民家に隠れているところを、地元民によって頼朝方に密告されたのだとも言われています。

 こうして行家の生涯を見てみると、どうも人を頼ってばかりで一貫性がないように思えます。乱世のこの時代、力のない者はこのように強い者に頼ることでしか生きられなかったかもしれませんが、逃げ回ったあげくに最後には見つけだされて斬首されるというのも、かなり哀れで空しい人生だなと私には感じられました。

 これから「義経」には、行家はかなり重要な役どころで出演すると思いますが、今後どのような悪あがきをするかかなり期待です。そして19回の放送では行家の甘い誘いに乗らなかった義経が、なぜ彼と手を組むことになるのか、そのあたりをどう描くのかも楽しみにしていようと思います。

 さて来週は、政子の義経いじめが顕著化してくるようですね。優しく従順な性格として描かれている義経は、これにたいしてどのような態度を見せるのでしょうか?……私としては、政子をあまり悪役に描いて欲しくないのですけれど…。何か、回を重ねるごとに嫌な女に見えてきてしまい、とても残念に思えます。
 また、いよいよ、あの有名な義仲と維盛の戦い、倶利伽羅峠の戦いが描かれるようですね。この戦いにより、平家の都落ちが決定的になるのですよね……。
平家の都落ちはとても哀しいシーンですけれど、どのように描かれるのか楽しみです。

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